第3話 おとぎ話の中の人 (前編)

「あ、おい。買い出し行くから、送る」

 遠くから終業を告げる鐘の音が聴こえる頃、抱えていた本を棚に収め、ウェルがそう言った。

「お? ありがとー。ウェル」

 迷宮書館へようこそと、師匠が言ってから数日。

 何か大きな事件が起こるでもなく、分館は相変わらず開館準備中だった。

「ウェルさん、御主人様マスターを宜しくお願い致しますね」

主人マスター、何かされたら言ってね。必ず責任を持って俺達が思い知らせるから」

「黙れこの物騒化身」

「あはは。了解」

「了解するな!」

 小麦の穂みたいな金色の黄昏に染まった帰り道を歩く。

 出会い頭は汚れた格好だったウェルも、今は清潔な白シャツに黒いズボン、革靴だ。

「応募あったか?」

「いやー。無いね。ま、仕方無し」

 緩やかな街への下り坂に、さざめき笑うような風が吹く。

 ウェル以外の宿直要員も絶賛募集中なのだが、今のところ応募はゼロ。

 仕方無い。何たってオバケ屋敷しかもマジもんなのだから。

「そもそも、本に興味が無くて図書館の宿直とか矛盾してるからね」

「本に興味が薄いだけで、嫌いでも無い奴ってのも大概だ」

「それな」

 割りとストライクゾーン狭めの要項も原因だろうけど。

「でも、本当にその紙魚って言う化け物は居るのか?」

「……多分ね」

 浅い部分から徐々に深く潜るのだと聞かされているが、今のところ紙魚と遭遇はしていない。

「師匠の話では、深くなればなるほど遭遇の可能性があるって」

 迷宮の外に出たら姿も保てない脆弱な存在だが、逆に深部に行けば行くほどしっかりとした実体を持ち、強力な個体が現れるらしい。

「ゾッとしないな」

 肩を竦めてウェルがそう言う。

「ウェル、ビビってたもんねぇ~? クックック」

「ビビって無い!」

「あはは。ま、遭わないに越したことはないよ。少なくとも普通はね」

「お前さ、怖がらないよな。どうしてだ?」

「ん? どういう意味かな?」

「……俺はともかく、紙魚が出てきたらお前やスピネルさんは危ないんだろ」

「らしーねー」

 紙魚も見境い無く人間を拐うわけではなく、狙われるのは物語などに興味と知識のある者。迷宮は各地の分館下にあるから、必然的に一番身近な対象として司書が狙われる。

 だから閉館後の長時間、一人で分館に留まる宿直には、狙われにくいタイプが良いらしい。

「怖いってより、何が目的なのか、なんだよね私が気になるのは」

「は?」

「いや、紙魚。本好きの人間拐う目的って何なのかなって」

「奴ら、知能はほとんど無いんだろ?」

「うん。けど、深部の方に行くと知能がある奴も出てくるって言ってたし、そもそも紙魚が例外無く本好き拐う共通の意志があるでしょ。それが、何でかなって」

 紙魚の本能だと言われてはいるのだが。

「化け物の思考なんかわからないぞ」

「だよねー。食べるわけでも無いみたいだし」

「おぞましい事を言うな」

「ククッ、やっぱり怖がってるじゃんウェル」

「ち・が・うっ」

 街並みが見え始め、金色が赤銅へと染め上げる色を変える。

 地面から石畳に靴底の感触が変わり、木々から人の住む建物へと景色が移ろい、夕闇と影絵が踊る。

「買い出しって夕飯でしょ。今日は市場通り?」

「ああ。量が多くて味も良し。そして安い」

「何か主婦みたいだよ」

 そこかしこから漂ってくる良い匂い。どこかの家ではどうやらビーフシチューだ。

「メリー」

「メル。お疲れ」

 薬局の前で閉店作業中のメルに会う。やはり美少女はいつ見ても美少女で見るだけで疲れが取れる。

 目の保養を楽しんでいた後ろから、何故か硬い声音が零れた。

「……お疲れ」

「あら。居たんですね。ウェルさん」

「あれ? メルと喧嘩でもしてんの? ウェル」

 メルとウェルの間には、微妙に緊張みたいな雰囲気が漂っていた。つーか、ウェルが逃げ腰とも言う。

「喧嘩なんてしないわ。メリー。……ね? ウェルさん」

「ああ……」

 のわりにやっぱりウェルが以下略。

(……何だかなぁ。虎と……ワンコ?)

