なけない猫と優しい君

「・・・?」


アリスは剣を握ったまましばらく立ちすくんでいた。そう、目の前に広がる光景は今までに見たことのないぐらい現実から逸したもの。残念ながら、現実だ。血の臭いと深紅が視覚と嗅覚を刺激する。吐き気が襲い無意識に口元を抑えた。顔に何か濡れた感触に気味悪さを感じアリスは手の平を見た。銀色に輝く防具、だけではなく服全体的に纏わりこびりついた血!だが、今更アリスがそれを見てここまで怖がるだろうか!アリスの記憶は途中から一気に飛んだのだり最後に頭にあったのはレイチェルが自分をかばい敵を倒していって側にはローズマリー達もいた。そこでただ一人、葛藤に苦しんでいた。次にアリスに誰かが話しかけてきたのだ。そこからしばらくの記憶はない。彼女にとってはどうやって出口付近まで来たのかさっぱりわからなかった。気づけば、レイチェルがいない。死体散らかる道でたたずむ。

「お見事です、アリス!」

出口から見えるのはジャックだ。満面の笑みで拍手を送っている。何が?何がそこまで嬉しい出来事でもあったのか?

「貴方ならやってくれると信じておりました!アリス、嘘かと思うかもしれませんが、それ、貴方がやったんですよ!」

嘘だ、そんなの。信じられるわけがない。

アリスは死体を殺すのでさえいっぱいいっぱいだったというのに。自分が?殺した?これ、全部?

「なんだと…?」

出口の方からローズマリーが歩み寄ってくる。その表情はかつてないほどの形相だった。その側にエースも引き連れており、血生臭い戦いを経たとは思えないぐらい澄ました顔をしている。


「鎮まれッ!!!」


怒り任せにも聞こえるローズマリーの一言でさっきの雑踏が嘘だったかのように静まり返った。周りがどんな反応をしようと彼女は知ったことではなかった。

「・・:こんな小娘に妾が負けただと?許さん・・・処刑じゃ!!今すぐこやつらの首をはねろ!!!」

と、勢いよく杖を振り下ろしなんとアリスを指したのだ。

「女王陛下・・・!?」

信じられないといった様子を浮かべたのはエースだった。

「アリスを処刑するのは彼女が負けた時の罰ゲームだとおっしゃっていたではありませんか!」

「うるさい!観客も皆じゃ。処刑、処刑、処刑せよッ!!!」

ローズマリーは叫び今度は観客席の方を指した。ざわめきから次第に悲鳴に変わる。

「・・・アリス、女王の命令だ。」

もう暴君と化した彼女に誰の声も届かない。諦めたエースはアリスの腕を掴んだ。周りは誰も助けてくれない。女王に逆らえる者などいない。

「嫌だ、離して!こんなの無茶苦茶よ!どっちにしたって一緒じゃない!」

剣から手を離し引っぺがそうと必死に抵抗した。だが掴んだ手はびくともしない。

「やだ!嫌よ!死にたくない!!いやああぁ!!」


助けて。なぜかその言葉が出なかった。

なぜこんなことになったのか。

後悔でいっぱいだった。どこから自分は間違えたんだろう。


「女王陛下!!」

その時、突如間に入ったのはまさかの人物だった。

「・・・ジャック?」

アリスは何故彼がこのタイミングで制止をかけたかさっぱり理解できなかった。おそらく他の二人もだ。

「どうしたのじゃ。」

「いやーまあたいしたことないんですが、ちょっと。」

「用もないなら邪魔するでない!いい加減そなたもはねるぞ!」

ジャックはアリス達と交互に見ながら間に入って今度は呑気な態度でローズマリーに言った。本当に用もないのに阻止したとしたら、確実にここでいまにでも処刑されるぐらい雰囲気は最悪だ。彼に至ってそれはないと思うが。

「ええ確かにアリスは勝ちました。勝ちましたよ。でも見て下さればわかるでしょう?彼女の活躍によりこの庭の大半の手入れも終わり、処刑の仕事もこんなに片付いたのですよ?」

ジャックは片手で迷路の方を広げかなり大袈裟に演技がかった身振りをした。見渡す限りのバラは鮮やかな赤色の花を咲かせており地面には所々に亡骸が転がっているというなんともアンバランスな景色だった。

