魔術師と妻。その娘
ポトルさんは重たい動作で安楽椅子から立ち上がると、キッチンを出て居間や応接間と呼ぶには壮麗すぎる
安楽椅子がスッ……と消え去るのを横目に見ながら、わたしも覚悟を決めて後に続きます。
穏やかに眠るレットさんたちの足元を通り過ぎ、ポトルさんとわたしは広間を南に向かいました。
「……妻には強い光が毒になるのだ」
わたしたちが入ってきた扉の東隣りに南に延びる回廊があり、足を踏み入れたとき、ポトルさんがポツリと呟きました。
おそらく……ここにも “消灯の罠”が仕掛けられているのでしょう。
すべては、愛する奥様のためだったのです……。
わたしたちは南に進みます。
やがて暗い回廊は煉瓦造りの内壁に行き着きました。東側は岩盤の外璧です。
ポトルさんは西に進路を変え、歩を進めます。
回廊は連なった一×一区画の玄室をふたつ越え、さらに西へと続いていました。
終端まで行き着くと、フッ……と目眩にも似た浮遊感が身体を包みました。
振り返ると、東に続いているはずの長い回廊がありません。
わたしたちが
見覚えがある玄室です。
「妻の寝室はこの先だ」
ポトルさんが前に立つと、扉がひとりでに開きます。
もう驚くことはありません。
扉の外は曲がりくねった暗い回廊で……。
「ここは、もしかして……」
「左様。おまえたちが “肖像の間” と呼んでいる玄室の近くだ」
歩きながら、ポトルさんが教えてくれました。
「妻の寝室は、空間的には “肖像の間” と同じ座標にある。時間軸は別だがな」
「……」
回廊を進み、扉をひとつ越えると、そこは一×一の玄室。
“肖像の間” の手前の玄室で、パーティが休息を摂った部屋です。
「あの、“
「そうか、あれを手に入れたのか。久しく “研究室” には行ってないのでな。存在自体を忘れていた――無用だ。わたし自身がその役目を果たす」
それは……そうですよね。
ポトルさんはこの
わたしの嘆息をよそに、ポトルさんは玄室北側の扉の前に立ちました。
“肖像の間” …… 奥様の寝室の扉です。
やはり音もなく扉は開きました。
「……」
わたしは息を飲みました。
前回来たときには、北の壁に大きな肖像画が飾られているだけの、ガランとした玄室だったのです。
それが今は壁際には橙色の炎が爆ぜる暖炉があり、床には足の裏が沈むほどの柔らかな絨毯が敷かれ、部屋中に瀟洒な家具や調度品が溢れています。
中でも目を引くのは、部屋の中央に置かれた豪奢な天蓋付きの寝台でした。
大時代風の大変豪華な造りですが決して華美すぎず、部屋に置かれた他の家具ともども、洗練された上品さを醸し出しています。
室温は適度に乾いて温かく、あのジメジメした迷宮とは思えない快適さでした。
唯一変らないのが部屋の北面に飾られた大きな肖像画で、額縁の中から紫衣の女性がたおやかに寝台を見つめていました……。
「……あなたなの、ポトル……」
ベッドカーテンの奥から、細い声がしました。
「……そうだ。愛しい妻よ。気分はどうだ?」
ポトルさんは奥様を労ってか、囁くような言葉を返します。
「……そうね、今日は少し良いわ。見た夢を覚えていないということは、それは悪い夢ではなかったということでしょ……だって、悪い夢なら覚えているもの……」
レースのベッドカーテンの奥に透けて見えるポトルさんの奥様は驚くほど若く、美しい女性でした。
緑色の長い髪に、透きとおるような白い肌。
自然が生み出した完璧な調和美。
とても老い衰え、天に召されるのを待っている人には見えません。
わたしは少しだけホッとしました。
聖職者でありながら、これから天に召されようとしている人と、どのように接すればよいのか分からなかったからです。
多くの死を見てきましたが、直接相対するのは初めてなのです……。
「……他に……誰かいるの?」
「……珍しく客が訪れてな。おまえの気が晴れるかとも思い連れたきたのだ。愛しい妻よ」
「……まぁ、それは本当に珍しいことね……」
奥様はカーテンの向こうで驚きつつも、慌てる様子もなく、それどころか愉快げに小さく笑い声を上げました。
「初めまして、お客様。ポトルの妻です。見苦しい姿をお見せしてごめんなさいね。
でも人はあの暖炉の火と同じ。いくら細く長く焚いたとしても、いつかは燃え尽きるもの……あなたが世界の
「はい。もちろんです、奥様。お会いできて光栄です。わたしはエバ――」
「まあ、その声! アンドリーナ! アンドリーナじゃないの!」
「……え?」
あ、あの奥様……!?
「ああ、アンドリーナ! わたしの娘! 帰ってきてくれたのね! 帰ってきてくれたのね! さあ、顔を見せて! ああ、会いたかったわ、愛しいわたしの子!」
・
・
・
「……わたしにも “
キッチンに戻ってくるなり、わたしはポトルさんを質しました。
娘との再会に興奮した奥様はすぐに疲れてしまい、再び休まなければならなくなってしまったのです。
部屋に留まるように懇願する奥様に、目覚めたらまた部屋を訪れることを固く約束して、ポトルさんとわたしは寝室を出たのでした。
「すまぬ……だが、おまえは “慈母なるニルダニス” がその
「だからと言って……」
「……妻は美しい姿のままわたしの記憶に留まりたいと願った。だから、わたしはその願いを叶えた。わたしは自分の力が及ぶ限り、妻のどんな願いも叶えてやるつもりだ」
『みまかられる奥様に嘘を吐かなければならない、わたしの身にもなってください』
……とは、ポトルさんの真意を聞いてしまった後には言えません……。
「……妻は長くはない。ニルダニスの愛娘……いや、聖女よ。わたしの愛する妻に、どうか慈悲を賜りたい」
濃色のローブに身を包み、大きな安楽椅子に深く身を沈める “
でも今のわたしには、生涯を懸けて連れ添った愛する妻に先立たれることに怯える、年老いた男性にしか見えませんでした……。
「聖女ではなく、魔女です」
「……?」
「まずは奥様の――お母様の好きなスープの作り方を教えてください。せっかくこんな素晴らしいキッチンがあるのです。試してみましょう」
わたしは椅子から立ち上がると、腕まくりをしながらポトルさんに微笑みました。
--------------------------------------------------------------------
迷宮保険、初のスピンオフ
『推しの子の迷宮 ~迷宮保険員エバのダンジョン配信~』
連載開始
エバさんが大活躍する、現代ダンジョン配信物!?です。
本編への導線確保のため、なにとぞこちらも応援お願いします m(__)m
https://kakuyomu.jp/works/16817139558675399757
--------------------------------------------------------------------
迷宮無頼漢たちの生命保険
プロローグを完全オーディオドラマ化
出演:小倉結衣 他
プロの声優による、迫真の迷宮探索譚
下記のチャンネルにて好評配信中。
https://www.youtube.com/watch?v=k3lqu11-r5U&list=PLLeb4pSfGM47QCStZp5KocWQbnbE8b9Jj
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます