第十六話 車窓から


 ストレイ・キャッツ・ハンドに、急ぎの仕事が入ってきた。


 昨夜、仕事の付き合いで華爛街のキャバクラに訪れた依頼者は、その店に忘れ物をした。その忘れ物が、事前に用意した依頼者の奥さんへの誕生日プレゼントだそうだ。そして、今日が奥さんの誕生日。依頼者の就業後、二人でディナーへ出掛ける予定が、肝心の誕生日プレゼントが手元にない。プレゼントがない理由を、嫉妬深い奥さんに知られる訳にはいかないので、依頼者は慌ててストレイ・キャッツ・ハンドへ仕事を依頼してきた。


 とうに昼を過ぎた頃、上層のオフィスビルの前で、アイとクリスは、ブランドのロゴタイプが記された小さな手提げ袋を、依頼者に手渡した。依頼者の男性は「ありがとう。ありがとう」と、二人にへこへこと何度も頭を下げた。


「哀れよねぇ」


 そそくさとオフィスビルに戻っていく依頼者の背中を見送り、クリスが言った。


「あれは完全に、奥様に尻を敷かれているわね」


「でも、幸せそうではあったよ」


 クリスはやれやれと首を振るが、眉が下がりきっていた依頼者の口元は満足そうに笑んでいたのを、アイは見ていた。


 配達の仕事は終わり、オフィスビルを離れて歩道に出たところで、アイは疑問に思った事をクリスに問いかけた。


「それで、何で私まで駆り出されたの? こんな配達仕事、一人で充分でしょ?」


 大荷物ならまだしも、片手で手提げ出来る程の荷物なら一人で充分だ。それをクリスは何故かアイを引き連れて、仕事に出た。


 するとクリスは、にやぁっと不適な笑みを浮かべた。


「こういう緊急の案件って、アイは初めてでしょ? せっかくだから、使える足を紹介したくってね」


「足って、まさか——」


「誰が足だってんだぃ!」


 突如、男の喚き声がアイとクリスの耳に入ってきた。


 目の前にある車道の脇に止まっているトラックの窓から、右頬に縫合跡がある、えらの張った男が、身を乗り出して喚いてきた。


「毎度毎度こっちは仕事中だってのに、テメェの都合で呼び出しやがって! こっちの迷惑も考えやがれってんだぃ!」


 ギャンギャンと喚く男に対し、クリスは目の前に飛び回る小虫でも見るような顔をした。


「うっさいわねぇ。ちゃんと運送ルートを把握した上で、呼び出したんだからいいでしょ」


「ここに来るのに、Uターンしてっけどなっ!?」


 二人の喧嘩とは似て非なる様態を、アイはただ呆然と見ていた。


 アイがクリスに連れられ上層へ向かう間、クリスは携帯電話で誰かとこそこそと通話していた。スレッドから上層に着き、アイはクリスに付いて歩道に出ると、目の前の車道に不機嫌な運転手が乗ったトラックがあった。クリスは何の躊躇いもなく乗り込み、呆気に取られるアイにクリスが乗車するよう促すと、運転手の男に行先を指示し、——今に至る。


「で、何なのこの人」


 未だ口喧嘩をする二人に堪りかねて、アイはクリスに尋ねた。


「あぁ、放ったらかしてごめんなさいね。コイツ、ジャナルって男で、たまに足代わりになってくれるから、アイも遠慮なく使ってやってよ」


「だから、誰が足代わりでぇい!」


 ジャナルは眉を吊り上げ、尚も叫んだ。


 すると、クリスはトラックのドアに、ガンッと蹴りを入れた。ジャナルは「うひっ!」と、情けない声を漏らし、三白眼の上に乗っている両眉が八の字の形に変わった。


「アンタ、アタシに口答え出来る立場かしら?」


 クリスは声を落として言うと、ジャナルの襟首をがっと掴み、引き寄せた。


「バラすわよ。アンタの家族に」


 クリスの凄みのある笑顔に、ジャナルは「くぅぅ……っ」と負け犬の如く呻いた。


 クリスとジャナルという男がどういった関係か分からないが、クリスがジャナルを脅しているという事を、アイは理解した。


「ほら、さっさと運転席に戻りなさい。さもないと、業務に支障をきたすわよ」


 クリスはドアを開け、ジャナルを運転席へ追いやって乗り込んだ。


「アイも早く乗んなさいよ。コイツを仕事に戻さないと、クビにされちゃうわ。あ、途中で降ろしてくれたらいいから」


「今すぐに降りてくんねぇかな……」


 アイもトラックに乗り込むと、ジャナルはブツブツと文句を言いつつも、トラックを発進させた。


「だいたい、オメェも運転免許持ってんだろ? レンタルして、テメェで運転しろや」


「嫌よ。手続き面倒だし、何よりお金使いたくないもの」


 端の助手席に座るアイは、窓から流れて行く外の景色に目を遣った。下校時間なのか、年代別の子供がまだらに歩道を歩いているのを目にしながら、何と無しに、アイは二人の会話に耳を傾けてた。