「加え、彼女はプレイヤーの力を借りながらも最終的には「自らの手で」敵を倒したのです。女王陛下、これが「何」を意味するのか賢い貴方様ならおわかりになられるはず。」

ローズマリーはしばらく唸った後深くため息をつき、渋々納得したのかいつもの冷淡な口調に戻った。

「ふん。・・・エースよ、そやつをロビーに連れていけ。帽子屋と眠り鼠もじゃ。」

「畏まりました。」

エースはアリスの手を掴んだまま彼女を迷路の外へと連れ出した。アリスは抵抗はしなかったものの心に何かが引っ掛かり、意外そうな目で後ろを振り向く。ローズマリーは今度はジャックに何かを命令しているようだが聞き取る事は出来ない。

「・・・・・・。」

引っ張られるままたどたどしく歩くアリスは彼の背中からはみ出た景色を見て心配な表情を浮かべた。

「・・・三月さん!!」

「奴なら大丈夫だ。」

思わず駆け出しそうになる所をエースに止められた。ゲーム会場から城までの道を足早に歩く二人の兵士が運んでいる担架には、腹部を抑えながら血まみれでぐったりしているレイチェルの姿があった。意識を失っているのか表情はまるで眠っているようにも見える。明らかに衰弱しておりとても大丈夫とは言えない状態だ。

「どこが大丈夫なのよ!あのままじゃあ死んじゃうわ!」

「死なないように斬った。」

アリスは彼の言葉に戦慄した。

「あ・・・貴方!!」

「奴はルール違反をした。私はそれを止めただけだ。」

やり過ぎだ。彼に言い付けたかった。だが、不安や恐怖が一度に込み上げ言葉が出なかった。大切な仲間を傷付けた剣が目と鼻の先にあるという恐怖と、その仲間が瀕死の状態にあるという不安。そして、もし下手な事を言ったら自分も同じようになるのではないかとさらなる不安と恐怖。そんな最中。階段を上がる担架に一人の人影がそこへ駆け寄り、アリス達が彼の近くにまで来たのに気付き振り向いた顔は今までに見た事のないぐらい心配そうな表情で狼狽しかけていた。

「帽子屋さん・・・。」

「アリス!!」

彼女の姿を見ると言葉を失った。血に汚れ傷だらけの、もぬけの殻のように力のなく生気の欠けた少女の姿に驚愕と絶望しかなかった。同時に目の前の騎士の側のアリスに危機感を感じシフォンはひどく取り乱した様子でエースの手にしがみつく。

「アリスから離れろ!触れるな!!」

だが彼の力でもエースの固い腕は全く動じない。片方の手で突き飛ばし、冷たい瞳で見下ろしながら一言告げた。

「ロビーに集合だ。彼女ついて来い。」

再びアリスの手を引っ張り階段を登っていく。二人の後ろ姿をただ、悔しそうに見つめしばらくの間立ちすくんでいた。



アリスとシフォン、フランネルは案内されたロビーにいた。時計の針が進む音ぐらいしかしない静かな部屋だ。三人には会話がない。アリスは女王に用意してもらった服を着ている。ショックと疲労から話をする気力がなくソファーで抜け殻のように力なく座っていた。勝ったというのに、これほど嬉しくないゲームなんてあるのだろうか。そんな気分。シフォンは窓際の壁に背をもたれながら難しい顔をして立っている。

「・・・帽子屋さん。」

長く続いた静寂の中アリスがか細い声で少し離れた場所にいる人物に声をかけた。

「三月さん・・・大丈夫かしら?」

先程から頭の中にあるのは深い傷を負った仲間の姿だった。それはお互い様だ。

「心配するな。信じてやれ。」

「・・・・・・。」

それっきりまた沈黙が続いたが、今度はシフォンの方から口を開いた。

部屋のドアを二、三回ノックする音が聞こえた。

「僕が出るよ。」

そう言うといつもの紳士的な澄ました態度を装い、ドアの方へ歩み寄りドアノブを回す。ガチャンと何かが外れる音の後に開いた隙間の向こうにいた人物にアリスとシフォンは驚きをあらわにした。

「・・・お、お前ッ!!」

「三月さん!?」

さも当たり前のように姿を現したのは深手を負い瀕死なはずのレイチェルだったのだ。服はアリスと同じように洗ってもらっているため上半身は裸で腹部には丁寧に包帯が巻いてある。・・・二度目だ。少しだけ慣れたアリスは取り乱しはしなかった。

