嫁にするならライスライト

 昇天した貴婦人の足元に湧いた清水。

 寺院の高司祭が “小癒ライトキュア” の加護を封じた水薬ポーションよりも高い回復力を持つその湧き水は、明らかに “高次元の存在神々” の祝福を受けた水――聖水ホーリーウォーターだろう。

 アッシュロードが水牛の皮袋に詰めてきたそれを少量振り撒くと、上層への縄梯子の前に張られていた “結界” が消失した。

 ふたりはこれまでに二度、この結界によって階層フロア始点である下りの縄梯子の前まで強制転移させられていたのだが、今回はそれがない。

 アッシュロードとドーラは、ようやく岩山の迷宮 “龍の文鎮” の第三層を踏破したのだった。


「奥方の聖水のお陰で体力も気力も万全。“滅消ディストラクションの指輪” はふたつとも健在。食料もあと二日は持つ」


 遙か頭上から垂れ下がっている縄梯子を見上げていたドーラが、アッシュロードに顔を向けた。

 木ノ上から少女アリスに話しかける猫のような表情。


「――さて、どうするさね?」


 この階は玄室が少ない構造で、必然的に魔物との戦闘が少なかった。

 ふたりは傷を負うこともほとんどなく、かすり傷程度なら身に付けている “癒しの指輪リング オブ ヒーリング” の効果で歩いている間に治癒してしまう。

 さらに件の聖水の加護も加わり、ふたりの古強者は迷宮の一階層を踏破した直後だというのに、体力・気力ともに充実しすぎていた。

 むしろウォーミングアップが終わって、ここからが本番といった心持ちだ。


「そうだな。帰るにはまだ早いだろう」


 普段、疲れ切った老いたグレートデンのように怠惰なアッシュロードでも、ここで引き返す方がかえって効率が悪い……ぐらいの損得勘定は働く。

 上層の縄梯子から一階へ下りる縄梯子までは、北の内壁にある一方通行の扉を抜ければわずか二区画ブロックの距離であり、一階に下りればやはり数区画で、“湖岸拠点レイクサイド・キャンプ”へ戻れる転移地帯テレポイントがある。

 帰路はごく短く安全だ。

 地底湖湖岸の拠点から再びここまでくる手間暇を考えれば、今少し探索を続けるべきだろう。


「決まりだね」


 くノ一が頷く。

 ここで引き返す道理はない。


「ドーラ」


 縄梯子を上りかけた相棒を、アッシュロードが呼び止めた。


「? なんだい?」


「“探霊ディティクト・ソウル” ……一回いいか?」


 不機嫌。

 仏頂面。

 そして、どこか恥ずかしげにも見える表情で、アッシュロードが訊ねた。


「好きにしなよ。今のところ回復は有り余ってる。他の連中の状況を知っておいた方が加護の有効利用ってもんさね」


 軽く肩を竦めて苦笑するドーラ。

 この男、最近やけに人間臭いじゃないか――そんな思いが胸中をよぎっている。

 すまん……と一言謝ると、アッシュロードは口の中で短く祝詞を唱えた。


「どうだい?」


「――連中も二階を踏破したようだ。今は四階にいる」


「それはそれは。あの娘らも、ようやく尻から卵の殻が取れたかい」


 アッシュロードの言葉に、ドーラは愉快げに笑った。

 自分たちとほぼ同じ時間で、一階層を突破したのだ。

 卵の殻ヒヨッコどころか、もう充分に古強者ベテランと呼んで差し支えないだろう。


 黒衣の君主は安堵し、相棒に続いて縄梯子を上り始めた

 念視の結果、彼の所有物が所属するパーティは、現在どこかの玄室でキャンプを張って休息しているようだった。

 メンバー全員が健在であり、重傷者もいないようである。

 表情に疲労が滲んでいたが、迷宮を一層踏破して次の階層にいるのだ。

 むしろ、あれぐらいが普通だろう。


 アッシュロードは気づかない。

 自分が知らず知らずのうちに、文字どおり希望的を行っていたことに。


◆◇◆


「ごめん……あたい、この階に上ったあとに “座標コーディネイト” の呪文唱えてなかった……縄梯子の位置が分からない……」


 パーシャが今にも泣き出しそうな顔で、皆に伝えました。

 初めての階層に到達したなら、すぐにその座標――始点を確認するのが絶対のセオリーです。

 それは往々にして他の階層と繋がっている縄梯子の位置なのですが、今回は下層から待避してきた直後に別の魔物と遭遇エンカウントしたため、呪文を唱えている余裕がなかったのです。


