雲散夢消



「すっごーーーい!!」

風を全身で受け止める。まるで自分が風と一体化しているような感覚。向かい風を押して進む。


今、アリスは空を飛んでいるのだ。


しかも鳥に乗って!


「何もなければ城にはすぐ着くぞ。思う存分堪能しておくとよい。」

「もう最高!みんなに自慢してやるわ!」

自慢したところで信じてくれるかはわからないが、アリスは今のことを誰かに話したくて話したくて仕方なかった。

「下はどんな風になってるのかしら・・・。」

羽に手を伸ばし少し顔を覗き込んだ。


下は沢山の木々が流れて深い緑一面がずっと広がっていた。いつの間に海からここまで来たのだろう。こんな長く続く森を歩いていたら確実に迷っていただろう。いや、生茂る葉っぱの下は案外ひらけていたりして。アリスが下の景色に夢中な頃、フィッソンは何かを見つけて速度を落とした。

「・・・どうかしたの?」

「・・・あれは?」

前方に、濃い霧のようなものが立ち込めている。いや、あれは雲だ。青空の中に壁みたいに分厚い雲で塞がれていた。

「あれを避けて通るには高度を上げるしかなさそうじゃな。さすれば暫しの間どこを進んでいるかわからなくなるが・・・。道はまっすぐ前、その通りに進めばなんとかなるだろう。」

出会った当初は随分能天気でお気楽だったフィッソンは、背中に人を一人乗せているだけあって真面目に考えを巡らせていた。

「雲の上を飛ぶ。高くなるが大丈夫か?」

アリスはむしろ大歓迎だった。

「ええ、もっともっと高くても大丈夫よ!」

この頃のアリスなんか、「雲の上を飛ぶってどんな感じなのか」とかいって高揚感が止まらない。フィッソンはそういうことを聞いたわけではないのだが、彼も彼でそんなアリスを見て「なんとかなる」と渋々ながらもそう信じてしまったのだ。


しかし、ああもう少し早く決断、行動すれば良かったのか。


「・・・!?」

一瞬だった。体が縦に動いた。跳ね上がるように。でも大した変化はないので気にしなかった、その時は。

「・・・鳥さん?」

それでも違和感があったのでまずは顔を覗き込もうと体を前のめりに伸ばす。フィッソンの表情は強張り、緊張に顔の筋肉が引きつっていた。

「下から、何かが・・・しかし、耐えねば・・・。」

下を見るけどよくわからない。大きな体が邪魔をする。でもただ事じゃないのはわかった。赤い滴が落ちるのは、ただ事なんかではない。

「鳥さん?」

「毒でも塗ってあるのか、力が・・・。せめて、降りなければ・・・。」

ゆっくり、ゆっくりと下へ下へ降りていく。羽の動きも弱々しい。一体なにがあったのか、アリスには見当もつかないが心配なのは確かだ。落ちるではなく降りる選択をしたのだ。おちるほうが楽ではあるが、その分危険なのは百も承知。かといって長い間は苦痛を堪えなければいけないが。

「あ・・・。」

だからこそ今は声もかけられなかった。見守ることしかできない。邪魔はしてはいけない。だって・・・。

その時。またも先ほどと同じ衝撃を感じた。嫌な予感がする。これがあってから彼の様子はおかしくなったのだ。と、いうことは?

「鳥さ・・・。」

しばらく耐えてみせたが、無理なものは無理で、フィッソンもそろそろ限界だ。体がぐらりと横へ傾く。そして、しがみつくアリスもろとも一緒に真っ逆さま!

「きゃあああああああああ!!」

悲鳴と共に森に吸い込まれるように落下していった。



「――――……。」



ここはどこだろう。



アリスは落ち葉や小さな雑草で横たわったまま、ゆっくり瞳を開く。

「・・・森?――・・・ッ!」

身体を起こそうとした瞬間、全身に強い痛みが走った。身体に走る痛みにぐっと耐えて近くの大樹に捕まりつつ立ち上がる。この国に来る時に、比べ物にならないぐらい深い穴から落ちた時でもアリスはほぼ無傷だった。木々がクッションになって受け止めてくれとはいえ、あんな高い高い空から落下してこの程度なんだから、アリスもこれを奇跡だと言わざるをえない。かろうじて歩けるぐらい足は無事なものだから。


