第十二話 朝支度


 アイは、額にびっしょりと汗をかいていた。


 荒い息を整え、アイは辺りをぐるっと見回した。今いるのは、寝付いた廃墟の二階だ。そう頭ではっきり理解し、アイは深く息をついた。


「嫌な夢……」


 アイはぼそっと呟き、額の汗を拭った。


 アイは立ち上がり、窓枠しかない開口部から外を見た。いつも通りの、薄暗さだ。


 下層は一日中、明かりの乏しい薄闇の世界なので、どのくらい眠っていたのか、今何時なのか、時計を持っていないアイは分からなかった。


 アイは一階へ下り、寂れた廃墟から出た。裏道を進んで、表の通りに出ると、通勤中らしき人間が疎らにいた。


 その光景を見たアイは、まだ出勤時間に余裕がある事が分かった。請われて便利屋の臨時スタッフになったとはいえ、横柄な態度をとるつもりはアイにはない。まだ慌てる時刻ではない事に、アイは少なからず安堵し、ストレイ・キャッツ・ハンド事務所へ向かっていった。






「おう、おかえり」


 事務所の扉の鍵は掛かっておらず、アイが中へ入ると、テレビの音と共に声が聞こえ、キッチンからタダシが顔を覗かせた。アイを出迎えるタダシは、昨日と全く同じ調子だ。もう今更、アイがほぼ毎夜出歩く事に、苦い顔をする気はないようだ。


「……シャワー借りていい?」


 「ただいま」と口にする気がないアイは、挨拶などせずに聞くと、タダシは頷いた。


「濡れているから、滑らないよう足元に気を付けろ。さっき使った奴がいたから」


 タダシがソファーがある方へ、くいっと顎をしゃくってみせた。アイは、玄関横にある衝立てを避けて、ソファーに近寄った。見下ろすとそこには、横になってぐったりとしているクリスがいた。


「これ、どうしたの?」


 アイは下に指差して、タダシに聞いた。


「夜勤明けで限界だったんだろう。ふら~っと事務所に入ってきて、勝手にシャワーとタオルを使って、ふらふら~っとソファーに沈んでいったぞ」


「自分の部屋に戻ればいいのに」


「四階まで上るのを、諦めたんじゃないか?」


 クリス、そしてレオンとタロウも、ここのアパートに住んでいる。下層のアパートは、共通トイレ、シャワー無しが殆んどだが、クリス達が居住するアパートの部屋は、ワンルームでシャワーとトイレ付きという、下層にあるアパートにしては、なかなかの物件だった。


 アイは、眉をしかめて眠るクリスを放って、さっさとシャワールームへ行った。全身に被った埃を、熱い湯で洗い落としていく。さっぱりとして着替えた後、アイはタオルを頭から被ったまま事務所スペースへ戻った。自然と、音が聞こえるテレビへと目を向けた。テレビは、昨日の火災事故のニュースが流れていた。


 不幸なことに、当時工場にいた従業員は全員死亡し、火災の起因となった大型車両の運転手は、衝突した際に即死したと、ニュースキャスターが述べた。


「今日の仕事は?」


 気が沈むニュースから目を離し、アイはキッチンに引っ込んでいるタダシに、今日の業務内容を尋ねた。カウンター越しにキッチンを覗くと、タダシは湯気が立つ鍋を底が焦げないよう、お玉でかき回していた。


「今日は事務作業をやってもらう。クリスもな。そして午後からは、ひだまりの家で修繕作業だ」


 タダシは鍋から目を離さずに言った。


「ひだまりの家って、児童養護施設の?」


 アイは一度だけ、その施設に訪れた事があった。ストレイ・キャッツ・ハンドとは縁が深いようで、タダシに連れられてアイは軽く紹介させられた。


「あぁ。一度に色々とガタが来たみたいでな。そこの園長が、人手が欲しいんだと」


「知り合いだっけ?」


 アイは、その施設の園長の顔を、ぼんやりと思い出しながら言った。——確か、熊のような男だったはず……。


「俺が福祉士の仕事をしていた時にな」


「そんな仕事してたんだ?」


「主に、下層の放浪者の支援とか、体が弱い人のサポートとかな。他にも、身の回りの世話やら手伝いをしていく内に、色々な技術が自然と身に付いていったな。その前の仕事では、体力が身に付いたな」


 タダシはそれらの経験も活かして、便利屋を開業したようだ。


「レオンとタロウも、後々ひだまりの家に応援に来ることになってる」


「今、その二人は?」


「アイが事務所に戻ってくるまでに、別の仕事に行かせた」


 自分で尋ねておきながら、アイは「ふ~ん」と興味なさそうに声を零した。


「で、事務作業って何するの? データ入力? ホームページ作成? どっちみち、教えてもらわなきゃいけないけど——」


「その前に、朝飯食っとけ」


 チンッと音が鳴ると、タダシは「あちちっ」と隅にあるオーブントースーターから、こんがりときつね色に焼けた食パンを皿に移し、カウンターテーブルに置いた。おまけに、ジャムとバターまで。