 しかも、抜群の記憶力でどんな状況でも歩々道順を記憶しているパーシャが、今回に限って“昏睡ディープ・スリープ” の呪文に懸かってしまい、つい今し方まで意識を失っていました。

 他の誰も、階層中から群がってくるゴブリンたちを振り切るのに精一杯で、逃走経路なんて覚えていません。

 縄梯子の位置が分からなければ、戻るべき目指すべき座標がわかりません。

 わたしたちは初めて足を踏み入れた階層で、完全に迷子になってしまったのです……。


「……とにかくキャンプを張ろう。話はそれからだ」


 まるでDVDのシーン再生のようにレットさんが言い、聖水で魔方陣を描き始めました。

 カドモフさんが、無言で作業を手伝います。

 ジグさんはわたしが閉ざしたものとは別の扉を調べにいきました。この玄室には扉がふたつあるのです。

 わたしを含めて後衛の三人は手伝うどころか、顔を上げることも出来ません。


「……大丈夫だ。あっちの扉にはなんの気配もない」


 扉に耳を当て奥の様子を探っていたジグさんが戻ってくるなり、描かれたばかりの魔方陣の中にドサッと座り込みます。


「……今度こそ休もう。これ以上動き回るのは無理だ」


 そういって、水袋を煽るレットさん。


「……小鬼どもはまけたか」


「……足音は聞こえないわ……ゴブリンは騒々しいから、近くにいればすぐにわかる……」


 カドモフさんの声に、フェルさんが膝に顔を埋めたまま答えました。


「……どうしてこんなことに」


「……パーシャ、疲れているでしょうけど、この玄室の位置を確認してください。同じ事を繰り返すわけにはいきません」


 フェルさんの呟きを無視する形になってしまいましたが……わたしは憔悴しているもう一人の友だちに頼みました。

 二階への縄梯子の位置が分からないのなら、この玄室を始点としてマッピングしていくしかありません。


「……わかった」


 パーシャは顔を上げると、膝に置いた手に力を込めて立ち上がりました。

 “座標” の呪文がある第一位階の精神力マジックポイントも残り少ないはずですが、ここで使わないわけにはいかないのです。

 疲労が滲む表情で詠唱を始まり、やがて呪文が完成しました。


「……四階の “9、13” 北を向いてるよ」


 そういうと、ホビットの女の子は再び座り込んでしまいました。


「……ありがとう」


 北を向いているということは、わたしが閉ざした扉は東側の扉ということになります。

 そしてジグさんが確認したのが、北に一区画離れた西側にある扉です。


「……後衛は少し眠ってくれ」


 レットさんに言われるまでもなく、わたしとフェルさんとパーシャは寄り添い合っい、互いの存在を支えと慰めにしてすぐに眠りに落ちました。



「……やはり東に戻るべきだろう。そっちから来たんだからな」


「……だが、東にはゴブどもがいる」


「……ああ、奴らは俺たちが弱ってるのを知ってる。絶対に諦めねえぞ」


 どのくらい眠っていたのでしょうか。

 不寝番をしてくれている三人の会話に、わたしは目を覚ましました。


「……西に行っても戻れるとは限らない。元はと言えば俺が最初の判断を誤ったせいでこの苦境を招いたんだ……もう同じ間違いはしたくない」


「……おまえだけの過ちではない。俺たち全員、やはりどこかに油断があった。北が駄目なら戻って西を調べればいい。そんな考えが確かにあった」


「……だな。帰り道を探すよりも、マップを埋める方が頭にあった気がする」


「――生きて帰って、この経験を次の探索に活かしましょう」


「……起きたのか」


 レットさんが疲労と悔恨で、土気色に染まった顔を上げました。


「はい。元気になりました」


 精神力こそ回復していませんが、睡眠のお陰で随分と頭がハッキリしました。


「わたしとフェルさんの加護も、パーシャの呪文も、残りわずかになってしまいましたが完全に尽きたわけではありません。使い所を見極めれば、まだまだ大丈夫です」


 そういって、しょげている “男の子たち” に微笑みます。


