第二十一話 地下への懸念


 ノアは、毒の瘴気が蔓延する外の世界から、厚い防壁で閉ざされた国だ。閉じたのは地上だけではない。旧世界で使用されていた地下鉄や下水道などの、地面の下に開通された地下道もそうだ。ノアの外へ繋がる地下道は数多くあった。それを国は、各箇所に何層にも渡って遮蔽扉を設置し、徹底的に封鎖した。


 そんな徹底とした中、下層で陥没事故が起これば、多少なりとも不安になる事は理解出来る。遮蔽扉が何層もあるからと言って、外の世界へと繋がる地下道への穴が空いてしまったのだから——。


「——だからと言って、そうやって騒ぎ立てたら、余計に不安を煽っちゃうでしょうに」


「だって~っ!」


 キティに窘められ、玄関口に立つローズはくねくねと身を捩って言い訳をした。


「外の空気が流れて来ちゃったら、死んじゃうものっ。恐いわ!」


「そんな状況になっていたら、とっくにスレッドや通気口は封鎖されて、下層は滅亡しているでしょうよ」


 絶望に打ちひしがれるローズとは反対に、クリスはしれっと他人事ように言うと、掃除で疲れた体をソファーに沈めた。それもそうだ——と、アイもクリスの言った事を胸の内で頷き、黙々とアイスティーに浮かぶアイスクリームを口に運んだ。


「ねぇ、レオン! アタシの体にサイン出てないっ? 大丈夫かしら?」


 尚も嘆くローズは、くるっと背を向け、ワンピースから露出している肩回りや、髪をかき上げて露にした首元をレオンに見せつけて、異常がないか確認させた。


「大丈夫さ。いつも通りの立派な背中に、首元も木の幹のように頑丈そうで、健康そのもだ」


 確かに、太く筋張った白い肌には、禍々しい緑色の斑点が全く見当たらない。レオンがカラカラと悪戯っぽく笑うと、ローズは振り返って唇を尖らせた。


「んもぉ、レオンってばっ! ワタシはゴリゴリのママと違って、割と華奢で繊細なのよっ」


「おい、コラ」


 要らぬとばっちりを食らったキティが、声音を一オクターブ下げ、ローズを咎めた。


「それにしても、陥没事故ねぇ……」


 キティが「ん、ん~っ——」と、喉を鳴らして普段の声の調子を取り戻すと、顔をしかめて言った。


「嫌ねぇ。ちょっと前に上層でも火災事故があったし、しかも死人まで出て……。陥没事故で、被害に遭った人はいたの?」


 悲痛な面持ちでキティが尋ねると、ローズはケロリとした様子で「あ、それは大丈夫みたいよ」と、言った。


「その路地の周辺を警備している兵隊の人に聞いたのだけど、下に落ちちゃった人は居ないみたい」


「アンタ……、被害状況まできっちり聞いておきながら、何でさっき取り乱していたのよ」


 淡々と話すローズに、クリスは呆れて言った。


「最初は、『事故か~、危ないわねぇ~』ぐらいの感覚でしかなかったんだけど、後から地下道って外の世界に繋がっている事を思い出して、ゾッとした——みたいな?」


 それを聞いたキティはやれやれと首を振り、「地下道も封鎖しているのだから、安心なさい」と、溜息混じりに言った。


「ところで、華爛街の兵隊が警備していたのかい?」


 レオンがそう聞くと、ローズは「えぇ、そうよ」と頷いた。レオンは短く整った顎髭に手を当て、少し考える素振りを見せたが、すぐに何かを納得したようだ。


「……まぁ、華爛街の外の出来事だが、見て見ぬ振りをする訳にもいかないか」


 レオンが言わんとする事に、皆が「そう言えば……」と、ある事に気が付いた。


 華爛街の兵隊は、乱暴者が出現すれば制裁し、秩序を守り警備する団体だ。しかし、それはあくまで華爛街での話だ。彼らが──と言うより、華爛街の元締めであるクイーンが、華爛街の外まで指し出た真似をする筈がない。


 だが、緊急事態が起これば、華爛街の外であっても、捨て置く訳にはいかないのだろう。


「その内、警備軍が引き継ぐのでしょ」


 クリスが納得したように言った。


「クイーンも忙しいでしょうね。しばらくお茶会の招待も無いんじゃないかしら」


 招待が無くて結構だ——と、クイーンの事が苦手なアイは、心底そう思った。


 クイーンのお茶会で出される茶菓子は、明らかに高価そうで、舌が悦楽に震える程の美味しさではある。だが、あの不気味な仮面と対面しながら菓子を味わうのは苦行だ。


 アイは、目の前のバニラアイスがマーブル状に溶けて混じっていくアイスティーを、アルミ製のストローを差して口に含んだ。甘いバニラの味、苦みのある紅茶の味、ほんのりと甘いバニラティーの味と、ストローで吸い込む度に混じりきっていない不均一な味わいを、アイは舌と喉で堪能した。


