第96話 ――【俊兎無限刃】



「なんなのよ……これ……」


 すっかりと変わった周りの風景に、レティは固い声音で呟いた。


 青々とした立派な木々や、茂み。一見乱雑に見えるが、木々が程よい間隔を保ち、陽の光が差し込んでキラキラと輝く。


 なかなか見られない美しい森の中に、Sランク冒険者達は居た。普段ならば、この三人でさえこの美しさに浸って居たかもしれない。


 ――ここが、雪で包まれた極寒の地であると忘れていなければ。


 むぅ、と難しい顔でオリバーが言う。


「こりゃあ木の魔法か? アイツ、こんなことまで出来たのか」


「植物操作の一種だな。本来は作物の成長を促進させる……あるいは、既にある木々を操る。そういった魔法だが、何もないところからこれだけの木々を作り出すなんて話は聞いたことがない」


「あら、それじゃあ意外と凄いことなのね」


 ふぅんと感心した様子で、レティは森の観察を始めた。輝くような森の景色が目を楽しませ、吸い込む空気が胸に深く入り込んで、心地よい何かに満たされるような気がする。


 突然の変化に戸惑ったが、落ち着いて見ればなんとも気持ちの良い場所ではないか。恐れていたのも忘れ、レティはこの森を楽しみ始めていた。


 だが、【魔導師】であるエルネストは、この魔法の異様さに背筋を凍らせていた。


(植物の成育に向かない極寒の地で、木々を作る。それも、一つの森を作り出すほどの広範囲で。馬鹿な、どちらか一つだけでもあり得ん事象だぞ!!)


 その効果の程はともかく、これだけの魔法にかかるコストは相当なものだ。【永久氷狼コキュートスウルフ】の環境変化に近い力を使っているだろう。


 それをあのウサギが使えるということに、エルネストは驚きを隠せなかった。


(確かに驚かされた。あれだけの自信を持っていたことも頷ける。大したものだ、エドガーよ。まさかこんな魔法を隠し持っていたとはな。だが、なぜ今これを使った?)


 その魔法の凄まじさを認めつつも、エルネストはその意図が理解できなかった。


(森を作って、それで何をする? 森に身を隠しての不意打ちか? 確かにそれはお前の得意技だろうが、私達ならば対応出来ない程ではない。やり辛くはなったがその程度だ。

 これだけの力があるなら、戦闘で補助的に植物魔法を使ったほうがよっぽど効果がある。これではただの魔力の無駄遣いではないか)


 魔法の規模に比べ、あまりの無駄の多さにエルネストは困惑した。追い詰められて焦り、状況の判断を間違えたのかと疑う。


(……いや、アイツはそんな男ではない)


 一時期だけとはいえ、深い付き合いをしていたエルネストだからこそ、そう思う。


(どんな窮地に至ろうとも、僅かな勝機を辿り最後まで足掻く。アレはそういう奴だ。そんな奴が、破れかぶれに切り札に頼るといった真似をする訳が無い!)


 人格的にはどれだけ最低であろうとも。冒険者として、戦士としての実力を認めているからこそ、エルネストは警戒した。


 ただの美しい森。それだけの筈がない。


 ――この森には、まだ何かがある。


『ようこそ、【兎狩りの森】へ。どうだ、俺の作った森は? 少しはお気に召したかな?』


 森の中に、エドガーの声が木霊した。

 いつものように飄々とした声が、森中に響く。山彦のように反響し、どこから聞こえてくるのか分からない。


 まるで森の亡霊にでも話しかけられているようであった。しかし、ここにその程度で怖気付く者はいない。むしろ、聞き覚えのある声にホッとしながら、レティは陽気に森へ話しかける。


「あらエドガー、貴方もやっぱり居たのね? ええ、とっても素敵よ。凄いじゃない。貴方、こんなことも出来たのね」

『おお、喜んで頂けたなら幸いだ。俺も張り切った甲斐があるってもんだぜ』


「でも、こんな所に連れてきてもらって、お礼も言えないなんてなんだか心苦しいわ。ねぇ、隠れてないでちょっと出てきなさいよ。お礼にたっぷりと気持ちいいことをしてあげるから」

『そいつはそそられる提案だが、乗るわけにはいかねぇな。出てきた瞬間、鞭でしばかれるのはご遠慮願いたい』


 まぁそうよね、と。レティは内心で頷く。一応聞いてみたものの、もちろん素直に出てくるだろうとは思っていなかった。


 しかし、出てこないからこそこの森の目的が分かる。

 隠れて刺す。やはり、その為の森ということなのだろう。

 予想の域を出ていない。レティは自身の優位性が崩れていないことを確信し、ひっそりと笑う。


「そう、せっかくこんな綺麗な森に連れてきて貰ったのに、残念だわ。本当に素敵な場所で気に入ってるのに。ああでも、一つだけ気になるところがあるわね」

『ほう、なんだい? 言ってみな』


「この森の名前よ。あなた、【兎狩りの森】って言ったでしょう? この森は貴方の領域なのに、その名前じゃあまるで、貴方の方が狩られるみたいじゃない。もう少しマシな名前は考えられなかったの?」

「ガッハハハハハ! 言われて見ればそうだな! 自分がやられるような名前をつけてどうするんだ!」


 レティに同調し、オリバーも腹から笑った。

 しかし、エドガーは馬鹿にされているにも関わらず、それを面白がるような声で言う。


『いいや、間違ってねぇよ。この森は正しく【兎狩りの森】だ』

「……どういうことだ?」


『そのまんまの意味さ。唄を聴いていただろ? この森では、お前達は“狩人”。そして俺が“獲物”だ。お前達の体力が尽きる前に、俺を見つけて狩ることが出来るか? これはそういう勝負なのさ。ようはかくれんぼだよ、かくれんぼ。悪戯好きのウサギに、狩人は知恵比べで勝てるかな?』