しかし、無事ではない者がそこにいる。


「う・・・。」

呻き声だけど、静かな森ではよく聞こえる。いつの間にか元の人間の姿に戻っていたので、声を聞いてやっと気付いた。少し離れた場所に横を向いて倒れている。

「鳥さん!!」

足を引きずり、できるだけの力を振り絞ってなるべく早く。でも駆けることはできない。歩くのでやっとだった。そこには、腹部を金属製のナイフに二つも刺されて真っ赤な血で染めたフィッソンが目を伏せぐったりと横たわっていた。口からも流れる血の量は傷から漏れたものではないとわかった。

「鳥さん、そんな・・・ねえ、どうして?」

現実を否定したいあまり、肩でも揺さぶりたかった。この状態の人間には出来ない。何も出来ない悔しさが代わりにこみ上げてくる。しかし、彼は重傷を負ってなお体を起こした。

「心配には及ばん・・・時が経てばやがて引くはず・・・。そうだ、お前は大丈夫か?」

右手は口元を拭くのに、左手は少女のボサボサに乱れた頭を優しく撫でるために。

「・・・・・・。」

懐かしかった。父親の大きな手で撫でられた頃を思い出す。何年ぶりだろう。妹ができて姉になってからはすっかり減ってしまった。なんてことを今思い出してしまったアリスは帰りたい気持ちと、傷だらけの優しさと、虚しさ。暖かさや悲しさ、一度にいろんな感情が押し寄せて、気付けば涙となって溢れ出た。アリスはただただ俯いて地面に落ちる涙を茫然と見つめることしかできなかった。どの感情を吐き出せばいいのかわからないのだ。

「・・・お前は何も考えなくて良い。我がなんとかする。さて・・・。」

空からひらひらと何かが舞い落ちる。葉っぱかと思い最初は無視した。だが・・・。

「紙?」

目の前に落ちたのは一枚の小さな紙。いや、カード。トランプだ。記号だけではなく絵が描かれている。クイーンか?キングか?それとも・・・考えていると、影が迫る。見上げたら空中から人が落ちてくるのではなく、降りてきた。トンっと、軽い足音と共にカードの上に着地する。

「・・・おや?」

落ち着いた声なのにどこか冷ややかだ。銀色の長い髪を束ね、赤を基調としたゆったりな服を見に纏っており、所々金色の装飾が施されている。しかし不気味なのは、気味の悪い仮面をつけていたこと。

