第十話 サイン


 事務所で一人きりになったアイは、カウンターチェアから立ち上がり、開口を潜った。


 潜ると、左はトイレ、目の前は事務スペースとプライベートスペースを隔てる扉がある。その扉の先へ入ると、扉が三つあり、左は洗面所とシャワールーム、奧はタダシの部屋、右は物置として使っていた部屋を改装したアイの部屋だ。


 アイはタダシの厚意で、この部屋を宛がわれていた。


 アイは、自分のために用意された部屋の扉を開けた。部屋の中は殺風景で、ベッドとサイドテーブル、あとは元々この部屋に置いていた収納ケースが端に積み重なっていた。


「……」


 アイは短く息を吐いた。


 結局、部屋に一歩も踏み入らずに、アイは扉を閉めた。部屋が気に入らない訳ではない。アイは、長くここに身を置く気がないので、「居場所」というものが出来てしまう事を嫌がった。なので、折角用意された部屋を、アイはあまり使用せず、静かな夜の街へと放浪する事が多かった。


 アイは今夜も部屋で休むことなく、玄関に向かい、事務所を出た。


 律儀に室内の電気は消し、ポケットからスペアの鍵で戸締まりはした。一階へ下り、人の気配が漂う表の通りには出ず、裏道に通じるアーチ開口からアパートを出ていった。


 ストレイ・キャッツ・ハンド事務所がある周辺は、最寄りのスレッド周りに市場が開かれる程、治安は良い方だ。表の通りに面した建造物は、上層を支える為に改築されている建造物が多く、比較的に新しく整備された地域は、人の気配も濃い。


 アイは、それらとは全く逆の場所を探し、歩いた。


 裏道にも、上層の支柱となるべく改築された建造物はあるが、必要な分のみで、真新しいものは少ない。殆どは、戦後のままの様子で、ライフラインが絶ったままの朽ちて無人となった建造物もあった。


 アイは、そういった無人の所を探した。しかし、アイの求める場所には、良からぬ者達が潜んでいた。


 街灯の明かりが乏しく、横端にぼろぼろの紙くずが固まりを作っている細い路地を進んでいくと、建造物の影から話し声が聞こえた。アイが通り過ぎ様に、ちらっと目線を横に遣れば、暗がりの中、二人の男達がぼそぼそと悪態をついていた。アイは興味を引かれる事もなく、目線を戻し、足を進めた。


 絡まれると面倒だ。もっと、人のいない場所へ——。


「んぁ!? おい、そこの——!」


 先へ行こうとしたアイに向かって、後方から、男の怒声が投げ掛けられた。アイは眉根を寄せて面倒臭そうに振り返ると、つい先程、アイが横目で見かけた男達が影から姿を表した。


「どうしたん……、ひぇっ!」


 もう一人——怒声を上げた人物とは別の男が、アイを見て、情けない声を出した。ふと、アイはその声に聞き覚えがあり、頼りない明かりの中に浮かぶ男達を、目を細めて見据えた。


「そのフード頭、昼間に会った女だよなぁ? 今は一人ぼっちかぁ?」


「お、おい、やめとけよぉ~……。この女、めっちゃ——」


「はぁ!? 女一人に何ビビってやがるっ?」


 アイは思い出した。


 この男達は、昼間の廃棄物収集処理場で、最初にアイとレオンに絡んできた二人組だ。


「いや、だからよぉ~……、この女もヤベェんだよぉ~っ」


 特徴的な話し方をする男は、いきり立つ金髪の男を宥めた。金髪の男は、レオンに打ち倒されてから気を失ったままだったので、アイの強さを知らないのだろう。再び、金髪の男は喚いた。


「あぁっ⁉ この女の何がやべぇってんだよっ!」


「あ~、その~……だってよぉ~、オレ、この女に——」


「うざい……」


 アイは苛々した。


 アイは男達に構わず、踵を返して歩を進めようとした。


「待ちやがれ! このクソアマがっ!」


 アイに軽んじられた態度を取られ、増々怒りが募った金髪の男が、アイの肩をがしっと乱暴に掴んできた。


「——っ」


 アイはすかさず、掴まれた肩を上げ、体を後方に捻って、男の手を逃れた。


「なっ——⁉」


 金髪の男がアイの素早さに驚愕している間に、アイは男の前方に踏み込み、硬く握った拳の甲をその眉間に打ち付けた。男は痛みに叫び、呻き声を上げた。


「先に手を出したのは、そっちだから」


 アイは冷たく言った。


「こ、このぉ……っ!」


 金髪の男は、激痛が走る顔に手を遣って、指の隙間からアイを睨み付けた。


 男がそうしている間にも、アイは追撃した。


 アイは、顔を覆っている男の肘を掴み、引き寄せた。引っ張った勢いに乗せて、アイは足首からスナップを効かせて男の腹に蹴りを入れた。男が、腹の衝撃で体をくの時に曲げたところを、アイは男の後ろの首に目掛け、肘鉄を打ち下ろした。


 金髪の男は泡を吹いて倒れ、沈黙した。


「ち、ちくしょうがぁ~っ!」


 金髪の男が倒された様を見て、パニック状態になった舌足らずの男が、懐からナイフを取り出し、アイに目掛けて投げ付けた。しかし、アイはそれを上体を反らして、難なくと避けた。


