コーカスレース

アリスはずっとずっと同じ道を走っていた。暗い何もない空間を延々と走り続けていた。障害物はなく景色もないので自分が真っすぐ走ってるのかわからない上に肝心の白ウサギを見失ってしまった。孤独が心を、疲労が体を追い詰める。どうしたらいいかわからないアリスは泣きたい気持ちでいっぱいだった。


一体どれだけ走ったのだろう。穴を落ちていた時を思い出す。あの時も確かに怖かったがが、白ウサギが現れてからはそれほどでもなかった。それが今では真っ暗な中物音一つせず、誰かがきてくれそうな気配もない。


何もない場所で探す。

アリスはとうとう走るのをやめた。棒みたいな足で歩みの速さへと変える。

「きゃあっ!!」

何もないはずの道で足を滑らせ前のめりに転んだ。小さな悲鳴が空間に響く。アリスはゆっくり身体を起こし、服は汚れてないものの赤くなった膝を見る。ついに堪えていた感情が一気に込み上げてきた。涙となって溢れ出す。

「もう・・・なんなのよ。こんなのあんまりだわ・・・!ついてきてって言ったら、普通・・・ついてこなくなったら、待つんじゃないの!?」

走りっぱなしの足には力が入らず、しばらく座ったまま。大粒の涙を手で拭い、しまいには袖で顔を擦り、顔だってまるで腫れたように赤かった。アリスの苛立ちの矛先はピーターにではない。この苛立ちは、そんな個人に向けられるような小さなものではない。どうしようもない、あまりにも惨めな今の状況について彼女は怒っていた。

「うう・・・。」

誰もいない。なんにもない。自分から発せられる物音しか聞こえない。あまりの静けさに、最初こそ泣きじゃくっていたアリスも「動かなきゃ」という前向きな言葉ではあるが半ばあきらめの気持ちでようやく立ち上がる気になった。もうどうせ追いつけやしないし、疲れた。なので走るのはもうやめて、まだおさまらない涙をときおり拭きながらとぼとぼと歩き続けた。


「ん?」

遠くに白い何かが落ちているのを見つけた。黒い空間に白いものは小さかろうがとても目立つ。アリスはそれを拾い上げた。

「これは・・・手袋?」

見たところ、子供用ぐらいの小さな布手袋が右手だけ。おそらくピーターがつけていたものだろう、落としたのを気付かず行ってしまったに違いない。

「まあ、私の手よりちょっとだけ小さいわ!」

何を思ったのか手袋を広げて自分の手のひらと合わせてみた。大差はないが、アリスの手より少し小さかった。これが彼にとってぴったりだとしたら、なんてかわいい手なのだろう!と驚いた。そして、そのは手袋をエプロンドレスのスカートの大きなポケットにしまう。

「会ったら聞いてみましょう。それまで落としちゃダメよ、アリス。」

そう言い聞かせ、いつしか普通の歩く速度で進んでいた。すると・・・?

「あいたっ。」

アリスは何かにぶつかった。頭を打ち、後ずさる。

「・・・?今、なににぶつかったの?」

おそるおそる手を伸ばすと、平べったく硬いものに触れた。すぐにアリスは「これは壁」だと理解した。

「まあ!ようやく私は終わりにたどりついたのね!・・・もう、私はここから出たいのよ?見つけたいのは行き止まりの壁なんかじゃないのに!」

逆に落ち込むしかない。こんなところに、まるで閉じ込められた気がして。一しきり文句を言ったあと、歩き疲れたのでいったん壁を背もたれにして休むことにした。

「・・・はぁ。」

ため息と共に背中をつくと、かすかに壁が後ろに動いた。違和感を背中に直接感じ、振り返るがなにもない。おそるおそる手で押してみると、黒い空間に黒い扉が前へと開いた。

「!?」

わずかに光が差し込む。あとは力を入れて扉を前に押すだけ。あぁ、やっと。やっとここから出られんだ。アリスの胸には安堵でいっぱいで気分が高揚した。今は白ウサギのことなんてこれっぽっちも頭の中にはなかった。扉の向こう側は小さな空間。ゴツゴツしたレンガの壁、天井には小さなランプが頼りない灯で薄暗く照らしているのみ。一人用の木製の椅子があるが他にはなにもない。目の前、今度はちゃんとした扉がある。

