第二十六話 アネモネの花


 アイに連れ添われて、女子用公衆トイレから出てきたフィフィを、外で待っていたレオンが無事を確認して抱き締めた。そして、ヨンスが近くにいない事をレオンが知ると、一先ずフィフィをマークの元へ送っていく事を提案した——。


「——フィフィ!」


 レオンから連絡を受け、フローラ都A-九区にあるスレッドで待っていたマークは、アイと手を繋いで現れたらフィフィを目にした途端、駆け寄ってきた。


「園長……」


「随分と、長い寄り道だったな?」


 溜息を吐いて目の前に立つマークを、フィフィは不安げに見詰めた。苦々しい表情を浮かべるマークは、しゃがんで、その大きな手をフィフィへと伸ばした。フィフィは叱られると思ったのか、びくっと肩を竦めた。だが、それはフィフィの思い過ごしで、大きな手は優しい手付きで小さな頭を撫でた。


「無事で良かった」


 マークは、心底ほっとした声音で言葉を紡いだ。その野太く安らいだ声を聞いて、フィフィの目にじわりと涙が浮かんだ。


「ごめんなさい……っ」


 謝罪し、ぽろぽろと涙を流すフィフィを、マークは背中を摩って宥めた。


「あんまり心配かけさせんな」


 マークはフィフィにそう言うと、アイに目を向けた。


「あんた、携帯電話持っていないんだったか?」


「うん」


 戦前のように、携帯電話が一般的に流通されるようになったのは最近の事であった。携帯電話が市場で流通されると瞬く間に売れ、常に品薄状態となっており、アイはストレイ・キャッツ・ハンドに臨時で就いた今でも、携帯電話を所持していなかった。


「悪いが、フィフィを送ってやってくれねぇか? 俺もヨンスを探しに行ってくる」


 連絡手段が無いアイが探し回るより、携帯電話を持っているマークが探しに行く方が効率が良いのだろう——。アイは頷いた。


「でも、念の為にここで待っていなくてもいいの?」


「もう少ししたら、クリスとタロウもこっちに来てくれる事になったから大丈夫だ。それに、もうじっとしていられん……」


 ずっと待ってばかりでは、マークはやきもきして落ち着かないのだろう。アイは「分かった」と、頷いた。


「気を付けて帰れよ」


「うん」


 マークはもう一度フィフィの頭を撫でると、ヨンスを探しに向かった。


「……じゃあ、行こう」


 マークの大きな背中を見送ると、アイはフィフィを連れてスレッドの中へ入った。中にあるエレベーターは上層階で留まっており、蛇腹式の扉が喧しく開くと、二人は直ぐ様に乗り込んだ。扉が閉まり、アイとフィフィを乗せた箱はゆっくりと下へ動き出して——アイは口を開いた。


「ねぇ、フィフィ」


 アイが呼び掛けると、フィフィはきょとんとした顔を向けた。


「本当にもう、いじめられてはいないの?」


「う、うん」


 アイの淡々としたさまに、フィフィの体に緊張が走ったのか、返事の言葉が詰まった。


「じゃあ、ヨンスの居場所は? 本当に何も知らない?」


 アイがそう聞くと、フィフィの顔がさっと青褪めた。


「フィフィ……、どうしてそんなに怯えているの?」


 フィフィを見付けた時、ヨンスの事を聞けば、彼女は見るからに動揺していた。だからアイは、フィフィと二人っきりになるのを待っていた。誰にも聞かれず、誰にも見られずに——そうした方が良いと予感した。


「隠さなきゃいけない事が、起きているの?」


 アイは言い立てた。


「フィフィが危険な目に合わないのなら、言わなくても良いよ。でも、ヨンスは?」


 脅すような物言いだと、アイは自覚していた。しかし、何処にいるかも分からないヨンスの身を案じるのであれば、仕方のない事であった。


 アイは更に言い募った。


「ヨンスが、危ない目に合ってもいいの?」


 エレベーターの下降する音だけが、閉鎖された重苦しい空間に響いた。フィフィが口を引き結んで、体をぶるぶると震わせている。何か知っている事があれば話して欲しいと、アイは切に願った。アイは、もう……。


 ……もう、子供が恐怖するようなさまは、見たくない——。


 頭の片隅で、誰かの泣き叫ぶ声が遠く響いた。まるで、アイを責めるように……。


「……で、でも、喋ったら——っ」


 やがて、固く閉ざされていたフィフィの口が開いた。


「喋ったら、皆死んじゃうって……っ!」


「どういう事?」


 フィフィの口から出た不穏な言葉に、アイは眉を寄せた。


「昨日、ヨンスがいつもどこに遊びに行っているのか気になって、こっそり後を付いていったの。でも、途中で見失っちゃって……——」


 フィフィは、しばらくヨンスを探し続けた。だが、辺りは下層の中でも人気の無い場所で、フィフィは途中で怖じ気付き、ひだまりの家に帰ろうとした。その時、フィフィと似たような子供の背丈──ヨンスを見付けた。フィフィはこっそりと後を付けていたのも忘れ、ヨンスの前にどうどうと現れた。


「そうしたらヨンス、びっくりしていて、すごく怖い顔になったの。それで、手を掴まれて、端っこにぐいぐい引っ張られて、言われたの」


『ぼくがここに来たことを、誰にも言わないでっ。フィフィは、誰にも見つからないように家に帰るんだ。もし、誰かに見られたり、今日のことを言ったら……、皆死ぬかもしれないから……っ!』


「……」


 フィフィの話を聞いたアイは、昨日のヨンスの事を思い出していた。ヨンスは、アイとレオンを見て酷く動揺していた。あの時のヨンスは、フィフィと会った直後であったのだろう。