 壁に当たり、カランッと落ちたナイフから舌足らずの男へと、アイの目線が走った。


「ひぃぃっ!」


 男は恐怖し、後退りした。ナイフを投げ付けられたからには、アイは舌足らずの男も見逃す気にはなれなかった。アイは素早く男に近付き、胸倉を掴んだ。


「ぅひゃっ! や、やめ——」


「——っ!?」


 アイは、目を見開いた。


 胸倉を掴んだ拍子に裾がずれて、男の首元が見えた。そこには、禍々しい緑色の斑点があった。


「サイン……」


 アイは小さく呟いた。


 ノアが建国される前——、各国が戦争終結する切っ掛けになったのが、サインだった。毒の瘴気が蔓延し、人体に害が及んだ際、その兆候サインが現れた。その兆候とは、体の各部位に緑色の斑点が浮き出ることだ。それは、毒の瘴気が体内に蓄積していった証——……死が確定していた。


 死期までのカウントダウンは、人によって違った。サインが現れた直後に亡くなる者がいれば、長い年月を掛けて毒の微粒子が体内外を蝕み、いつ死が訪れるのか恐怖する者もいた。


 毒の瘴気から逃れる為にノアが建国され、厚い壁で外の世界と中の世界を遮断しているが、それでも、僅かにサインの発症者は現れた。


 それは、どうしようもないことだった。


 ノアの中だけでは、資源の生産、循環利用がままならず、ドローン等を用いて、外の世界から物資を探索、発掘、運用をし、今現在でも継続していた。他にも、ノア外周辺に、光、熱、風力等の自然エネルギー発電機が設備され、システムの点検、補強も行われている。


 こういった理由で、、外の世界を完全に断ち切れず、毒の瘴気が微かにノア内にも影響していた。


 現在、サインの治療法は未だ解決されていない……。


 男の首元のサインを目の当たりにしたアイは、気力が萎み、掴んでいた胸倉を思わず離した。そのアイの行動に、舌足らずの男は怪訝な顔をした。

 

「な、何だよぉ……」


 男は、アイの視線が己の首元に注目していることに、気付いた。男は咄嗟に、首元に手を遣って、肌に浮かぶ緑色の斑点を覆った。


「なん、だぁ~? 同情でもしてんのかよぉ?」


 男は、サインを見られたことに、若干動揺していた。


 アイは何も答えずにいた。……答えられない。アイは目を伏せ、後ずさりし、このまま立ち去ろうとした。——だが、男はそれを許さなかった。


「……ざけんじゃねぇよっ。ふざけんじゃねぇぇ!」


 男は激昂した。


 男は走り、落ちていたナイフを拾い上げ、アイに向き直った。


「も、もうオレに、後がねぇんだ……。アイツだって、そうだっ」


 舌足らずの男が、倒れている金髪の男に向かって顎をしゃくった。……どうやら、金髪の男もサイン発症者の様だ。


「病院行っても、どうしようもねぇって……、鎮痛剤も高くって……体痛ぇのによぉ……っ」


 男の顔がくしゃっと歪み、涙声だ。


「だったら、だったらよぉ~……最後は、好きに生きてやるよっ。もう恐ぇことはねぇんだ! 女も子供も関係ねぇ! みんなぶっ殺してやらぁあっ!」


 男はナイフを掲げ、アイに向かって突進してきた。


 やり場のない怒り、どうしようもない悲しみ、……自暴自棄——冷たく光るナイフと共にアイに迫り来る。


 しかし、アイは冷静に対処した。


 男が真正面から突き出してきたナイフを、アイは男の腕ごと手で払った。払ったその腕を、アイは肘と脇で挟み込んでから、一気に肘を伸ばし、掌底を男の顎へ打った。まともに急所を食らった男は、仰向けに重心が反れ、アイはそのまま手を男の首元に添えて、地に打ち落とした。


 仰向けに打ち倒した男は息を詰まらせ、身動きしなくなった。アイは男の首元から手を離して体を起こし、今度こそ踵を返した。


 ふと、アイの耳に、舌足らずの男の声が小さく聞こえた。


「ちくしょう……ちくしょう……」


 アイがちらっと、後ろに目を遣ると、男は地面に倒れたまま、むせび泣いていた。


 アイは、どこかやるせない気持ちになり、さっさとその場を離れていった。






 朽ちた廃墟に、アイは入っていった。


 扉がなく、ぽっかりと空いた出入り口から、すんなりと侵入出来た建造物の中は、もう電気が通っていないケーブルが何本か天井から垂れ下がり、床のタイルは所々剥がれ、土埃が積もっていた。


 人の気配もない、不気味な程に静かな場所。こういう場所が、アイに安心感を与えた。


 だからといって、好きな訳ではない。アイにとって都合がいいのだ。


 アイは階段を使って二階へ上がった。二階も一階と同じ様な有り様で、窓だったであろう開口部は、外を見透すガラスはなく窓枠だけ残っていた。


 アイは窓際に寄りかかり、埃っぽい床に腰を下ろした。二階なら、唐突に人と出くわさないだろう。窓際なら、外の気配も探れる。いざというときは、ここから飛び降りて、回避すればいい。


 アイは、とにかく他人との接触を避けたかった。


 本当なら、便利屋などに身を置くべきではないのだ。しかし、昔の知り合いと出会った。タダシが困っていた。


  懐かしい……もう会うことはないと思っていたのに。でも、駄目だ。……だから、タダシの腕が——。


「治るまで……。治るまで、だよ……」


 ——だから今は、許してほしい……。


 アイは膝を抱えると、猫のように丸くなり、静かに目を閉じた。

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