「椅子があるわ。座って休みたいけれど・・・。」

特にめぼしいものもないし、一人でいることにそろそろ耐えられなくなったので、この先はどんな場所かわからないけどさっさとここも出ていこうと扉を開けた。


アリスを待ち受けていたのは不思議の国・・・と、いうより。どこの国にでもある普通の景色だった。たくさんの木々の間に整備の悪いでこぼこの広い道が見る限り続いている。その道の遥か向こうにはぽつぽつと民家が建っており、その家もほとんどは木造の質素なものだ。引っくるめて言えば、何回も見慣れているごくごくありふれた、ただの田舎町である。

「不思議の国っていうから、もっと不思議な場所かと思ったのだけれど。」

あたりをキョロキョロ見渡す。

「・・・逆に言えば、私のいたところと似ていてなんだかほっとしちゃった。外に出れて、ほんと、よかった~。」

そう。正直なところ、あんな場所でのたれ死んでしまうのでないかという考えまで過ぎったほど。アリスの今求めているのはワクワクではなく安心。久々に見た景色が見慣れた景色だなんて、これほど心休まるものはない。疲れが完全に取れたわけではないが、足取りが軽くなる。

「たしかにピーターさんの言った通り、なんにも危険といったものはなさそう!出てくるとしたらせいぜい、野生の動物ぐらいかしら?」

なんて言うがアリスはこそこそなんてしない。独り言だって止まらない。

「キツネとか、リスとかいたらいいなぁ。熊や狼が出てきたらどうしましょう。死んだフリでやり過ごせるかしら?」

やれやれ、そんな溌剌と元気な声で独り言を続けていたら今頃お出ましになっているだろうに。例え野生の動物ではなかったとしても・・・。

「ばあっ!!」

「ぎゃああああああ!!!??」

突然木の陰から何者かが目の前に飛び出してきた。アリスは顔を青くして叫ぶ。

「わああああっ!?」

叫んだのは出てきた方もだった。彼女の絶叫は想像以上のものだったにちがいない。バクバクと速い鼓動がうるさい心臓のあたりを抑えて、腰の抜けたアリスがその場に座り込んでしまった。

「・・・・・・。」

そこにいたのは、見た目は二十代ほど。やや垂れ目で茶色の天然パーマ、服はセーターにジーンズとラフな格好をしている特徴のないごく普通の青年・・・なのだが、やはり動物の耳と尻尾が生えている。どうやらネズミのようだ。

「いやぁー・・・耳が痛いな。」

小さな耳が垂れ下がっている。

「あなたが驚かせてくるんだもん!」

野生の動物じゃなくてよかったとは思いながらも、相当びっくりしたのでアリスは不服で仕方がなかった。

「いやぁ~ついつい癖でね。油断しているところを驚かせてみたくなっちゃうんだよ。ごめんね。」

青年が手を差し出す。若干抵抗を感じたが、彼の大きな手を取りゆっくりと立ち上がる。

「おや、怪我してるじゃん。」

アリスの腕。茂みに落ちた時に作った切り傷だ。たいしたほどではないが、華奢な白い肌には随分と痛々しい傷である。

「ちょっとね。たいしたことないわ、それより・・・。」

服についた汚れを軽く払ってから。

「ここは不思議の国であっているのよね?」

しばらく謎の沈黙が流れる。青年の表情はまるでうんざりといった様子で、余計に疑問を感じ、不安になった。

「なんかここにくる人、だいたいそう言うんだけど・・・。」

「だって、ここに連れてきたピーターって人がそう言って・・・。」

まるで自分が呆れられているみたいで気に入らなかった。知らない場所なんだもの、言われたことを信じるより他ないのだから。

「いやいや、君をどうこう言ってるわけじゃないんだ。わかってるわかってる、白ウサギについて来いって言われたんでしょ?」

掌を前にして苦笑いを浮かべて宥める。

「全くなぁ。なんで違う名前で呼ぶんだか、意味がわかんねーよ。」

アリスの頭の上に大きな疑問符がぽっと浮かぶよう。

「不思議の国じゃないなら、ここは一体どこなの?」

ピーターは不思議の国に着くとかなんとか言って、途中ではぐれたもののちゃんと彼について行った・・・だが、ここで一つの不安がよぎる。はぐれて、扉を運良く見つけたアリス。しかし、もしかしたらその扉が違う場所への入り口だったのかもしれない、と。