「よう!なあなあ見ろよコレ、すっげー巻かれたんだけど腹に包帯って苦し・・・のわっ!?」

あの時の苦しそうな様子が嘘のごとく呑気なレイチェルだが本人以上に心配しただろうアリスは思わず彼に抱き着いた。

「もう!心配したんだから!」

「ああ、アリス!?ちょっ、そこはまだ傷が・・・!!」

「あ・・・!」

平然としているとはいえあくまで応急処置を施してもらったにすぎないのだ。アリスは慌てて離れる。

「その、大丈夫なの?もう動いて・・・。」

「おう、自慢じゃねーけど俺回復早いんだぜ!鳥の野郎には負けるけどな、大丈夫大丈夫!」

と軽く笑い飛ばしつついまにも泣き出しそうなアリスの頭を無造作に撫でる。アリスは「よかった」と、張り詰めていた感情が綻び堪えていた涙を拭った。

「・・・?」

そこにいたのはレイチェルだけではなく、もう一人鎧を身につけた背の高い青年がいた。一瞬見ただけで誰かわかったのだが、すぐに信じられずしばらく顔を上げたまま立ち尽くす。

「貴方は・・・!!」

無意識に震える声。レイチェルはたいして驚きもしない。アリスにとって恐怖とともに刻まれた顔は「あの時」と同じ無表情で淡々とした口調で話した。

「そういえば自己紹介がまだだった。私はエース。軍事管理責任者及び城全体の警備を担当しているただの雇われ兵だ。」

聞くあたりではかなりの大役を任されているみたいだが、ただの雇われ兵が担うにしては少し内容が重い気もする。彼なりの卑下なのだろう。棒読みだったし。

「お前が何者かは関係ない。僕が聞きたいのはなぜ、お前が、ここに、いるかだ。」

エースが実際何者かは関係ない。何者であったって今更アリスの印象は変わらないけど。シフォンはわざと区切って強調しながら彼に尋ねた。

「自らを名乗るだけに貴様らに会いに来るほど無神経でも暇でもない。では単刀直入に申すとだな・・・。」

そう言った途端口ごもってしまった。レイチェルはさりげなく部屋に入りシフォンの隣で訝しげに彼を睨む。無駄口を叩きそうにない人が躊躇うのにはやはり重大な話でもするに決まっている、とその場にいた全員が顔を強張らせていた。

特に、アリスは嫌な予感しか考えられないぐらい恐怖心を抱いていた。

「アリスに聞く。」

少ししてからようやくエースは口を開く。


「貴様は処女か?」


「え?」

「は?」

「しょじょ?」

「・・・?」

アリス達は皆揃って拍子抜けした反応を返した。その場にいた者全員の張り詰めた緊張の糸がぷつんと音を立てて切れた。アリスはその単語の意味を理解しているはずもなく、レイチェルでさえも知らなかった。シフォンはそりゃあもう深い深いため息。フランネルはぼーっとしていた。

「処女って、何?」

「あ・・・アリス・・・。」

お約束の質問。質問してきたエースが何とかしてくれることを密かに期待した。

「なんだ、そんなことも知らないのか。アリス」

真面目そうだと思っていた人物に馬鹿にされたように感じたアリスは内心軽く腹を立てる。

「悪かったわね!で、処女って何よ!」

むきになって返すアリスにそこはちゃんと教えようと、一人気にくわない顔を浮かべるシフォンを無視してエースは説明に入ろうとした。

「処女というのは・・・。」

「未開発の女体のことですよぉ☆あ、違いますか?あるいは・・・。」

シフォンは勢いよくドアを閉めた。明らかに今一瞬、違う青年の声がしたのだ。というかその声の主は今まで全く気配を消してずっと隠れていたのかエースの後ろからひょっこり姿を現した。

「・・・ジャックさん?」

「何言ってるんだい僕には何も見えなかったし聞こえなかったよ。」

振り向いたシフォンの顔はそれはもう引き攣った笑顔だ。

「えっ、でも今エースさんの後ろから。」

「やだなあアリスそれは幽霊だよ、君はきっと疲れてるんだ。そうに違いない。」

「何も見えてなかったんじゃなかったのか?」

「うるさい低脳ウサギ!!」

矛盾を突っ込んだレイチェルがまさか「低脳」と罵倒されるとは。低脳ウサギは「な・・・低脳!?」とどうやらカチンときたようだ。アリスもシフォンの行動に納得がいっていないようだが。