 二人の間にあるものを視覚化するとそんな感じだ。

 虎は言い過ぎだとしても、猫に牽制されて怯んでるワンコ。

「メリー、このまま真っ直ぐお家に帰る? アウラさんから頼まれてる品物届けに行くから、良かったら一緒に」

「あ。ゴメン。ちょっと市場通りに行ってからになるよ。私も姉さんに頼まれてる物あるし、ついでにウェルのご飯買わないと」

「そう……。残念」

「っ!」

 メルは少しだけ残念そうに微笑んだ。可愛い美少女マジ天使なのだが、それを見たウェルがジリジリと後退りする。

「先、行ってる」

「ちょっと、ウェル。……メル、ゴメンまた今度!」

「ええ。必ず」

 逃げ出すようなウェルの後を追い、段々と人も活気も多くなる通りを歩く。

「ウェル」

 人を避けながら、尻尾でも捕まえる様に上着の裾を掴む。

「速いよ。つーか、どうしたの?」

「別に……。お前さ、あいつと何で友人なんだ?」

「美少女マジ天使だから」

「…………」

「美少女は世界の宝だよ?」

「もういい」

 街灯と露店先に吊るされたランプが煌々と照らす市場に足を踏み入れ、目当ての店を探して彷徨うろつくと、流石夕飯時。甘いのや香ばしいのや、様々な食べ物の誘惑においが。

「ウェル、ウェル。あれ。あれ食べよう」

 犬のリードよろしく掴んだままだった上着の裾をクイクイ引っ張り、目当ての店を示す。

「何だ? あれ」

「空洞のある薄くてもちもちした白パンを半分にして、そこにレタスやジャガイモのスライス揚げたやつと、甘辛味付けで一口サイズに切った白身魚のフライ挟んだやつ」

「魚……」

 ポツリと呟いて、ウェルの視線は何度か購入している串焼き屋へ滑る。

「ウェル。たまには違うもの食べなよ」

 らちが明かないので上着の裾を掴んだままウェルを目的の屋台へと引っ張る。

「別に良いだろ」

 僅かな抵抗の後、諦めたのかウェルは引っ張られつつも歩き出す。

「確かに、人の食事にとやかく言う必要無いんだけどね。普通なら」

「……」

「ウェルは大事な宿直要員だから、健康でいてもらわないと」

「…………」

「ウェル?」

 ぴたりと止まった故に、上着の裾を掴んだ手が感じた小さな反動。どうしたのかと振り返ると、ウェルは何故か片手でグシャグシャと髪をかき混ぜていた。

「ノミでもいた?」

「いない!」

「頭かゆいんじゃ」

「違う。……関係無いから気にするな」

「いやいや、ノミは関係あるって」

「そのネタやめろ!」

「はいはい。わかったよ」

 そんな事を言いつつも、屋台に着いて店の兄さんに注文を通す。

「鶏があるな……。俺は鶏のやつで」

 揚げ立て熱々のフライと甘辛タレがモチモチパンと絶妙な相性で、疲れた身体に熱と元気が補充される。

「美味しい。やっぱ仕事帰りの買い食いって癖になるね」

 最初はいつもの焼いた肉スライスに未練たっぷりだったウェルも、今は口に頬張った鶏パンを幸せそうにモグモグと咀嚼していた。

「確かに美味いな」

「でしょ。油ものはやっぱその場で食べないと」

 とは言え店の前でいつまでも固まっては迷惑なので、少し先にある広場へ向けて歩き出す。

 途中、飲み物や頼まれていたものなどを買って、広場に置かれたテーブルの一つに辿り着く。テーブルと言っても、適当に木箱などが置かれていてイスもないもので、買い食い程度ならこれで十分。