「ここは淘汰の国。不思議の国ってのは白ウサギや一部の奴らが勝手にそう言ってるだけさ。」

すぐに不安が消えていった。なんでそう呼んでいるか、新たな疑問は増えたが。

「そうなの・・・。」

またも流れる沈黙。アリスは考え事を始めていた。ただ、彼女は独り言がうるさい癖がある。考えていることもつい口に出てしまうなんてこともよくあるのだ。

「ピーターさんについていったはいいけど、途中で見失っちゃったし・・・知らないところで私はどうすればいいのかしら・・・。」

アリスにとっては考え事をしているので、口から漏れていることに気づきさえしなかった。

「もしもーし。よければ俺が案内しようか?」

だから、青年に声をかけられ、しかも彼が言うことに対し「なんで私が考えていることが分かったのだろう。」と変に思ったのだ。

「とりあえず、そうだな・・・俺はこれからちょっとした催し物に参加しなきゃなんないんだけど、人もそこそこいるし、一緒にこない?」

アリスの表情が見る見るうちに明るくなる。催し物、パーティーなどは大好きだ。色々あって落ち込んでいたのでアリスにとっては最高の気分転換である。

「まあ、素敵!行くわ!」

青年にもまるで嬉しい感情がうつったかのように満面の笑顔を浮かべる。

「よし、じゃあ早速行くか。俺の名前はマーシュ、彼女募集中。君は・・・。」

さりげない(上にどうでもいい)情報を無意識にスルーしてアリスは自らを名乗った。

「私はアリス。アリス=プレザンス=リデル!マーシュさん?あなたも私を置いてっちゃいやよ?」

「んー?じゃあ手でも繋ぐか?」

マーシュは冗談半分でもう一度手を差し出すが、明らかに笑いを含んだ声に察して、今度は手をとらなかった。家族以外の男と触れたことはないとは言え繋いでもないのにアリスは恥ずかしがったりしない。むしろ呆れてている。

「もう、からかうのはよしてちょうだい。」

笑い返され、気持ちは緩んで、半獣人の青年の後ろをアリスは離れないようについていった。当たり前と言えば当たり前だが、マーシュは普通の速度、いや、アリスに合わせていつもより歩幅を小さく歩いてくれている。この時のアリスのマーシュに対する印象は気遣いのできる好青年だった。


・・・しかし。


「にしても、不思議ねえ。」

「なにが?」

マーシュの耳が声にした方にわずかに動く。

「それよ、その耳。生まれつき生えているのよね?あと・・・。」

視線が下に降りる。ネズミ特有の長い尻尾はジーンズに開いてある穴を通して外に出ている。特注品なのだろうか?

「まあな。」

「私の世界ではまずありえないから初めて見た時びっくりしちゃった。淘汰の国やこの世界では当たり前なの?」

「そうだね。もちろん、生えてない人間も動物も存在する。でも、俺たちはあくまでその中間って扱いで普通に暮らしてるよ。」

アリスは想像に頭を働かせた。もし、自分の世界にいたら・・・と。それらがいるのが元から当たり前の世界なら別として、突然現れたらどうなるか、とか。自分に生えるとしたらどんな耳と尻尾だろう、とか。

「・・・私が今見てきたのはウサギとマーシュさんはネズミかしら?」

「うんうん。ウサギは結構多いよ。」

動物が好きなアリスは興味津々だ。ウサギも好きだ。街や家の中を走り回る野良のネズミも別に嫌いではない。そうそう、アリスが特に好きな動物といえば・・・。

「猫の耳と尻尾が生えている人はいるかしら?見てみたいわ!」

マーシュの歩みが止まる。でも、構わず続ける。

「私、動物が好きで・・・特に猫が好きなの!家でも猫をたくさん飼ってるのよ。ここにくる前もキティって名前の猫がね・・・。」

可愛がってやまないペットの話が止まらない。だが、明らかにマーシュの様子がおかしいのに気づいてやめた。さっきまでの穏やかな表情が一変、青ざめて引きつった顔をしている。