「誰かいるのを見かけたもので・・・ひどい怪我ではありませんか。そこの少女に・・・あぁ、貴方は。」

こっちへ近づく。彼の放つ雰囲気は不気味な森の中でも異様な程に浮いた存在である。二人の前に彼は屈んだ。

「弱りましたね。俺は回復魔法は会得していないのですよ。もう少し歩けば城があるので十分な手当をしてもらえるのですが。」

アリスは震えが止まらなかった。至って優しい言葉をかけられているのにもかかわらず、なんでこんなに怖いのだろうかわからなかったからだ。

「ちょうど良い。我らはその城とやらを目指して進んでおったのだ。」

「おや!そうですか!ではアリス、しばし歩くことにはなりますが城に着くまでの辛抱です!あ、なんなら俺が背負って・・・。」

急に溌剌と饒舌になった。アリスは首を横に振る。

「私は歩けるわ!それより、この方を・・・。」

「いいんですよ、その方は。」

青年はあっさりと言い捨てた。

「城に用があるのはアリスだけでしょう?そこの方はもう結構です。」

アリスはまた首を振った。さっきよりも強く。

「でも、手当てしてもらえるのだったら鳥さんも・・・!」

「我は・・・ッ!?」

必死に訴える二人をよそに青年は、フィッソンの腹部に刺さったナイフの一つに手を添えて、更に、深く刺し込んだ。

「いやはや本当に不死身なんですねぇ。驚きです。普通こんな傷を負ってまともに喋れる奴なんかいませんよ。猛毒でも塗ってあるんでしょう?見ればわかります。」

感じていた恐怖が確信に変わった。呑気にこんなことを言いながら、平気でこんなことをする顔の見えない何者かに感じるものなんて恐怖以外に一体何があるだろうか。

「すみません。貴方がくると、うちの女王は一層不機嫌になるんですよ・・・それに。死なないのなら別に放っておいても構いませんよね。」

青年が指を鳴らす。ボンっという派手な音と煙がすぐ隣で突如起こったのでアリスはとっさに腕で目の前を覆った。

「きゃ・・・っ、えっ!?」

煙が薄れていくと、なんとつい先ほどまで隣にいたフィッソンの姿が消えてしまったのだ。

「ご心配に及ばず、彼は本当に不死身です。ああ見えますが回復力も我々の比ではございません!」

両手を広げ、随分楽しそうに明るく話すのだ。今までがまるで嘘だったみたいに。

「・・・・・・毒が塗ってあったのをなんで知ってるの?本当に見ただけでわかるの?」

一つの疑問が浮かぶ。根本にあるのは「貴方がやったの?」と聞きたいところだが、危険人物とみなしている以上、いきなり確信に触れる質問したら逆に危ないと感じたから。とはいえ青年も一枚上手で。

「これぐらい見ただけでわからないと、女王をお側で守る王宮魔導士なんて務まりませんから。」

さりげなく、自分が何者かを明かしたわけだが。

「おう、きゅう・・・?」

ぶつぶつと繰り返された言葉を合図が如く青年は立ち上がった。

「そう!俺はハートの女王に仕える従者が一人、王宮魔導士という正式な肩書を持つ、名前はジャックと申します!!」

森にこだましそうなほどの大きく高らかな声。ジャックと名乗った青年は道化風の仮面をとってお辞儀をした。中性的で美しい顔立ちでにっこりと微笑む。時と場合さえ違えば、きっと素敵な笑顔だったろうに。

「・・・・・・。」

見上げながら絶句した。不審者を驚いて見る目だ。

「いいですねぇその反応。誰かさんほど道化ではなくとも、人の驚いた顔を見るのは実にいいものです。ついでに言うとこうしてお喋りするのも好きなのですが。」

ジャックが一方的に喋っているだけなのだが。

「あまり悠長にもしていられません。もうじきこの森に雨が降る。空からではよく見えたのではありませんか?」

「え、ええ・・・。」

目の前に行き止まりとばかりに立ちはだかる分厚い雲。あれをどうにかしようと考えていた所でフィッソンは怪我を負わされたのだ。

「雨が降るといろいろと厄介です。雨宿りはできますが、そういう問題でもないのですよ。というか嫌でしょう、こんなとこで雨だなんて。」

さっきまでふざけていたのが一変、子供に注意をする大人みたいな言い方だった。しかもこのジャック、アリスならまず聞きそうな質問を予測して先に説明したのだ。最後に少し、本音がこぼれたが。

「・・・あ。」

ジャックは無言で手を差し伸べる。いくら怖い人だろうと、怖いだけの人の優しさを振り払うなんて出来なかった。ただ、アリスはまたしても驚くことになる。

「この手は?」

手を取り、ゆっくりと立ち上がる。

「あぁ・・・気味悪かったらすみません。」

そう。明らかに人の手ではなかった。人の手の形はしている、金属で出来た関節が見え、固く冷たい。それはまるで機械だ。アリスにしたらあの仮面の方がたいそう気持ち悪かった。むしろ・・・。