「ほい。飲み物」

「あ、悪いな」

「なんの。ついでだから。……うん、レモン水て爽やか」

 天然水にレモンの絞り汁を数滴垂らしただけのもの。けど、爽やかで飲みやすい。

「あれ? メリー」

「お? ユート兄さん! 仕事上がりー? お疲れー」

「メリーも、お疲れ」

 人混みの中から手を振って、ユート兄さんが現れる。

「……ええと、誰、かな?」

「兄さんとウェルって初対面だっけ。今度、うちの図書館に宿直要員入ったウェルだよ。ウェル、この人はユート兄さん。郵便配達してるんだ」

「君が噂の……」

 やや不躾とも言えるくらいユート兄さんはウェルを頭から足先まで眺めた。

「そっか。うん。宜しく。リヒターが助かってるって言ってたよ」

「どうも……」

「ユート兄さんとウェルの顔合わせも済んだところで、兄さん後ろの人達は?」

 ユート兄さんとは違って品性も顔も良くなさそうなお兄さん達が、ズラリと並ぶ。と言うより、包囲していた。

「さあ? 誰だろ。知らない人達だね」

 兄さんが知らなくても相手の顔や雰囲気からは物凄く物騒な気配が漂っている。が。

「あ。そんな事より」

 兄さんめっちゃどうでも良さそうにこっちに向き直って笑顔で会話再開。

「おい、なめたマネしてんじゃねーぞ!」

 でーすーよーねー。と心の中で頷きたくなる。

 しかも例によって例のごとく、ユート兄さんはそんな凄む相手に一瞥も寄越さない。

「調査始めたんだって? 何か怖い思いしてない? 大丈夫?」

「てっめぇ……!」

「兄さん兄さん、自然ナチュラルスルーは可哀想だよ」

「お前も同情すんじゃねーよ! 兄妹揃って馬鹿にしてんのか!」

 ごろつきA(本名興味ないごめん)の声に、仲間か手下かわからないけれど他の奴らも殺気立つ。

 ごろつきAは仲間を呼んだ。ごろつきB・C・その他が現れた! とか思ったのはここだけの話。

外野モブが煩いからあっちで話そうか」

「誰がモブだゴラァァァ!」

 ジリジリと円を狭め、ごろつき達は凶悪な顔と雰囲気で迫ってくる。

「何でいつも問題起こすんだ……」

「えー。いやいや、これは違うし。ユート兄さんだよ」

 軽口を叩くこちらへ、ごろつきの一人が手を伸ばす。

「は。あんま似てねぇ妹だな、痛っぁぁぁ!」

「何、人の妹に触ろうとしてるの? 手の皮剥がれるくらい洗ってから許可取りにおいでよ。許可しないけど」

「兄さん、ウェルが怯える。抑えて。ついでにその人、手の骨砕けそうな音してるよ?」

「怯えてない!」

 ユート兄さんが眼の笑ってない笑顔で、指骨粉砕一歩手前になったごろつきを解放リリースしたのとほぼ同時に、仲間が怒りの咆哮を上げ襲い掛かってくる。

「下がってろよ!」

「勿論。頑張れウェル」

 足手まといは袖にはける事こそ最重要事項だよね。そんな方針の下、乱闘めいた輪から抜け出す。

(わお。ウェル凄い。ユート兄さんからの流れ弾? 全部避けてる)

「あ。ゴメン。腕が滑って」

「うわ! あんた今のわざっ」

「あはは。やだな偶然だよ。謝ったのに」

(美形が戯れてる姿って良いよね。……てのは置いといて)

 適当な屋台でミートパイやらマフィンを買い込む。

 それから自分は自分の仕事をすべく辺りを見回し、静かに息を吸って。

「ユート兄さん頑張れー!」

「え? ユートちゃん?」

「ユート君がいるの? どこ?」

 わざと大きく上げた声に、次々釣れるマダム達。

「ユートちゃーん」

「ちょっとアンタ達、ユート君に何してるのよ」

(こういう風に仲間を呼ぶから、一番の雑魚も初めに倒しておかなきゃいけないんだよね)

 集まったマダム達がごろつき達を睨む。その迫力にたじろぐ姿を視界の端に追いやりつつ、ごろつき達に巻き込まれそうな勢いで固まっているウェルの袖を掴んで引いた。

「ほら、今のうちにさっさとずらかるよ」

「ずらかる……」

撤収てっしゅうー」

「おい、兄貴は良いのか」

「ユート兄さんなら大丈夫。守護者ファンがこれだけ居るし」

 少しだけ確認の意味も込めて振り返ると、気付いたユート兄さんがいつものように微笑み手を振ってくれる。後はまかせて、と声に出さず唇の動きがそれを伝えていた。

「うん。やっぱさっさと行こう」

 兄さんの犠牲を無駄にしない為にも!

