第十九話 静かな時間


 本日のストレイ・キャッツ・ハンドに、仕事の依頼は無かった。


 膨大なデータ入力の事務仕事の依頼は昨日の昼過ぎには方を付けたし、代行で長蛇の列を並び、人気アーティストのコンサートグッズを購入するという地味に疲れる仕事は明日の事だ。


 緊急の依頼が舞い込むかもしれないので、そのまま臨時休業という訳にもいかない。それでも、朝からのんびりとした空気が事務所内に流れていた。


 タロウはカウンター席の端っこで挿絵付き小説の読書を、レオンは昔の映画を鑑賞し、アイもソファーに座って映画を観ていた。


 ふと、香ばしい香りと共にガリガリと、映画の音に被らない程度の小気味良い音が、キッチンから届いてきた。


「コーヒーはいかが?」


 キッチンからクリスが皆に声を掛けた。


 タロウは「……ん……」と頷き、レオンも「よろしく」と手を振った。アイは苦い顔をして首を横に振った。


 コーヒーの香りは悪くない。けれど、味は苦過ぎて飲める気がしない。


「なら、カフェオレ作ってあげるわよ」


 そう言ってクリスはキッチンに引っ込み、再度ガリガリとコーヒー豆を挽く作業に戻った。キッチンにはインスタントコーヒーもあるはずだが、こうしてじっくりと時間を掛けてコーヒーを用意出来る程に、のどかであった。


 そうして各々が、思い思いに静かな時間を過ごしていた——が、嵐は突然やってきた……。


「聞いたわよ! 危ない事したんですって!?」


 バァンッと、事務所の玄関扉が勢いよく開いたと同時に、女性の不機嫌な声が轟いた。皆が玄関口に目を遣ると、そこに居たのはターニャだった。蟻地獄での扇情的な姿とは違い、Tシャツに七分丈のジーンズパンツというラフな格好だが、健康的な色気が薫っていた。


 妹の登場に、アイにカフェオレを差し出していたクリスの手は止まり、「げっ」と呻いた。


「もうしないって約束したのに、酷い! 裏切りだわ!」


 どうやら以前にも、クリスは何かやらかしたようだ。ターニャは兄とよく似た垂れがちの目を吊り上げ、ずんずんとその兄に詰め寄っていった。クリスが壁際まで追い込まれる前に、アイはさっとカフェオレの入ったマグカップを奪い取って、傍観に徹する事にした。


「何でアンタが知って——」


 ふと、クリスの目が、対面するターニャより奥の方に走った。アイもクリスの目線を辿ると、玄関口には、右腕の定期検査に行っていたタダシと、何故かひだまりの家のフィフィが手提げ鞄を抱えて立っていた。


「所長、バラしたわね……っ」


「俺は言ってないぞ。下の階で会ったばかりだ」


「そうよ、所長さんじゃないわ。園長よ」


 恨めしげにタダシを見るクリスに、ターニャは言った。


 ターニャがクリスを壁際までどんどん追い詰めていく中、トコトコと、フィフィがソファーに座るアイ達に近寄って、事のあらましを話してくれた。 


「今日ね、ターニャがひだまりの家に遊びに来たんだけど、園長がね、ターニャにひそひそ話してたの。……園長、いじわるな顔してた」


「園長からの説教がないと思ったら……」


 壁際まで追い込まれたクリスは、それを聞いて唸った。


「すまない、ターニャ。結果として、君の心までも砕く事になってしまった。俺にも責任がある。どうか償うチャンスを貰えないだろうか?」


 クリスにだけ罪を押し付けるのは気が引けるのか、レオンが口を挟んだ。ターニャはくるりと振り返ると、拗ねたようにぷっくりとした唇を尖らせていた。


「……じゃあ、最近オープンしたチャイニーズレストランに、レオンの奢りで連れて行ってくれる?」


「構わないよ」


「アナタのエスコート付き?」


「勿論」


 レオンに約束を取り付けたターニャの顔は綻び、機嫌を直したようだ。


「それじゃあ、クリスはその日の為のバックと靴とワンピースを買ってよね!」


「ちょっと! アタシの方が金銭的負担大きくない!?」


 ターニャの提示した詫び品に、クリスは声を大にして抗議した。


「えー。じゃあ、バッグだけで勘弁してあげるわ」


 やれやれと上から物を言うターニャに、クリスは悔しそうに歯噛みした。


「ところで、そのレストランの場所は?」


「下層よ。パラス都U-十区にあるオーエンズ街って言う歓楽街にあるの」


 レオンが尋ねると、意外にも上層ではなく下層にあるレストランを、ターニャは提示した。


「元々オーエンズは、昔の大型ショッピングモールを改装した娯楽施設のネーミングなんだけど、そこから近くのスレッドまでの周辺までを、オーエンズ街って呼ばれるようになったの。華爛街程でもないけれど、そこの歓楽街も結構賑やかで、特にキャバレーが有名なんですって。でも、割高なお店が多くて、お子様が気軽に遊べる街ではないみたい——って、あ! そんな事より——」