「守銭奴オカマめ……」


「車が所有出来るのなら、こっちもアンタの顔を見ないで済むっつうの」


 会話を交わす二人は、お互いに口の形を不服そうに歪めた。


 ノアは、運転免許を取得する為の教習所がある。しかし、取得を必要とする者は、概ね、運送業などの車の運転を必要とする職業の人間だ。


 この国では、個人で自動車を所有することは認められていない。理由は、駐車スペースを無くした分、居住区などの土地の確保が出来ること。更に、自動車事故のリスクを減らす為だ。これも、閉じられた世界で生きる為の安全策だ。


 そういった理由で、配送業や運送業以外で、車道に一般自動車が走行しているのは、あまり見かけない。国民が移動手段として利用するのは、専ら、タクシーか路面電車だ。


「アンタって、ずっと車を運転する仕事に就いてるわよねぇ」


「せっかく免許取って、更新料払ってんだ。もったいねぇだろ?」


「アンタも大概、守銭奴ヤロウじゃないのよ」


 クリスが溜息混じりに言った。


「それに、運転するのは嫌いじゃねぇ」


「良かったじゃない。アタシ達のお陰で乗り回せて」


「それが一番のネックだってんだぃ!」


 ジャナルは前方を見据えつつも、クリスに向かって喚いた。よく叫ぶ男だが、運転はとても丁寧だ。


「前の職で、こんな振り回されてたら、即クビだったろうよ」


 そしてジャナルは「今も綱渡り状態だがよ……」と、ぼそっと言った。


「前職って、ごみの回収車の運転だったわよね? 確かにごみ袋回収してる時に、急速Uターンかましてたらウケるわぁ」


 クリスはケラケラと笑って言った。


「マジでオメェに天罰下んねぇかな……?」


 ジャナルは、ギリギリと恨めしそうに歯を食いしばった。


「そういえば、下層にごみを運ぶのって、どうやってんのよ?」


 クリスは、ジャナルの恨み言など気にも止めずに聞いた。


「運ぶっつうより、落とすだな」


 クリスの自己中心的な態度に慣れているのか諦めているのか、ジャナルは調子を取り戻して話した。


「回収し終わって収集所に行くと、でっけー蓋があんのよ。それの横のボタンをこうポチっとしたらよ、蓋が開くんだ。あとは、ごみが詰まった荷台を傾けて中身を下層に落とすんだぃ」


 ジャナルがそう話すと、クリスは嫌そうな顔をした。


「生ごみ回収の日の下層は最悪ね。上から落とされたら、破けてぶち撒かれるじゃない……」


「一応、収集場所は物によって区別してっから、そこんところの処理は徹底してるぜ?……多分な」


 ジャナルは神妙に言った。


「下層の衛生状況が悪くなって病気でも蔓延しちゃあ、上層だってヤベェ事になるんだからよ」


「その時は、それこそ蓋して閉じちゃうんじゃない?」


 クリスは皮肉気にぼやき、鼻を鳴らした。


「……やっぱりアンタ、ムカつくわ」


「はぁん!?」


 唐突に不快感を醸し出したクリスに、ジャナルが素頓狂な声を上げた。 


「元は下層に住んでた人間が、姑息な手を使って住民権を得て上層に暮らし始め、あげく笑って下層にごみをぶち撒いてたなんてっ」


 クリスはよよと、わざとらしく嘆いた。


「それは嫁さんが上層の住民で、オレっちが婿になっただけでぇい! 嫁さんは下層暮らしでも良いっつったが、馴れねぇ暮らしはさせたくなかったからで——てか、笑ってねぇよ!」


 その後も、キーキーギャーギャーと言い争う二人に、我関せずを決め込んでいたアイは、ふと、歩道に目が行った。


「ヨンス……?」


 アイは、歩道を歩くヨンスを目視した。


 ちゃんとした紹介をお互いにしていないが、ひだまりの家で見掛けた初等部の男の子だと、アイは認識した。


 学校からの帰りなのだろう。……しかし、フィフィがいない。


 ひだまりの家の園長であるマークか、ストレイ・キャッツ・ハンドの誰かが、スレッドまで送迎していると聞いていたアイは、ヨンスとフィフィの二人が揃っていない事に違和感を感じた。


 よく見れば、フィフィがいない代わりに、ヨンスと同い年くらいの少年が三人いた。その少年達はにやにやとした顔をして、ヨンスの後を付いていた——というより、前方にいるヨンスを歩かせているように見えた。


 どこか邪悪さを感じ、アイの中で嫌悪感が湧いた。


 そういえば先日、ひだまりの家でヨンスとフィフィが帰宅した際に、いじめを受けている話を、アイを含めその場にいた全員が耳にした。


 アイが嫌な予感を感じた間もなく、ヨンスは少年達に押されるようにして、脇道に入っていった。

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