「あっ・・・。」

ついでに、彼がネズミの青年であることにも気づいた。そうだった。ネズミにとって猫は脅威だったのだと。

「ごめんなさい!あ、でも私の飼っている猫はキャットフードしか食べないのよ。」

そういう問題ではない気もするが。彼女の飼う猫がどうであっても猫全体のフォローにはなにひとつなっていないのだから。

「猫・・・ね、猫・・・。」

一歩、また一歩と後ずさる。アリスは嫌な予感がした。

「いやああああぁ!!」

あれだけ頼もしかったのに今度は情けない声を出して逃げようとするマーシュの腕をすかさず掴んだ。前にぐんっと引っ張られそうになるが踏ん張り、彼もまた止められるとは思ってなかったのかそこまで力が入らなかった。

「なんで逃げるのよ!」

アリスは必死だ。もう置いて行かれたくないから。

「だっ・・・いや、もう色々あって猫はホント・・・思い出しただけで無理無理・・・怖い!」

マーシュも必死だ。逃げる意味はわからないが。

「だからって私を置いて逃げる理由にはならないでしょ!!もう!!大丈夫よ!私は猫の扱いが上手いのよ!猫ぐらい・・・なんとかしてあげるから!!」

そこに彼みたいな半獣人が含まれているかどうかはわからないが、猫の部分がどこかしらにあるならなんとかなるだろう。ただの猫相手ならアリスの得意だ。というより、ひたすら置いてけぼりは嫌なアリスはどうにかして彼を落ち着かせるのにも必死だった。マーシュも、自分より小柄でか弱そうな少女にそう言われ、安心感やら情けない気持ちやらで逃げようとする試みをやめてしまった。お互いが森の中で息切れする。

「・・・普通ここは逃がしてくれるとこだろぉ・・・。」

「私はそうはいかないわよ・・・。」

気の強い少女、アリス。マーシュはすっかり観念した。猫以外にも恐ろしい存在がここにもいると。

「・・・こんな「アリス」は初めてだなぁ・・・。」

項垂れていた背中を起こし、深いため息をつく。

「あら、そう?それはそれは、あなたの初めてになれてとても光栄だわ。・・・安心して、今のあなたの無様は誰にも言わないから。」

元はといえばアリスが彼のトラウマを掘り起こしたのがきっかけなのでは理解している。けど、無駄に疲れた八つ当たりに嫌味っぽく返してやった。そのあと、ニッと口端をあげて笑う。

「そのかわり、ちゃんと私を案内するのよ。」

「はいはい・・・。」

アリスは偉そうにするつもりは毛頭ない。一人が嫌なだけである。マーシュには「この子には敵わない」と思わせてしまったのであるが・・・。


しばらく歩いて見えたのは、木々が円となり囲んだ開けた場所。そこにはレースのコースだと思われる線が何本か引かれている。その周りを数十人の人が円になって賑やかに談笑していた。

「マーシュさん、どんな催し物をするの?」

「コーカスレースっていう遊びさ。」

聞いたことのない遊びに首を傾げるも早速アリスの中の興味が湧き上がってきた。とてもおてんばで外で遊ぶのも大好きなアリスは今からすでに楽しみで、早く早くと体がうずうずした。

「へえ!どんなレースなの?」

「まあ簡単に言ったら沢山の人が一気に走ってトップを競うんだけど・・・。

「お?これはネズミの旦那じゃねーか!!」

と、二人の姿を最初に見つけた誰かが「おーい!」と言いながらこちらに駆け寄ってくる。中年ぐらいでこちらは頭に何も生えていない。顔の横にはしっかり人の耳がついている。ここにきて初めてみた自分と同じ普通の人間に、こんなにも親近感を覚えるなんて。

「おっさん、まだ始まってないの?」

「なーに、これからやるところだよ」

親しげに話す当たり仲が良いのか。会話している様子をじっと見つめる。向こうではアリスの方を見てややざわつき始めた。動物の耳を生やしたのもいればそうでないのもいる。当のアリスは、周りがざわついている原因がアリスは自分だと気づいておらず、変に感じながらもマシューの背中を追いかけた。

