第二十三話 便利屋所長の転換点


 アネモネ……——。


 その名を聞いたアイ達は、声もなく瞠目した。


 仏頂面が常のタロウは、その凶悪な吊り目を僅かに見開かせ、タダシは驚きつつも、明らかに表情が険しくなった。レオンは目を見張ったままで、アイは眉間を中心に、くしゃっと顔を歪ませた。


「ノアで爆破事件が起きた事など、アネモネが犯した一度しかない。自然と捜査線上に、その組織が浮上した。……十四年前の『天の川事件』は知っているな?」


 イェンが話した。


「上層の十二都市を、高層ビルの合間を縫って周りながら一望することが出来る、ノア初のクルーズトレイン——天の川号の試運転セレモニーで起きた爆破テロ事件。それを起こしたのが、反政府過激派組織アネモネだ。奴らは、格差差別や下層の都市問題改善の怠慢に憤りを感じ、暴徒と化した下層住人の集まりだった。……中には、外の世界の毒の瘴気は嘘でノアは人体実験の収容所だと疑う者や、七十年前の巨大隕石や毒の瘴気は天罰と信じて破滅を謳うような狂った人間もいたらしいがな」


 イェンは不快げに眉をしかめた。


「……そのアネモネが、また事件を? 十四年前に壊滅したんじゃないのか?」


 無感情に、レオンが小さく声を上げた。


 イェンは言った。


「当時、爆破テロを起こした実行犯は全て制圧された。だが、組織のトップである主犯のジェットは未だ捕まってない。生死も不明だ」


 主犯であるジェットという人物も、世間ではよく知られていた。長い間浮浪し、テレビや新聞をろくに目にしなかったアイでも、道端で雑談する人々の話し声から、よくジェットの名が漏れ聞こえていた。


「もし、生きて何処かに潜伏しているのなら、下層にいる可能性が大きいだろう。アジトが幾つかあると言う噂が出回っている程だしな。溝鼠どぶねずみの巣穴は、掃いて捨てる程あるからな」


 イェンが侮辱したように言うと、ぎらっとアイ達を睨み付けた。


「だから普段、国から目を向けられていない下層だからと言って、くれぐれも妙な行動はしないことだな。でなければ、アネモネの残党だと疑われる事になるぞ。過去に証拠不十分でも構わずに連行され、そのまま裁かれた者が、少なからずいたのだからな」


 イェンの言説に、アイの脳裏に凄惨たる光景が嫌でも甦った。ノア国家治安警備軍が武力を用いて、下層の住人を民家から無理矢理引きずり出し、連行していく光景を……——。


 アイは、過去に起きた凄惨な出来事を思い出すと、肺に石が詰まったような息苦しさを感じて、地面に目を落とした。


「お前……、自分達が犯した失態を、よく他人事のように言えたもんだなっ」


 目に怒気を滲ませたタダシが、イェンに食って掛かった。


「俺が失態を犯した訳ではない。警備軍が犯した事だ。……貴様、元警備軍だと言ったな? 当時の炙り出しに関わったか?」


「……っ」


 イェンが意味深長な目でタダシをめ付けると、タダシは、ぐっと口を閉じた。


 それと同時に「イェン、そろそろ……」と、イェンの同僚達が彼に声を掛けた。イェンは頷き、ちらっとアイ達に向き直った。


「瓦礫が飛び散った現場を、野次馬根性で目撃した者達もいる。その中に、事故ではないと気付く人間もいるだろう。噂ぐらいになるだろうが……貴様ら、わざわざ言い触らしてくれるなよ。余計な混乱を招くだけだからな」