 訝しむようなエルネストに、エドガーはからかうような口調でそう説明する。

 ウヒヒヒッ、と。人を小バカにするような笑い声が、森中に響いた。


 ふざけた口調だが、これで揺さぶられるほどエルネストは甘くない。逆に、挑発し返す。


「かくれんぼ、か。洒落た言い回しだが、結局のところ、お前がやろうとしているのは【暗殺者】の真似事だろうが。不意打ちであっさりとやられるほど、私達は甘くない」

『ありゃりゃ。確かにその通りだが、本質がまだ分かってねぇなぁ。まぁいい、なら、実際に体験して確かめてみな。この森の恐ろしさをたっぷりと教えてやるぜ』


 エドガーがそう言い終えた瞬間、シンッと、森が静まり返った。

 来る――と。明らかに変わった空気に、三人は背中合わせになって周りを警戒する。

 隙はない。どこから来ようが、問題なく打ち倒す。


 一心に集中していると、オリバーの正面の茂みがガサリと揺れ、エドガーが飛び出してきた。


「死ねよらぁあああああああああ!!!!」

「甘いわ!! 小動物風情が!!」


 これだけ有利なフィールドで、わざわざ正面から向かってきたエドガーに嘲笑うような感情を抱えつつ、オリバーはハリセンを振りかぶった。


「――素直かッ!!」

「うきゅん!?」


 ――スパアアアアアアアアアアアアン!


 森の中にハリセンの快音が響く。会心の一撃であることが十分に伝わるほどの音だった。


「んぁ? なにぃ?」

「ちょっと、もう終わり?」

「いや、いくらなんでもそれは……」


 あまりにもあっけない終わりに、攻撃を当てたオリバーは当然として、レティやエルネストもポカンとした顔を見せる。


 ここまで大掛かりな仕掛けをし、あれだけの大口を叩いておいて、一体何がしたかったのだと本気で困惑した。


 三人が不可解な状況に、混乱していた時だった。

 ハリセンで殴られ、地に這いつくばっていたエドガーが……ポンッと煙になって消えた。


「えっ? はぁ!? 何よそれ!?」

「まさか……【分身】か?」

「ああん? なんだそりゃ? つまり偽物ってこぼがぁ――!?」


 オリバーが話していた途中だった。

 いつの間に近寄っていたのか、消えた筈のエドガーがオリバーの横っ面目掛けて、打ち下ろすような角度でドロップキックを決めていた。


「こんっ、の……舐めるなああああ!」


 常人なら気絶していた一撃だが、オリバーにとって致命傷には程遠い。

 直ぐに体勢を立て直し、反動で宙に浮いているエドガーを狙い打った。


「オリバーストレート!」

「うぎゅんっ!?」


 スキルではない渾身の右ストレートが、エドガーの体に突き刺さる。

 今度こそもらったと、勝利を確信するオリバーだったが、またしてもエドガーはポンッと音を立て、その場から消えた。


「うぇええええ? なっ、なんでだよぉ? 俺の顔を蹴っ飛ばした奴を殴ったのに……」

「――馬鹿なっ! あり得ん!」


 エルネストの驚きは、ダメージを受けたオリバー以上に大きかった。

 それだけ、今の現象は魔法的にあり得ないことだった。


「実体を持つ【分身】だと!? いや、あるいは実体化させた【幻術】か? どちらにしても、適性のある【天職】持ちが、一生をかけてようやく習得できる技術だぞ! そんな物を、こうまであっさりと使えるなど……!」

「それが、この森の効果さ」


 ハッと、三人は後ろを振り返った。

 そこには、いつも通りのエドガーの飄々とした姿があった。


「この森に居る限り、俺は自分の【分身】を無限に作り出すことが出来る。そして、戦闘は【分身】に任せ、俺は森に隠れながら、【分身】に手こずるお前らの無様な姿を見て楽しむ。そういう力なんだよ、こいつは」

「無限だと……? そんな……いや、ハッタリだ!」


 実体を持つ【分身】を際限なく作り出すなど、魔法的に考えてあり得ないと、エルネストの冷静な部分が言っていた。

 それを成すのには、それこそ無限の魔力が必要になる。そんなもの【賢者】ですら不可能だ。


 しかし同時に、エルネストは一つの可能性に思い至る。

 無限に【分身】を作れる可能性は皆無だとしても、森に隠れる本体を倒すまでに、果たして自分達がもつのか?


 そして、これはありえないと分かってはいるが……。

 ハッタリではなく、本当に、無限に【分身】を作れるとしたら?


 ゾッと、エルネストの背筋に寒気が走った。

 自分達は今、恐ろしい場所に引きずり込まれてしまったのだ。


 ヒヒヒッ、と。嫌らしい笑みを浮かべ、エドガーは森の中へ帰っていこうとしていた。


「さてさて、”狩人”は”本体えもの”を狩ることが出来るかな?」

「舐めるなよ! 片っ端から叩いていきゃあいいだけの話だあ!」

「――ッ! オリバーッ! 待て!」


 ピョンピョンとのんびり森に姿を隠そうとするエドガーを、オリバーが必死の形相で追いかけ、一緒に消える。

 消えた二人を見て、エルネストは強く舌打ちした。


「馬鹿が! 自分から相手の思惑に乗ってどうする!」

「しまった。堂々と帰ろうとするものだから、返って体が動かなかったわ。今のが最後のチャンスだったかもしれないのに」


「いや、アレもおそらく【分身】だ。お前の鞭が間に合っても、何も変わらなかっただろう」

「……それもそうね。なんて厄介な能力なの。でも、拙いわね。このままだとオリバーは」


「まんまと釣りだされたな。戦力の分断を誘い、各個撃破が目的か。かといって、助けに入ろうと追いかけるのは相手の思う壺だ。レティ、挑発には乗るなよ。私達だけでも固まって、背を庇いあい――」


 ――ガサッ! ガサササッ!