「面白い・・・って思うわ。男の人がはめているとかっこいいわね。」

「・・・。」

しばらく黙って。

「あ、ごめんなさい。失礼な事を言ったかしら。」

沈黙を破ったのはアリス。

「この国では大体気味悪がられるコレも、ほとんどのアリスは興味を示してくれました、が・・・そのようなヘンテコな感想を述べたアリスは初めてです。」

素直に褒めてるのにヘンテコと返され、いつも通りのアリスならいっぱい頬を膨らませるか即座に言い返すが今はそんな気分ではなかった。

「ま、歩きながら話すとしましょう。疲れたら遠慮なく仰ってくださいね。」

そう言って、本当に急いでいるのだろう。でも歩みは速めず、二人は並んで歩き出す。アリスはさりげなくからのローブを掴んでいるがジャックは見ないフリをした。


しばらくは二人とも黙ったまま歩いている。またも会話を始めたのはまたしてもアリスだった。

「その腕は、もしかして、義手?」

アリスの質問に行動からしました。大きい袖をぐいっと寄せると、肘から上が義手になっていた。しかも、両腕。

「ええ。・・・・・・おや?いつ、どうしてそうなったのか聞かれるかとソワソワしておりましたが。」

ここでようやくアリスがわずかに膨れっ面になる。せっかく、気を遣ってあえて聞かなかったというのに。本人はこの義手をさほど気にしていないのか。

「たいしたことではありませんよ。病気で両手が使い物にならなくなりまして。しかしそれでは仕事にも生活にも支障が出る・・・。」

彼は本当に話すのが好きだ。放っておけば次から次へと口から出る。

「見た目はについては仕方ありませんよ。手がないと、その方がほら、周りに迷惑をかけます。俺だって一応気にするんですよ?」

「意外・・・。」

ポツリと呟く。ジャックは面白おかしく笑った。

「ははは、出会ったばかりのお嬢さんにまで言われてしまいましたねぇ。」

「そうじゃないわ。貴方は女王をそばで守るのがお仕事なのでしょう?てっきり、誰かに襲われたのを守った際になくなったのかと思ったわ。」

全く悪気はなかった。ふざけてもなかった。あくまで彼女の想像にしかすぎなかった。

「ふふっ・・・。それが俺のお仕事ですから。」

こっちを振り返る、その笑顔にはアリスが気を張るような物は何も感じられなかった。しばらく、また沈黙の中を歩く。

「ねえ?」

彼女にはどうしても不可解なことがあった。

「女王を倒したら私はアリスになるって、どういうことかちっともわからないの。」

そう。倒す、という言葉がどうにもあやふやだった。一抹の不安はあった。倒す、なんて言い方。絶対嫌な予感しかしないその言い方。

「倒すと言えば語弊がありますなぁ。我が女王はアリスが来た際には様々なゲームを催します。それに貴方が参加して、勝てばいいだけのことなのです。」

しかし、ジャックが教えてくれたのは詳細は予想外だったと同時に、楽しいことが好きな好奇心旺盛でおてんば盛りの少女がいかにも食いつきそうな話ではないか。ゲーム、と聞いて喜ばないわけがない。

「ゲーム!?面白そう!」

「そうですよ。だから気負う必要はありません。」

「あっ、そうそう。負けたらどうなるの?」

アリスがうかつにもこんなことを聞かなければよかった、と。後々後悔する羽目になるとはこの時思いもしなかっただろう。

「運が良ければ、元の世界に戻れます。」

一瞬、思考がフリーズした。

「ど、どういう・・・?あっ、個人的には帰りたいのだけど・・・悪かったらどうなるの?」

彼女は好奇心の塊だ。気になったことはまず、聞かなくては気が済まない。たとえそれが望んでない答えだったとしても、いや、そんなの知らされるまで知る由もないので仕方がない。

「悪ければ、死にます。貴方はハートの女王をご存知ありませんか?」

ハートの女王。残念ながら、アリスはまだ最後まで読んでいなかった。ジャックは淡々としか答えてくれない。彼女のめまぐるしい感情を置き去りにして。

「機嫌を損ねればすぐに誰かの首をはねろ!というお方です。負けるというのはつまりそういうことですよ。」

そういうことで片付けられてしまったあんまりな理不尽。恐怖で足が竦みそう。さいあく、自分は死んでしまう、そんな状況に足が進むわけがない。運が自分に味方をしてくれれば、それはもう望んでいたハッピーエンド。しかし運に見放されれば死が待ち受けているバッドエンド。後者が、あまりにも大きすぎる。死にたくない、死にたくないと頭の中ではいっぱいだった。

「だーいじょうぶです、アリス。勝てばいいのです。」

勝てばアリスは死ぬことがない。彼がそう言うのであればそうなのだろう。

・・・いや、待てよ?

彼女がこの世界でいう「アリス」になった場合、どうなるのかはまだ聞いていない。

「勝って、アリスになった私はどうなるの?」

と、言葉に出した瞬間、足に何か違和感を感じて立ち止まった。

「・・・何?・・・ッきゃあああ!!?」

固い木のような丸い何かを踏んだので足元を見下ろしてみたら、なんとも不気味な物が転がっていた。生きた気のしない真っ白な肌、金髪のショートヘアーにボロボロの水色のドレス。というか生きてないのだから。全体的に薄汚れていていかにも投げ捨てられた感じだ。しかも、それは至る所に無造作に捨てられていた。腕に、脚に、首に、バラバラに切断されて。普通の感覚をしている少女ならまずこれを見てショックをしない者はいない。生身でこんな物を見てしまったのだからアリスは血の気の引いた顔を手で覆って震えているのもなんら当然のことだ。だがジャックはもう見慣れたどころか薄ら笑みを浮かべている。

