第二十四話 夕空に消えた影


 次の日、アイはペット用のキャリーバックを抱えたレオンと共に、イリス都A-八区北街にある高級アパートの最上階の一室——常客のマダム・アデリーヌの居宅にいた。


 内装は、白を基調とした淡い色合いが全体的に統一され、脚の先が丸い家具や、大きな窓を覆う滑らかでたっぷりとしたドレープの掛かったカーテンなど、クラシックな趣きだ。


 レオンと共に初めて居間に通されたアイは、家主の好みそうなものだな——とぼんやりと思った。そうすると、居間の中央から甘ったるい桃色の声音が飛んできた。


「レオン! お仕事ご苦労様!」


 居間に待ち構えていたマダム・アデリーヌは、熱い視線をレオンに向かって発射させていた。


 マダム・アデリーヌの垂れつつある顔には、ばっちりと化粧を施しており、でっぷりとした体には光沢のある紺色のワンピースドレスで覆っていた。大きな石がきらりと光る指輪がマダムの指にごろごろと並んでおり、香水の香りは……きつくなかった。その事に、アイはほっとした。


「さぁさぁ、お疲れでしょう? どうぞ、お掛けになって」


 マダムはアイの存在など無視し、レオンにソファーを勧めた。


 アイは、鷲鼻が特徴的な家政婦のミラのフォローにより、レオンと同じく革張りのソファーへ促された。アイは、マダム・アデリーヌがレオンをとても気に入っている事を考慮して、意識的にレオンとは大きく離れて座った。以前、マダム・アデリーヌから睨まれたアイは、要らぬ誤解をされたくなかった。


 そもそも気に入らぬのなら、いつものようにレオンだけを自宅に招き入れたら良いものを、どういう風の吹き回しか、アイも招き入れられてしまった……。


「あぁ、バルバーラ。ママの可愛い子ちゃん。予防接種に付き添ってあげられなくて、ごめんなさいねぇ。怖かったでしょう?」


 レオンがキャリーバックを開けると、すぐさまに真っ白な猫が飛び出てきた。ローテーブルを挟んだ向かい側に座るマダム・アデリーヌが猫を抱き上げると、猫は恨めし気に「にゃぁ」と鳴いた。


 今日、マダム・アデリーヌから受けた依頼は、彼女の愛猫であるバルバーラを動物病院でワクチン注射を受けさせるものであった。一人でも充分にこなせる仕事であったが、以前、稀少な愛玩動物が故に攫い屋に狙われたこともあり、マダムは二人以上で愛猫を護衛するように言い付けた。


 ——ペット様々だな……。


 マダム・アデリーヌの腕の中でゴロゴロと鳴くバルバーラは、ふわふわの純白の毛並みがとても美しい。とても金と手間が掛かっているのだろうと思うと、下層で暮らすアイは何だか複雑な気持ちになった。


「この子ってば、知らない場所へ出掛ける程の大胆さがある癖に、注射だけは怖じ気付いちゃうのよねぇ。大変じゃなかったかしら?」


「彼女のお陰で、そこまで苦労は無かったですよ」


 首を傾げたマダムに、レオンはアイを差して、にこやかに言った。


 アイのお陰と言うのも、注射に怯えたバルバーラが診察台の上で激しい抵抗を見せたが、最終的にアイの腕の中に縋り付く事で、バルバーラの抵抗は終わった。


 その時のアイは、両肩に爪を立てられたり、被っているフードの隙間に頭を突っ込まれたりして、肩は痛いわ、白いふわふわの毛が首や鼻をくすぐったりと、アイは我慢を強いられた。


 そんな功労者であるアイに対して、マダム・アデリーヌは「あら、そう」と、気のない返事をした。


「随分と、あたくしの可愛い子ちゃんに気に入られているようねぇ?」


 ずっと居ない者として扱われるだろうと思っていたアイは、マダム・アデリーヌから声を掛けられて、多少驚いた。


「まぁ……、普通かと……」


 アイの愛想のない返しに、マダム・アデリーヌは「ふん!」と、不機嫌そうに鼻を鳴らした。気の利いた言葉を繰り出すセンスなど、自分は持ち合わせてはいないので仕方がない事だと、アイは内心で肩を竦めた。


