第三十話 赤い月と鷹の目


 アイは、睡眠不足のマークの代わりにフィフィを上層まで送ると、元々ストレイ・キャッツ・ハンドに依頼があった仕事に向かった。


 反政府過激派組織アネモネの所在を探るなど、ヨンスの身を思えば、表立って知られる訳にはいかず、あくまでも日常を装って便利屋家業に勤しんだ。それに、次に向かう件のキャバレーは午後からの営業なので、各々割り振られた仕事を午前中に終わらせるように務めた。


 アイの請け負った仕事の依頼は、別れ話の付き添いであった。依頼者は気弱な女性で、おどおどとしつつも交際相手の男に別れ話を切り出すと、男は激怒し、依頼者に手を上げようとした。アイはすかさず男の腕を捻り上げ、男を屈服させた。アイを只の女だと油断した男は、いとも簡単に地に伏せられた事にショックを受けて泣きべそになり、依頼者に二度と近付かない事を確約させた。依頼者から何度も感謝された所で仕事は終わり、アイは路面電車でパラス都A-十区に行き、スレッドで下層へと下りた。


「アイ、こっちだ」


 アイがスレッドを出ると、そこで待ち合わせをしていたタダシとレオンの二人が、アイへ呼び掛けた。二人の元へ歩み寄ると、アイは改めてオーエンズ街を見渡した。


 オーエンズ街も華爛街と同じくネオンの光に輝く歓楽街であるが、カジュアルな風体の若者はあまり見掛けず、シックな装いをした客層が多く見え、街並みも華爛街と比べると落ち着いた雰囲気であった。アイ達が今いるスレッドがオーエンズ街の主な出入り口になっているようで、スレッドへの人の出入りが多く、大通り周辺よりもスレッド周りの喧騒が一際大きく感じられた。


 そして、アイが遠くに目を遣ると、大きな一本道の先に、楕円形の大中小の層が積み重なったような大型の建造物が見えた。


「あそこが、大型娯楽施設のオーエンズだ。我らが目指すキャバレー・リュヌ・ルージュの他にも、カジノ、劇場シアター、なんと贅沢にもプールラウンジなんかもある」


 レオンがアイの目線を追うと、仰々しく言ってのけた。


「いかにも金持ちの遊び場だな」


「しかも下層でとか……」


 住む世界が違うとでも言う風にタダシが遠い目をし、アイも呆れ返るような苦い感情が湧いた。


 そこでふと、アイはある事に気付いた。


「……ところでさ、そんな高そうな所に、こんな格好で入れるの?」


 パーカーにブルゾン、ジーンズスタイル——三人の服装を改めて見れば、明らかにカジュアルな装いをしており、タダシとレオンが「あ……」と、同時に声を溢した。






 円柱のオブジェに挟まれた石畳の道のりに、外壁の建築美をライトアップする事により、高級感が溢れだしている高級娯楽施設オーエンズの前で、アイ達は渋面をさらしていた。


「参ったな……」


「俺としたことが、失念したな」


 タダシが頬をポリポリと掻いて呟き、一度オーエンズ街に足を運んだ事があるレオンは小さく唸って項垂れた。


 オーエンズの文字と笑った口のよう赤い三日月のオブジェを掲げる正面出入り口には、ガードマン達がいた。彼等にドレスコードについて尋ねれば、やはり普段着での入場ははばかられた。


 完全な凡ミスだが、皆がヨンスやアネモネの事で切羽詰まった心境に陥っていたので、その場の仕来たりに失念していたのも致し方無い事ではあった。


「服屋……ブティックもあるらしいけど?」


 アイは、正面出入り口以外に開放されている一階のブティックショップを指差した。しかし、タダシが即座にブンブンと手を振った。


「こんな所で売ってる服なんて、馬鹿高いに決まってるだろうよ……」


「アイのドレスアップ姿は、是非とも拝みたい所なんだがな」


 レオンも嘆息をいて言った。


 はっきりと、三人の現在の手持ちでは、ドレスコードに合った平服を購入するには厳しい状態であった。しかし、アイ達の目的はあくまでもアネモネを名乗った男である。高級キャバレーまで潜入して男を探さないでも、オーエンズの前で待ち伏せするパターンもある。だが、ガードマンがいる手前、こそこそと待ち構えていれば、不審者と見なされ追い払われる可能性が充分にあった。