「司会を今決めてたんだがな。皆やる気ねーし、いつのまにかおしゃべりに花が咲いちまってよお。」

「あー・・・司会ねー・・・そりゃあ参ったな。」

俺も嫌だしと何気に本音をこぼしつつ今度はこっちで話が盛り上がり始めた。たくさんいるのにポツンと取り残されるアリス。中年の男性はアリスの方を見て「そうだ!」手をポンと叩いた。

「このお嬢ちゃんにやってもらえばいいじゃないか!なあ野郎共!!」

広場からは「そうだそうだ!それがいい!」、「賛成だ!」などと歓声を交えながら聞こえてきた。より一層ざわめき始め、その中心は自分だと理解する。あまりの突然のことにアリスは目をぱちくりさせた。

「え、えと・・・私・・・ルールわからない・・・。」

「司会は簡単!スタートて言って適当にゴールて言えばいいだけさ!」

周りはすでにぞろぞろとそれぞれのスタート地点に集まっていた。まだ混乱したままだというのに!

「そうと決まりゃあワシも・・・。」

「待って!!」

皆がびっくりしたように大声のした方を振り向いた。アリスの方ではなく、声の主、マーシュの方を。

「な、なんだぁ?」

「せっかく来たんだから参加させてあげようよ。アリスも、このレースの話をしたら参加してみたいとか言ってたし・・・な?」

当のマーシュはへらへらと笑いアリスの背中を押す。アリスはキョトンとしたままみんなのすぐそばの所で立っていた。

「じゃあ司会はどうすんだよ!皆動き出したっつーのにまた話がふりだしに戻っちまうだろ!」

男性の言うことはもっともだ。ようやく一つにまとまり始めたというのに二度も引き延ばされてはさすがに楽しみにしてた人も飽きてくるはず。それとも、何か考えがある上でこんなことを言ったのだろうか。

「司会なら・・・・・・俺がやる!俺がやるから!」

周りがまた少し騒がしくなる。中には「いいのか?」、「期待しよう」などと言ってる人もいる。

「お前はそれでいいのか?」

「何回も参加したことあるし、んーまあ一回ぐらいはやってみてもいいかなーって」

相変わらず呑気そうな笑顔だ。

「ちゃんと用意してるから!」

その言葉に、周りの雰囲気は若干穏やかなものになった。アリスにはその言葉だけでは意味がわからなかったが。

「なら問題ねえ!!よし!レースを始めるぞ!」

「待ってましたあああああ!」

「始まるぞおおおおお!」

とむさ苦しい男の大歓声が森に響いた。ドスの聞いた勢いに困惑したアリスがなんともいえないぎこちない笑顔でカチカチに固まっている。

「あの、マーシュさん!」

「ん?」

彼の方を見ると、ちょっとだけ緊張がほぐれた。

「さっきはありがとう!」

と満面の笑顔で礼を言った。マーシュは手を振り返すと、アリスはおずおずと群の中へと消えていく。ジーンズのポケットに手を突っ込んで後ろから追うように歩いているマーシュの顔のやや強張った表情に、当然気づくはずもなく。

帽子を深く被った腕から下が梟の羽になった男性がコースのすぐ横でルールの説明をしてくれた、

「えーお嬢さんは初めてですね。まず始めに、皆さん好きな位置に立って下さい。そして最後に好きな時にゴールして下さい。皆さんがゴールしたら終了です。以上。」

皆は何回かやっているからか、無駄に勝負吹っかけたりストレッチする者もいたが、ただ一人納得いかず抗議しようとする者がいた。

「おかしいわこんなの!」

アリスだった。

「好きな時にスタートやゴールしたらレースにならないじゃなむぉぐぐぐっ。」

側に立っていたマーシュが慌ててアリスの口をふさぐ。梟の男性がじっと睨んだがすぐコースの方に目をやった。

「とりあえずそーゆーことになってんの!」

「ん゙ーっ!!ん゙っー!!」

ズルズルとコースに引きずられるアリスを確認したら梟の男性もまた適当な位置に立ち、マーシュは男性からマイクとピストルを受け取って少し高い岩の上に座った。

「あーテステス・・・わかめわかめ・・・よし!皆さん準備できましたかー!?」

皆は一斉に拳をあげた。アリスも渋々手を挙げる。全員の確認が出来たところでピストルを持った右手を挙げて空いた手で耳を塞いだ。

「・・・わかめって、何かの呪文?」

「さあな。」

横にいる男性に話しかけたが。

「位置についてー・・・よーい・・・。」

周りが一歩踏み出しザッという音がきこえたので、アリスもレースに慌てて走る構えをした。


パァンッ!!