「本当は、あたくしが付き添いたかったのだけど……明日入院するから、その準備をしなくっちゃいけなかったのよぉ」


 マダムは、憂鬱そうに溜息をいた。


「どこか具合悪いのですか?」


 整った眉を八の字に曲げたレオンに、マダム・アデリーヌは「あらやだ!」と、悪戯っぽく声を上げた。


「入院と言っても検査入院よ~。心配なさらないで」


「なら、良かったです」


 ころころと微笑むマダムを見て、レオンはほっとした様子を見せた。


 そこへ、いつの間にか姿を消していた家政婦のミラが、お茶菓子が乗った盆を提げて再び現れた。瞬く間にテーブルの上には、紅茶が入ったティーカップと、タルト生地の上にしっとりとキャラメリゼされた林檎が積み重なった焼き菓子——タルトタタンが、三人分並べられた。


 マダム・アデリーヌはミラにバルバーラを預けて下がらせると、先程のバルバーラのような恨めしげな目を、テーブルの上に落とした。


「お菓子作りも食べるのも、しばらくお別れだわ。今という堕落の時を、共に味わいましょ」


 そう言って、マダム・アデリーヌは惜しむように、サクッとタルトタタンにフォークを刺した。






「アイ? 疲れているようだが、どうしたんだ? マダムお手製のデザードは絶品だったろう?」


「知ってる? 目の前で睨まれながら食べるのって、案外神経が磨り減るって事を」


 上層の空がすっかり橙色に染まった頃、横で悠々と歩道に足を踏み鳴らすレオンとは違い、アイは気疲れしていた。 


 アイは、華欄街の元締めであるクイーンとのお茶会も苦行に感じたが、マダム・アデリーヌから要らぬ嫉妬の目を真向いから投げつけられるのも、中々に気力が磨耗した。


 それを聞いたレオンは「あぁ!」と天を仰ぎ、わざとらしく嘆いた。


「アイ、すまない。数多の女性を惹きつけて止まない俺という存在が、アイに苦しみを与えてしまうなんて……っ。どうか、この罪づくりな男を許してくれないか?」


「少しでもその存在に罪悪感を感じているなら、せめてその口を閉じて欲しい」


 アイは鬱蒼とした思いで言うと、レオンは芝居がかった態度を崩して苦笑した。


「まぁ、半分冗談はさて置き——」


「——半分?」


「まぁ、聞いてくれ。マダムは、わが社を贔屓にして頂いている常客だ。アイも交流を持った方が良い。女性にしか頼めない案件も起きるかもしれないからな。それに、マダムの愛猫であるバルバーラは、アイに懐いているようだし」


「どうだか」


 アイは気のない返事をした所で、七区の中央街に足を踏み入れ、広場が見える十字路に差し掛かった。ふと、その広場にあるミケーラのジェラート店がアイの頭にぎった。


「濃厚な甘味の後に塩気のある物を食べるのが乙だが、さっぱりとした甘味って言うのも捨てがたいと思わないか?」


 そう口を溢したレオンにも、頭の中でジェラートが過ぎったのだろう。アイは、レオンの提案に深く頷くと、彼がにっこりと頷き返した。


「それでは、参りましょうか――と……っ」


 そうと決まれば——と、広場に足を向けようとし所で、突如、レオンがアイの肩に手を回して抱き寄せてきた。


「……何?」


 アイが不機嫌に問うと、レオンは苦い顔で「あそこ」と、向かい側の歩道へ顎をしゃくった。


 レオンが差し示した先には、見覚えのあるノア国家治安警備軍——イェンがいた。


 アイは思わず、「げっ」と唸ると、レオンは微かに笑った。警邏中であろうイェンの視線は公園の方に向いていて、アイ達には気付いていない。


「昨日の今日だ。気軽に挨拶が出来る仲ではないし、ジェラートはまた今度にして、やっこさんの目が入らない内に回り道をしないか?」


「……分かった」


 イェンとエイベル──再度出くわしたノア国家治安警備軍のあの男達と、またまた顔を突き合わす事になるのはアイも嫌だった。夢想したチョコレートフレーバーのジェラートは彼方へ遠ざかり、少し浮上したアイの気分が、がくっと急降下していった。