 後ろから聞こえた茂みの音に、バッと二人は振り返る。しかしそこに現れたのは、エドガーを追いかけて消えた筈のオリバーだった。


 二人は目を丸くし、その場に固まった。そしてオリバーは、二人の姿を見て慌てて足を止める。


「おおおっ、とととっ! あん? なんだぁ? 戻って来ちまったのか?」

「オリバー、無事だったのね」


 驚いたレティだったが、怪我一つなく帰ってきたオリバーにほっと息を吐く。


「良かったわ。てっきり、もうとっくにやられているかと……」

「そう簡単に俺がやられるか! ただ、エドガーの野郎を追いかけたはいいが、すぐに見失っちまってよ。帰り道も分らんから、そのまま真っすぐ走ってたら運良く戻ってこれたんだ」


「そうなの。でもまぁ、やられずに済んで良かったじゃない。最悪は免れ――」

「待て」


 戦力が減らずに済んだと安心したレティだったが、エルネストの硬い声に緊張する。

 エルネストは、信じられないような目でオリバーを見ていた。


「真っすぐに走った、と言ったか? それなら、何故お前は後ろから現れた?」

「あっ……そ、そうよ。なんで真っすぐ走って後ろから出てくるの!?」

「そ、そんなこと言われてもよ分かんねぇよ。俺ぁただ、走ってただけだしよ」


 困惑顔で、オリバーは頭をかく。その顔を見る限り嘘を言っているようには見えない。というよりも、こんな状況でこの男が嘘を言う必要性がないし、そんな性格でもない。


 でも、どうして……と、考えていると、レティとエルネストはほぼ同時に目を瞠る。


「ちょ、ちょっと待って……まさかとは思うけど、この森……」

『気づいたか?』


 また、どこからかエドガーの声が聞こえてきた。

 困っている人を見て楽しんでいるような、そんな暗い愉悦の混じった声だった。


『案外鈍いな、お前ら。もうちょっと早くにでも気づくと思ったが』

「エドガーッ! では、やはり……!」

『そう、お前の思った通りさ』


 表情を歪ませるエルネストを見ているように、ケケケッとエドガーは嘲笑う。


『ちゃんと唄ってただろ? “手ぶらじゃお家に帰れない”ってよ。”狩人”であるお前らは、”獲物”である俺を仕留めない限り、この森からは出られない。出ようとしても、必ずここへ帰って来る。当たり前だよなぁ。お腹をすかせた子供が待ってるんだから』

「……嘘よ、偶然でしょ? そんな森、存在する訳が……」


『【迷いの森】は知っているよな? 

 俺達はついこの間、あそこの中に入って知ったんだけどよ。あの森は、森に入った者の方向感覚を狂わせる力がある。だが、この【兎狩りの森】は違う。

 方向感覚を狂わせるのではなく、外に出ようとした者の道を、今お前らが居る場所へと繋げるように出来ている。

【迷いの森】なら偶然外に出られることもあり得るが、この森ではそうはいかねぇ。俺を仕留めない限り、お前らは永遠にその森に閉じ込められる』


 それは、絶望的な情報だった。

 その意味を理解し、三人の顔色が更に悪くなっていく。


 ただでさえ森という見通しの悪い場所で。なおかつ、相手は【分身】を使い、こちらを攻撃してくる。

 そして肝心の本体は森に隠れたまま、一切外に出てくることはない。

 それなのに、その本体を倒さない限り、自分達はここから出ることは出来ない。


 これで、どうやって敵を倒せと言うのか?


 ――獣狩り、命を繋ぐ、狩人は。

 ――今日も今日とて、獲物求めて森を行く

 ――獲物なしには帰れない。手ぶらじゃおうちに帰れない。

 ――お腹を空かせた子供達。お家で父の帰り待つ。

 ――子供の喜ぶ顔の為。森をウロウロ彷徨い歩く。

 ――見つからないのに意地張って。森を延々、さまよい歩く。

 ――でもほら、よぉぉぉぉぉく、見てごらん?

 ――君の傍……ほら、すぐそこで。

 ――獣がクスクス笑ってる。

 ――茂みから、ヒョッコリ顔出して。

 ――獲物がクスクス、笑ってる。

 ――兎がクスクス、笑ってる。



 ただの童謡のような唄だと思っていた。

 ウサギである己自身にあやかった、変わった唄だと。


 しかしその唄が、この森の恐ろしさをそのまま教えてくれていた。

 変わった唄だと、聞き逃すべきではなかった。あの唄を歌い出した時、止めるべきだったのだ。


 童謡は、子供に聴かせて楽しませるためにある。しかしその実、面白おかしくしているだけで、元となった話が恐ろしい物もあると聞く。


 この唄は、まさにそれだ。


 エルネスト達はまさに、童話の世界に入り込んでしまったような恐怖を感じていた。


「……これが、一個人に出来る魔法だというのか?」


 ワナワナと震えながら、エルネストは呟いた。

 その震えは、この森への恐怖と、そして、これを作り出したエドガーへの嫉妬から来たものだった。


「こんな……こんなバカな話があるか! ただ森を作るだけなら、植物魔法の適正と、莫大な魔力があったという話で済む! しかし、これはその次元を超えている!

 実体を持つ【分身】を自由に作り出し、あまつさえ、相手に概念的なルールを強制させ閉じ込めるだと!? これはただの魔法というより、高度な結界……いや、それ以上のものだ! 