「ご飯は食べましたか? まだなら食べましょう。お腹が空いていては元気だって出ませんから」


「君は強いな……エバ」


「ええ、強いですよ。“女は強くなければ生きられない。優しくなければ生きていく資格がない” のです」


「いい言葉だ。今度使わせてもらおう」


 ことさら明るく言ったわたしに、ようやくレットさんが微苦笑を浮かべました。

 ジグさんとカドモフさんは、思い出したようにそれぞれの背嚢から口糧を出して食べ始めています。


「さあ、レットさんも」


「ああ」


 レットさんもわたしに促され(急かされて?)、自分の背嚢から食料を取り出しました。

 もちろん、わたしもご相伴に与ります。


「拠点に……戻ったら……皆さんを……誘って……二階に……狩りに来ま……しょう」


 行儀悪くも固い鹿の干し肉を噛み噛みしながら、男の子たちに提案します。


「狩り? 何をだ?」


「鳥に……決まって……います! チキンです……チキン!」


「鳥……チキン? って、まさか “禿鷲バルチャー” か!?」


「ゴックンッ――オウ、イエス! です」


 わたしはゴックンッと干し肉を呑み込むと、訊ね返したジグさんに元気よく頷きます。


「“大蛇アナコンダ”のお肉は、鶏肉に似ていますが、あくまで似ているだけです。それに比べて禿鷲はれっきとした鳥です。鳥類です。味もずっと近いはずです」


「……きっとね」


「ええ、きっとです」


「……鳥の肉で一番美味いのは、“コカトリス” の肉だと聞く。工匠神の下に行くまでに一度は味わってみたいものだ」


「コカトリスの肉! “ミスラ風山の幸串焼き” の材料です! お父さんがよく焼いていました! いいですね、この迷宮にいるようならぜひ狩りに行きましょう!」


 珍しく願望を口にしたカドモフさんに、わたしは元気よく頷きます。


「……嫁にするならライスライトだな」


「「~同感だ」」


「あら、ありがとうございます。でも、わたしは売約済みですよ」


 光栄にも嘆息してくれたカドモフさんと、これまた光栄にも口を揃えて同意してくれたレットさん&ジグさんに、シレッと答えます。答えちゃいます。


「――売約済みって、いったい誰にかしら?」


 来たな、プレッシャー。


「おはようございます、フェルさん。ええ、それはもちろん――」


「わー! まった、まった! ここでレクリエーションを始められたら、今度こそのゴブリンが集まってきちゃうよ!」


「そうね、この話はつけましょう」


「ええ、


 目だけが笑っていない顔でニッコリ笑い合う、わたしとフェルさん。

 そう、すべては生きて拠点に戻ってからの話なのです。

 食事を始めるフェルさんとパーシャを横目に、先に食べ終えたわたしは装備の点検をしました。


 ……食料はともかく、飲料水がもう残りわずかです。どこかで補充できればよいのですが。

 レットさんに言ったとおり、加護も呪文も半分を切っています。

 パーシャの “滅消” のように、位階によっては使い切ってしまった魔法もあります。

 空元気も元気のうちです。

 元気があれば、希望を抱けます。

 ですが、それも資源リソースがあったればこそ。

 このままでは早晩、水も食料も加護も呪文も尽きてしまいます。

 そうなればもう空元気も出せず……希望は絶望へと変るでしょう。


(ええ……分かっています。冷静でいる限り絶対に尽きない資源があるんですよね)


 わたしは心の中に甦ってきた声に、微笑みました。

 空元気ではない、心からの微笑びしょうです。


 やがてフェルさんたちの食事が終わり、各自装備の点検も終えました。

 メンバーそれぞれから、水や食料、加護や呪文、その他消耗品の残量が報告され、それを基に今後の方針が話し合われます。

 進むべきは西か、それとも東か。

 今度こそ、間違いはゆるされません。



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