第二十話 善人の裏面


「それじゃあ、アイちゃん。お願いね」


 カオス・オブ・パラダイスのママことキティに、アイがそう頼まれたのがつい先程の事だ。アイは賑わう華爛街の通りを、買い物バックを提げて歩いていた──。


 今日はカオス・オブ・パラダイスからの依頼で、アイはレオンとクリスと共に、清掃の手伝いにやってきていた。以前とは違い、今日は亜麻色のベリーショートといった出で立ちのキティと、がっしりとした体躯に黒髪を後ろに撫でつけた男——マスターに出迎えられると、早速仕事に取り掛かった。


 空調機やステージフロアの照明などは、背の高いレオンとクリス、マスターが担当し、キッチン周りやフロアのテーブルの脚に隠れたこびりついた油汚れなどは、アイとキティが役割分担した。ガシガシと用意した重曹水を用いて擦れば、気持ち良い程に汚れが落ちていった。


 しかし、あっという間に主戦力である重曹が無くなってしまい、アイが華爛街にあるディスカウントストアまで買い出しに行くことになった。ついでにキティから、店で使う食器用洗剤や消毒用エタノールの買い出しも頼まれた。


 ──そうしてアイは、華爛街の端に構えるディスカウントストアに辿り着いた。活気がある華爛街に構えるだけあって、下層にある店舗にしては食料品から日用品まで、中々に充実した品揃えだ。だからと言って、アイは目移りせずに目的の品だけ購入し、キティから借りた買い物バックに詰め込んだ。


 早々に買い物を済ませたので、時間は掛かっていない。ディスカウントストアを出ると、まだ夕刻にも差し掛かっていない昼時の華爛街は、夜に比べると人の波はなだらかだ。それでも、先程のディスカウントストアや昼から営業している飲食店、アミューズメント施設などがあるので、華爛街は昼間でも賑やかであった。


「あれぇ? 君、この前の——」


 アイがすたすたと歩いていると、すれ違い様に誰かが声を掛けてきた。男の声だ。アイが振り振り返ると、そこには──酒でも飲んだのか──少々顔を赤くした男が、じぃっとアイを見ていた。


 栗毛に、人の良さそうな顔……どこかで見た事がある男だ。


「ほら、上層の路地裏でさ、会ったじゃん。男の子がいじめられてる現場で。僕、その時に遭遇した警備軍だよ」


 へらへらと喋る栗毛の男の話を聞いて、アイは思い出した。


 以前、ヨンスがいじめ加害者達から暴行されているところにアイが割って入った後、ノア国家治安警備軍が騒動に気付いて駆けつけてきた。今、アイの目の前にいる男は、その時のノア国家治安警備軍の一人で、もう一人いた皮肉屋の軍人と違って、ヨンスを気遣っていた軍人だ。雰囲気からして、親切で誠実な印象があった。しかし……。


「君達の事はよく覚えていたよ。今日は、あのナヨナヨしたオカマは一緒じゃないんだ?」


 栗毛の男の言い方に、アイは怪訝に思った。この前とは打って変わって、男の物言いに悪意がある。不審に思うアイに気付かずに、男は聞いてもいないのにべらべらと話し掛けてきた。


「今日は非番でさ、初めて華爛街に来たんだけど、下層の街にしてはまぁまぁ楽しめそうな街だね。『ノア一番の歓楽街』って言うキャッチフレーズを聞かなきゃ、下層になんて近づきたくもなかったからなぁ」


 男は酔いの勢いもあってか、平気で悪辣な言葉を並べ立てていった。……きっと、ヨンスに見せた優しさは紛い物で、これが男の本性なのだろう。人の良さそうな顔をした口から出る罵詈雑言が、余計に男の性悪さが際立った。


 アイは男に対して嫌悪感が湧き、嫌そうに顔を歪めた。


「それにしても、さっき飲んでいた店のコンパニオンの女といい、君といい、顔はなかなか良いのに、下層の住人なのが残念——」


「今、仕事中で急いでいるから」


 にやにやと自分を品定めするような男の目から、アイはふいっと顔を反らして踵を返した。すると、男は「ちょっと待ってよ」と、アイの腕を取った。


「僕はエイベルって言うんだけど、君の名前を教えてよ。僕、まだ飲み足りなくてさぁ。明日から、またあの朴念仁と一緒だと思うと、気が滅入っちゃうんだよね。奢ってあげるから、ちょっと付き合ってよ」