「わたし、怖くて……、昨日ひだまりの家に帰っても、今日の放課後になるまで、ヨンスに話しかけられなかった」


 恐ろしい言葉を吐いたヨンスに、フィフィは言葉を交わすどころか、目も合わせずにいたと話した。


「放課後、いつも一緒に帰るのに、ヨンスは先に学校を出てて、わたし追いかけたの。そうしたらヨンスに、『いつものように公園のトイレに隠れていろ』って……。わたし、ちゃんとヨンスと話しておけば良かった」


 フィフィの顔色が、後悔の色に染まっていた。


「い、いつも、助けてくれていたのにっ。わたし、何にも、で、出来なかったっ。あの時のヨンス、すごく泣きそうな顔っ、してたぁ……っ」


 フィフィは、わっと泣き出した。アイは慰めるように、フィフィの背にそっと手を遣って抱き締めた。


「ねぇ、フィフィ。昨日、ヨンスを見付けた場所を教えて」


 フィフィは、はっとしてアイを見上げた。


「もしかしたら、そこにヨンスがいるかもしれないから」


「で、でも、みんな死んじゃう、かも……っ」


「私達が守るよ。絶対。レオン達が強い事は、知っているんでしょ? 私も、まぁ……それなりに強いから」


 アイはしゃがんでフィフィの目線に合わせた。フードから覗く青い目の光は力強く、嘘は無かった。


「ヨンス、見つけよう?」


 アイがそう口にすると、フィフィは涙を拭ってこくんと頷いた。






「この辺りだよ」


 下層に到着してスレッドを出ると、フィフィが先頭に立ってアイを案内した。ひだまりの家が位置する南東街を通り過ぎ、大きな通りには出ずに、人目を避けてか小道を縫うように進んでいった。着いた場所は東街の中心地域であった。


「ヨンスはこんな所に来てたの?」


 アイは、ぽつりと呟いた。


 街の境目は、多くの建造物が「地面」を支える丈夫な柱となっている為、下層の中では新しい建造物だ。やはり、そう言った真新しい場所には人が集まり、逆に、戦後のまま放ったらかしの土地には人は立ち寄らなかった。……後ろ暗い人間以外は──。


「周りに、人の気配は無さそうだね」


「分かるの?」


 不思議そうにフィフィが聞いた。


「うん。でも、私から絶対に離れないでね」


 アイは案内してくれたフィフィを後ろに遣り、建造物に沿うようにして周辺を見回った。どこも廃れた廃墟ばかりで、人の通りが無いせいか、微かに臭う異臭が辺りに滞っていた。


 アイ達は転々と建物の影に張り付き、内外に人——ヨンスがいないか探るが、そういった気配は感じられなかった。あるとすれば、埃と塵、建物の壁などに落書きされた絵や文字だ。次の外階段がある建物もそうだった。階段下に潜みながら探るも、人の気配は無い。


「ヨンス……」


 ヨンスが見つからない事に、フィフィは不安げに彼の名を呟いた。


「……」


 結局、ヨンスは見つかりそうに無かった。アイは一旦引き揚げようかと考えた。それに、フィフィをこれ以上連れ回すのも良くない。アイはフィフィに、ひだまりの家へ帰ろうと告げようとして振り返った。しかし──。


「……?」


 フィフィに目線が行く前に、アイは階段裏の方に目が行った。


「アイ? どうしたの?」


 フィフィも、アイの視線の先に目を遣って顔を上げた。


「お花の絵?」


 フィフィの言う通り、階段の裏には小さな花の削り絵のような物があった。只の落書きには見えない——刻印のように見えた。葉模様の円の中に描かれた花は白く、花芯部分は黒く塗り潰されていた。その花の形を、アイは見た事があった。——何処で?


「何のお花だろう?」


 フィフィがそう言葉をいた時、アイの頭の中で記憶が駆け巡った。


『アネモネだっけ?』


『【見捨てられた】っていう、花言葉に因んでさ』


『何でも、腕や手に花模様の印があるのが、組織の証らしいぞ』


 群衆の声が耳にこだまし、記憶の映像からは、小さな手の甲に花の形をした痣のような物が見え——アイは愕然とした。


「——フィフィ、この奥に隠れててっ」


 アイに強く言われたフィフィは戸惑った。


「え、でも……」


「絶対に、置いていったりしないからっ」


 アイは、ヨンスに置いていかれたフィフィの心情を察して、咄嗟に言った。


 フィフィを階段下の奥へ隠れるように促すと、アイは一階の入口扉へ行ったが、板が打ち付けられて封鎖されていた。アイは直ぐ様に、外階段を音も無く駆け上がった。二階から上への道は、廃材やごみで埋まって閉ざされており、自然と二階への扉の取手に手を掛けた。


 一階の扉はしっかりと封鎖されていたにも拘わらず、そこの扉はすんなりと開いた。……やはり人の気配は無い。アイは静かに屋内へと体を滑り込ませ──息を飲んだ。


「な——っ!?」


 そこは仕切りの無いワンフロアで、汚れてひびのある嵌め殺しの窓から弱々しい光が射し込み、ぼやっと室内を照らしていた。室内には、小さいテーブル、簡素なスツールが三脚、そして……死体があった。


 アイは動揺しつつも、扉の傍からそれ以上動かずに、死体を凝視した。パイプ椅子に体を縛り付けられたまま、横向き倒れている死体は男であった。腿、腹、栗色の髪が血で濡れ、口は悲鳴が漏れないようにか布で塞がれており、救いを求めるような目は、扉の方——こちらに向けられていた。


 アイは、その男の死体に見覚えがあった。


 栗毛に、人の良さそうな顔付き、服装は軍服では無く、アイが昨日さくじつに見た私服のままであった。


 死体の男は、ノア国家治安警備軍の軍人——エイベルであった。

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