 ——どうしよう……。


 一度、事務所まで戻るべきかと、皆が頭を悩ませていた。その時であった。


「——っ!」


 ぞわっと、不意にアイの背中を悪寒が走った。まるで猛禽類が獲物を見定めたかのような威圧に、アイはタダシ達の腕を掴み、さっと円柱の裏に身を潜めた。突然、物陰へと引っ張り込まれたタダシとレオンは、怪訝な表情でアイを見た。


「アイ? どうしたんだ?」


「……誰かがこっそりとこっちを見てる」


「何だと?」


 老眼鏡から覗くタダシの黒っぽい目の色が、すぐさま警戒心に染まって「何処からだ?」と、静かにアイに問うた。アイは目を凝らした。


「あの月のオブジェにカメラがある」


 アイは柱の影から、正面出入り口にある赤い月のオブジェに注意深く目を遣った。


「俺達の場違いな見た目のせいで、怪しまれたか?」


「一旦、引き返す?」


「だがなぁ……、男のお気に入りのダンサーが今日復帰とあったら、必ず現れそうな——って、どうした、レオン?」


 タダシがレオンに問い掛けた。アイもレオンに顔を向けると、レオンは警戒する体勢を崩さずにいたが、目を丸くしてアイを見ていた。


「よく……カメラがある事に気が付いたな」


 レオンにそう指摘され、アイはぐっと息を飲んだ。確かにレオンが言った通り、傍目から月のオブジェに隠されたカメラに気付くのは難しい事だ。レオンが驚くのは当然だろう。


「ちょっと感が良いだけだよ……」


 アイは思わず、フードの裾を目深になるよう指で引き下ろし、レオンからふっと目を逸らした。


「おい、何か不味そうな雰囲気だぞ」


 タダシの不穏な物言いに、アイとレオンの意識は正面を向いた。屋内から蝶ネクタイをしたスタッフが出てくると、アイ達に目を遣りながら、何やらぼそぼそとガードマン達に耳打ちしていた。一旦、引こうか——と、アイ達が踵を返そうとしたが、そのスタッフがにこにこと愛想良く近付いてきた。


「ようこそ、オーエンズに御越し下さいました」


 スタッフは愛想どころか、とても礼儀正しくアイ達に腰を折って見せた。突然の事に呆然とする三人に、スタッフは構うことなく最上の接客をした。


「本日は、どのような御利用を当施設に御求めでしょうか?」


 先に気を取り戻したタダシが、目的のキャバレーの名を口にした。


「あぁ~……、リュヌ・ルージュって言うキャバレーに行きたいんだが……」


 すると、スタッフはにこりと微笑を浮かべ、「では、御案内致します」と、何故かアイ達を案内し始めた。


「当施設のオーナーから、皆様には特別おもてなしするよう、承っております。どうぞ、お入り下さい」


 ——オーナー?


 オーナーとは誰か―—と問う間も無く、案内役となったスタッフが正面出入り口の前までアイ達を招いた。そして、そこに控えているガードマン達が、両開きの重厚そうな扉を開け放った。


 扉を潜ると、声が響き渡りそうな程のエントランスホールに、連なったクリスタルが煌めくスパイラルシャンデリアが、アイ達を出迎えた。奥へ進めば、両端に大階段、エントランスカウンター、エレベーターがあった。エントランスカウンターに控えるスタッフからお辞儀をされて進めば、三機ある内の中央のエレベーターの前までアイ達は案内された。そのエレベーターの前だけには、チェーンスタンドが立っていた。