「疲れてるのと幽霊が見えるのは関係ないじゃない!幽霊は人の恐怖心から生まれる幻なのよ!?」

「お前はエースの事を怖がっているだろう!」

「じゃあなんでジャックさんの幽霊が見えるわけ!!?」

「ジャックの事も怖いんじゃないのか!?」

いつの間にか幽霊になっていた。。

「怖いと思った人が幽霊になって出てくるわけないわ!」

「やはり怖いんじゃないか!」

「ちょっと、人を勝手に殺さないでくださいよ。」

アリスとの口論に気をとられ力が緩んだ隙に今度は向こうの方が一気に押してきた。ドアの隙間から見えたのは物凄い笑顔のジャック(実在)だった。幽霊ではないのは確かだが、シフォンは足を踏ん張り全身の力を込めているのにジャックの方はといえば笑顔のままびくともしないのだから彼が何者かを不思議に思いたくなる。

「ぐ・・・ッ、一体、何しに・・・!」

「やだー!遊びに来たんです!あとは、どうせクソ真面目なエースのことだから、どうせこうなるって予想してですね?助太刀にやってきたわけですよ。」

一方ジャックは多分アリスが見てきた中で一番楽しそうな表情をしていた。胡散臭い、何を考えているかわからない上に不気味で残忍という印象からゲーム時では何気にかばってくれた事から実はそれ程怖い人ではないかと思いつつあったが、なんだか今のジャックはアリス以上に子供っぽい。・・・というか、エースは一体どうなったのだろう。いないのだもの。

「まーまーそう言わずに!せっかく年頃の少年少女がいるのですから、恋バナとかほら下ネタだっていけますよ!!」

「生憎間に合っている!!」

と、精一杯の力を振り絞ってなんとかドアを閉めた。

「・・・はぁ・・・はぁ・・・なんなんだアイツは・・・。」

ちょっとした揉み合いが起こったドアの前で肩を上げ下げして息を切らしているシフォン。ドアの向こうからは何の反応もない。案外すんなりと諦めた様子だ。多分エースが再び入ってくる、その時はさすがにジャックはいないだろう。実際また邪魔されてはたまったものじゃない。

「あーところでどうしてそんな事を聞くんです?」

「うわあぁ!?」

なんとソファーの下からジャックが上半身だけ姿を現した。これはまた何やらご満悦な様子で変わらぬ笑顔だった。登場の仕方が気味悪いにも程がある。側にいたレイチェルはソファーから数歩距離を取った。

「まさかお古はお嫌いですか?」

どうやらエースに対して問いかけているみたいだが肝心の相手はどこにもいない。すごく腑に落ちない表情のシフォンは渋々ドアを開こうと手を伸ばした。

「そのような事は言ってないだろう。」

「「!!?」」

今度は壁に飾ってあった女王陛下の肖像画がドアのように開きそこには呆れ顔のエースがいた。まさかのエースが、ドアではなくドアとは言えないドアから入ってきたのだから。別に普通に入ってくれればいいのにどちらも普通の感覚の人間には心臓に悪い入り方だ。

「一体どうなってんだよ!!」

「隠し扉・・・。」

うろたえるレイチェルと冷静なフランネルを無視してエースは面倒臭さそうに誤解を解いた。

「驚かせてしまってすまない。さて、私が聞いた処女についてだが。・・・新たな女王を引き継ぐ儀式にあたって、穢れのない肉体の方が上手く行くと聞いたことがあるのでな。」

なるほど、全くわからなかった。

「だからエース、あなたって人は・・・。」

「他にどう言えばいいのだ。」

苦笑いのジャックと至極真面目な顔のエース。なんとも対照的な二人だ。

「まあ処女かどうかというのはあまりお気になさらず。個人的にも興味はありますがそこは俺も紳士ですので想像の範疇にとどめておきますよ。」

紳士は想像はしますとは言わない。

それより。

「処女はおいといて、私は女王様に勝ったから、アリスになるということよね?・・・つまり、どうなるの?あと、女王様になるつもりはないわよ?」

アリスは元の世界に戻りたいだけなのだ。アリスになったら女王になれる。参加しなければ、勝たなければ死ぬから応じただけ。国の女王様になりたいなんて、これっぽっちもないのに。