 今度こそイェン達は背を向け、その場を去っていった。


 置き土産だと言わんばかりに残していった不穏な空気が、アイ達を飲み込む。陰鬱と静まり返ったところに、上層まで伸びる配管の微かに軋む音が、やけに大きく聞こえた。


「何だか、とんでもない事を聞いちまったな……」


 タダシが沈黙を破り、ぽりぽりと人差し指で頬を掻いた。


「……おい……」


 続いて、タロウがレオンに向かって声を掛けた。


 ……しかし、レオンはタロウの呼び掛けには応えず、硬い顔をして俯いていた。


「……おいっ……」


「……ん? どうかしたか、タロウ?」


 タロウはもう一度——今度は少し声を張って呼び掛けると、レオンがぴくっと顔を上げ、応じた。硬い表情だったのが、いつの間にか氷解していた。いつものレオンだ。


「……なんでもねぇ……」


 タロウはぶすっとして、素っ気なく言い捨てた。しかし、タロウのぶすくれた顔は、どこか呆れと安堵が入り交じっているように見えた。


 アイはそっぽを向いたタロウから、レオンに目を向けた。今は平常に見えるが、先程のレオンは、どこか危うい雰囲気を放っていた。あの雰囲気は、以前にも感じた事があった。いつだったか、事務所でテレビに目を向けていた時だ。あの時、テレビで放送されていたのは……——。


「——アイ? いつまでもこんな所で突っ立ってないで、行くぞ。事務所に戻るんだろ」


 アイが物思いに耽っているところに、タダシが声を掛けてきた。


「これは俺達が持ち帰るから、お前達はクリス達がいる店に行って、先にやっててくれ」


 タダシはそう言うと、地面に放置されたボストンバッグを手に取った。


 それをレオンが「いやいや、所長っ」と、断ろうとした。ついでにタロウも、ボストンバッグを持ち帰る役目に立候補したが、タダシは己の右腕を指して「リハビリだ」と言って譲らなかった。


「それじゃ、後でな」


 そうして、レオンとタロウとはその場で別れ、アイとタダシがボストンバッグを提げて事務所に戻る事になった。


「右腕の調子は?」


 タダシはリハビリ中の患者であるので、アイは念の為に体調を聞いた。無理をさせる訳にはいかない。


「問題ない。鎮痛剤も効いてる」


「そう」


 そこから会話は途切れ、アイは黙ってタダシと並んで歩いた。すると不意に、タダシが気まずそうにアイに聞いてきた。


「……何か聞きたい事、あるか?」


「……」


 タダシの言っている事は、きっと彼の経歴についてだろうと、アイは予測した。イェンから、十四年前の炙り出しの件について振られたタダシは、戸惑った反応を見せていた。引っ掛かりはあるが、アイは無理に干渉するつもりはなかった。


「別に」


「本当に?」


「いい歳した親父の構ってちゃん程、痛い物はないと思う」


「お前……、もう少し交流を——」


 タダシは途中まで言いかけたが、ふと「まぁ、いいか……」と、諦めたように口を付いた。アイは、つい先程もレオンに同じような事を言われたな——と思い、溜息をいた。


「——福祉士の前は、警備軍だったんだ」


 何か弁解したいのか、結局タダシは話し始めた。


「元々ノアが建国されるまで、俺は救難隊に入って、世界中に生き残った人を保護しては、仮設ハウスまで輸送する任に就いていたんだ」


 ノアが建国されるまでの二十一年間——、戦争と災害から生き延びた人々は、用意された仮設住宅にその身を寄せた。昼夜問わず、上層と外壁が徐々に建築されていく様子を人々は見上げ、毒の瘴気に脅かされずに暮らせる国——ノアが建国される日を待ち望んでいた。


「ノアが建国されると救難隊は解体して、新しくノア国家治安警備軍が出来た。俺は流れで警備軍なった。その頃は、上層で暮らしていたな」


 ノア国家治安警備軍の職は、保証など充実している。職に就けば保証の事もあるが、時に緊急召集も掛かる為、上層に居を構えるのは絶対であった。そう言った特権もあってか、下層の暮らしに嫌気を差す下層住人が、ノア国家治安警備軍の職を目指す事も少なくはない。