「あはは、びっくりしますよねぇ。大丈夫ですよ、ソレはいらなくなった人形ですから。」

「に、人形?」

少し見を屈めてみると、確かに。踏んだ時も人を踏んだ感触にしては随分と固かった。髪なども本物と同じぐらいに精巧に、大変良く出来た人形である。てっきり投げ捨てられた死体ではないかと恐れていたアリスは安堵するが、やはり不気味なものは不気味だ。

「なんだ、人形か・・・とてもよく作られているわね。それなのに、もったいないわ。」

アリスはつんつんと人形をつつく。もちろん、反応はない。腕を掴めば簡単にもげてしまいわずかに驚いた。とても冷たい。そして、その人形だったものは前にいくつも散らばっている、点々と。まるで、御伽噺で、家路が分からなくならないよう落としていくパンのかけらみたいに。

「そうですよね。いらなくなったからってすぐ捨てなくてもいいのに・・・。」

気づいているのかないのかジャックは普通に踏んでゆく。その様にアリスは軽く引いた。アリスも立ち上がり、彼女はちゃんと避けて通る。

「誰かのものなの?」

「うーん・・・女王様の玩具ってとこですかね。気に入らなかったり飽きたりしたらすぐ人目の付かない所にポイですよ。」

遊べないおもちゃを捨てるのはまだわかる。ただ、捨てる場所はきちんと考えなければ。それはどの世界でも同じではなかろうか、とアリスは少し慣れた人形の体を見下ろしながら歩いてそんなことを考えていた。

「いい心地はしませんね。こんなゴミ捨て場早く抜けちゃいましょう。」

「そうね。」

しばらく続く道を人形に囲まれながら進んだ。


ポッ・・・



「・・・?」

アリスが急に立ち止まる。

「どうかしましたか?」

「・・・今、なんか上から落ちて・・・。」


ポッ、ポツッ


何もない遥か空から冷たいモノがアリスの頭の上に落ちてきた。次第にそれの数がどんどん増える。やがてそれがこの森全体に降り注いだ。二人はすぐにそれを雨だと理解した。

「雨だわ!」

「ちょっと早い気もします・・・。」

随分呑気なジャックだって早くもずぶ濡れだ。

「どっか雨宿り・・・。」

辺りを見渡しても雨宿りする場所がない。ここの森はほとんどが針葉樹林なのだ、この雨を凌ぐには少々心許ない。雨は徐々に勢いを増し、元から涼しい場所だったので余計に肌寒くなった。服は水分を吸って重たくなってゆく。

「困りましたねえ。雨が降ってしまいました。真実の雨が降ってしまいましたよ。」

ジャックは相変わらず呑気だ。アリスは雨音と顔に滴る雫を拭うのに必死ではっきり聞き取れなかった。

「呑気な事を言ってる場合じゃないわよ!風邪引いちゃうわ!」

「あー・・・困った困った。」

だが何故か、帽子のつばから覗くジャックの口元は吊り上がっている。

「・・・ジャックさん?」

不審に感じたそっと覗きこんだ。

「この森にしか降らない、この雨はね、余計なモノまで流してしまいますから嫌なんですよ。」


そう言うジャックは足元にある人形を力一杯踏みにじった。

「・・・?」

アリスも何の躊躇いもなく落ちている人形を踏む。思わず足を上げてしまった。

「なにか違うものでも踏んだのかしら。」

始めに踏んだ物とは明らかに感触が違う。なんだかさっきよりわずかながら柔らかい。不思議に感じたアリスはそっと踏んだ足元を見た。

「・・・えっ・・・。」

足元に転がっていたものは人形だ。確かに「人形だった」ものだ。雨が滴り。


爛れていって。


流れていって。


溶けてしまって。


―真実の雨が偽りを全て溶かすようにして―


そこには、赤褐色にまみれた白い人の腕が横たわっていた。先程アリス達が歩いてきた場所に転がっていた人形も赤褐色がかかっており、中には生々しい部分が露になってる無惨な姿を晒しているのもあった。更に、今まで気づかなかったが、木々にもぶら下がっていた。白く痩せこけた腕や足が吊られていた。急に漂う鉄のような、そうとは言えないような臭いに支配され現実味を帯びて吐き気がした。その臭いに耐えられず鼻を塞ぐ。もう見てもいられない。当たり前だ。アリスの身体は寒さでも何でもない何かで震えている。

