第三十ニ話 強硬


『まだ本調子では無く、大事を取りまして、夜の部の公演は控える事になりました——』


 リュヌ・ルージュのスタッフブログに、濃い目の化粧と舞台衣装を取り去った、私服姿のサティーナの画像とコメントが掲載されていた。彼女の手にはバッグを持っており、これから帰宅するような画像であった。


 そのブログを見たマルジージャは屋外へ出て、オーエンズの裏手側へと足を運んだ。従業員用の裏口の真ん前で待ち構えていては、直ぐに邪魔が入ってしまう——マルジージャはそこから離れて、サティーナがよく通る帰宅路に向かい、上層と繋がるパイプの影に身を潜めた。


 暫くすると、路面を踏み締める靴の音が聞こえてきた。マルジージャはパイプの影からこっそりと顔を覗かせた。キャップの帽子にオーバーTシャツ、七分丈のジーンズにスニーカー靴——私服姿のサティーナだ。華やかな舞台衣裳を身に纏う姿も美しいが、ラフでスポーティーな服装の彼女も魅力的であった。


 マルジージャは彼女の全てが欲しかった。


 サティーナが帰宅する時、常にスーツを着た何処か柄の悪い男がいた。そのお陰か、マルジージャがサティーナの自宅まで付いて行く事が出来なかった。しかし、今日の彼女は一人で歩いていた。マルジージャは周辺を見回し、サティーナが一人きりだと確認すると、彼女の前にその身を現した。


「あぁ、サティーナ……」


 マルジージャはうっそりと彼女の名を口にし、危うい光をたたえた眼差しを向けた。


「久し振りにステージの上に立つお前は、誰よりも輝いていて、とても美しかった……。足の具合いはどうなんだ? 俺はずっと心配してたんだぞ? 今日は一人で帰るのか? なら、俺が送ってやるよ」


 息つく間もなく一方的に喋るマルジージャに、対面する彼女は何も応えなかった。そればかりか、マルジージャから離れるように後退った。


「……サティーナ、何でそんなつれない態度を取るんだ? 俺は、誰よりも、お前の魅力を分かってやっているのに、酷いじゃねぇか」


 尚も無言を貫く彼女に、マルジージャはズボンのバックポケットに手を遣った。パチンッと、音を立てて取り出されたそれは、折り畳み式のナイフであった。


「金がよぉ……底が着きそうで、もうお前の所に通えなくなりそうなんだ。その上、借りた金の催促がキツくて、お前に会いに行くのも儘ならなくなりそうで……。だから、サティーナ。俺の側に来てくれよ」


 ナイフの切っ先が、彼女に向いた。


「俺はお前に会う為に、何度もあの店に行って金を出したんだ。今度はお前が俺に尽くす番だ。なぁ、いいだろう? 俺の愛に応えてくれよぉ」


 彼女にナイフを向けたまま、マルジージャは理不尽な欲求を突き付ける。にやぁっとした笑みを浮かべ、じりじりと詰め寄ってくるマルジージャに彼女は——深い溜息をいた。


「……心底気持ち悪い」


 そう口にした途端、彼女はマルジージャの持つナイフを蹴り上げた。


「は——?」


 手元からナイフが消え、マルジージャは間の抜けた声を溢した。


 カランッと、折り畳みナイフが落ちる間に、彼女はマルジージャの腕を捻り上げた。腕の痛みに「ぎゃ!」と叫ぶマルジージャに、彼女は気を咎める事は無かった。更に、彼女は背後に周ってマルジージャの膝裏を蹴り、バランスを崩させた所で有無も言わせずに跪かせた。


 腕を取られつつ膝立ちにされた所で、マルジージャは喚いた。


「——お、お前、サティーナじゃねぇなっ!」


「今頃気付いたの? 随分と薄っぺらい愛だね」


 サティーナの恰好をした彼女——アイは、今まで気付かなかったマルジージャに呆れて言った。


「アイの言う通りだ」


 別の声に、マルジージャは顔を上げた。マルジージャの目線の先にある路地の曲がり角から、レオンとタダシが現れた。


「その上、全くもって下劣極まりない」


 レオンが冷徹に物言い、タダシも侮蔑した目でマルジージャを見下ろした。


「テメェは……っ!」


 マルジージャはレオンの事を覚えていたようで、ぎっと睨み付けた。だが、そんな態度を取られても、レオンは怯むどころか、増々冷めた目をマルジージャへ寄越した。


「お前がサティーナと言う女性に向けるのは、愛なんかじゃない。只の独り善がりの欲望を押し付けているだけだ。——彼女の意思も尊厳も尊重しない男が、愛を語るな」


 レオンは、マルジージャに至極真っ当な正論を突き付けた。しかし、マルジージャはレオンを睨み付けるばかりで、納得する様子も改心する様子も見られなかった。そればかりか、不敵な笑みを浮かべて見せた。


