第八話 ストレイ・キャッツ・ハンド事務所(一)
クリスとは華爛街で別れ、アイ、レオン、タロウの三人は、中央街からストレイ・キャッツ・ハンド事務所がある南街へ向かった。
通りを歩いていると、上層と比べて、下層の街並みは窮屈に見える。上層の空間の高さはビル十二階程に対し、下層はビル六階分程だ。鉄骨や殆どの建造物が上層を支える柱の役割をし、剥き出しの大小様々な配管が、ところかしこに上層まで伸びている。
このような光景を見ると、下層は、上層を支える為に有るように感じてならないだろう……。
「やっぱり、祭りに行く下層の人間も多いようだな」
南街に入って、スレッドが見えた。そこは見切り品市場がスレッドの周りで行われ、客足も多い。しかし、人が多いのはそれだけじゃなく、スレッドの前にぽつぽつと並んでいる人々もいた。中には、行列に並ばないで、進む者もいる。きっと、行列に嫌気が差して、螺旋階段を上るつもりだろう。
「明日から博覧会も開催されるし、どこかで派手な花火が上がるかもな」
アイは、レオンの話を聞くともなく漠然と聞いていると、レオンが視線を寄越してきた。
「マイレディー、光の花が咲き乱れる夜を、貴女と共に――」
「過ごさない」
アイは、ぴしゃりと言った。
何が楽しいのか、レオンはくすくすと笑った。
「アイはいいな。その辛辣に切り捨てる様は、清々しい」
「……つっこみ……」
タロウが、ぼそっと呟いた。
遊ばれているような気がして、アイはむっとし、そっぽを向いた。
そうこうしている内に、三人は、ホールホームハイツという店舗付きアパートに着いた。
アパートは五階建てで、一階部分は診療所、二階は二つの店舗があり、隣のアパートと面している店舗が、ストレイ・キャッツ・ハンドの事務所だ。因みに、十字路に面したもう一つの店舗は占い店だ。よく当たると評判らしいその占い店は、その店に通じる独立した螺旋階段に、度々行列を成していた。
アイ達は、診療所の玄関出入口の横にある、アパートのアーチ開口を潜った。
狭いエントランスは、ここからも診療所に出入り出来るガラス戸があり、反対側には郵便受け、目の前には階段、奥に行けば裏道に通じる開口があった。
下層に、郵便の機能が働いているかどうか怪しいが、レオンは、ストレイ・キャッツ・ハンド事務所の郵便受けに手を突っ込んだ。中には、これまた怪しげな塗装工事と金融業のチラシが入っていた。
「メモ書きには使えるだろ」
レオンは、真っ白なチラシの裏側を見て言った。
三人は、階段を上って二階の踊り場に出て、屋号を記したプレートが打ち付けてある扉の前に立った。
ここが、ストレイ・キャッツ・ハンド事務所だ。
磨りガラスの向こうから室内の明かりが漏れている。レオンが取手を掴んで、開いた。
「所長、戻った……ぞ」
レオンは絶句した。
ストレイ・キャッツ・ハンド事務所の内装は、一見、オフィスには見えない。
入ってすぐに目を引くのは、右奥にあるカウンター付きのキッチンだ。オレンジ色のポップなカウンターチェアに、木目調のカウンター台や吊棚は、まるでダイニングバーの様だ。左横は衝立てがあり、その奥は窓側で、古いテレビが乗った飾り棚、ローテーブルとそれを挟んだソファーが二脚ある。そして左奥には、本棚と事務所らしくオフィスデスクがある。しかし、畏まった風ではなく、カジュアルな趣きになっていて堅さはない。
元々は、流行らずに廃れてしまった喫茶店だった店舗を、リノベーションして出来上がったのが、今の事務所だ。中々小洒落た雰囲気の内装であるが、アイ達が戻ってきた今現在は……。
「おう。おかえり」
事務所に戻ってきた三人の耳に、テレビの音と共にやや嗄れた男の声が届いた。
声の方に目を遣れば、右の肩から掌まである補助器具を取り付け、白髪混じりの短髪、縁なしの四角い眼鏡を掛けた男がデスクに肘を付き、のんびりとしていた。
「……『おかえり』じゃねぇよ、おっさん……」