「これはこれはどういう事なの?」

「・・・。」

ジャックはふと上を見上げる。返事はない。

「ねえってば・・・!」

どうにかして何か答えて納得させてほしい。その思いからなる焦燥感で、息が苦しい。

「アリス、せっかくですから他の方々も目に焼き付けておいてあげて下さいね。」

返ってきたのは求めていたのと、全く正反対も正反対。いや、彼は、こうなるとわかっていたのでは?

「ほら、これが真実の雨です!隠していた物を綺麗さっぱり流してしまう!ああ、少し早かった!生きた心地がしませんねえ!」

そうジャックは両手を広げて空を仰いで叫んだ。とても清々しい笑顔だ!その様子をただ見つめることしか出来ないアリスは力の無いか細い声で尋ねた。もう何を言い返しても意味のない気がして。これが、これがこの男の。

「・・・貴方・・・。」

「なんでしょうか!アリス!どうでしょう!アリス!洗いざらい流され醜い部分を晒されるこの滑稽な様を!!」

恐らくこれがジャックの本当の姿なのだろうかと傍観した。こんな物を見ても何とも心に感じない、そんな人間なのか。逆にそれを見ればアリスは自分がとても弱い人間なのかと、気力そのものまで雨と一緒に削がれるような感覚に襲われる。しかしアリスは、この大量に散らばるソレをしっかりと目に焼き付けて涙として流れ落ちないようにぐっとこらえた。

「この人達・・・どうしてこんな事になったの・・・?何があってこんな酷い目に・・・?」

ジャックは一人の生首を、髪の毛を掴み雑に持ち上げる。

「先ほども言ったじゃないですか。こいつらはアリスになれなかったつまりなり損ないってやつです。負けたらこうなるのですよ。」

そう言って、生首は放り捨てられる。

アリスは目を見開いた。

ここにゴミのように散らばっている人達皆が、今の自分と同じようにかつてアリスを目指していた者なのだと。


確かに見る限りは自分と似たような少女、少女、少女、少女!少女しかいないではないか!

するとジャックは服の後ろから取り出したピエロの様な仮面をつける。その最後にみた表情は、ニッコリとした不気味なぐらいの笑顔だった。

「更に哀れな事に、アリスのいた世界での存在もなかったことにされてしまうんですよ。可哀相に。」

「―――・・・!!」

それはつまり、今まで生きていた証も全て無くなるのだ。

友達、ペット、親、家族、アリスと知り合った皆の記憶から突然、持ち物を忘れるように簡単に・・・いや忘れるんじゃない。アリスという存在がなくなるということはもう救いようがないのだ。

「アリス、君もいつになったらこの森を飾ってくれるのでしょうか…あははは…でも、もしかしたら…?それはそれで実に面白い!」

アリスはもう聞いてはいない。聞くことを拒んでいる。限界だった。恐怖、絶望の感情の捌け口として目の前にいる男に縋り、しがみついてしまいそうだから。でも、きっとどうにもならない。それだと、ああ、惨めなだけだ。ジャックは続ける。そんなアリスはお構いなく。

「ああ、言っておきますが俺は決して人を虐めるのが好きというわけではございませんので。よく誤解されるんですよぉ。だってこんな森二人で歩くだけも退屈ですから・・・。」

「・・・・・・!」

耳が彼の言うことを拒んでいる!アリスは頭をおさえた。

このままではダメだ。でも、体と心が動かない。誰でもいい、誰が助けて、と声に出さずにただただ叫び続けた。さあ、この国では誰が彼女を助けにきてくれるのかな?