ピストルの音とともに一斉に走り出す。ルールはともあれそこはちゃんとレースなので皆本気で走っている。アリスはアリスで、かけっこで一番をとったことある程走るのには自信があり、開始から既に何人かを抜かしていた。

「とりあえず一番になれば何かがあるかも?でもいつ終わるかわからないのよね・・・?」

リズムよく呼吸をしながら順調に走る。淘汰の国に来てから走ったり、さっきまで歩いていたりと随分足に負担をかけ続けてきたが、意外にもアリスは回復するのが早かった。だが、いくら調子良くても、走ることが得意な動物にはやはり敵わない。チーターだろうか、余裕で一周も差をつけられている。

たまに視界に移る司会は長見の見物のようにニコニコ眺めている。ポケットに手を突っ込んだまま。

「はぁ・・・はぁ・・・。」

走り続けて息が苦しい。コースたいして長くはないが、それを五周も走っている。これじゃあ持久走どころかもっと走れば長距離だ。いくらかけっこが得意とはいえそれとこれとはまた別である。十四歳の少女でそんなスピードと体力が続くわけがない。

「あいてっ!」

すぐ後ろでそんな声がしたのでスピードを落として振り返ると転んで俯せに倒れている人がいた。少し迷ったが、アリスは転んだ人の方へ近寄りしゃがみ込み、そっと手を差し延べた。転んだ男性はぼーっと見つめる。まさかレース中に手をかされるとは思ってもみなかったことだからだ。

「・・・あ、あっしは大丈夫で・・・。」

「なにが大丈夫よ!こんなところでへたばっちゃ迷惑でしょ!」

これは、あえて気を遣わせまいと放った言葉だった。手を掴んで身体を起こしてあげた。その時だった。

「レース終了ー!!!!!」

という声が全体に響く。

「・・・なんですって!?」

レースの終了を告げた司会である、マーシュの方を見上げた。

「いやだって、皆走ってないもん。」

そう返されたから周りを見回すと、息を切らして膝を曲げたり座り込んでいる人や「お疲れさん」とお互い声を掛け合っている人が所々にいた。確かに走るのをやめたみたいだが果たしていつのまにやめたのかとまたも問い掛ける。

「その人が転んでアリスが起こしてあげたらみんなやめちゃったよ。」

起こしてもらった男性はアリスの背中に隠れた。

「悪いのは私よ!この人を責めないでちょうだい!」

とコースにいる全員に向かって男性をかばいながら気の張った声で叫んだ。だが周りは別にアリスや男性を責めるつもりはなく、拍手までする人までいた。

「いやいや俺も足が限界でさぁ、ははは。」

「アリスちゃんすごいぞぉ!」

「タイプだ結婚してくれうおおおおおお!!!」

さりげなくプロポーズされた気がするがスルーして、どうやら皆は自分の意思で走るのをやめ、なんだかんだ最後まで楽しんでくれたようで、アリスも男性も一安心した。

「ありがたやありがたや・・・。」

「いいのよ別に。」

アリスは優しく微笑む。終わり良ければ全てよし。さて、走り終えた後はなにがあるのだろう。走ったからなのと期待で胸が弾む。

「あーでもお前ら、忘れてねえよなあ、アレ。」

一人が皆に話すように言えば思い出したように「そうだった」と言い出す。

「アレって?」

「・・・・・・。」

岩を降りて隣に立っているマーシュの笑顔がどこかぎこちない。

「アリスが止めたんだからアリスに貰えばいいんじゃねーか?」

「アホか、ルールはルールだろ。ほらマーシュ、約束のアレをはやく皆にやらんか。お嬢ちゃんにもな。」

梟の男性と中年の男性が話している。今度ポケットの中に手を突っ込み何かを探した。その間皆からの視線を浴びながら辺りは静まりかえり、我慢できないアリスはそこらへんにいた人に聞いた。