「大丈夫ですよアリス。次の新しい女王が決まるまでの間だけですので。・・・ええ、すぐにできますよ、女王なんて。」

「本当にすぐなのかしら・・・?」

それなら考えなくもない。一時だけの間なら、国を支配する女王様を体験してみたくもない、と少しだけ考えてしまった。ついでに、「もし自分が女王なら絶対、すぐに死んでなんて言わないのにな。」とぼやいた。

「それにしても懐かしいですね・・・つい思い出してしまいました。」

おっと、ジャックが突然昔語を始めた。

「今の女王は特別な例で、別に処女でもそうでなくともどっちでも良かったのですが・・・。まあ、相手が悪かったといいますか。」

アリスは黙って聞いていると同時に「長くなりそう」と考えていた。

「ですが今の女王陛下ったら、もう、ね!慣れって怖い!!俺もまた然り!!週一ですよ週一!!」

ジャックは随分ノリノリで一人楽しそうだ。なんなんだろう。人の恋愛事情とか噂話とか好きな近所の主婦みたいなイメージを重ねてしまった。思い出話も終わったみたいで、なんだったのだろう。対するエースはかなり鬱陶しそうだ。

「最初は俺も良心いたみましたが・・・今は!ほんと、ありがとうございますってな感じでね!!」

長い袖でバシバシ相手の肩を叩く。アリスは彼が何を言っているかさっぱりだった。

シフォンとフランネルは真顔だがレイチェルは時々耳を動かしている。食いついているのか。

「・・・ジャック。」

「はい!続きは100ドルいただきます!」

「別に聞きたくない。それより、なぜ貴様がそんな事を知っている?」

「そりゃあ俺の部屋は女王の部屋と同じ階ですから・・・。」

自信満々に語るジャックが途中で固まった。

「ほう、つまりお前は自分の部屋へ戻る途中で・・・。」

「あ、いやあその、聞こえるんですって!!」

空気が変わった。

「廊下まで聞こえたら皆大騒ぎだろう!!」

するとジャックの顔が一気に青ざめる。よくわからないが、どうやら墓穴を掘ったようだ。

「わざわざ聞き耳立てて・・・どおりで夜の付き合いが減ったと思ったら・・・!」

しかも、意外と仲がいいことが判明した・・・。夜の付き合い、アリスの頭の中には酒場みたいな場所でお酒の力を頼りに深夜まで愚痴を交わす二人の姿が浮かんだ。冷静にあしらっていたエースが徐々に怒りをあらわにする。

「これは女王陛下に報告せねばならん・・・!」

「あぁ、そんな!夜のお供にするだけで別に悪意のある利用はしてないじゃないですか・・・!」

「羨まし・・・死ね!」

「羨ましい?今羨ましいって言いかけましたよね!?」

アリス達は入る隙もなくただ野郎二人のみっともない小競り合いを傍観していた。この国ではささいな事でしょっちゅう喧嘩をしているような・・・?しかしずっとこのままでいられても困る。ジャックも結構追い詰められているが、多分、ばれたらそれこそ「処刑」並のいけない事を犯したのであろう。

「こうなったら・・・!」

それでもジャックは最後の切り札を使った。ポケットから取り出したのは小さく折り畳まれた紙切れだ。

「なんだ?それは・・・。」

エースは紙切れを受け取っては開く。

「これは・・・!」

エースの表情がその紙切れ、及びチラシを見る途端に真剣になった。少し離れた場所からは何が書いてあるか見づらいが、チラシの端がめくれてそこから見えたのは「食べ放題」の文字だ。

「次世代のパティシエを選考する為のオーディションを兼ねてのデザートバイキングですよ!」

「な・・・何だと!?」

ジャックの予想は的中した。アリスの予想ははるかに外れた。

「ぐ、う・・・だが・・・。」

「俺がおごりましょう!!貴方はタダで好きな物を遠慮なく食べられるんですよ!二度もおいしい話ではないですか!・・・そ・の・か・わ・り、今回の事は二人だけの内緒ということで☆」