「――――――リ・・・ス・・・。」

その時だった。


わずかに耳を開けていたアリスに、自分を呼ぶ誰かの声が聞こえてきた。それはジャックにも聞こえたようだ。

「おやおや・・・アリスを守るナイトのお出ましだ。」

ジャックは軽々と身を翻し背を向けた。声は次第に自分達の方へ向かって近づいてくる。

「アリス!!」

「・・・この声は・・・?」

アリスは声のする後ろを振り向いた。まだはっきりと声の主を確認できない、しかし、確かに聞いたことのある声だった。

「では俺も女王を守るナイトに戻りますか。エースにいいとこどりされてばっかりもアレですし、一応王宮導師ですから。」

ふとジャックの方を向いたら彼の姿はもう既に幾分か小さくなっていた。背中を向けながら最後に彼は言い残す。

「まあ、俺はナイトにはなれないのですが。」

降り注ぐ雨に掻き消される様に消えていった。


雨音が地面や木々をたたき付ける音だけが空間を支配する。地面を濡らしてゆく。


「あ、あぁ・・・いやあああああぁ・・・!!」

アリスは膝から崩れ落ち、誰もいなくなったその場で感情の線が切れたように、泣いた。なぜか、彼の前で泣くには抵抗があった。しかし今はいない。泣きじゃくる。涙も雨も一緒に頬に伝うものだからわからない。服に含む水分のせいなのか、一人で立ち上がる気力すらなかった。

私はアリスと認めてもらわなきゃ。

でも、もしなれなかったら?

なれなかったら?

ゴミのように捨てられて、私の事なんかなかった事になるの?


次々と涙が零れてくる。一度歯止めがきかなくなればもう止まらない。拭っても拭っても。これは雨なのか?涙なのか?わからない。

「い゙やだぁ・・・っ、死にたくないっ、嫌だ・・・死にたくない・・・!!」

ずっとこらえていた物が一気に溢れる。アリスは今、自分の行く先に待ち構える末路をこんな残酷な形で目の当たりにしたのだから。

ここに朽ち果てた皆もそうだったのだろう。


諦めきれなかった。

諦めなかったら死ぬ可能性。

ただその恐怖心だけが、アリスから全てを奪うようだ。


「アリス!!」

先程から自分を呼ぶ声。だがもう、それさえもきっと疲れきった自分が心の救いを求める故に聞こえた幻聴なのだと思っていたら。

「しっかりしろ!!」

とうとうその声は自分のすぐそまで足音とともに近づいてきた。その声の主は、アリスの正気を戻すように肩を掴んで振り向かせた。

「・・・!?」

アリスは力任せに振り向かせたその人物に驚いた。

「・・・帽子屋・・・さん?」

自分の名前を何度も呼んで駆け付けてきた人物は、お茶会で一人優雅で落ち着いていたその人。シフォンだった。緩く巻いた亜麻色の髪は雨に濡れて真っすぐに伸びている。ブラウスも水分で透けてなんとも寒々しい。冷えきった雨がずっと身体を打っていたからか顔は白い。かの穏やかな人物像からは想像出来ないぐらい必死な表情にアリスは信じられないでいる。

「・・・なんで?ここに?」

それには答えなかった。

「やはりアイツか、逃げ道が近くなってからわざわざこんな・・・!」

正直、理由はわからなかった。わけもわからずアリスは混乱している。こんな顔もするんだともびっくりしている。だが仮に助けに来てくれたとして、何をどう伝えていいか頭の中で会話を整理するのに精一杯だ。それでも今一番番伝えたい気持ちをぶつけた。

「・・・私、死にたくない、でも私・・・私はもう・・・!」

「アリス!アイツの言っていた事は忘れろ!この森だって、ここの住人でさえ入ることを恐れる場所だ。早く出よう。」

そう言うシフォンの目は真剣そのものだ。

「よく聞け、この森は心に迷いを抱える者は永遠にここを抜けられなくなる!今君がここで迷ってしまったらいずれにせよこいつらと同じことになるぞ!?」

あまりの気迫にアリスは黙って何も言い返せない。本当に、つい最近会ったばかりの誰かにここまで心配されるものかと疑いたくもなる。でも


信じたい。

「私、勝ち負けとかどうでもいい。この世界でアリスじゃなくたって、私はアリスよ。・・・死にたくない。帰りたい。」

帽子が音を立てて湿った枯れ葉が覆う地面に落ちる。するとアリスは何かに顔を埋めたような圧迫感を感じた。濡れた、でも温かい。背中では更に細い物がおさえつける。

「大丈夫だ、アリス。」

アリスの震えを、全てを包むようにシフォンは力強くアリスを抱きしめた。

「えっ・・・?」

アリスは目を泳がせている。顔を赤くさせるとか、恥ずかしいとか、そんなものではないもっとそれ以上の何かが込み上げてきた。

「僕が君を守る。僕がなんとしてでも君を「アリス」にしてみせる。死なせやしない、今度こそ・・・。」

うるさい雨の音に掻き消されることなく、ずっと近い所で力強く聞こえた。

「今のアリスなら大丈夫だ。さあ、行こう。休むなら、こんなところは嫌だろう?」

「ありがとう・・・。」

本当はもう少しこのままでいたかった。でも、雨には濡れたくないし、早く抜けたいのは彼女もだ。シフォンと隣に並んでアリスは歩き始めた。二人を容赦なく雨がたたき付ける。