 ターニャが「フィフィ」と、呼び掛けた。フィフィが抱えていた手提げ鞄からおずおずと中身を取り出して、それをローテーブルに置いた。見ると、四角いクッキー缶だった。


「わたし、おつかいに来たの。これ、お礼にって、園長が用意したクッキーの詰め合わせ」


 フィフィは、レオンとクリスを交互に見た。


「レオンとクリスが、いじめを止めてくれたんでしょ? あれからね、わたしもヨンスも、学校でひどいことされなくなったの」


 そうしてフィフィは、以前に見せた泣きべそとは打って変わっての輝くような笑顔になり、「ありがとう」と頭をぺこっと下げた。


「フィフィの笑顔が何よりの褒美だな」


 レオンも穏やかに微笑み、フィフィの小さい頭を撫でた。


「ちょうどコーヒーも淹れたところだし、早速頂きましょ。フィフィもホットミルク作ってあげるから、座んなさいな」


 クリスが新たにタダシ達の分の飲み物を用意すると、レオンも頷いてクッキー缶を開けた。たちまち、バターと砂糖の幸福の香りがふわっと溢れ出た。皆が誘われるようにしてローテーブルに集まり、クッキーを一枚ずつ手に摘まみ口に運んでいった。四種類のクッキーがある中、アイはチョコチップ入りのクッキーを選んだ。


「ヨンスの方はどうだ?」


 タダシがソファーに腰を下ろし、二枚目のチョコチップクッキーを口に運びながら、向かいにいるフィフィに尋ねた。


「元気、なのかな……」


 アイの横に座っているフィフィは、クリスに淹れてもらったジャム入りホットミルクを一口飲むと、小首を傾げて曖昧に答えた。


「違うのか?」


「何だか、元気過ぎるの」


 フィフィが言うには、ヨンスの様子が少々おかしいらしい。


 いじめ問題に片が付いて少し経った後、学校が終わって迎えの時間が来る前に、一緒に下校していたヨンスがしばしの間、フィフィから離れてどこかへ行ってしまった。まさか、まだいじめ問題は止んでいないのかと危惧したフィフィであったが、しばらくしてヨンスが戻ってきた。心配していたフィフィをよそに、戻ってきたヨンスは晴れやかな顔をしていた——と、フィフィは言った。