 これは……これは最早、異界の創造だ!」


 人の御業ではない。

 これは神の領域だ。

 そして、こんな物をただの人が作れるはずもない。


 これを作るには、それに相応するだけの何かを――

 憔悴した目で森を見つめ、エルネストは力なく呟いた。


「エドガー……お前は一体、何を……」

『ふん? お前が何に驚いているのかは分からんが、説明も済んだことだしそろそろいいか? さぁ、楽しい楽しいかくれんぼを始めようじゃないか』


「何がかくれんぼだ! ふざけやがって! こんなふざけたゲームがあるか!」

「まったくね! 見つかりっこないかくれんぼなんて、反則にも程があるわよ!」


 愉快そうなエドガーの声に、オリバーとレティが憤慨する。

 レティはピシッ! と鞭を鳴らし、エルネストに喝を入れた。


「エルネスト! いつもの貴方は何処にいったの! 腑抜けてる場合じゃないでしょ! さっさと立ち直りなさい! このままやられたいの!?」

「……ああ、そうだな」


 震え、怯えすら見せていたエルネストだったが、レティの檄を受け自分を取り戻した。

 チャキッと眼鏡をいじり、いつもの冷静な自分へと言い聞かせる。顔を上げ、真っすぐに森を見つめる。


「確かに反則的な能力だが、これだけの能力を支え続けられる訳がない。あの【分身】にしろ、この森の維持するにしろ、奴は力を消耗し続けているはずだ。

 耐えろ。耐え続ければ、この森もそのうち消える筈だ」


「根性勝負ってわけだな! よっしゃああ! やってやる!」

「そういうノリは好きじゃないけど、それしかないならやるしかないわね。伊達にSランク冒険者をやってるわけじゃないってところを見せてあげるわ!」


 オリバーはやる気満々でポーズを決め、レティはらしくもなく声を張り上げ、己を奮い立たせる。

 

 二人の姿勢を見て、これなら戦えるとエルネストは判断した。

 戦闘力だけではない。それに見合った精神力を備えてこそSランク冒険者だ。

 この二人と、そして自分が最後まで気力を失わなければ、この森を打ち破ることが出来る。


 まだ負けではない。自信を取り戻し、エルネストは魔力を練り上げ、二人の死角を埋めるように位置取りした。


 そのエルネストの正面の茂みから、ひょっこりと、黒いウサギが頭を出した。


「――ッ! 気を付けろ! 【魔獣化】した奴が混じっている!」

「なにぃ!? そりゃズルいだろちくしょう!」

「まさか、そいつも【分身】じゃないでしょうね!?」


 あり得る、と。レティの言葉にエルネストも同意した。

 ただでさえ不利な状況に、【魔獣化】した奴まで混じっているのだとしたら、反則すぎる。

 

 だが、ここで文句を言っても変わらない。こういうものだと受け入れるしかない。

【魔獣化】とはいえ、この三人であれば防げないことはない。耐えて、耐えて、耐え続けて。その時が来たら、この苛立ちを百倍にして返せばいいだけだ。

 

 己を奮起させながら、エルネストは黒いウサギを睨みつける。来るなら来いと、迎撃する準備を整えた。

 万全の態勢を作ったエルネストだが、その気合が呆気なく崩れさった。


 エルネストの視界の端に――白いウサギが混じっていた。


「……はぁ?」


 状況も忘れ、エルネストは間の抜けた声を上げた。

 しかし、それも無理もない。ただでさえ、【分身】を相手にするだけでも神経をすり減らすというのに。


 同時に、二匹目のウサギが現れたのだから。


「……ねぇ、ちょっと。待ちなさいよ……嘘でしょ……?」

「おい、何の冗談だこりゃ……」


 レティとオリバーの引き攣った声で、エルネストは自分の見込みが甘いことを知った。

 バッと。正面に居る黒いウサギから目を離し、周りを見回した。

 

 そこには、信じられないような光景が広がっていた。


「……勘弁してくれ」


 いつもの口調が崩れた、ぼやきのような声だった。

 ズルリ、と。理不尽な事態に、肩を落とす。

 それほど、現実から目を背けたくなるような景色だった。


 茂みの中に。木の枝の上に。すぐ傍の地面に。大きな岩の上に。

 あらゆる場所に、ウサギが居た。


 黒色の。白色の。黄色の。緑色の。青色の。赤色の。橙色の。桃色の。紫色の。茶色の。灰色の。空色の。金色の。銀色の。


 ありとあらゆる、色とりどりのウサギたちが、円らな瞳でエルネスト達を見つめていた。


『あ〜、なんか勘違いしているみたいだけどよ』


 呆れたようなエドガーの声が、聞こえてきた。


『【分身】が一体しか出せないとか、一言も言ってねぇから』

「エドガー……! 貴様は、一体どこまで……!」


『はははっ、どこまで強くなるのかってか? そんなの決まってる。意地でも負けられねぇ戦いなら、俺はどこまでも強くなるさ! 今、この瞬間にもな!』


 クハハハハ! と、勝ち誇った笑い声が森に木霊した。

 クスクスと面白がりながら、エルネスト達の周りを囲むウサギ達がジリジリと距離を狭めてくる。


『さぁて、覚悟はいいかな? 囲んでフルボッコの時間だおっ! 正々堂々とは程遠いが、俺の【分身】な訳だから、実質は三対一の戦いだ。まさか卑怯とは言うまいね?』


「どの口がほざくか! これを卑怯と呼ばずなんと……くっ!」


 周りのウサギ達を警戒しながら、エルネストは手に炎を纏わせた。

 そんなエルネストに、親身な声でエドガーは話しかける。


『ああ〜、忠告するが、火だけは使わない方がいいぞ? 絶対に後悔するからよ。というか、こんな森の中で火を使うなんて、死ぬ気か?』

「ぬぐっ……!」


 もっともな言い分に、エルネストは苦々しい顔をしながら火を納めた。

 自分が役立たずと化されている屈辱に、ギリギリと歯を鳴らす。

 そんなエルネストの悔しげな様子に、エドガーは楽しげな声を出した。


『ニョホホホホ! いいねいいね、その顔が見たかったのだよ! さて、楽しませてもらったお礼だ。たっぷりと痛みをくれてやるぜ!』

「このっ……舐めんじゃないわよ!」


 レティは激昂し、パシンッ、と鞭で地を叩く。

 包囲網を狭めてくるウサギ達を見回し、レティは高々と鞭を振り上げた。


「ようは【分身】だろうが本体だろうが、全部纏めて引っ叩いてあげればいいだけのことでしょう! 私なら、それが出来る!」


 ――ヒュパヒュパヒュパヒュパヒュパヒュパヒュパヒュパヒュパヒュパヒュパン!


