第十五話 ひだまりの家(三)


「おかえりー!」


 男の子二人が扉を細く開け、頭だけを屋内に突っ込んで中を覗いていた。扉に挟まると危ないので、アイは注意しようと足を速めた。二人に近づくと、ふと、屋内からすすり泣く声が聞こえてきた。


「フィフィ、どうしたの?」


 中を覗いていた男の子達が、不安そうに言った。 


 アイの後ろを歩いていたレオンが前に出て、扉を大きく開いた。屋内を窺うと、タダシと子供が二人いた。一人は茶髪の男の子でタダシの隣に立ち、もう一人の黒髪の女の子はタダシに抱きかかえられて、べそをかいていた。よく見ると、その子供達の服は汚れていた。


「どうした?」


 マークが食堂から出てきて、こちらへやってきた。学校から帰ってきた子供達の姿を見て、マークは目を見張った。


「何があったんだ?」


 マークがタダシに聞いた。


「それが、二人してだんまりなんだ」


 タダシは困った顔をして言った。


「ヨンス、何があった?」


 マークは男の子の前に来て、目線を合わせるようにして屈んだ。ヨンスと呼ばれた男の子は、マークと視線を合わせずに下を向いていたが、暫くして、ギリッと歯を食いしばってからぽつりと言った。