「スープもあるぞ」


 タダシは、食器棚からスープカップを取り出しながら言った。


 アイはじとっと、被ったタオルの隙間からタダシを睨んだ。


「頼んだ覚えはない」


 アイがそう言うと、タダシは苦笑いした。


「そう言うなよ。食べるのは、嫌いじゃないだろ? 菓子ばっか食ってないで、まともな飯も食っとけ」


「……」


 下層で生きる者として、出来立ての温かい食事を粗末にするのは心苦しい事だ。アイは不機嫌そうに溜息をつくと、カウンターチェアに座った。焼きたて食パンから香ばしい匂いと、鍋から立ち上る湯気と共にミルクの優しい匂いが、アイの鼻腔をくすぐった。


「何を作ったの?」


「ベーコンとしめじ、キャベツのミルクコンソメスープだ」


「ベーコン?」


 アイは訝しげに声を上げた。


 食肉類は高級食品だ。食肉加工製品でも、戦前に比べると常備するには手を出しにくい値段となっている。代わりに、大豆などを加工したソイミートが、手頃な値段で市場に出回っていた。戦前よりも加工技術が向上して、食感も味わいも高級肉には及ばないが、それなりに食べられる程だ。

 

「……嘘だ。ベーコンもどきのソイミートだ」


 そう言って、タダシはお玉でスープカップに注ぎ、アイの前に配膳した。「不毛な嘘を……」と、アイは呆れつつ、スープに目を落とした。


 白いスープの中に、柔らかそうに煮えた一口サイズのキャベツとしめじが見え、角切りのソイミートがボリューム感を増していた。仕上げに、ぱらぱらっと振りかけた粒胡椒がコントラストとなって、見映えが良い。


 不覚にも、アイは美味しそうだと思った。


「タダシって、料理が得意?」


「一人きりで掃除するよりかは、な」


 タダシは得意げに言った。


「だろうね……。ていうか、昨日もレオンが言ってたけど、腕がそんな状態で料理するとか、辛くないの?」


 タダシは「特に感じないな」と、補助器具を付けている方の手を、握ったり開いたりした。


「ただ、鎮痛薬の効果が切れると、それなりに痛いがな」


 苦笑いするタダシを、アイは冷静に見詰めた。


「早く良くなってよ。でないと、辞められないんだから」


 アイがそう言うと、ぐっと、タダシが息を詰まらせた気がした。


「……いただきます」


 アイはタダシの顔を見ず、スプーンを手に取り、食事に集中するように努めた。


 熱々のスープと一緒にキャベツとソイミートも掬って口に付けると、塩味のあるコンソメがミルクでまろみが出来て、優しい味わいが口の中に広がった。ミルクの味がくど過ぎないように、ぴりりとした粒胡椒が僅かに効いているのも良い。キャベツはやんわりとしていて甘みがあり、ソイミートもしっかりと下処理をしたのか、噛み締める度に元が豆だったのかと疑う程、肉感があって美味しい——。


「——さて。あいつも朝飯食ってないが……、どうするか?」


 ザクザクと、アイがきつね色の食パンにバターナイフでジャムを塗り付ける作業をする中、気を取り直したタダシが、ソファーへと目を向けた。アイも、ちらっと目を遣った。


「クリス、起こすの?」


「起きたわよ……」


 すると、クリスがのっそりとソファーから頭を上げ、こちらをじっとりと見てきた。明らかに疲れた顔をしている。


「まだ寝てたらどうだ? と言うか、自分の部屋で寝ろ」


 タダシがぴしゃりと言った。


「そんな小気味良い音を鳴らされちゃ、嫌でもお腹に響くわ!」


 クリスは、アイの手にあるジャムを掬ったバターナイフと焼きたて食パンを、交互に指差して言った。


「テレビの音は気にならなかったのか?」


「それに——っ」


 クリスはタダシの言葉を無視して、ソファーから立ち上がった。こちらに近寄り、ドカッとカウンターチェアに座ると、湯気の立つ鍋を指差した。


「タダ飯は逃さないわよ」


「がめついな、お前」


 タダシは平静にぼやきつつも、クリスの為に新しいスープカップを、食器棚から取り出した。


 遅い朝食を終えた後、アイはカウンターテーブルでタダシと横並びになって、エクセルの使い方を教わった。ノートパソコンを開くタダシの横で、アイは難しい顔をしつつ画面を睨んだ。クリスはオフィスデスクを陣取り、もう一台のパソコンで淡々と作業をこなしていった。カタカタとキーボードを軽快に叩く音が、しばし事務所の中で響いていった。


 

 

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