 鞭が風を斬る音が止まない。恐るべきことに、全方位に居る数えきれない程のウサギ達を、レティは近づいた者から片っ端から迎撃していった。


 鞭の性能だけではない、レティの技があってこその超絶技巧。だがそれでも、当たって次々と煙になっていくウサギを目にして、レティの表情が苦々しいものになっていく。


「うきゅん!?」「うきゃん!?」「うひゃん!?」「うひょん!?」「ぴきゅう!?」「ぴゃん!?」「うひょん!?」「うぴゃん!?」「ゲフォァアアア!?」「うきょん!?」「うにゅう!?」「うにゃん!?」


「ハァ、ハァ、ハァ! もうっ、キリがない! …………あら?」


「居たぁああああああ!? そいつだ! そいつが本体だ!」

「逃すな! 確実に殺せ!」


「はわっ、はわわわわっ……!」


 あせあせと慌てながら逃げるエドガーに、レティは鞭を振ろうとする。が、間一髪で間に合わず、また森の中へ姿を消されてしまう。


 千載一遇の好機を逃し、レティが悔しげに震えていると、森の中から焦ったような声が聞こえてきた。


『や、やるじゃねぇかっ。まさかあの状況で本体を探り当てるとは思ってもみなかったぜ。お前らの実力は十分知っているつもりだったが、どうやら俺の見積もりが甘かったらしい』


 レティの実力というよりも、明らかな油断ではあったが……どちらにせよ、機を失ったのは変わりない。

 絶好の機会を逃し、三人は苦々しい表情をする。しかし同時に、希望も見えたことも確かだった。こうやって本体を叩くことさえ出来れば、勝利を得る可能性もあるのだから。


 しかし……。


 勝てるかも、という希望を残したままにするほど、エドガーも甘くなかった。


『やっぱり油断はいけねぇな。勝ったと思った直後が一番危ねぇ。光栄に思え。ここからは一切の油断なく、全力で仕留めに掛かるぜ』


”獲物”と”狩人”。その立場のまま、状況が逆転した時だった。


 エドガーの遊びのない声に、三人は強張った顔を見せる。


『たまにはふざけた技ばかりじゃなく、真面目な技も見せてやらねぇとな。無限のウサギによる、目にも留まらぬ刃を受けてみろ。これこそ、エドガー様必殺の超絶奥義――』


 森が、ざわめいた。

 森の陰から、数えきれぬほどのウサギの瞳が、三人を覗いていた。

 ゾワリと、三人の背中に寒気が走る。


 ――そして、エドガーは技を放った。


『――【俊兎無限刃】!』


 森から、様々の色のウサギが飛び出してきた。

 単純なこの数だけでも、対処するには困難だ。そのウサギ一匹一匹が、エドガーの最高速度を持って殺到してくる。


「くっ、このっ……!」


 咄嗟にレティが鞭を振るも、この数と速さの前では意味をなさない。最前列に居たウサギを数匹消したものの、焼け石に水といった有様だった。


「――ッ! 狙いは俺かあああああああ!」


 そのウサギたちが、オリバーただ一人へと殺到した。

 油断なく一人ずつ仕留める気なのだと、三人は同時に悟る。この数を持って、ただ一人を集中して攻撃されては、誰であろうと防ぐことは叶うまい。


 ――だが、この男に限っては話が別だった。


「甘いわぁああああ! 【フロント・ダブル・バイセップスゥウウウウウウウ】!」


 踵を地面にしっかりと付け、つま先はやや外側に。両腕を上に上げ、拳を内側に曲げる、上腕二頭筋を見せつけるポーズ。


 やるならかかってこい。俺は逃げも隠れもしない。そう言わんばかりのポーズを作ったオリバーに、ウサギの剣が襲いかかる。


 ――キィイイン、キンッ、ガキンッ、バキ、ギャイン、キィイン、ガキィイン!


 無限の数のウサギが、全方位からすれ違いざまに剣でオリバーを斬り続ける。しかし、不快な金属音を響かせるだけで、オリバーは怯みもしなかった。


(──勝てる!)


 全身で剣を受けながら、オリバーは勝利を確信した。


(他の者には、この技を破るのは不可能かもしれん。だが、俺なら勝てる!)


 無限の物量。確かに脅威だ。

 目にも留まらぬ速さの斬撃。確かに恐ろしい。

 しかしそれらは全て、オリバーの身体の前には無に等しい!


 今も斬撃を受け続けながら、オリバーは深い笑みを浮かべた。


「エドガーよ! お前では俺には勝てん! 無駄な足掻きはせずに、堂々とここに姿を見せい!」

『そいつはどうかな?』


 それは、気軽な声だった。

 まったく問題にしていないような、いつでも破れると言わんばかりの、そんな声だった。


『確かに、お前の防御力は常軌を逸している。この俺でさえ、通常ならば手をこまねいているしか無い程にな。反則的なまでの力だが、しかし、弱点が無い訳じゃねぇ』

「弱点だとぉ?」


 その言葉に、オリバーは怪訝な表情を浮かべた。

 今まで幾度となく、大口を叩いてきた連中をこの身体で防ぎきってきた。そんな物、どこにも有りはしない。打撃、斬撃問わず、全ての直接攻撃を跳ね返す無敵の盾。それがオリバーという男だ。


「ふん、下らぬことを! そんな物、どこにも有りはしない!」


『いいや、あるぜ。お前は自分の能力と肉体に自信を持ちすぎている。故に、気づかない。いや、気づかないフリをしているのかな? 