「でもヨンスね、泣いていたと思うの」


「泣いていた?」


「うん。目が真っ赤だった」


 スレッドまで迎えにきたマークも、ヨンスの様子に気付いたが、ヨンスは「何でもない」と元気に答えたと、フィフィは話した。


「それからね、ヨンスにお友達が出来たみたい」


「よかったじゃない。学校の子?」


 カウンター席からクリスが尋ねた。


「分かんない。今日も、そのお友達に会いに一人で出掛けちゃった」


 それを聞いたターニャが「まさか、不良友達?」と口を溢し、隣にいるクリスが「こら」と窘め、タロウの眉間が不満げに寄せていた。


「ちゃんと、五時前には帰るって言ってたよっ」


 ヨンスが非行に走っていない事を証明するように、フィフィは慌てて言った。


 フィフィの「五時前」というワードに、自然と皆の目が、壁に掛けている時計が今何時を示しているのか注視した。


「もう四時半か。フィフィも帰らなきゃな」


 タダシが言った。


「じゃ、アタシも帰るから、ついでにひだまりの家まで送ってあげる。コーヒーとクッキー、ご馳走様」


「アンタ、遠回りになるじゃない」


 ターニャが空になったカップをカウンターテーブルに置くと同時に、クリスが訝し気に言った。


「別に構わないわよ。大人として、ちゃ~んと無事に送っていくわ」


「アンタの能天気さに、信用は置けないわ。……いいわ。ターニャはアタシが送るから、フィフィも誰かに送ってもらいなさい」


 クリスもカップを置くと、カウンターチェアから立ち上がった。 


「やだ~ん。お兄様ってば、優しい~、過保護~、シスコ~ン」


「お黙り」


 くねくねとして、わざとらしく猫撫で声を煽る妹に、クリスは冷めた目で見た。


「じゃあ、アイに送ってもらう!」


 そう言って、フィフィがアイに抱き付いてきた。


 アイの実力なら、フィフィを無事に送り届けた後、人通りの少なくなる夜の一人歩きも問題はない。しかし、何故自分が指名されたのか……、アイは少々戸惑った。


「だめ?」


 不安そうに見上げてくるフィフィに、アイはぎょっとして即座に首を振った。


 アイがフィフィの反応にどぎまぎとしている間に、「アタシもアイちゃんがいい~!」と駄々をこねるターニャを、クリスは引きずるようにして事務所から連れ出していった。






「本当はね、ヨンスも一緒に来てほしかったの」


 薄暗い道中、アイと手を繋いできたフィフィが、ぼそっと言った。


「わたし、ひだまりの家も便利屋さんの皆も好き。ずっと仲良くしたいって思ってる。だからヨンスにはね、レオンにちゃんと謝ってほしいの」


「レオンに?」


 アイは突然と繋がれた手を振り払う事無く、フィフィの話を聞いた。


「この前、ヨンスがレオンの手を叩いて、嫌な言い方したから……」


 以前、ひだまりの家で、初めていじめ問題が発覚した時の事だろう。レオンがヨンスを宥めようとしたら、ヨンスはレオンが元上層居住者という理由で強く拒絶した。


 まるで自分の事のように、罪悪感を抱き落ち込むフィフィの手がぎゅっと力が籠るのを、アイは手袋越しに感じた。


「それに、アイにも助けてもらったって聞いたのに、ヨンスってば、お礼も言ってないよね?」


「私はいいよ。それにレオンも、そんな気にしていないと思うし」


 ヨンスを非難するフィフィに、アイは宥めるように言った。


「でも……」


 納得がいかないようで、フィフィの眉が剣のある弧を描いた。


「謝るのが恐いのかもね」


 アイはぽつりと言った。


「思ってもいない事を言った——何て弁明があるけど、少しでも思っていないと嫌味なんて出てこないと思う」


 結局のところ、人というのは自分に甘く、己が清く正しいと勘違いするものだ。それ故に、悪辣に物を考え口にする汚い一面がある事実を、認めがたいのだろう。


 アイはどこか遠くを見た。


「それに謝ったとき、相手から許してもらえなくて、責められて、拒絶されるかもしれない。だから、……逃げたんだ」


 解決にはならない。けれど、向き合うよりその方がずっと、楽だった……。


「アイ?」


 フィフィが繋いでいる手を揺すってきて、アイの目の焦点がフィフィに行った。


「誰の話をしてるの?」


 困惑した様子のフィフィが尋ねてくると、アイははっとし、ふいっと顔を反らした。


「臆病者の話」


 そしてアイは口を噤んだ。


 フィフィは子供ながらに、これ以上踏み込んではいけないと感じたのか、大人しくアイと並んで歩いた。それからは、先程食べたクッキーの話や菜園の育ちの様子など、他愛のない話をしていると、ひだまりの家までもうすぐそこにあった。すると、アイ達の前方に、見知った姿が見えた。


「あ、ヨンス!」


 フィフィが声を掛けると、ヨンスが振り返った。アイは、ヨンスの表情に面食らった。以前見た陰鬱さと違って、実に晴れ晴れとした表情であった。


「フィフィ、今帰り?」


 ヨンスが元気よく言った。


「うん。ねぇ、ヨンス。アイだよっ」


「……? こんにちは?」


「こんにちは」


 フィフィはヨンスに、アイに何か言う事があるだろうと促すが、ヨンスには伝わらなかったようで、挨拶をしてきた。挨拶をされたので、アイも返した。


「もう! そうじゃないのに……っ。それに、何で便利屋さんの所に、一緒に行ってくれなかったの!」


「何怒ってるんだよ? そんなことよりも、ぼくには大事な用があったんだ」


 訳が分からないといった様子のヨンスの態度に、フィフィは増々ぷりぷりとした。


 ……元気だ。


 子供は元気で明るい方が良い。だがアイは、ヨンスの明るさにどこか危うさを感じた。フィフィもいじめ問題が解決して表情が明るくなったが、ヨンスの場合、明るいだけでなく、涼しげな形をした目には熱を帯びており、周りが見えていないように感じた。


 空気が読めない? ……というのも違う気がするが、元々はこういう性格だったのだろうか?


 どっちにしろ、ヨンスとの関係が薄いアイには、彼の素の様子がどんなものか分からないので、深く考えない事にした。


「もう近くだから、ぼく達だけで帰れるよ。それじゃっ」


 ヨンスはアイに向かって強気に言うと、フィフィの手を引っ張った。


「わ! ま、またね、アイ!」


 フィフィは慌ててアイに別れを言うと、背を向け、手を引くヨンスに対して頬を膨らませていた。


 ヨンスとフィフィとは別れたが、アイは念の為に、二人がひだまりの家の門扉を潜るまで遠くから見守る事にした。トラブルも無く、二人が無事にひだまりの家に着いたのを確認したアイは、踵を返した。


 すると——。


「——っ」


 アイが振り返った先——通りに続く脇道の角に、こちらを凝視する影がいた。怪訝に思ったアイはそちらに向けて足を踏み出すと、影はふっと消えた。足早に影が消えた脇道に向かったアイだったが、通りに続く細い道には誰もいなかった。


 薄気味悪さを感じたアイは、子供が多くいるひだまりの家の安否の為、その周辺をぐるっと一周したが、不審者はいなかった。


 気にしすぎだろうか……?


 逆に、ひだまりの家の周辺をうろうろとしている己が不審者のようだと感じたアイは、さっさとその場を離れて事務所へと戻っていった。

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