「だが、十四年前の天の川事件を切っ掛けに辞めた」


「何で?」


 アイが尋ねると、タダシは眉間に深い皺を刻んだ。


「炙り出しだ」


 タダシは苦々しく、その言葉を吐き捨てた。


「アネモネの爆破テロが起こって実行犯を制圧した後、残党の炙り出しが始まった。さっきのイェンと呼ばれてた警備軍も言ってたろ? それは酷いもんだった……」


「……知ってる」


 アイの暗い声音から、実際に目にした事だと察しが付いたタダシは「そうか」と、小さく相槌を打った。


「ノアで暮らす人間は、ノアが建国されるまで、俺が——俺達が救護してきた人間のはずだ。それが今度は、証拠もなく理不尽に、国家を権限に暴力を駆使し、下層に住む人間を引きずり出した。……反吐が出る」


 タダシは募った嫌悪感を吐き出すように、短く息をいた。


「そんで、そのあまりの横暴さに、俺は炙り出しの指揮をした上官に反対した。そうしたら、命令違反で謹慎処分からの減俸処分。更には、腹パンのおまけ付きときた」


「最低……」


「だろ?」


 アイが不快感を露わにして呟くと、タダシは苦笑した。


「そんな事があって、俺は警備軍に嫌気が差して辞めた。そして、下層に渡って福祉士の仕事をするようになって——今に至る訳だ」


 そう言ったタダシは、ノア国家治安警備軍の職を辞した事に、全くもって未練が無い様子であった。だが、すっきりと爽快な顔を見せていたタダシであったが、何故かすぐに奈落の底まで沈んだような顔をした。


「……ついでに、その日を境に別居された」


「別居……」


 ——べっきょ……ベッキョ……別居……?


 タダシの放った言葉をアイは小さく呟き、頭の中でその言葉が右往左往と反復した。その「別居」と言う言葉の意味を理解するのに、アイは暫く時間が掛かった。


「……ん? あれ? えっ? け、結婚、してたのっ?」


「そんなに意外か?」


 珍しく動揺を露わに見せたアイに、どこか釈然としないタダシは半目になった。


「何で別居したの?」


 タダシの衝撃発言に面食らったアイは、思わずタダシのプライベートに踏み込んだ。


「……警備軍を辞めて、下層で支援とか福祉の仕事をしたいって、彼女に相談したら別居を——と言うより、離婚を言い渡された……」


 そう聞くと、アイは嘆息した。——下層差別か……。


「あ! 違うからな!」


 アイの落胆したような溜息を聞いたタダシは、アイの心を読んで即座に否定した。


「決して、彼女は冷たい人間でも無く、下層を嫌って差別的な事を理由に離婚を言い渡してきた訳じゃないからな! もちろん、警備軍の辞職についても、反対しなかった。寧ろ、俺に対する処遇に怒り心頭だった」


「じゃあ、何で?」


 話を聞く限り、そのはタダシに悪い感情を抱いていないように、アイは感じた。


「……『もう、あなたを見ていられない。良い機会だから、一度お別れしましょう』と、言われた。理由はそれ以上聞けなかった……」


 当時の様子を思い出しながら話したせいか、タダシの語気に覇気はなく、段々と声が小さくなっていった。アイは悪い事を聞いてしまったと、ほんの少しばかり反省した。


「そして離婚された、と……」


 アイは哀れみを込めて言った。


「離婚じゃない! 別居だ! 別居! 何とか説得して、踏み留まってくれたんだ」


「しつこく言われて、妥協したんじゃないの?」


「ぅぐ……っ」


 アイの言った可能性が大いにあったのか、タダシの声が詰まった。


 狼狽えるタダシに構わず、アイは被っているフードの影から、ちらっと彼の左薬指を見た。


「しつこく説得した割には、指輪していないね」


 アイの脳裏に、きらっと銀色に光る物が、思い起こされた。カオス・オブ・パラダイスのキティとマスターの薬指に嵌まってあった揃いの指輪を──。あの愛を誓った証たる物を、タダシは嵌めていなかった。


「……取り上げられた」


「は?」


 アイがぽかんとしていると、タダシはじっとりとした声音で言った。


「離婚しない代わりに、俺が嵌めていた結婚指輪……取り上げられた……」


 今、アイとタダシは事務所に戻っているはずなのに、何故か親しき友人の葬儀に向かって歩いているような空気になった……。


「実質、離婚……?」


「うるさいよ……」


 タダシは恨めしげに、アイを見た。

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