「あのう・・・皆が言ってるアレって何ですか?」

「司会をつとめた者は走ったみんなにご褒美をやらなければならんのだ。」

そう聞くとアリスも皆と同じ方向を、見つめた。でも、彼女もみんなも概ね予想がつく。なんだか用意しているようには見えないからだ。

「あー・・・。」

しばらくしてマーシュは咳ばらいをしながら苦笑いを浮かべた。

「あれぇ~?お、おかしいなー・・・。確かポケットの中に入れてたんだけどなあ~・・・。」

するとアリス以外全員ががやがやと騒ぎ、遠巻きから見ていたフードの男性が周りを掻き退けマーシュの胸倉を掴んだ。

「おいてめぇ!どういうコトだよ!まさか途中で落としたってーんじゃねーだろうな!コレを楽しみにしてた奴もいるんだぞ!!!」

それが合図みたいに次々と怒号が沸く。アリスはあまりの勢いにもみくちゃにされぶつかったり動いたりで散々だった。この怒りはアリスに対するものではないのだが、さっきまで関係のないプロポーズまでされたのに!

「もっと早くに気づいてたんじゃないのか!」

「じゃあ一体どうするんだよ!」

「妹のお土産にしようと思ってたのに!」

と口々に言い収集がつかなくなる。おかしいと感づいていた。マシューがこのレースのルールを知っていたとして、集まってきた人数を後から把握したとして・・・最初からジーンズのポケットには、そんなにも何かが入っているようには見えなかった。つまり、用意してないにもかかわらずアリスをかばうために司会を名乗り出たのだ。中年の男性はマーシュからマイクを奪い取り、フードの男性を力付くで離した。

「まあ落ち着け!!」

しんとみんなは黙り込む。

「・・・おっさん・・・。」

驚くのはマシューもだった。制止に入ったのだ。のちの展開にわずかに期待したのだろう。

「こうなったら、「本人で」責任を取ってもらおうということでいいんじゃないか?」

「・・・・・・!?」

「・・・?」

マーシュが、それこそ猫とでくわした直後のような恐怖と驚きが混じった顔で引きつっていた。アリスの疑問を残したまま、話は続く。

「んでだな、ここはよそ者であるアリスからの意見も聞こうではないか。」

フードの男性も「・・・そうしようか」と引き下がった。この流れでいきなり名指しされてアリスは戸惑う。全員から意見を求められているのでこちらは助けを求めようもない。

「マーシュさん・・・私を助けてくれるために、きっとわざと名乗り出てくれたのね?私が何か持っていたら、みんなにあげてあなたも助けてあげられたのだけど。」

申し訳ない気持ちのアリス、そう、申し訳なさそうに俯く。そして。

「・・・私はどうしてあげられることもできない。どうしていいかわからないの。」

どうにも曖昧な返事にみんなは痺れを切らしてしまった。

「ああもういい!埒があかん!」

「そうだ!自分でやるっつったからには責任とってもらわんとなぁ!」

責任と聞いて、アリスは無理やり納得した。そう、自分を助けるためとはいえ・・・。後ろを振り返り、広場から去ろうとする。中年の男性が尋ねた。

「おや・・・お嬢ちゃんはいらないのかね?「ご褒美」。」

「・・・私は別にいらないわ。」

またも庇ってもらったのに、さらに搾取するだなんて、とてもできなかった。周りがとても賑やかだ。嫌な雑踏だった。ぎゅっと目を瞑って、再び開くと茂みと茂みの間を白い影が通りすぎた。

「・・・ウサギさんかも!!」

アリスの興味はそちらに向けられた。時折入り混じる声にマーシュの声も聞こえるが、なにを言っているかまではわからなかった。おそるおそる振り返りと人だかりができていてマーシュの姿は見えない。あの中でお説教でも受けいてる(と思うには無理のある光景だが)と、アリスは先程走ったばかりだというのに急いでウサギが見えた方向へ走っていった。

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