「こちらのエレベーターは、VIP様専用になります」


 アイ達三人は、同時に「はっ!?」と素っ頓狂な声を上げた。


「今から御案内するお席も、当然VIP様専用のお席となります」


 あまりの特別待遇に驚愕するアイ達に対し、案内役のスタッフは淡々とチェーンを外してエレベーターのボタンを押した。すかさずタダシが、そこまで持ち合わせが無い事とスタッフに耳打ちするが、スタッフは事も無げに「全て無料になります」と口にし、アイ達は言葉を失った。


 そうして、アイ達はスタッフに案内され、装飾に拘った豪奢な扉を潜ると、キャバレー・リュヌ・ルージュのVIP専用のボックス席に着いた。閉じられた深紅のカーテンが開かれると、その向こうはステージの真正面で、視界を隔てる物が何も無く、ステージが良く見える特等席だ。


 調度品もサービスも特別であった。ベルベット素材の高級感のある広く座り心地の良いソファーに、光沢のある木目調のシックなテーブルの上には、淡い琥珀色に細かい泡粒が昇るシャンパンにミネラルウォーター、オードブルの大皿が並べられた。オードブルには、野菜のピクルスやカプレーゼ、ラタトゥイユに飾り切りがされた果物の他に、ローストビーフ、生ハム、蒸し鶏など、ソイミートでは無いの肉料理が大皿を彩っていた。


「クリスがこの事を知った日には、噛み付かれそうだ」


 レオンが、テーブルの上に乗った豪華な料理と飲み物に目を落とすと、しみじみと言った。少々がめつい所があるクリスなら妬ましく感じるだろうと、アイも想像が付いた。


 ―—それにしても、この状況は何なのだろう?


 オーエンズのオーナーなる人物が、アイ達を特別な客として迎え入れ、特別待遇でもてなさている。それは何故か? オーナーとは一体何者なのか……——?


「まさか、ぼったくり詐欺だったり?」


「あ、俺も少し思った」


「一応、携帯電話のボイスレコーダーで、『無料』の言質は録音したぞ」


 いつの間にか、タダシは携帯電話のボイスレコーダー機能を活用していたようで、己の携帯電話をぷらぷらとアイとレオンに掲げて見せた。


 その時、ふっと照明の明かりが落ち、会場全体がぼやっと薄暗くなった。何処からともなくドラム音がリズムを刻み、サックスが軽快な音階を響かせた。そして、舞台に光が差し、ダンサー達が滑るように舞台に現れ、ショーが始まった。


 特別待遇に圧倒されて意識を持っていかれたが、本来の目的を思い出し、アイ達はまずはダンサーのサティーナを探した。サティーナは足の治療から復帰したばかりなのか、端の位置で踊っていた。そこから、サティーナが良く見える席を辿っていくと……——、目的の男がいた。


 数日振りに見るスキンヘッドの男は、相変わらずの赤ら顔で、チェック柄の灰色のジャケットを着用していた。男の目は真っ直ぐサティーナに向いていた。そして、その目が何やら危うい光が灯っているようで、アイは顔をしかめた。


「何だか危ない感じがしない?」


 アイがそう言うと、タダシとレオンも頷いた。


 そこへ——。


「——何が、危ないんでしょうかねぇ?」


 ふいに、三人が座るソファーの後方から声を掛けられ、アイ達の肩が跳ねた。


「ショーを見ないで、一体何を見てらしたんです?」


 男の声だ。アイ達は後ろへ振り替えった。そして、三人がその人物を見遣ると、三人共が眉を寄せて瞠目した。


 そこに立っていたのは、スーツ姿の眼鏡を掛けた、痩せ型の中年の男であった。一見、穏やかな物腰ではあるが、猛禽類を思わせる目は、その獰猛さを隠しきれていなかった。


―—タカモリ……。


 アイは忌々し気に、その男の名を口の中で溢した。


 タカモリと言うその男は、西郷寺会と言う組織にくみする幹部——ヤクザであった。

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