しばらくして二人は十数分ぐらいで森を抜けた。出口は近かったようだ。森の外は全く別世界のように晴れていて空気もおいしい。冷えた所から出たばかりだからとても心地好い温度である。

「抜けたわね。」

「ああ、そうだな。」

アリスは後ろを振り返る。今は木々で隠れているが、あの光景が頭から中々離れてくれない。一方シフォンは濡れたローブを雑巾のように絞ったり、纏わり付く服に気持ち悪さを感じていた。

「とりあえず、僕らはハートの女王のいる城に向かおう。君はこの国に来てしまった以上はアリスになるまでは帰れない。」

「・・・。」

目の前に続く道を二人はじっと見つめた。

「困った時は僕を頼ってくれ。できる事は少ないが、君を「アリス」にさせたいのは同じだから。」

シフォンの意図がいまいち理解できないが、その言葉と真っすぐな目はアリスをしっかりと支えてくれた。

「私も、頑張らないと。」

「・・・それでこそアリスだ。」

力強くアリスは頷き、二人は同じペースで歩き出した。

「おいフラン!お前そんな歩いてないだろ!?わーっ!!」

「「・・・ん?」」

脇の森からこれまた聞き慣れた拍子抜けした声がして二人は思わず声を揃えた。すると突然、茂みから燕尾服を着た男が道の真ん中へ向かって転がってきた。

「ひゃああ!?」

アリスは驚いて声をあげる。シフォンはというとひどく冷めた目で眺めていた。

転がって倒れた人物は勢いよく身体を起こす。なんとシフォンとは同じお茶会にいたレイチェルだったのだ。

「・・・眠い・・・歩きたくない・・・。

その後をふらふらとレイチェルついてくる。歩いたまま寝そうな雰囲気だ。

「お前!なんで押したんだよ!」

「頑張って歩こうとしたら邪魔だったし、ムカついたから・・・。」

呆然としているアリスに変わってシフォンは冷たい声で尋ねた。完璧に呆れている。

「なぜここにいる。どうやって来た?」

「何をってお前そりゃあ決まってんだろ。」

レイチェルは服についた土埃を払う。機嫌を損ねた子供のように拗ねている。

「全くお前も青臭いよな!一人で勝手に行きやがってよ。俺にとってはお前もアリスも同じぐらい心配だったんだぞ!」

「水臭いだけど・・・。」

レイチェルの安定の馬鹿とフランネルのさりげないツッコミのせいでせっかくの気遣いもコントにしか聞こえない。

「フィリピンていう奴の手当をしたらすぐ回復してさ、さすが不死鳥だよな!迷子になる自信しかねーからここまで乗せてもらったんだぜ!二人!なあ?」

「・・・寝心地最高・・・。」

いきなり国の名前を言い放ったがすぐにフィッソンの名前を間違えたのだとわかった。不死鳥という伝説上の生き物もこの国ではまともに名前すら覚えられず挙げ句の果てには早速こき使われてしまった。シフォンたちがアリスのところへ駆けつけたのは彼のおかげだったのだ。

「そいつは?」

「途中で宿屋見つけたから置いてきた!」

「宿屋なんかあるの?」

アリスは半信半疑で聞いた。自信たっぷりに頷くレイチェル。それで確信を得たシフォンは皆に一つ提案をした。

「そうなら、どうだいみんな。アリスを休ませてあげたい。僕だって見ろよ、このザマだ。」

なんて言われるとアリスは申し訳ない気持ちになる。本人は笑っているから、冗談のつもりだろうけど。

「お、いいね。賛成!」

「・・・大賛成・・・。」

二人は元々そのつもりだったように意見に乗っかった。

こうしてレイチェルとフランネルを加えた四人は一旦道の途中の宿屋で疲れを癒してからハートの女王の待つ城へ向かうことにした。

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