 高級茶菓子でなくとも、業務用の紙パックの紅茶に量産型のアイスクリーム──安価で多少は質の落ちる物でも、充分に満足がいった。


 ズゴッと、アイは氷の粒を残してアイスティーフロート飲み干すと、その音に気付いたクリスが「あ!」と声を上げた。


「話し込んでいたから、フロートを食べ損なったわぁ~」


 クリスは、妬ましそうにアイが飲み干したグラスを見詰めると、更にその体をソファーに沈めていった。


「あら、残念でした。もう夕刻だし、私とダーリンは出掛ける準備をしなくっちゃいけないから、さっさとそこをお退き」


 キティは「ほらほら」と、ソファーにだらしなく座るクリスを立ち上がらせた。


 今日、カオス・オブ・パラダイスは大掃除をしたので休業にし、キティとマスターは外食に出掛けるようだ。アイが飲み干したグラスも、マスターがすっと手早く片付けた。


「ねぇ、アタシ達も何処かで食べに行かない? この枯れた喉を、黄金色に輝くシュワッシュワの飲み物で潤したいわ」


 クリスはレオンに向かって、そこには無いグラスを掴んで呷るようなジェスチャーをした。


「激しく同意だな。——そうだ。所長とタロウも誘うか」


 レオンがそう言うと、クリスも「いいわね!」と頷いた。


「ワタシもご一緒してもいい?」


 隣で外食する話を聞いていたローズが、そわそわしながら尋ねた。


「いいけど、奢んないわよ」


「アンタみたいに、がめつくないっつうのっ」


 たまにカオス・オブ・パラダイスで給仕の手伝いをするクリスの性格をよく知ってか、ローズはクリスに向かって「ベーッ」と舌を出した。


 そんな性別があやふやな二人がじゃれあっているのを余所に、アイはカウンターチェアから立って、事務所から用意して持ってきた掃除道具を纏めていった。

 

「ん? アイ?」


 雑巾やらスプレー容器などを、二つの大きなボストンバックに次々と詰め込むアイを、レオンはきょとんと見詰めた。


「外食には行かない。私は先に事務所に戻るから」


 そう言ってアイは、二つのボストンバックを一つは肩から提げてもう一つは手に持ち、玄関口に向かった。 


「それじゃ、ご馳走さま」


 アイは一度だけ振り返ってキティとマスターに向かって言うと、両開きのガラス扉を開けた。


「アイ――」


 誰かが後ろから呼び掛けたが、アイは気を留めずにカオス・オブ・パラダイスの玄関扉を潜った。アイは目の前の通りに目を遣ると、買い出しに出掛けた頃より、人の通りが盛んになっていた。ガチャンと、背後で玄関扉が閉まるのと同時に、アイは行き通う人の波に乗り、事務所へ戻る方向に足を進める。


 アイスティーフロートをご馳走になって、口の中は満足だ。外食に行く気分になれない。それどころか、大人数で和気藹々と食事を囲む中に、自ら飛び込むような真似はしない。断れる機会が有れば、とことん断っていく。馴れ合いはしたくない。


 眉をぎゅっとしかめたアイは、何かから逃げるように、どんどん足を進めた。しかし――。


「おーい! アイ、待ってくれっ」


 カオス・オブ・パラダイスから離れて二、三件分も進まない内に、レオンがアイの後を追ってきた。


 アイは「はぁー……」と溜め息を吐き、レオンに向き合った。


「何? 皆と外食は?」


「クリスとローズに店を選んでもらって、後から合流させてもらうよ。それよりも、女性一人に後片付けを押し付ける訳にはいかないな」


 そう言ってレオンは、アイが肩から提げていた方——明らかに重そうな方のボストンバックを、気遣うように奪い取って自らの肩に提げた。


「あと、護衛も兼ねて」


「護衛?」


 アイは怪訝な顔をした。


「どこの馬の骨かも分からん輩から、この身を呈して御守り致しましょう」


 片手を胸元に当てこうべを垂れるさまは、舞台から飛び出してきた騎士のようだ。いつもの芝居がかった仕草をするレオンに、アイはうんざりした。


「いらない……」


「まぁまぁ、そう言わずに」


 にこにこと笑みを絶やさないレオンは、全く引き下がる気が無いようだ。


 先程、アイが華爛街の酔客すいきゃく——エイベルに絡まれた話を聞いて、レオンは気に掛けたのだろう。アイは余計なお世話だと思ったが、どっちみちボストンバッグを奪われた時点で、同伴する事は決定だ。意地になってボストンバッグを奪い返すのも、馬鹿らしい。


 ネオンの光の渦と人の荒波の中、アイは拒否も肯定もせず、レオンと並んで歩く事にした。

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