「オーケーだ、マイレディー。それじゃ、こっちへ——」


「——その前に、いい加減に離れて」


 アイは未だに自分の肩に回されたレオンの手を、バシッと強めにはたいた。


 わざとらしく痛がっている素振りを見せるレオンをアイは無視し、もう一度ちらっとイェンを見た。今は一人でいるようだ。


 良くも悪くも——と言うよりも良い印象は全く無いのだが……——イェンとエイベルは印象深かったので、初めて出会った時と同様に二人揃って向かい側の歩道にいるものだとアイは思っていたが、イェンしか見当たらなかった。それなら尚の事、一対の目だけしかない内に、さっさとこの場を離れるのが懸命なので、アイ達は来た道を引き返した。


 それからアイ達は、ぐるっと遠回りをしてストレイ・キャッツ・ハンド事務所に近い「イリス都A-七区第二十六番スレッド」と記されたスレッドへと、到着した。アイ達と同様に仕事帰りなのか、スレッドの前に僅かに人溜まりが出来ていた。スレッドの中には、エレベーターだけではなく螺旋階段もあるが、皆疲れた身体を更に酷使したくないだろうに、列を作っていた。アイとレオンもエレベーターを利用する為、そう長くはない列に並んだ。


 本日分の仕事の依頼は、緊急依頼が無ければ終わりだ。後は事務所に戻って、報告と本日分の経費の精算をすれば、仕事は完了する。


 レオンと共に列に並ぶアイは、ふぅっと短い息を吐いた。


 アイも疲れていた。


 最近、先程のマダム・アデリーヌのように嫌悪感、もしくは侮蔑や好奇心から、遠慮無くフードの中にまで目を向けられるような事が多く、アイは辟易としていた。


 ——早く独りきりになりたい。


 アイは、薄い空気の中にいるような息苦しさを感じていた。


「さぁ、降りよう」


 スレッドの中に入るとエレベーターに乗り込む順番がやって来て、間もなくビーッとけたたましい音が鳴ると同時に格子型の蛇腹式扉が開いた。


 アイ達はエレベーターの中へ一歩踏み入れた——が、その時、電話の着信音が鳴り響き、二人の足は止まった。着信音の出所は、レオンのジャケットのポケットからだ。


「所長だ」


 レオンは取り出した携帯電話のディスプレイを見て、呟いた。


 二人は、後ろに並んでいた人達に順番を譲り、一度スレッドの外へ出た。空はすっかり夕空で、伸びた影は薄くなっていた。


「もしもし、所長? どうかしたか?」


 レオンは、直ぐ様に電話に出た。


「——今? 今はマダムからの依頼も完了して、事務所に戻るところだよ。──あぁ。アイも一緒にいる」


 アイに目を遣りつつ、レオンは応答していった。


 緊急の依頼でも入ったのだろうかと、アイはレオンの様子を黙って窺った。すると、さっきまで明るい調子でいたレオンは一変して、その表情はさっと硬くなったなった。


「——……分かった。一度、合流してくる。何か分かったら、またこっちから連絡するよ」


 レオンはそう言って電話を切ると、深刻な顔をアイに向けた。


「アイ、今からフローラ都の九区にあるスレッドに向かうぞ」


「フローラ都の?」


 フローラ都は、イリス都の隣の都である。更に、今アイ達のいるイリス都七区はフローラ都九区のすぐ隣で、そう遠い距離ではなかった。


「フローラ都九区にあるスレッドは、ヨンス達が登下校に利用しているんだ。イリス都七区にあるスレッドより、そっちの方がひだまりの家に近いんでな。今そこのスレッドに園長がいるから、これから合流するぞ」


「園長って、マークが? ——って、もう下校時間はとっくに過ぎてるでしょ? 何でまだそこに……」


 アイが訝し気に聞くと、レオンは深刻な面持ちで言った。


「ヨンスとフィフィが、まだ帰って来ていないそうだ」

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