「……何かスピネルさんの気持ちがわかってきたぞ」

 絶対今、茶化しただろ。そんな視線をバッチリ感じる。けど。

「嫌だなウェル。他人の事なんて本当にはわからないよ」

「え」

「ほらほら、とにかく行くよ」

 ウェルの袖を掴んで人混みに紛れ、広場を出る。

 抜け出し足を踏み入れた表通りは、黄昏たそがれから紫闇しあんへ空の色彩が変化し、街灯が路を照らし始め、家々の窓からは零れる灯りが影絵を作っていた。

「いやー、ハプニングだったね」

「ハプニングって……あのなぁ」

「うん?」

「騒ぎの種はお前じゃないのか」

「だから言ってるじゃない。私は巻き込まれただけだよ。ユート兄さんの事しかり、ウェルしかり」

「俺は」

「乙女の寝室に不法侵入したの忘れた?」

 半分予想はしていたが、ウェルは面白いほどわかりやすく硬直する。それでも、何かに抵抗するように声を絞り出し悪足掻きを試みた。

「何の事だ」

 しかし今にも卒倒しそうな蒼い顔で言われても。

「夜中に私の部屋に窓からは乱入。か弱く可憐な乙女の口を塞いだ所業についてだけど」

「か弱いとか可憐とかどこから」

「うん。まあ、それは冗談だけど、窓から侵入してモフモフな腕で押さえ込んできたのは間違いないよね」

「も……」

 絶句するウェルに向けてニッコリ笑った。

「立ち話も何だし、送ってくれるついでにそこら辺もお話しようか」




 狼とは、群れで生活する生き物だ。

 よく言う『一匹狼』が狼のイメージとして広まりつつあるような気がしなくもないが、本来は人間よりも群れの仲間を大事にする。群れの一員を家族として。

「てーと、ウェルは自分の群れ……村の成人儀礼の最中だったと。そいう事?」

「ああ」

 下宿の一階にある小さな食堂。そのテーブルに座り、ウェルは従姉ねえさんの淹れたココアと厚焼きのパンみたいなビスケットを前に話をしている。

「それにしても、話を聴く限りでは随分遠出したのねえ」

 隣で話を聴いていた従姉さんが艶かしい色に染まった唇から言葉を紡ぐ。その声音だけで、大抵の男なら軒並み骨抜きにしてしまえそうな色香と迫力がある。

 色みの強い金髪を緩く巻いて無造作に背に流し、確実に一回りは上の筈の年齢を感じさせない白くシミ一つない肌。弓形の眉に長い睫毛が縁取る瞳は暖かい海の碧玉エメラルドだ。ちなみに身体ボディは言うまでもなく、肩口の大きく開いた黒い踝までのマーメイドラインドレスで、身体の線がくっきりはっきりしても気にする必要皆無。

 そんな美女が居るからか、いつになく大人しいウェルが「それは」と口を開く。

「俺もここまで遠くにくる予定は無かったんですが……」

 ウェルの村の成人儀礼は『何か一つ新しいもの』を得ること。

 それは、新しい狩場だったり新種の獲物だったり。とはいえ大分形骸化し、『個人にとって』新しければ良いらしい。でないと、狩場でも獲物でもそれこそ、今頃大陸を出なければならなくなっているだろう。意外と世界は狭い。