「……害虫って言われた」


「何だと?」


 マークは顔をしかめた。


「同じ学校に通ってる奴らに、下層に住んでる害虫は学校に来るなって……。ぼくたちのこと、汚いって突き飛ばしてきて、花壇の土をぶつけられた……」


「何てことを……」


 ヨンスの話に、その場の空気が一気に沈んでいった。


 輪郭がすっきりとして涼し気な目元が特徴であろうヨンスの目は、今は怒りに歪み、両手は白くなる程に握りしめていた。


「あいつら、笑って、平気でひどいことするんだ。僕らは何もしてないのに……っ。あいつらの方が害虫だ!」


 ヨンスは、憎々し気に声を荒立てた。


 その剣幕に、その場に集まってきた幼い子供達は、びくっと震えた。


「皆、外に出よう」


 アイは怯え始めた幼い子達を、すかさず屋外へ連れ出した。遊び場へ出ると、開きっぱなしの扉からレオンの宥める声が聞こえた。


「ヨンス、お前の怒りはもっともだ。でも、心無い人間と同じようなことを口にするのは駄目だ。お前の清い精神が汚れてしまうぞ?」


 すると、パシッとはたく音が鳴った。


「ヨンスっ」


 マークの咎める声が聞こえた。


「レオンには分からないよね! 元は上層の人間だから!」


 ヨンスの怒声が聞こえた後、ドスドスと足を踏み鳴らす音がだんだんと遠ざかっていった。


「すまんな」


 マークの声だ。


「いいさ。手を叩かれたくらい、何でもない。それより、こっちのお姫様だ」


 レオンが言った。


「可哀そうに、フィフィ……。愛らしい顔が汚れてしまったな。皆より先にシャワー浴びてくるか?」


 レオンの問いに、返事はない。


「じゃあ、何か温かい飲み物でも飲むか? 俺は気分が沈んだ時は、甘いココアなんかを飲むとホッとするんだ」


 タダシだ。


「……タダシ、大人なのに、甘いココアなの?」


 女の子の声が聞こえた。


「甘いもの好きに、子供も大人も関係ないぞ。一緒に飲むか?」


 タダシが優しく提案すると、小さく「うん」と返事が返ってきた。


「それじゃ、作ってくる。食堂はまだ片付けられてねぇから、外のベンチで待っててくれ」


「手伝うよ」


 マークとレオンらしき二人分の足音が遠ざかっていった後、タダシが女の子を抱えたまま、屋外に出てきた。


「フィフィ、だいじょうぶ?」


「けが、したの?」


「ヨンスは?」


 幼い子達は、タダシの後を付いてまわった。


「大丈夫だ。皆が心配することはないぞ」


 タダシは朗らかに言った。


「あたしたち、がいちゅう?」


 まだ悪意ある言葉の分別が分からないのか、一番幼い女の子が不思議そうに言った。


 他の子達は理解しているようで、悲し気に眉が下がった。タダシの肩に顔を埋めている女の子——フィフィの耳にも入ったのか、肩がびくっと震えていた。


「違うよ」


 アイは咄嗟に言って、子供達の目線に合わせて屈んだ。


「皆、ただの良い子だよ。今日、初めて会った私に良くしてくれたし、マークの代わりに、皆の家の中を丁寧に案内もしてくれたんだから」


 アイは静かに、だが強調して言った。それは本心だ。それが伝わったのか、子供達は「えへへ」と笑顔になった。


「だれ?」


 フィフィがタダシの肩から頭を上げて、泣き顔でアイを見た。一瞬、アイは硬直した。


 ……子供の泣き顔は苦手だ。


「アイだ。アイも、俺達と一緒に仕事しているんだ」


 タダシが言った。


「アイも、便利屋さん?」


 正面から顔を見せたフィフィは、目鼻立ちがはっきりとした顔立ちで、真っすぐ切り揃えたおかっぱ頭が可愛らしい女の子だった。


「臨時だけどね」


 フィフィの問いに、アイは咄嗟に答えた。アイにとって、これだけははっきりとしておきたかった。


「まぁ、仲良くしてやってくれ」


 タダシはそう言って、光差す菜園の方まで行き、そこにあるベンチにフィフィを座らせた。


 そこへレオンが、湯気が立ち上るマグカップ四つと濡れタオルを一枚を乗せたお盆を持って、歩み寄ってきた。


「さぁ小人達よ。お前達の分の甘くて美味しいココアを、クリスとタロウが食堂に用意してあるぞ。ついでに、新しくなった椅子とテレビを、その目で見定めてくれたまえ」


 幼い小人達は、「うわぁ!」と嬉しそうに声を上げた。フィフィの事を心配しつつも、レオンに「大丈夫」と言い聞かせられ、子供達は素直に食堂に向かって屋内へ入っていった。


 タダシはレオンが持つお盆から濡れタオルを取ると、フィフィの顔や手の汚れを拭っていった。


「ヨンスは?」


「園長が様子を見に行った」


「そうか」


「ヨンスは、わたしを助けてくれたの」


 タダシに顔を綺麗に拭われたフィフィが言った。


「いじめてきた子達から、わたしをかばってくれたの。……だからね、さっきヨンスがレオンにひどいことしたけど、あんまり怒らないでほしいの……」


 フィフィは、レオンの顔色を窺うようにして聞いた。


「心配しなくても、怒ってはいないさ。それどころか、身を挺してフィフィを守ろうとしたヨンスを、俺は一人の男として尊敬するよ」


 そう言って、優しい笑みを浮かべたレオンは「どうぞ、お姫様」と、フィフィに甘い湯気の立つマグカップを差し出した。


「こちらの姫君も、どうぞ」


 レオンは、アイにもマグカップを差し出した。


「……ありがとう」


 アイがそれを受け取ると、途端にレオンは怪訝な表情を浮かべた。


「何?」


「いや? いつもなら『姫君』なんて呼称しようものなら、すぐ辛辣な言葉が返ってくるのになぁ、と……」


 そこで、レオンは何か気付いた。


「もしかして、さっきの俺が元々は上層の住民だったって話が耳に入ったか?」


 アイの目元がぴくっと疼いた。


「それが気になったとか?」


「別に」


 アイは嘘を付いた。


「そこは『貴方のすべてを知りたいの!』って、熱烈に迫ってきて欲しいところだったんだが……」


 そう話しつつ、レオンはタダシにもマグカップを渡した。


「まぁ、上層に住んでただけで、大して面白みのない話だけどな」


 事も無げに声を落として言うと、レオンもマグカップを手に取って口を付けた。


「……」


 上層の住民が、下層に移住するのは無くもない話だ。だが、下層に好感を持って移住する人間など稀で、大体は訳ありだ。すねに傷負ったか、金銭的なものか、理由は様々だ。何か複雑な理由があった上で、レオンは孤児になり、ひだまりの家で暮らしていたのだろう。……あまり野暮な事は聞かない方が賢明だ。


 アイは関心がない振りをして、甘い匂いが立ち上るマグカップに目を落とした。マグカップの口に入りそうになった己の黒髪を手で払って、アイはココアをこくりと一口飲んだ。


 その時、フィフィが「わぁっ」と声を上げた。アイはフィフィに目を向けると、彼女はアイをぽかんと見詰めていた。


「きれい」


 フィフィがぽつりと言った。


 今度はアイがぽかんとした。タダシとレオンもマグカップに口を付けつつ注目する中、フィフィは目を輝かせて言った。


「アイの髪、光に当たると青く見えるね。よく見たら、目も真っ青で青空みたい」


「——!」


 その瞬間、アイの脳裏が過去を投影した。ひだまりの家の菜園と同じく、通気口から光が差す秘密の場所に、子供がいた。


『あおくて、そらみたい』


 ひだまりの家にいる誰でもない幼い声が、アイの頭の中に響いた。 


「どうしたの?」


 現実の声だ。フィフィが不安げにアイを見ていた。


「ごめんね、いやだった?」


「違う」


 アイは頭を振った。


「そうじゃないから。ちょっと……懐かしいなと、思って」


 アイは小さく言った。


「昔、フィフィと同じような事を言った子がいたんだよ」


「お友達?」


「……どうだったかな」


 名前を知らない。顔も思い出せない。そんな薄情な人間が、友達と名乗るにはおこがましい事だと、アイは自嘲した。


 アイは苦々しく言うと、また一口ココアを飲んだ。


 甘い液体は、洗うように喉から胸の奥を通り過ぎたていった。しかし、胸の中で疼く苦い想いまでは、洗い流してはくれなかった。

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