迷宮の愛

「もう一手間だって?」


 老いた修道士騎士から受け取ったメダリオンを手に、上層への縄梯子の手前まで戻ったアッシュロードとドーラだったが、依然として効果を残している “結界 “ によって、再び下層への縄梯子階層始点に強制転移させられてしまった。

 耄碌した騎士に偽物をつかまされたと憤慨したノーラだったが、アッシュロードの見解は違った。


「俺たちは先走り過ぎたのさ。こいつはだ」


 ドーラは眉を顰めた。

 相棒の口から出た言葉が、意味不明だったからではない。

 この男が本人にも理解できていない言葉を口にするのは、いつものことだ。

 かつてリーンガミル聖王国の女王マグダラの “禁呪”によって記憶と知識を封じられた男だが、ときおり封印の “網目” からそれらが零れ落ちる。

 しかし……ここ最近その頻度が明らかに増しているのだ。

 マグダラからの王命を受け、アッシュロード監視の任に就いているドーラである。

 万が一の場合は対応しなければならない。

 そうなる前に、あらたな封印を施さなければならないのだが……。

 今回のリーンガミル訪問に、そうなるように仕向けるつもりだったが、現状はそれどころではなくなってしまっている……。


「どうした? 行くぞ」


 北に向かって歩き出したアッシュロードが立ち止まり、動かないドーラを見た。

 猫人フェルミスのくノ一は『すまない』と謝り、監視対象である相棒を追い越した。

 ふたりが向かったのは、階層フロアの最北の玄室に出現した “幽霊ゴースト” の元である。


(最北とはいっても次元連結ループしているので、それよりも北は最南の座標となる)


 魔物と遭遇することなく一方通行の広間シャッター・エリアを縦断し、件の玄室に到着したふたりは、片隅に澱む水溜まりの前に立った。

 すぐに泥水色の水面が泡立ち、病み衰えた汚らしい女の幽霊が再度姿を現す。

 半ば透き通った、骸骨のような手が伸びてきたのも前回と同じだ。


「……さて、鬼が出るか蛇がでるか、だね」


 ドーラの声を耳に、アッシュロードは熱砂の戦場に消えた異邦の騎士から手渡された黄金のメダリオンを差し出した。

 これで道が拓けなければ、三枚の立て札で警告された未踏破区画に消失ロスト覚悟で足を踏み入れるか、二階を探索している彼らよりも二回りも歳の離れた、若い探索者たちの成果に期待しするしかない。


 だが……。


 どうやら、最近めきめき実力をつけてきている頼もしい後輩たちの力は、借りずに済みそうだった。

 幽霊の骨と皮だけの指先が触れた瞬間、温かく柔らかな光がメダリオンから溢れ出したのだ。

 満ち出た光は幽霊の半透明の身体を包み込み、やがて吸い込まれるようにして消えた。

 玄室が再び元の明るさに戻ったとき、アッシュロードとドーラの前に、大時代風の衣装をまとったひとりの貴婦人が立っていた。


「わたしとわたしの愛する人を、魂のくびきから解き放ってくれたことに感謝します。異邦の騎士たちよ」


 貴婦人はたおやかな笑みを浮かべると、ふたりに丁寧に頭をさげた。

 この世界アカシニアのものとは違う作法だったが、確かな礼節を感じさせる所作だった。


「こいつは驚いた。あの汚らしい幽霊が、こんな奇麗な奥方だったとはね」


「あんた、あの騎士の――」


「はい。ジェラール・ド・リデフォールは、わたしの良人おっとです……不名誉を重ねた挙げ句に惨たらしい死を迎え、神の怒りを買って天国には召されず、さりとて激しい後悔から地獄にすら落ちることのできなかった哀れな騎士です」


 貴婦人は悲しげに目を伏せた。


「ですが “神” は今わの際の良人の願いを聞き届けてくださいました。“真龍ラージ・ブレス” を遣わし、この地に召喚してくださったのです。いつか赦され、名誉を回復する機会を与えられるまで、この迷宮で罪を贖うようにと」


「「……」」


「家は夫の不名誉を受けて没落し、未亡人となったわたしも貧しさに喘ぎながら、苦しい病の末に世を去りました。そして、やはり神はわたしの死ぬ間際の願いを聞き届け、この迷宮に……あの人の側に呼び寄せてくれたのです」


 黙した探索者たちに、貴婦人は続ける。


「長い……永い歳月でした。良人はこの世界でも老い、正気をなくしました。それでも良人の名誉回復への思いは揺らぎませんでした。そして死んだときの姿のまま召喚されたわたしは、ここで亡霊としてあの人の贖罪の日々を見守ってきたのです」


 アッシュロードもドーラも、すぐには言葉が出なかった。

 貴婦人の口から語られたのは、一組の夫婦の数奇な運命だった。

 汚名に塗れたひとりの騎士の名誉回復への渇望と、死してなおその騎士を見守り続けた妻の献身的な情愛。

 それは灰と隣り合わせの迷宮に生きる彼らにとって、あまりのも縁遠い世界だった。

 少しの沈黙のあと……何を思ったのか、貴婦人は切れ長の形の良い目をアッシュロードに向けた。


「騎士殿……あなたに妻はおられますか?」


 アッシュロードは唐突に話を振られて内心狼狽えたが、どうにか平静を保った口調で答えた。


「生憎と独り身だ」


「そうですか。あなたの表情や立ち振る舞いから、どなたか心に決めた女性がいるかとも思ったのですが――女はそういう気配には敏感なのですよ」


 面食らったアッシュロードに、貴婦人が悪戯っぽく微笑んだ。

 気品に充ちた、若く華やかな笑顔だった。

 そして真摯な表情に戻って、


「このメダリオンは、結婚の際に永遠の愛を証として、わたしがあの人に贈ったもの……人が信仰だけで生きられるとするなら、それは幸せなことなのでしょうか」


 何層にもおよぶ分厚い岩盤を透して、遙か天井から光が差し込み、貴婦人を照らした。

 どうやら時間が来たようだ。


「ありがとう、誠実で勇敢な異邦の騎士たちよ。あなた方に神の御加護と――どなたかからの真実の愛がありますように」


 そうして貴婦人の魂が昇天したあと、彼女が現われた澱んだ水溜まりは、いつしか澄んだ湧き水へと変っていた。

 清水は冷たく、驚いたことに一口含んだだけ生命力ヒットポイントを回復させた。

 寺院の高司祭が “小癒ライト・ヒール” の加護を封じた水薬ポーションよりも、遙かに高い効果である。

 アッシュロードとドーラは、残り少なくなっていた水袋の中身を捨てて、清水――聖水で満たした。

 それから三度、上層への縄梯子がある座標へと戻った。

 アッシュロードが聖水を少量振り撒くと、縄梯子手前の転移地点テレポイントが発動することはなかった。

 ふたりの古強者の探索者は、ようやく“龍の文鎮” 第三層の踏破に成功したのである。



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