第十一話 想起


 アイは瞼の裏に張り付く闇を見ていた。


 しかし、よく見詰めてみると、瞼を閉じた世界は闇ばかりだけではなかった。ぼうっと、暗闇の中に光が散っている。ぼんやりとした思考の中、どうやら瞼の向こう側は光が差しているようだと、アイは思い至った。


 アイは、ゆっくりと目を開いた。


 霞む目に映るのは、建造物に囲まれた小さい四角形の空間。この空間に通じる道は入り組んでいて、大人一人が辛うじて通れる程の細い路地のみ。誰も入ってきそうにない秘密の場所には、取り残された廃材と、「天」からの一筋の光。そして、その光の中に誰かがいた。


 子供だった。まだ霞む視界の中、「天」を見上げていたその子供が、こちらに振り返り、近付いてきた。


 ——あぁ、この子のことは知っている。


 伸び放題のぼさぼさの髪、細く小柄で、汚ならしい格好をしていた。嫌悪感は無かった。アイは自身の格好を見た。裾は擦りきれて、砂埃や汚れた染みが着いている。汚ならしいのはお互い様だ。


 目の前まで寄ってきたその子は、少し屈み、アイの目線に合わせてきた。アイも頭を上げて、その子を見詰めてみた。しかし、その子の目は、長い髪に隠れてよく見えない。


 ——顔、どんな風だったっけ? 声は……。


『——、——。』


 その子は、アイに何か話しかけているようだが、アイにはよく聞こえなかった。ちゃんと、その子の声を拾おうと耳を澄ましていると、その子は小指を立てて手を伸ばし、アイの小指に絡めてきた。


 ——ゆびきり……。あの子から教えてもらった事を、今度は私がこの子に教えたんだっけ……。


 その時ふと、その子の着ている服の長い袖から手の甲が、ちらっと見えた。手の甲には痣のようなものがあった。アイはそれを見て、狼狽えた。


 ——そうだ。この子を止めなきゃ……、行かせちゃ駄目だ。


 アイは声を出そうとした。けれど、出来なかった。体も思うように動かない。小指を絡めるその手を、掴むことも出来なかった。


『——。また、あした』


 ただ一言、『また、あした』とだけアイの耳に入った。掠れ気味の柔らかい声音を残して、その子は去っていった。アイは、声を上げることも出来ず、その子を引き止めることが出来なかった。


 やがて、「天」からの一筋の光が消え、薄闇だけが秘密の場所を覆い包んだ。それがアイの不安を余計に煽り、やっと動かせるようになった自分の体を両腕で抱き締めた。


 すると、薄闇にぼんやり浮かぶ細い路地の向こうから、人々の騒めく音が響いてきた。怒声と悲鳴——騒々しい音がだんだんと大きくなる。アイは細い路地に足を踏み入れ、入り組んだ道を足早に進んだ。表の通りに出ると、下層の住民が道端で固まりとなって、戦々恐々としていた。


 畏縮する人垣の向こうには、軍服を纏った人間が、悲鳴を上げる人間を家屋から引き摺り出していた。抵抗する人間は、携えた自動小銃で脅し、その柄で叩き付け、捕縛し、連行していった。その中には、女どころか子供までもが……。


『上層で爆破テロがあったらしいぞ』


 人集りの中から、いくつもの声がアイの耳に入ってきた。


『犯行グループは、上層でデモを起こしてた集団だろ』


『アネモネだっけ?』


『【見捨てられた】っていう、花言葉に因んでさ』


『下層の環境改善を訴えてた——』


『爆破されたのって、この国初のクルーズトレインだって』


『そんなの作るより、ここをどうにかしてくれよ……』


『主犯はジェットっていう男でさ——』


『まぁ、確かにさ~、こうも格差差別されりゃ抗議したくなるけどよ~……』


『犯罪——しかも爆破テロなんてっ!』


 恐々と傍観する人々が、ひそひそと事の成り行きを口々に語った。


『その組織には子供もいたんだと』


『テロリストの中に子供も!?』


『セレモニーでたくさんの被害者が——』


『実行犯は皆死んだらしいぞ』


『警備軍が残党を炙りだしに来たんだ』


『デモに参加してた人間を片っ端から——』


『何でも、腕や手に花模様の印があるのが、組織の証らしいぞ』


『全員、死刑なんだろうか……』


『あぁっ、見て。あんな小さい子まで……っ』


『あんな事があったんだ。子供だろうと容赦しないだろう』


 アイは後ずさりし、その場から逃げるように元来た脇道へと走り出した。


 あの子にも、痣が——花模様の焼印があった。


 アイは胸が詰まった。走って前後に振る手を、爪が食い込むぐらい硬く握った。


 あの時、あの痣の意味を知っていたのなら、あの子を引き止めることが出来たのかもしれない。


『実行犯は皆死んだらしいぞ』


 アイの耳の奥に、先程の野次馬の会話が、反復された。


 ——死なずに済んだかもしれない……。


 アイは何かを堪えるように、歯をぐっと食い縛った。


 名前を、知らない。髪が長かったあの子の顔も、よく思い出せない。絡めた小指の感触は薄れ、『また、あした』と言った声も霞んでいった。


 息が苦しい。遣りきれない。悲しい。


 忘れたくないのに、頭の中からあの子が消えていくのを、アイは悲しくて、心苦しかった。


 いつの間にか、アイは路地ではなく、ただ暗闇の中を走っていた。すると前方に、ぼうっと小さく子供の後ろ姿が見えた。アイは、あの子かと思い、足を速めた。だんだんと近づくその背中に、アイは手を伸ばした。


 だが、その肩に手が触れようすると、その子に手を振り払われた。


 ——え……?


 アイが目を丸くしていると、その子が振り返った。心臓が跳ね上がった。アイに顔を向けたのは、あの子ではなく、また別の子だった。男の子だ。


 男の子は、酷く怯えていた。アイはこの男の子の顔を——表情をよく覚えており、心臓がドクドクと不安定に鼓動した。


『——っ!』


 男の子はアイに向かって、泣き叫んだ。アイはそれを聞きたくなくて、とっさに耳を塞ぎ、ぎゅっと目を瞑った。


 しかし、耳を塞いでも目を閉じていても、男の子の泣く声と、顔色を青くして怯えた表情が、アイにダイレクトに伝わった。


 ——ごめんね……ごめんね……。


 当時のアイは、何故、男の子が自分に怯えて非難するのか、分からなかった。しかし、今ならよく理解が出来た。慟哭する男の子の姿を、耳と目を塞いで拒むが、アイの心の内は、男の子に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


 何故だろう……。


 何故、自分の周りにいた者は、悲運な道に足を寄せてしまうのだろう……。


「何で……っ」


 アイは声を詰まらせ、眉がくしゃっと悲愴感に歪んだ。


『だから、言ったじゃないか……』


 その声に、アイははっとした。


 耳を塞いでいた手を離し、目も見開いて、辺りを見回した。いつの間にか男の子の姿は消え、アイは暗闇の中、一人きりだった。


『あの時、僕が最後に言った事を、君は忘れたのかい?』


 悲し気な男の声に、アイは浅い呼吸を繰り返した。カチャッと、アイの背後から何かがスライドする音が聞こえた。


『……悪い子だね』


 振り返る間もなく、声が耳元で聞こえ——。







 アイは飛び跳ねるようにして、目が覚めた。

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