「テメェら……オレをこんな目に合わせて、ただじゃおかねぇぞ」


「ほう。どうなるってんだ?」


 タダシが胡散臭そうに片眉を上げた。


 すると、マルジージャは唯一自由に動く右腕を口元に持っていき、ジャケットの袖口を咥えた。そうして、ぐいっとそれを捲り上げて腕を晒し——その印を掲げた。


「この印が分かるか? これは、アネモネの一味である証だ! 知ってるだろう? 頭のジェットが束ねる犯罪組織だ!」


 マルジージャはぐいぐいと、腕にある花模様の印をレオン達に見せ付けた。アイも、背後からマルジージャの腕にある印を覗き見た。


 一瞬、アイはぞくりとした。


 それは確かに、アイが実際に見た事があるアネモネの印に似ていた。アイは、当時の凄惨な光景がまざまざと呼び起こされ、思わず息を詰まらせた。しかし……。


「つまり! この印があるオレはアネモネの一味って事だ! オレに何かあっちゃ、仲間が黙っちゃいぜ? ざまぁないな!」


 マルジージャのほくそ笑んだ態度に、アイはすっと頭が冷えた。レオンとタダシも、アイと同じように白けた顔をしていた。一度、どうしようもないと言った風にレオンがかぶりを振ると、マルジージャに向かって言った。


「それは都合が良い」


「へ?」


「丁度アネモネには用があったんだ。早速、その仲間とやらを呼んではくれないか?」


 レオンがそう言うと、目に見えてマルジージャはあたふたと焦りだした。


「お、お前ら、正気か? あのアネモネだぞ? それでオレは、その仲間で、オレを虚仮こけにしたお前らは、アネモネに——」


「だから、早く仲間を呼べばいい。携帯電話は持っていないのか? それとも、全部嘘っぱちか?」


 マルジージャは狂ったように、頭をぶんぶんと横に振った。


「オ、オレはアネモネだ! この腕の刺青が、何よりの証で……あ、あと! アジトだって知ってるんだ!」


「アジトだと?」


 その言葉に、タダシがすかさず反応した。


「そうだ! アネモネの一味であるオレが知っていて当然だ! だから、痛い目に遭いたくなきゃ、さっさと腕を離すんだな! あと、サティーナだ! サティーナを連れてこい! 彼女をオレの元へ連れて寄越したなら、今回の事は勘弁してやる!」


 タダシの反応に気を取り戻したマルジージャは、アイに捩じ伏せられている事も忘れ、声高に叫んだ。こんな状況にも関わらず、未だに己の欲求を通そうとする男に、アイは心底呆れ果てた。


「……お前に尋ねたい事がある」


 レオンが言った。


「以前、お前が華爛街の兵隊からリンチにあったにも拘わらず、何故、過激派組織のアネモネが華爛街へ報復しに来なかったんだ? さっきお前が言った通りなら、華爛街はとっくに報復を受けているだろうな」