「むう・・・わかった・・・。」

エースの女王へ対する忠誠とジャックに対する悔しさも、デザート食べ放題(しかもタダ)にはかなわなかった。

「エース様ー!兵士達がトラブルを起こしたもよう、至急第二廊下へ!」

白衣を着てエースと同じ帽子をかぶった少年がそこにいた。

「すぐ行く。・・・いいか、ジャック。忘れるなよ!絶対にな!」

「はいはーい。」

ちゃんとしたドアからエースは呼ばれるがまま急いでロビーを出ていった。

「あー、なんでしたっけ?」

肩をすくめちょっとの間ドアの向こうを見送った後、何か思い出したようにアリスの方を振り向いた。

「そうだそうだ!アリス、貴方に俺からプレゼントがあるんです!」

「・・・プレゼント?」

ジャックは戸惑うアリスの手の平に一枚のカードを握らせた。長い袖で隠れて見えなかっただけで手には持っていたのだ。タロットカードのように複雑な絵が描かれてあり、上には「traveler.30min」という文字が記載されていた。シフォンが横から覗き込むも見たことがないのか腕を組み首を傾げて考え込む。

「こいつは持ち主が行きたいと念じた場所へ瞬時へ移動できる。いわばテレポートみたいなことができる代物です。」

「な、テレポートですって!?」

動揺している彼女に対しエースはその様子を温厚な眼差しで見つめている。

「部屋を整理してたら出てきまして。女王陛下からのご褒美だったんですが俺には必要ないし、貴方に差し上げます。女王になってからは大忙し。ゆっくり見て回りたいなんて暇はなさそうですから。」

アリスの手に握らせる。無機質で冷たい、機械でできた大きな手が。

「そうなるまでにこれで、まだ行ってないところを探検とかいかがですか?思い出作りにもいいかと思いまして。」

と言ってにっこり微笑んだ。アリスの表情がやっと綻びかけた。

「ありがとうジャックさん。早速使ってみる。」

「ええ、ご自由に。ちなみにこれ、お一人様限定です。あと、30分経ったら強制的にこの場所に戻ります。そこのところをしっかり頭に入れて下さいね。」

たかが30分、されど30分だ。短い時間だが顔を合わせるだけなら十分だしどんなに遠くへ行ったり迷っても時間が経てば自動的にこちらへ戻れるのだから不安もない。

「それでは、淘汰の国を満喫して下さい・・・。」

ジャックはエースが入ってきた隠し扉から姿を消した。高い足音がしばらく鳴り響いては徐々に聞こえなくなる。

「隠し通路があるのか?」

レイチェルはよほど気になっているのかソファーの下を見を屈めて覗き込む。残念ながら空洞で向こうの景色の植木鉢とレースのカーテンしか見えない。

「あーあ、定員一名かー。残念。」

部屋の物色を諦めソファーに腰を下ろした。フランネルはその隣で膝を抱えて丸くなって座る。見ているととても和やかな画だ。

「ジャック達が干渉しないなら大丈夫だ。心おきなく楽しんできたまえ。」

シフォンの顔にも自然な笑みが戻る。

「定員さえなかったらなー。デートとか出来たのにな。」

「貴方とだけなんて絶対に行かせないわ。」

「そうだよ、怪我人は大人しく永遠に寝てろ。」

「遠回しに死ねつってるな!?」

本気なのか、はたまた冗談か。レイチェルの呟きにやや険しい顔のフランネルと真顔のシフォンがすかさず反論した。アリスは顔を赤くして目を泳がせている。

「えっと・・・早速行きたいところがあるの。行ってきてもいいかな?」

早くもアリスが使いたくてソワソワ。頭の中にあるのは一つ。

「いいとも。行ってらっしゃい。」

「おみやげ待ってるぜ!!」

シフォンに睨まれるレイチェル。どこか逃げるようにしてそそくさと背中を向け、みんなに見送られながら、彼女はある一点の場所を頭に浮かべながら強く念じた。そして、刹那にして青い光がアリスを掻き消す。


―――――――……。


勿論、行きたいところがたくさんあった。マーシュにもう一度会ってあの時のお礼を言いたいし、アルマと遊んであげたかったし、シグルドに会っても・・・話す事はあまりなさそうだけど。そういえば帽子屋の家も見てみたかった。泡沫の海。もう一度最後にあの綺麗な景色を見ておきたかった。女王になってからはどこにもいけなくなるぐらい忙しくなるのか?と疑問に思う。行きたいところ、会いたい人は数あれど、絞るなら・・・そう。