 アイが「仕事中」と言った事が耳に入らなかったのか、エイベルという男はアイを飲みに誘ってきた。アイはイライラして掴まれた腕を乱暴に振るい、エイベルの手を払った。


「さよなら」


 アイは冷めた口調で言うと、エイベルの顔も見ずに歩を進めた。


「……っ、やっぱり下層の女って陰気臭いのかなぁあっ!?」


 辛辣に誘いを断られた腹いせか、アイの背後から負け犬の遠吠えが轟いた。


 ——ぶん殴りたい……。


 ふっと物騒な思いが頭に過るが、そんな事を実際にしたならば、即行で華爛街の兵隊が制裁に来るだろう。アイの物騒な思いは、自身の心の内に留めておいた。


 それに既に……——アイは神経を研ぎ澄まして周辺の気配を探ると、所々から華爛街の影達が息を潜めてこちらを窺っている。アイではなく、エイベルを——だ。彼が暴言を吐くわ、立ち去ろうとするアイの腕を取るわで、目を付けられたのだろう。これ以上騒ぎを起こせば、エイベルが気の毒な事になるのは確実だ。


「…………」


 けれど、アイが彼に忠告する義理は無い。アイは買い物バックの取手を握り直し、その場から去った。






「どうした、アイ? ひどく不機嫌じゃないか」


 カオス・オブ・パラダイスへ戻ると、レオンが早々に、アイから放出される不機嫌なオーラに感付いた。


「酔っ払いにでも絡まれた?」


 クリスが言った。


 そう尋ねられたアイは、何も答えずに苛立たしげに短く息を吐くと、クリスが「あら、図星?」と首を傾げた。


「あらあら、それはご苦労様だったわね。もう掃除もあとちょっとだし、アイちゃんはゆっくりしてて頂戴な」


 キティはアイから買い物バックを受け取ると、アイを労った。すると、キティと入れ替わるようにアイの前に出てきた寡黙なマスターが、ずいっとアイスクリームが上に乗った飲み物——フロートを差し出してきた。


「アイスティーフロートよ。カウンター席で寛いで頂戴ね」


 マスターから突き出されたフロートを前に、アイが困惑していると、キティが補足説明するように言った。


 それを聞いて、アイはアイスクリームが浮かぶ冷たいグラス受け取ると、マスターがカウンター席へ座るよう促し、とても良い笑顔でサムズアップをした。


 ……マスターは寡黙な割りに、案外ひょうきんな人物のようだ。


 アイはカウンターチェアに座り、阿吽の呼吸で自分を気遣ってくれたこの店のママとマスターを、ちらっと盗み見た。二人の節くれだった手の薬指には、揃って同じデザインの指輪が嵌めてあった。


「ママぁ~、アタシにもプリーズ」


「そこのフロアの隅にある汚れを落としたら、振舞ってあげるわよ」


 アイのアイスティーフロートを見たクリスが媚びるようにせがむと、キティは急かすように手をパンパンと叩いた。


 同僚が作業に戻って頑固な汚れに勤しんでいる中、アイは無情にも、振る舞われたアイスティーフロートを一人で楽しんだ。——と言っても、アイスティーの上に浮かぶアイスクリームが半分も減る前に、大掃除は終わった。


「んふふ。ステージもピッカピカになって気持ちがいいわぁ。ね、ダーリン」


 キティがマスターに向かって話すと、マスターも満足そうににっこりと微笑んだ。


 カオス・オブ・パラダイスの内装は、リゾート風だ。


 玄関口から見て左側にあるバーカウンターは、淡いバックライトで棚にあるアルコールリキュールやグラスがきらきらと光り、濃い木目のフロアには、ラタン素材のローテブルとスカイブルーの布張りのソファーが配置されている。白い壁際には南国風の観葉植物が装飾され、リゾート感のあるゆったりとした雰囲気を演出していた。


 そして奥にある一段高いステージフロアは、両端に開閉する幕があり、色はエメラルドグリーンからインディゴのグラデーションで、その色合いはもう実際に見る事が叶わない海の色だ。ステージの目立つ位置には、天井まで届くポールが三つ並び、天井に設置されている照明の光で、そのステージに立つコンパニオン達を輝かせる事だろう。


 ぴかぴかになった店内を、キティが「うんうん」と頷きながら見渡すと、マスターと共にキッチンへ入った。約束通り、クリス達にもアイスティーフロートを振る舞うのであろう。だが、突如——。


「それじゃ、掃除も終わったし、約束通りフロートを——」


 ——バァンッと、勢いよく店の玄関扉が開かれた。


 その轟音に、甘味の準備をしようとしたキティとマスターはおろか、アイ達の動きも止まり、玄関扉へと凝視した。


「ちょ、ちょっとちょっと! 大変よぉ!」


 玄関扉から現れたのは、赤いワンピースを着たこの店のコンパニオンだった。


「もうっ、びっくりしたじゃないのよ、ローズ。驚かさないでちょうだいっ」


「何なのよ、そんなに慌てて。アンタも酔っ払いにでも絡まれた?」


 キティに続いてクリスも呆れたような目で、ショートボブの髪を振り乱したローズを見た。ローズは以前、カオス・オブ・パラダイスで、節度のない酔っ払い客に暴行されそうになったコンパニオンだ。


「お陰様で、アレから質の悪い酔っ払いに遭遇していないわよっ——て、そうじゃなくて!」


 ローズは気を取り直して、改めて声を張り上げて言った。


「華爛街の裏手の路地が、陥没しちゃったのよ!」

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