 まぁどちらでもいいさ。たった一度だけの奇襲だが、お前を確実に倒す事が出来る手段がある。一度しか使えない手だから、俺は今までお前から逃げ回っていたが……今この瞬間が、その手を使う時だ!』


 なんだ……と、オリバーの顔に焦りが浮かんだ。

 そんなオリバーを嘲笑うように、エドガーは言う。


『なに、そう難しいことではない。むしろ、戦いの基本中の基本だ。お前の【ポージング】で強化されるのは、あくまでその筋肉のみ。ならば、もっとも薄いところを攻撃すればいいだけの話だ』


 エドガーの言葉を聞いた時、オリバーよりも早く、ハッとエルネストが気づいた。

 外側から見ていたからこそ、そして同じ男だからこそ、気づけた。


 今のオリバーが、どれだけ危険な状況なのかを。


「オリバー! だ!」

「なにぃ!?」


 その声に引かれ、オリバーはポーズをそのままに目を下に向ける。

【ポージング】への信頼が……過信があった故の、不動という選択肢だった。

 しかしそれはこの場に置いて、最悪の選択だった。


 ちょこんっ、と。

 一匹のウサギが、オリバーのに居た。

 ……オリバーの、に、居た。


 ぬぐぅっ、と。オリバーは呻き声を上げる。しかし、もう遅い。

 ギラリと、ウサギの目が鋭く光った。


「――【エドガーロケット】!」


 ミシミシと、筋肉が音を立てる。限界まで溜め込んだ力を解放し、その強靭なバネを持ってエドガーは真上に跳んだ。


 ドンッ、と。あまりに強い踏み込みで地面が陥没する。その分、恐るべき速度を持って、エドガーの姿が霞んだ。


 その先にあったのは、オリバーの発達した大腿筋だった。ちょうどその間に、エドガーの頭がすっぽりハマり、肩が引っかかる。そのままなら落ちて終わりだったが、エドガーはそこからさらに、体を捻った。


「――ォォォオオオオオオオオオオオ!」


 消えたかと思うほどの速度に捻りを加えた動きは、恐るべき貫通力を生み出した。ゴリィイイ! と筋肉の壁を強引にこじ開け、そのまま進み続ける。


 そして。

 そして……!


 ――ゴチーーーーーーーーン!


「はぐわぁ……!?!?!?!?!?!?!?!?」


 オリバーはドサリとその場に崩れ落ちた。

 手を股間に当て、顔は地面に。内股になり、尻を高々と上げる。あまりの激痛に白目を向き、口からはダラダラと涎が垂れ、あがあがと声を漏らす。


 ……男が一番受けたくない、急所への的確な攻撃だった。


 それを見ていたエルネストは、顔が真っ青に染まった。


「エドガー……! 貴様、なんという……それだけはやってはならぬ禁じ手でろうが!」

「戦いの最中にそんなこと言ってられるか。甘えんじゃねぇよ」

「貴様……よもやそこまで……!?」


 知っていたはずなのに、エルネストは自分の考えが甘かったことを悟った。

 人の痛みが分からない、悪魔より悪魔らしいウサギ。それがエドガーという男だったのだ。


「うへぇ……なんか変な感触がした。気持ち悪りぃ……」

「――ッ! 待ちなさいッ!」


 げんなりした顔で森へ戻ろうとするエドガーに、レティが鞭を振るう。しかし、【分身】がエドガーの盾になるように鞭を受け止め、エドガー本体はピョンピョンと気軽に森に帰った。


 ギリギリと歯ぎしりして、レティは苛立ちの声を上げる。


「あの毛玉! どこまでも人を小馬鹿にして! オリバー、だらしないわよ! それくらいでいつまで寝ているの!? 根性見せなさい!」

「止めろぉ! 奴はもう限界だ! 下手をすれば二度と立たん! これ以上無理はさせるな!」

「はぁ? 何を大袈裟な……わ、分かったわよ。分かったからそんなに睨まないでちょうだい」


 情けない物を見るような目をしたレティだったが、エルネストに殺気混じりに睨まれ、おずおずと態度を変える。

 女には決しては分かることのない、男の悲哀がそこにあった。


『さぁて。一番厄介な奴は消えたことだし、どんどん行こうか。次はお前だ、この年増女』

「誰が年増よ! ぶっ殺すわよ!」

『殺すだぁ? はっ、そいつは俺の台詞だぜ。よくも俺にアヘ顔を晒すなんて恥を掻かせてくれやがったな。お前だけは絶対に許さねぇ。目には目を、歯には歯を。テメェには俺と同じ苦しみを味わってもらおう』


 異様な殺気が、森中に広がっていく。

 それに怯みながら、レティは聞き返した。


「な、なによ……アンタ、何をするつもりなの……?」

『知れたこと。お前には相応しい辱めを受けてもらう』

「辱め……? な、なに……やめて……!」


 自分の体を抱き締めるようにして、レティは後ずさる。

 しかし、それでエドガーが手心を加える筈もない。


『さぁ、食らいやがれ。今、必殺の変形奥義――【俊兎無限刃(淫)】!』

「(淫)って何……き、きゃああああああああああ!」


 様々なウサギが、無手でレティに向かって襲い掛かった。

 恐怖に染まりながらも、レティは鞭を振るって迎撃する。しかし、圧倒的物量の前には何の意味もなさない。一匹が鞭を潜り抜け、それに続き、次々とレティに辿りついた。


「ちょ!? や、やめ! 待ちなさい! やめっ……やめてったら! そ、そこは!? やっ、駄目! だめぇええええええええええええええ! ――――ぁん!」


 ――サワサワ! モミモミ! チュプチュプ! レロレロ! ジュルルルル! チュパチュパ! モギュモギュ! スリスリ! クチュクチュ! 


