父と母と、その娘
奥様が亡くなられたのは、それから三日後のことでした。
残された生命を燃やし尽くしたのでしょう。
最後の日々をとても明るく健やかに過ごして、ポトルさんとわたしに看取られながら、穏やかにみまかられたのでした。
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「……愛しい子……そこにいるの?」
「……はい、お母様」
もう目を開けるのも辛いのでしょう。
ベッドの旁らに跪いたわたしは小さく返事をして、奥様の手を包み込むように握りました。
その手は “
「……愛しい子……わたしはもうすぐ天に召されるわ……だから最後にあなたにお願いがあるの……」
「……なんでも仰有ってください」
「……あなたの本当の名前を教えてちょうだい」
「…………お母様」
驚くわたしに、奥様はうっすらと目を開けて微笑みました。
「……ふふっ……気づかないと思った? ……そんなわけないでしょう。仮にも母親が自分の産んだ子を間違えるわけがないわ。たとえ、どんなに長く離れていてもね。もし間違えるようなら、あなたたちふたりに、なによりあなたを生んだお母様に失礼だわ」
「…………ごめんなさい」
「……謝らないで……あなたのお陰で、この数日はとても楽しかった。まるで昔に戻ったように……あの娘がまだ小さかった頃に……」
それは奥様の本心からの言葉でした。
わたしはその言葉の響きに励まされ、自らを明かしました。
「……枝葉瑞穂……いえ、ここでのわたしは、エバ……エバ・ライスライトです」
「……そう……エバと言うの……よい名前だわ」
奥様は休み休み、言葉を続けます。
「……ポトル。わたしの愛しい人」
「……なんだ、愛しい妻よ」
「……わたしに懸けた “
「…………よいのか?」
「……わたしは心が弱くなっていたようね……でもこの子の……エバのお陰で強さを取り戻せたわ……最後はわたしの素顔をあなたに見てもらいたいの……最愛の人と人生を共にできた女の、幸せな顔を」
「……わかった」
そうしてポトルさんがディスペル・マジックの呪文を唱え、奥様に懸けられていた “眩惑” の魔法が解かれました。
「………………どう?」
「……美しい。これまでに見たどんなおまえよりも、今のおまえが一番美しい」
「……ああ、なんて幸せな人生だったのでしょう……良き夫に、良き娘。そして最後には、こんな良き友人にまで恵まれて……」
「――お母様!」
「…………まだ、わたしを母と呼んでくれるの?」
「はいっ! はいっ!」
わたしは涙に噎びながら頷きます!
だって、だって――あなたは本当に、本当にお母さんだった!
わたしの悲しみを聞いてくれて、わたしの苦しみを聞いてくれて、寄り添って、抱き締めてくれた!
「……エバ、あなたのその悲しみは、あなたの愛が真実だから……あなたのその苦しみは、あなたの愛がそれだけ深いから……だから怖がらないで……心を閉ざさないで……いつかすべてが終わるとき、あなたのその悲しみと苦しみが……きっと、あなたに安らぎを与えてくれるわ……」
それは、わたしへの言葉であると同時に、わたしの後ろに立つ人への言葉でもありました。
「はいっ! はいっ!」
「……エバ。いつかあなたの心に、わたしと同じ安らぎが訪れるますように」
「お母様っ!!!」
駄目っ! まだ、まだ逝かせられないっ!
わたしはまだ、この人から一番大事なことを聞いていないっ!
「アンドリーナさんに――アンドリーナさんに伝えることは!」
「……愛していたと……片時も忘れたことはなかったと……そして、あなたも愛するようにと…………伝えてほしい……」
「わかりましたっ! 必ず、必ず伝えますっ! いつか必ず、必ずっ!」
彼女に会うことが何を意味するのか、失念していたわけではありません。
でも今まさに最期の時を迎えようとしているこの人に、わたしが言えることは、わたしが出来ることは、それしかなかったのです。
それしか……なかったのです。
「……ポトル……ポトル……」
「ここにいる。愛しい妻よ」
「……愛しい人……あなたに出会えたことが、わたしの生の意味……あなたと生きられたことが、わたしの生の価値……愛しています、ポトル……」
「わたしもだ、サマンサ。おまえを愛している。おまえを愛してきた。おまえをこれからも愛し続ける」
奥様はポトルさんの言葉に微笑んだようでした。
そして……静かに永遠の眠りに就いたのです。
「……さらばだ、愛しい妻よ。わたしの人生の喜びは、すべておまえと共にあった……すべて、おまえが与えてくれた……今は安らかに眠れ……そう遠くない再会の時まで……」
・
・
・
「……ポトルさん」
一旦応接間に戻ると、先ほど生涯の伴侶に先立たれた古の大魔術師に声を掛けました。
ポトルさんは長い回廊をただ無言で歩き、わたしをここまで連れてきてくれたのです。
本当は、一秒だって奥様の側を離れたくはなかったでしょうに……。
「……問題ない。わたしは高度な精神修養を積んで、感情抑制の
「……そうでしたね」
でも……緑色の光は出ていませんよ。
「礼を言う、エバ・ライスライト。ニルダニスの愛娘にして聖女よ。おまえのお陰で、妻の人生は見事な帰結を迎えることができた」
「……いえ。奥様の人生が豊かだったのは、すべてあなたがいたからです」
「それでも、わたしはおまえに感謝をしている。妻が感謝をしていたように」
「…………はい」
「おまえと、おまえの仲間を元の時間に戻そう。わたしはもう少しここで妻に寄り添いたい」
わたしは黙ってうなずきました。
悲しみは、失った愛が真実だったから。
苦しみは、失った愛が深かったから。
今のこの人には、時間が必要なのです。
とても長い時間が。
「礼の品を渡したいが、この時間から持ち出すことは適わぬ。だから元の時間に戻ったら、わたしを探してほしい。この屋敷のどこかにいるはずだ。その品があれば、おまえたちが拠点と呼ぶ地底湖に還る助けになろう。あの “大地の杖” のようにな」
「“大地の杖” ……あの銀色の杖のことですか?」
「然り。あの杖には “
「それは……ありがとうございます」
「食材や調味料も分けてやりたいが、ここを出ればすべて無に帰してしまうからな」
「……本当に、なんでもお見通しなのですね」
微苦笑を浮かべるしかありません。
そしてアンドリーナさんへの言伝があれば……と訊ねかけましたが、すぐ考え直しました。
それらはすべて、この人と一心同体だった女性から、すでに承っているのですから。
「ワインは……ほどほどにしてくださいね」
「心に留めておこう――さらばだ、心優しきニルダニスの娘よ」
「さようなら、ひとりの女性の生涯を幸福にした素敵な人」
ポトルさんの骸骨のような顔が、フッ……と笑ったように見えました。
それから呪文の詠唱が始まり、わたしの視界は徐々に歪んでいきました。
耐えきれなくなったわたしが目を閉じ、しばらくしてから再び目蓋を上げると……。
わたしが立っていたはずのあの壮麗な大広間は、厚い埃と蜘蛛の巣に覆われたただの玄室になっていました。
わたしは、かつて暖炉があった壁際の近くに並んで寝かされている、大切な仲間に近寄り、声を掛けます。
「皆さん、起きてください。わたしたちの大切な人たちの元に帰りましょう」
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