「そ、それは……そうだ! あの街で、陥没事故があっただろ! あれは、仲間がオレの為に報復した証拠だ!」


「と言っても、あの陥没は華爛街の裏手で起きた事で、華爛街は何一つも痛手を負ってはいないな」


 冷静沈着に物を言うレオンに対し、マルジージャは頭頂部から玉のような汗を滲ませていた。


「それと、今まで鳴りを潜めていたアネモネの一員が、酒場で素性を明かすのはどうかと思うぞ」


 タダシがしゃがみ込み、その目をマルジージャの泳ぐ目に合わせた。


「本物なら、そんな軽率な行動はしない。だが……」


 がしっと、タダシは花の印があるマルジージャの腕を掴み上げた。


「……この腕の刻印。こいつは確かによく似ている」


「こ、これは、本物——」


「本物はこんな丁寧な彫り物じゃない。焼印だ」


 マルジージャが「え!?」と、驚嘆した。


「知らなかったか? まぁ、公表はされていなかったしな。しかし、偽物にしては似ているな。……何処かで本物を見て、真似したな?」


 すると、マルジージャはぎくりと体を揺らした。


「何処で見た? さっき、アジトも知っていると言ったな? 答えろ」


 タダシのその問いに、額からだらだらと脂汗を流していたマルジージャだったが、ぽかんと呆けた顔をして「……は?」と、間抜けな声を出した。


「……何だ? もしかして、アネモネのアジトを知りたいのか?」


 マルジージャはそう言うと、一度考え込む様子を見せた。そして途端に、にやりとした。


「だったら取引だ」


「取引?」


 タダシとレオンが同時に怪訝な顔をした。


「あぁ、そうだ。テメェらにアネモネのアジトを教えてやってもいい。但し、教えてやる代わりに、サティーナをオレの元に——いぎゃああああああっ!」


 未だに反省の色が無いマルジージャに、アイは背後から掴んでいたその腕を更に捻り上げた。


「こ、このアマ……っ!」


「さっきもさ、あんたみたいに脅す事しか能がない男を、こうやって捩じ伏せてきた所なんだよね」


 アイは、今日の午前に終わらせた仕事の事を言った。別れ話の付き添いで対面した依頼者の交際相手であった男は、威圧的で常に脅すような物言いをする人物であった。


「そいつは直ぐに根を上げて泣きじゃくってたけど、あんたはどう? 上層だと過度な事は出来ないけど、下層でなら……骨の一本ぐらい折っても、警備軍の目は無いしね?」


 アイは、食い込む程に指先に力を入れると、徐々にマルジージャの腕を捩じっていった。その内、男の腕の関節部分から、ミシッと静かに鳴った。


「ひぃ! お、折れる! 本当に折れちまうぅっ!」


「アイっ」


 マルジージャの腕を本当にへし折りかねないアイに、タダシは声を上げた。レオンも傍に駆け寄り、宥めるようにしてアイの肩に手を置いた。


「少々、熱烈過ぎないか?」


「ちょっとぐらい痛め付けてやらないと、馬鹿には分からないよ」


「しかし……」


「こんな奴に、いつまでも構ってらんないでしょ! でないと、またアネモネのせいで……っ!」


 またアネモネのせいで、人が傷つく……死んでしまう……。早くヨンスを見つけなければならない——そんな不安と焦れったさで、アイは感情が昂り、思わず大声を上げた。


?」


 レオンが目を見張って、アイを見詰めた。


「……アイも、十四年前に誰かを亡くしたのか?」


 ぽつりと呟かれた言葉に、アイははっとした。横に振り向けば、レオンが両眉を下げ、寂し気な表情を浮かべていた。


「そうだな……。なりふり構ってられないよな」


 レオンはそう言うと、突然、マルジージャのふくらはぎ部分を踵で踏み付けた。マルジージャは「ぎゃぁ!」と悲痛な声を上げるが、レオンはそれを無視し、男の脛が地面に擦すれるように、ごりごりと前後に揺すった。めり込むようにふくらはぎを踏まれた上、脛を硬い地面で磨り潰すような真似をされ、マルジージャは痛みに叫んだ。


「俺は焦らされるのは嫌いじゃない。愛の駆け引きをするには、良いスパイスになる。だが、それを今やるべきでは無いと、理解したか?」


 レオンは踏み付ける事を止めずに、痛みに呻くマルジージャに無感情に言った。


「さっさとアネモネについて知っている事を話した方が良い。早く答えないと……、骨を一本折るどころか、粉々になってしまうかもな?」


 アイはレオンの一変とした行動に面を食らった。だが、不穏な言葉を綴るレオンに、アイも直ぐに続いた。


「まぁ、一本どころでは無いかもね」


「お前ら……」


 タダシが呆れた目をアイとレオンに寄越した。しかし、先程のアイの怒号に思う所があってか、今度はアイ達の強硬を止めはしなかった。それが、マルジージャの赤ら顔を真っ青に染め上げた。


 そうして、マルジージャはとうとう観念し、アネモネのアジトについて話した。

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