 なにやら怪しいリップ音が、ウサギ囲まれたレティから聞こえてくる。最初は抵抗する声が聞こえた物の、大量のウサギに飲み込まれ、レティの声は全く届かなくなった。


 フラリ、とレティはその場に倒れた。レティが横たわると、集っていたウサギ達が次々に離れ、森へと帰っていく。

 その中に混じったやけに艶々とした白いウサギが、だらしない顔をしながら呟いた。


「いや~。役得役得。これだから戦いは止められない」

「……ッ! 待て! エドガー!」


 エルネストが止めようとするも、エドガーは聞こえなかったかのように森へと消える。

 ぬぅっ、と苦々しげな表情をしたエルネストは、すぐにレティを伺った。


 残されたレティの姿は、無残な物だった。


 口端から涎を垂らし、半笑いを浮かべている。目は何処か遠くを見ているように夢心地でありながら、ツーっと涙が流れていた。肌のあちこちに、舐められた跡や、吸われた跡が残っている。服は乱れに乱れ、布切れで局部がかろうじて隠れている、というあられもない恰好であった。


 完全に事後だった。強姦に合った、と言われても信じるだろう。

 というか、ほぼその通りなのだが。


 あまりの惨い姿に、エルネストは言葉も出なかった。くっ、と。苦し気にレティから目を逸らす。女子としてあってはならない姿であった。女子というほど若くないとはいえ。


『さて、あとはお前だけだな』

「エドガー……ッ!」


 憎々し気に、エルネストは森を睨み付ける。

 しかし、エドガーの声は愉快そうに弾んでいた。


『そんな怖い目をしても無駄だぜ。今のお前は役立たずも同然。どんなに足掻こうとも、結果は同じだ。だがまぁ安心しろ。昔のよしみだ。命だけは助けてやるさ』

「……勝ったと思うにはまだ早い。私を舐めるなよ、エドガー!」


 エルネストが狂笑を浮かべると、ゴウッと炎が身を纏うように発生する。

 それを見たのか、森に響く声は、意外そうな感情が込められていた。


『あれま。そういう選択をしちゃう? 忠告はしたはずだぜ? 火は使わない方がいいってよ』

「ああ。確かに、半端に火を使い火事を起こせば、私達が危険に陥るだろう。だが、それならばこの森を丸ごと、跡形もなく燃やし尽くせばいいだけのことだ。私ならばそれが出来る! 

 隠れる場所が無くなれば、貴様も何も出来まい!」


『ああ〜、そっちの方向に思い切っちゃったか。まぁ、考え方としては間違ってねぇけどな。でも、やっぱり火は止めた方がいいと思うぞ? 絶対に後悔するから』

「くっ、くくく! なんだ、そんなに怖いのか? まるで火を使って欲しくないように見えるぞ? やはり、忠告というのは弱点を隠す為の誘導だったか。まんまと貴様の口車に乗せられた訳だ」


『いや、完全に善意の忠告だったんだが……まぁべつにいいよ。信じないなら信じないでも。手間が省けるからな』

「ふん。仮に罠があるとしても、このまま座して死ぬよりはよっぽどマシだ。エドガーよ、我が炎を持って、この戦いの終焉とさせてもらう!」


 倒れたオリバーとレティ、そしてエルネストの外側に炎が走り、円を作る。そして、その炎は放射状に広がり森を燃やした。


 緑豊かだった美しい森が、赤く染まり、禍々しいものへと変貌する。黒い煙が辺りに立ちこもり、パチパチと枝が弾ける音が聞こえてくる。


「クッ……ハハハハハ! どうだ、エドガー! 私の勝ちだ!」


 自らの炎が森を破壊していく様に、エルネストは狂ったように笑った。

 恍惚とした様子で、燃えて灰になっていく木々を見る。

 しかし、その陶酔の時間は程なくして終わりを迎えた。


「……バカな……どういうことだ……?」


 信じられないとばかりに、エルネストは呟いた。

 盛大な勢いで燃え盛っていた炎が、エルネストの意思に反し消火していく。


 燃えて灰と化した木々が、みるみるうちに成長し、その生命力を取り戻してく。

 数十秒もするうちに、森は元の美しさを取り戻していた。


「そんな……あり得ない! この私の炎で……なんで……!?」

『説明してやっただろ? この森から抜け出すには、本体である俺を倒すしか方法はねぇよ。森を壊そうが、直ぐに再生して元通りさ。しかも、よりにもよって、お前は一番やっちゃいけねぇことをやっちまった』


 ヒクリ、とエルネストは口元を引攣らせる。

 まだ何かあるのかと、その表情が恐怖に染まる。

 同情するようなエドガーの声が、聞こえてきた。


『散々忠告してやったのにな。火は使うなってよ。

 言っただろう? 俺は“獲物”。そして、お前達は“狩人”だ。森の恵みで生きる狩人が、自分で火を付けてどうするんだよ。そんな愚か者を許すほど、森は甘くない。

 ――さぁ、森の神様がお怒りだ!』


 ――ザワリ、と。

 森が、動き出した。


 木の根がギュルギュルと伸び、宙を踊る。枝が更に増え、怪しく波を打つ。

 まるで木が意思を持っているかのような動きに、エルネストは表情を引き攣らせた。


「何が……どうなって……エドガー、貴様は何を……!」

『決まってるだろ。森を荒らす者へのペナルティさ!』

「うっ……うぉおおあああああああああああああああああああ!?」


 木の根や枝が鞭のようにしなり、エルネストの体を打擲する。空へかち上げられたエルネストを、更に追い討ちし、痛みつける。


 全身を打たれ続けたエルネストは、最後にひときわ強く打たれ、地面へ叩き落とされた。

 体に走る痛みに意識が飛びそうになる。だが、エルネストは気力を保ち、なんとか立ち上がろうともがき続けた。


『ほう? まだ動けるか。モヤシのくせに、あれだけ殴られて足掻こうとするとは、大したもんだ。痛くて痛くてしょうがないだろうに』

「ぐっ……ああ、その通りだ……あまりの痛みに、今にも眠ってしまいたくなる。だが、たとえどれだけ傷つけられようとも……貴様にだけは負けられんのだ……!」


 憎しみを燃やし、己を奮い立たせる。

 ギリィ、と強く歯を食いしばり、地に爪を立てた。


「他の誰に負けたとしても……私の夢を……! 【炎帝の叡智】を燃やした貴様にだけは……絶対に負けられないのだ……! たとえこの身が砕けようとも……貴様だけは……貴様にだけはぁああああああ!」