「獲物を追っていたら、他の奴もそれ追ってて」

「あー。だから違うのにしようとして、そんな事繰り返してたら」

「う。……まぁ、その通り」

 愛すべきワンコだ。

「すぐ帰ろうにも、まだ新しいものを手に入れてなかったから、ひとまずこの街で休もうと……したんだが」

「?」

「どうなったのかしら?」

「足を踏み入れた途端、犬に絡まれた。丁度その地区のボスが管理してる縄張りに入ったらしくて」

 まぁ、いくら狼でも一地区丸ごとの犬とじゃ勝負にならないよね。多勢に無勢過ぎる。

「いくら縄張り荒らしに来たわけじゃないって言っても、聞く耳持たない感じで」

「で、取り敢えず逃げて、私の部屋に不法侵入、と」

「悪かった」

「いや、別に驚いたけど何もされなかったし良いよ。それより、人狼姿なんてまかり間違うと犬に追われるくらいじゃ済まないけど、見られてない?」

「無い、と思う。あの姿になった方が速い。人なら見つかる前にそこから姿を消せる。……犬は匂いで追ってくるけど」

 確かに、あの夜も近所の人は犬が煩いとかどうしたんだと言っても、人狼が出たとかは言ってなかった。多分大丈夫なんだろう。

「ねえ、確認しておくけど、貴方達は確か帰巣本能があるでしょう? 迷子で帰れないわけじゃないわよね」

 そんな騒ぎ起こしたなら、むしろ早く帰った方が良いんじゃない? 従姉さんは微苦笑してそう言う。

「勿論。村のある方向は今もはっきりわかるけど……」

 何故かウェルがこちらを見遣る。

「……大事な宿直要員なんだろ」

「あー。うん。そだね。今ウェルに居なくなられるのは困る」

「あらあら……可哀想」

「え。何が?」

「何でもないわ。とにかく事情があるのね」

 何故かしみじみと従姉さんは頷き、気の毒そうにウェルを見た。そして、おもむろにテーブルの下からリボルバー式の銃を取り出すとテーブルの上に置く。

 手入れが行き届き重々しくも光るそれに当然、ウェルの顔が強張る。

「そういう事なら、今回は大目にみましょ」

「従姉さん、これ」

「いつもの私の愛銃よ。どうしたの? 見慣れているでしょ」

「いや、うん。見慣れてるけど。そうじゃなく……用意してたんだね」

「勿論よ。ちなみに、あの夜も声を掛けた時に持ってたわ。可愛い妹に何かあったら、確実に償わせないといけないでしょう?」

 ほほほほほ。と軽やかに笑う従姉さんと、凍りつくウェルが対照的だ。

「けれど、あなたが大丈夫だと言ったから。実際そうだったし。だから使わなかったけれど」

「いやー、ウェルめっちゃ怯えてたから。しかも間抜けそうだし。警戒するだけ睡眠時間の無駄かなって」

「大事にならなくて良かったわ」

 従姉さんとのやり取りに、いよいよウェルの顔色も青くなる。選択を間違えていたら風穴を空けられていた、と知れば無理もない。

「あ。そろそろウェル帰さないと。師匠が待ってる」

 ウェルの背後にある棚に置かれた時計が急かすように時を刻む。

「そうなの?」

「ウェルが居ない時は、師匠がメーラ達と留守番してくれてるんだ」

 従姉さんは立ち上がり、ウェルも一刻も早くこの場から逃げたいと言うように玄関へ向かう。

「ウェル」

 玄関のドアノブに手を掛け、振り返るウェルに茶色の紙袋を差し出す。

「これ。夜食と明日の朝食」

「え」

「あの騒ぎで買えなかったっしょ」

 渡した紙袋をマジマジと見て、ウェルは礼を言って眉間にシワを寄せた。

「ウェル、なんでお礼で眉間にシワが寄るのかね?」

「いや、悪い。これは……気にしないでくれ。ありがとう」

「良いって。宿直よろ」

 手を振って見送ろうとしたけど、不意にウェルが問いを投げ掛けてくる。

「なあ。何で、信じるんだ?」

「うん?」

「人狼とか」

「だって、現実じゃん」

「それは、そうだけど」

「メーラ達だって、現実だし。図書館の下に迷宮があるのも現実。この目で見て、触って。ウェル達は、ここにいる」

 自分の目で見て、実際そこにあるものを否定する理由はどこにもない。

「あのモフモフは現実!」

「モフモフ言うな」

 疲れたように肩を落とし、ウェルは紙袋を抱えると帰って行った。

 その翌日。

「読み書きの勉強?」

「そそ。だって、ウェルこのままだと他の宿直要員見つかるまで帰れないし、そっから『何か新しいもの』探すと更に時間掛かるじゃん」

 空の目立つ書架にはたきを掛けていたウェルが怪訝そうに、カウンターで書類を処理している此方を見る。

「だから、せめて新しいもの探しに協力しようと思って」

「それで読み書き……?」

「損をしない程度の読み書き算数は出来る。裏を返すと、それ以上は村でやらないんでしょ? なら、もう少し勉強して新しい知識を手に入れれば、他の人とも被らないし、きっと重宝するよ」

「それは……そうかも、知れないが」

「迷惑なら、無理にとは言えないけど」

「そんな事はない」

「じゃ、決まり。まあ、本当の所は当分時間が余りそうってのが大きいんだけどね」

 書架はまだガラ空き。手元のスケジュールを見れば展示とかのイベントも予定無し。

 街外れの分館にわざわざ来る物好きも居ないし、そもそも再稼働を誰か知っているのかすら怪しい。加えてお化け屋敷しかもマジもん、とくれば行く末は推して知るべし。

 絶対的に暇になる予感満載だ。

(時間は有効に使わなきゃね。ウェルにはお世話になってるから)

 宿直とか引き受けて貰えて助かってる。自分に出来る事で何かお返しが出来るならそれに越したことはないと思うわけだ。

「すみませーん、お届け物でーす!」

 ユート兄さんとは違う郵便配達の声がエントランスに響く。

「受け取ってくる」

「よろしくー」

 再び書類に目を落とし、ちらりと直ぐ側にある迷宮入口へ続くドアを見た。

(結界か……どうしたもんかな?)