「え?ここから?」

ついた場所は森の小道。急いで走っていたからちゃんと見ていなかったが、うろ覚えだけど、ここはあのヘンテコ頭の執事に連れられた場所。そう・・・公爵夫人。ナターシャの家だ。

「突然押しかけただけでもびっくりしちゃうかしら・・・うふふ。夫人さんって猫好きだから気が合うのよね!料理も美味しかったし、チェシャ猫さんにも会いたいわ!」

今の頭の中には夫人の顔や美味しそうな料理、この国で初めて出来た友達のことでいっぱいだった。楽しい思い出を作るならあの場所ほど相応しい所はない。猫じゃらしのことも気になるし。

真っ直ぐ歩み続けた。このまま進んだらそのうちたどり着く、そんな謎の直感と自信が自然と彼女の足を動かす。段々と夫人の家が見えてきた。

木々の隙間からは見覚えのある風景・・・な、はずだったのに。どうやら最初訪れた時とは違う所にきてしまったようだ、と勘違いしてしまうほど雰囲気が違う。

「・・・様子が変ね。」

茂みをかきわけて枯れかけの細く乾いた枝を踏みながらできるだけ近づいた。

「・・・なんで・・・夫人が・・・。」

「どうして・・・かわいそうに・・・。」

黒いスーツや質素なドレスを着た人の列が屋敷の中に吸い込まれていく。男性も含めて手には白いハンカチを持っている。

「あの人達は一体誰?」

疑惑に思ったその時だった。

「夫人が仕えていた召し使いさん達だよ」

「わっ・・・猫さん?」

「あまり大きな声を立てない方がいいらしい。」

いつの間にか隣には、さもさっきからいたかのように堂々とチェシャ猫が立っていた。気配などは微塵も感じなかった。ゆらゆらと揺れる尻尾、少し動く度に可憐な音を鳴らす鈴、軽い猫背、いつもと変わらないはずなのに、全くの無表情。目の前の光景をさながら他人事のようにぼーっと眺めている。

「今日は随分オシャレな格好してるのね。被り物がないから気づかなかったわ。」

「オシャレ・・・?」

言葉の意味を知らなかったのか不思議そうに聞き返すチェシャ猫に対し、アリスは普段何気なく使っている単語をどう説明していいか悩んだ挙げ句話を逸らすことにした。

「あの蛙執事さんもいるかしら。」

「そりゃあもちろん。今日は召し使い総出だからね。」

引っ切りなしに列が屋敷に入っていく。果たして全ての人が収まりきるのは可能なんだろうか。まだ向こうにも列は続いていた。

「みんな、俯いてたり泣いてたりしているわ。一体何があったの?」

誰に聞こうとしたわけではなく、自分に問い掛ける。チェシャ猫が答えた。

「夫人はね・・・死んだんだよ。」

「・・・え?」

アリスは何を言われたかさっぱりな様子でチェシャ猫を見上げる。当のチェシャ猫は彼女が「信じられない」ではなく「聞こえなかった」ととらえはっきりと復唱した。

「夫人はね、死んだんだよ。」

アリスは不自然でぎこちない笑顔を浮かべる。

「・・・な、何を言っているの?」

「何ってだから・・・夫人は死んだ・・・。」

「やめてッ!!」

そう叫んではとっさに耳を覆った。聞きたくないけど聞きたい、アリスは微かに震えていた。

「・・・。」

変なものを見るようにアリスを見下ろした。どうしてそんな顔をするのだろう、と考えていたチェシャ猫はまだ人間の感情にうまくついてこれずにいた。

「嘘よ・・・なんで、え?なんで死んだの?あの時はあんなに元気だったじゃない!」

アリスの記憶に新しい夫人は笑顔で楽しげに話に夢中になったり、時折物をぶん投げたりもした元気な姿のままだった。

「猫はね、知ってるよ。女王様に処刑されたんだって。」

「な・・・なんで!?」

アリスは耳を、全てを疑った。ハートの女王のローズマリーは確かに自分の気にくわないことがある度にその場にいた人に対し手当たり次第に「処刑」を下す手の付けようのない暴君だったが、一体彼女は何をしたのだろう。