 エルネストは、なんとか体を起こし膝立ちになった。

 憎しみの炎を胸に灯し、前を向く。

 そこには、白いウサギが悲しそうな顔で立っていた。


「……そうか。俺のやったことは、そこまでお前を追い込んでいたんだな」

「なんだその顔は? 何を今更! 反省しても、もう遅い! 貴様が何を言おうと、私の宝はもう戻ってこない!」


 エドガーの沈痛な顔は、エルネストを更に苛立たせるだけだった。 より強い増悪で、エドガーを射殺さんばかりに睨みつける。

 エドガーはそれを正面から受け止め、ゆっくりと瞳を閉じると、淡々とした口調で話し出す。


「【炎帝の叡智】。その名を冠するだけあって、あれは炎を操る極意が書かれた、まさしく破壊の書とでも言うべきものだった。火属性魔法の効率的な魔力運用、火力の上昇、単純な魔法性能の向上という点だけでも、現代の魔法常識を覆すとんでもない代物だった」

「なんだ急に……いや、待て。それよりも貴様、アレを読んでいたのか!? そこまで理解しておきながら、貴様は――」


「だが、あの本に書かれた奥義に比べれば、それらはオマケのようなものだった」


 続けられたエドガーの言葉に、エルネストは唖然とした。

 驚くエルネストを見ながら、エドガーは続ける。


「”熱核反応”による、大規模火属性破壊魔法。その破壊力は国を滅ぼし……規模によっては、この惑星すら破壊の対象になる、悪夢のような魔法だ。とてもではないが、人の手に負える物ではない」

「ねつ、かく……? 国に……惑星だと……待て、待ってくれ! お前は一体何を……」


「だが、俺がいくら言ったとしても、お前が研究を止めることはなかっただろう。

 炎の魔法に情熱を燃やすお前が、あんな物を前にして、止められるはずもない。

 そして運の悪いことに、お前にはアレを発動させてしまうだけの才能があった。

 だが、その恐ろしさをお前は知らない。好奇心のままに魔法を使い、そして、取り返しのつかない事態になることが目に見えていた」


 ――その先にあるのは、滅びだ。


 エドガーは、消え入るような声でそう言った。


「お前の夢、理想は理解していた。だが、失敗すれば、お前だけではなく、多くの命が犠牲になる。それを知った以上、そのままにしておくことは出来なかった。

 そして、なにより……友を失いたくはなかった。たとえ、それで俺が恨まれたとしても」

「エドガー……お前……」


 聞いたことのない言葉に、理解が及ばない所があった。

 何を馬鹿なと、あまりの荒唐無稽さに、鼻で笑い飛ばしたくなるような所もある。

 しかしエルネストは、それらがどうでもよくなるような、ある思いにとらわれていた。


 間抜けな理由で、命よりも大事な秘宝を失われたのだと、思っていた。

 何があろうとも、絶対に許せないと、そう思っていた。

 だが、信じられないことではあるが、それは全部嘘で……本当は……!


「まさか……全部、私の為だったのか……」

「…………」


 エドガーは、困ったような顔を見せた。

 エルネストの瞳に、熱いものが溢れかける。

 二人の目が合う。エルネストは言葉以上に、何かが通じ合ったような気がした。


 エドガーはほんの少しだけうつむき、顔を上げると、ニッコリと満面の笑みを浮かべた。


「もちろん――――嘘だよ♥」

「…………エェェェエドガァアアアアアアアアアアアアア!!!!!!」


 血の涙を流さんばかりに、エルネストは叫んだ。

 底知れない憎悪が、悪魔のような形相に変える。

 エドガーは全く意に返さず、粛々と処刑を始めた。


「貴様には剣を使うまでもない。喰らえ、これが必殺の――【俊兎無尽拳】!」


 森の至る所で、ギラリと獣の目が光った。

 あちこちからウサギが飛び出し、エルネストに襲いかかる。

 そして、原始的な暴力が振るわれた。


 ――バキッ、ボコ、ボカ、ドゴォ、ゲシィ、グシャ、グチャ、バコン、ドカッ!


 拳が、蹴りが。エルネストを痛めつけていく。

 無情なまでの処刑リンチに、エルネストは悲鳴を上げる暇もなかった。


 しばらくして、一斉にウサギが煙になって消える。

 残されたエルネストは、顔のあちこちが蜂に刺されたように腫れ上がっていた。メガネにはヒビが入り、目元に青あざを作り、ピクピクと震えて気を失っている。


 サァッと、風に流されるようにして森が消えていく。

 数秒と経たないうちに、まるで夢だったかのように、元の雪原へと姿を変えた。


 エドガーの森から外されていたのか、伏していたコキュートスウルフが、ズタボロになっている三人を見て目をパチクリとさせる。


 そんな間抜けな姿に、エドガーは忍び笑いを漏らして言った。


「よう。お前の大事な宝を壊そうとする馬鹿どもは、しっかりとシメおいてやったぜ」

『…………ウォン!』


礼を言うように、コキュートスウルフが吠える。

エドガーはそれに小さく笑い、横たわった三人を冷たい目で見下ろした。


「誰かの大事な物に手を出したらどうなるか。身を持って知っただろう。しばらくそこで反省してろ」


 Sランク冒険者。人類の頂点に立つ実力者、三人を相手に。


 ――エドガーは、圧倒的な勝利を納めた。




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