切所

「――っっっ!!!」


 鋭く繰り出される水かき付きの爪を、かわす! 躱す! 躱す!

 鼻先で唸る風切り音は、死を運ぶ音!

 毛一筋ほどの傷を負わされても麻痺パラライズしてしまえば、そこでわたしの冒険は終わってしまいます!

 呼気を漏らす余裕すらなく、ひたすらに “深きものディープワン” の動きを注視して、躱し、あるいは盾で防ぎます!


「くっ!」


 回避したかぎ爪に合わせて、魔法の戦棍メイスを振り抜きます!

 易々と飛び退き距離を取る “深きもの” !


「――はぁ、はぁ、はぁ!」


 近接戦闘能力――いえ、身体能力では向こうが上手のようです。

 わたしとて熟練者マスタークラス目前なのですが、後衛職の中で最も肉弾戦に適している聖職者よりも、さらに俊敏な動きです。


(加護さえ嘆願できれば……!)


 しかしそれこそ “深きもの” の思う壺でした。

 どんなに初歩の加護でも、祝詞しゅくしを唱えれば必ず隙ができます。

 援護カバーしてくれる仲間がいなければ、死を招く行為にしかなりません。


(冷静に……冷静に……焦ってはいけません)


 フッ、フッ、フッ、フッ――と短く浅い呼吸を繰り返して、身体の中の汚れた空気を入れ替えます。


(冷静でいる限り、“悪巧み” という名の資源リソースは無限です)


 この窮地を脱するには “悪巧み” が必要です。

 悪巧みには閃きスパークが必要であり、それには情報が必要です。

 そして情報を得るためには観察が必要です。


(だから――見ます!)


 わたしは見ました。

 対峙する異形の海人を。

 赤い緞帳どんちょうに覆われた玄室を。

 意識を危険な敵に向けたまま、見るとはなしに観察しました。


 わたしの右手、約五メートルを離れて、オウンさんが倒れていました。

 麻痺しているため全身が弛緩し、不自然な恰好で床に伏しています。

 痛覚が麻痺しているので、苦しくはないはずですが……。


 その時、こちらを向いているオウンさんの大きな瞳が、視界の端に映りました。

 何かを訴えかけているようにも見える、つぶらな単眼。


(なんです、オウンさん? 何を伝えたいのです?)


 さあ、来ました。

 ここがおそらく、今回の生き死にの切所せっしょです。


 勝つか負けるか。

 生きるか死ぬか。


 ここでの判断が、そのわかれ目です。

 そしてわたしは現在得ている情報から、生き残るための最適解を導き出しました。


 わたしはジリジリと移動し、倒れているオウンさんを背にかばって、“深きもの” との間に割って立ちました。

 オウンさんをに取られるわけにはいかなかったからです。

 もしオウンさんの無防備な心臓に爪を突き付けられて降伏を迫られては、わたしには為す術がありません。


 “深きもの” のガラス玉のような魚眼が、無機質にくりくりと蠢きます。

 オウンさんをかばったわたしの意図を、察しかねているようです。


(位置取り、位置取りがなによりも肝要です!)


 少しでも位置取りを誤れば、たとえ生き残れたとしても意味のない勝利にしかなりません。

 そんな勝利は望むところではないのです。


 オウンさんをかばったわたしを見て、退路を失ったと思ったのでしょう。

 “深きもの” が、ジリジリと間合いを詰めてきました。

 一歩ごとに濃度を増す、生臭さ。

 顔しかめる臭気に押されるように、後ずさります。


 一歩……二歩……三歩……ドンッ、


 わずか三歩下がったところで、わたしの背中はオウンさんにに触れてしまいました。


 ――バッ!


 その隙を見逃すことなく “深きもの” が跳躍し、鋭いかぎ爪の貫手をわたし目掛けて繰り出しました。

 “これある” を予期していたわたしは、必死に身体をよじります。


(――ごめんなさい、オウンさん!)


 勢いを持ったかぎ爪が顔の間際を通過し、オウンさんの上腕に深々と突き刺さりました。

 分厚い筋繊維に覆われた巨人の腕です。

 通常ならここまで深く刺さりはしないでしょう。

 ですが今は違います。

 強力な筋弛緩剤を注射されたように、今のオウンさんの筋肉はです。


 自らの腕が肘の先までオウンさんに埋まった意味を悟ったとき、“深きもの” の無機質な魚眼に、初めて狼狽の色が浮かびました。

 異形の海人が腕を引き抜くよりも速く。

 自由になる反対の手を振り回すよりも速く。

 渾身の力で振り下ろしたわたしの戦棍メイスが、ヌメヌメとした黒光りする鱗に覆われた脳天を粉砕していました。


 一撃! 二撃! 三撃!


 完全に息の根が止まるまで、追撃を続けます。

 頭部が原型を留めないほど潰れてから、わたしは戦棍を振るう手を止めました。

 わたしは顔にベッタリと付いた海人の返り血を、僧衣の袖で拭いました。

 生臭さはまさにピークでしたが、気にしてなどいられません。


「オウンさん!」


 わたしは戦棍を放り出すと、振り返ってオウンさんの傷を確認しました。

 位置取りは間違っていなかったはず。

 痛みもなく致命傷には遠く及ばなかったはず。

 でももし動脈に刺さってしまっていたら。


「慈母なる女神 “ニルダニス” よ――!」


 わたしは血が噴きこ零れる傷口に両手を押し当て、立て続けに二度 “大癒グレイト・キュア” の加護を嘆願しました。

 出血が止まり傷口が消えたのを確認してから、さらに “痺治キュア・パラライズ” を施します。


「オウンさん、大丈夫――きゃっ!!?」


 わたしが容態を確認するよりも先に、オウンさんの大きな両手がわたしを抱えあげました。


「オウンッ!!! オウンッ!!!」


 大きなつぶらなひとつ目に、喜びの色を湛えて、オウンさんが勝利のストンプを踏みます。


「きゃっ!!? きゃっ!!? きゃっ!!?」


 大丈夫なのですね!? 大丈夫なのですよね!?


「オウンッ!!!」


 オウンさんにうなずかれ、今度はわたしの身体がぐにゃぐにゃに弛緩しました。

 糸の切れた操り人形のようになったわたしを、オウンさんが優しく床に下ろします。


「ごめんなさい……あれしか思い浮かばなかったのです」


 肉を斬らせて骨を断つ、咄嗟の判断でした。

 しかも斬らせる肉はわたしのものではなく、オウンさんのものだったのです。

 一瞬のアイコンタクトだけで、確認する余裕はありませんでした。

 もしあの時のオウンさんの意図が、別にあったとするなら……。


 謝罪するわたしの頭に、オウンさんの太くたくましい人差し指の先が触れました。

 大きなひとつ目が、優しくつぶられ、再び開きます。


『気にするな、上出来だよ』


 そんな言葉が聞こえた気がして、わたしの顔がようやくほころびました。


「ォゥン?」


 と、わたしの頭からオウンさんの人差し指が離れ、“深きもの” の死骸を指さしました。

 注意深く見てみると “深きもの” の黒い血だまりに、何かが転がっています。


 拾い上げて泉の水で清めてみると……それは不気味な笑みを浮かべた “悪魔の石像” でした。



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