 物語化身は通れるけれど、人間は拒む結界。

(どうにか一時的に解除するか、誤魔化せないものか)

 あの迷宮への入口で飛んだ火花。強行突破するには無理がある。

(メーラ達を巻き込むのは、避けたいんだよね……)

「マスター」

「およ。どうしたの? セレーヤ」

 どこか恥ずかしそうにベールの下で視線を揺らしつつ、両腕に抱いていた本を遠慮がちに差し出す。

「ああ。そうだね。セレーヤの番だった」

 その本を受け取ろうとした時。

「なあ、本が一冊届い……うわぁ!」

「ウェル!」

 何が起こったのか。確かめるより先に身体が動いた。

「くっ!」

 カウンターを飛び出し、手を伸ばす。届いた、と思った瞬間、ウェルと一緒に吹き飛ばされ空の書架に叩き付けられる。

 叩き付けられた衝撃で一瞬胸が詰まり、激しく咳き込む。

(いたぁ……何が……おこ)

 背中全体がズキズキと痛む。一緒に叩き付けられたウェルはすぐ近くで倒れているが、呻いて身動ぎしているのが見えた。

 その事にひとまず安心して、吹き飛ばした元を確かめようと目を向ける。

「―― 情けない。此れが、マスターの後釜……此れが、あの美しかった……我が家」

 ゾッとするくらい綺麗で、背筋が凍るほど昏い声だった。

 長く身体に巻き付けられた金髪とゆったりとした白いドレス。

 異彩を放つ、両目を塞ぐ黒い眼帯。そしてその周囲に浮かび漂う石礫が、その人物から発せられる怒気に応じるかの様に振動していた。

「マスター!」

 今にも泣き叫びそうな声を上げて、セレーヤが駆け寄って来ようとする。

「こんな雑なものが」

 眼帯に塞がれた眼が、セレーヤを見定め、

「っセレーヤ! 駄目!」

 眼帯の侵入者が白い手をセレーヤに向け振るうと同時に漂っていた礫が、獰猛な猟犬のようにセレーヤに向かい、飛ぶ。

「あっぅ」

「セレーヤ!」

 容赦なく叩き付けられた礫にセレーヤが、床に倒れる。

 トドメとばかりに、侵入者は無言で更に手を振り上げた。無情の雨がセレーヤに降り注ぐ。

「やめっ」

(叫んでる場合じゃ、ない!)

 叩き付けられた書架から背中を引き剥がし、駆け寄ろうとするけれど、衝撃から立ち上がり駆け出す力はなく、脚が生まれたての小鹿のように震える。

 ま に あ わ な い――。

 駆け出して、もつれた脚がぐらりと揺れて、視界はスローモーションで無情の雨が貫こうとする様を映す。

御主人様マスター!」

 声と共に、倒れ伏したセレーヤへ降り注ぐ礫が見えない何かに弾かれた。

「パロマっ」

「御主人様、動かないで下さい」

 駆けつけたパロマがセレーヤを抱き起こし、運んでくる。

 そして、

主人マスターとセレに手を出したよね。殺す」

「メーラ!」

 侵入者の背後からその首筋目掛け、メーラが手にした得物を振るおうとするも、振り向き様に見舞われた礫に吹き飛ばされ壁に叩き付けられる。

「このっ!」

「―― 弱い」

 静かに、そして殺意にも似た怒気を孕んで、侵入者は呟く。

「こんなものが、私達の代わり……?」

 本能が警鐘を鳴らす。

(これ、ヤバい……)

 侵入者の怒気に呼応して、礫が円を描き広がった。

 パロマが動けない面々を庇うように侵入者に背を向け、メーラが再び攻撃に出る。けれど、それよりも礫が降り注ぐ方が早い。

「其処までです」

 一斉に降り注ごうとしていた礫がピタリと空中で静止する。

「……」

 礫が小さな音を立てて砕け、床に落ちる。キラキラとしたそれは、ガラスように光を弾く。

「キャロルさん……?」

 新たな声の主を見て、パロマがそう呟いた。

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