「わからない。でもたまに言ってた。」

アリスは視線だけチェシャ猫に向けた。やはり笑っても、泣いても、怒ってもない無表情だった。

「女王様と鉢合わせなんかしたら、きっとすぐに首はねだって。」

「・・・でも猫さん。私、女王様の城にさっきいたのだけど、ずっとお城にいたわよ?」

実際ローズマリーは城からは出ていないはずだ。ほとんど姿を見ている上に、仮に出歩いていたとすればアリス達がロビーにいる間。これが葬式なら、無理だろうに。チェシャ猫は、いつもなら適当にはぐらかしそうな所をめずらしく真面目にまともに答えてくれた。

「出かけてる所を連れていかれたんだって、お城の人に。」

そもそも、夫人の屋敷を出てからお城につくまでの間に執り行われたのなら納得できた。でも、まだ納得いかない。

「でも!そうまでしてなんで夫人が・・・。」

「さあ、それは・・・猫もさっぱりだ」

結局の所公爵夫人がそうに至った理由はお互いにわからないままであった。真相は隠されたまま夫人は人知れない所で誰の目に付かずにその命を終わらせられてしまったのだ。

「君なら知ってるんじゃない?」

「・・・え?」

アリスは何も知らない。だからこんなに苛立っているというのに!

「ずいぶん採れたんだね。」

「ちょっと!あなた、さっきから何を言って・・・。」

チェシャ猫はそんなアリスを無視して話しかける。思わず強く問い返そうとした時、後ろから足跡が近づいてきた。咄嗟に後ろを振り向くと。

「・・・虫さん?」

キノコの森でお世話になった青年、シグルドだったがいた。アリスと面と向かうのは初めてで、チェシャ猫と並んでみると背は低い。特徴的だった派手なファーは身につけておらず、キセルを持っていた手には白い小さな花と草を束ねたものが握られていた。

「・・・なんだ、あの時の小娘ではないか。」

「・・・私はアリスよ。」

あまり小娘呼ばわりも気に入らないアリスはやや不機嫌そうに自らを指す名前を主張した。シグルドの方もそれ以上は言及せず、二人の間に入っては死者を悼み泣き言が絶えない風景を見つめた。

「それは何の花?」

手に持っている可憐な花が近くで揺れる。正直なところ、今は余計な質問をするべきではないと思っていたが。

「葬儀が終わったらこいつを供えるのだよ。・・・家の前にな。この国の風習だ。」

アリスはこの国にどんな風習や習わしがあるかも知らない。

「お葬式には顔を出さないの?」

シグルドが首を横に振る。

「家族葬を望んであるそうな。しかし、だとすれば彼女は身寄りがないため、仕えていた従者達を呼んだのだろう。」

それ以上、彼には何も聞かなかった。

「・・・猫さんは、行かないのね。」

あえて聞かないであげた。

「アリスは、ペットが葬式に参加しているのを見た事があるかい?」

「それは・・・。」

何か、彼の心を少しでも軽くしてあげようとしてみても相応しい言葉が浮かんでこない。相変わらず表情を全く変えないチェシャ猫。今の彼は何を思って見つめているのかアリスにはわからない。すると、屋敷からは抑揚のない一定のリズムで子守唄のような何かが重々しい声で聞こえてくる。庭には誰もいない。あの数の人が収まったようだ。

「・・・始まったのね。」

「そうだな。」

たどたどしい弱い声で呟いたアリスは突然、慌てて目を手の甲で力強く擦った。なるべく誰にも気づかれないように、でも、一度箍が外れて涙はとめどなく溢れ出る。拭っても拭っても雨のような頬を濡らす。次第に漏れる嗚咽は、流石に抑えようとしても抑えることは出来なかった。

「全く・・・。」

シグルドはコートのポケットから白いハンカチを差し出した。

「女なら、ハンカチの一つでも持っておけ。」

こんな時にまで注意が飛ぶなんて。でも察した。その声に厳しさはなかった。

涙とともに溢れた感情でいっぱいいっぱいでハンカチを受け取っては顔全部を押さえた。

「お前のような者に会えた、猫は生きている。彼女は幸せだったろう。気負うな。」

時々肩を震わせと苦しそうに嗚咽しているアリスを見兼ねたシグルドは半ば強引だが、彼女の背中に手を回し身体を自らの方へ引き寄せた。ぶっきらぼうな中に垣間見た彼の優しさに縋るように泣き続けた。彼女は、幸せだった。その言葉だけで幾分か救われただろう。

「・・・悲しい時には、泣くの?」

その傍らで、チェシャ猫は無表情で二人を見下ろしながら呟いた。

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