タロウが非難がましく呟いた。
「タダシ、また……」
「何が、どうして、こうなったんだ? 所長……」
アイとレオンも、半目になって呆れている。
事務所の中は、滅茶苦茶に散らかっていた。
玄関横にある物置の両扉は開きっぱなしで、そこからモップやバケツ、洗剤、もう一つの仕切り棚からは、トイレットペーパー等の日用品が、雪崩のように崩れ落ちている。キッチン周りは、乾物や調味料、スナック菓子が、台の上、カウンターチェア、鍋の中に鎮座している。吊棚やパントリーが開いていることから察するに、そこから全ての食料品を取り出したのだろう。そして、ローテーブルには何故か水滴が残っているカップが、山積みになって、その下に敷かれている布巾をしどどに濡らしていた。
「自分でも分からん」
便利屋ストレイ・キャッツ・ハンドの所長——タダシは、首を傾げていた。
「最初は、カップに付着した茶渋を取ろうとしたんだ――テレビで掃除特集がやってて、ついな。それで、重曹を探したんだが、棚の奥から今月で賞味期限切れになる、缶詰めやらスナック菓子が見つかって、パントリーの中の物と入れ替えようとした。その時に、カップの事を思い出して、今度はカップを全部浸け込める洗面器を探しだしたんだ。確か使っていない洗面器があったと思って、物置の中を探すと、今度は——」
「ストップ。もういい」
レオンは頭を抱えて言った。
「被害はここだけか?」
レオンがそう聞くと、タダシは「あぁ~……」と、目を泳がせた。
「洗面所の方も、だな」
「分かった」
それから暫くは、皆が片付けに集中した。タロウは、キッチンと物置の間にある開口を潜って、洗面所へ。アイは、雪崩が起きた物置を。レオンは、キッチン周りにある食料品を、期限を確認しつつ片付けていった。散らかした張本人であるタダシも、水滴の付いたカップを、乾いた布巾で拭き取っていく。
「人の目がないと所長はすぐに、汚部屋製造人間と化してしまうな」
自分で散らかした割には、テキパキと片付けるタダシは、カップを食器棚に収め、今はレオンと一緒に食料品を片付けていた。
「俺を真っ当な人間とたらしめるのは、お前達のお陰だな。頼りにしているぞ」
眼鏡を鼻筋に押し掛け、缶詰のラベルを確認するタダシは、あっけらかんと言った。
「こんな事で頼りにしないでくれ」
タダシから缶詰を受け取りつつ、レオンは溜め息を付いた。
「だいたい、療養中の人間が、あまりハードに動かないでくれ。その上、散らかし放題じゃ、褒められたものじゃないぞ?」
レオンは、ちらっとタダシの右腕を見た。
「リハビリだ。リハビリ。それに、散らかしたとはいえ、当初の目的は完遂したぞ」
タダシは、食器棚の中に収まったカップに目を遣った。タダシに連られて視線を走らせたレオンは、「むむっ」と唸ってから頷いた。
「確かに、そうだな」
「だろ?」
「絆されてんじゃないよ」
二人の会話が耳に入っていたアイは、思わず口を挟んだ。
一通り片付けが終わり、タダシとレオンはソファーへ、アイはカウンターチェアに座り、一息ついた。
「……おわった……」
タロウも片付けが終ったのか、洗面所から戻ってきた。そこへ、タダシが眼鏡をずらして、タロウをじっと見詰めた。
「タロウ、ちょっとこっち来い」
タダシが声を掛けると、タロウは素直に従い、タダシの元へ近寄った。
「腕、触るぞ」
そう言ってタダシは、タロウの両腕を探るように触っていった。すると、タダシはすぐに眉をしかめた。
「やっぱり……。お前、また暴れたな」
タダシが指摘すると、タロウは不機嫌そうに頷いた。
「筋が腫れている。痛いだろう?」
「……べつに……」
タロウは、ぽつりと言った。
「レオン、タロウが暴走する前に止めてやってくれ」
タダシは向い側に座るレオンに、注意深く言った。
「所長、そんな避難がましく見ないでくれ。タロウは、人一倍仲間思いなんだ。他者の為に怒れるなんて、素晴らしい事じゃないか。……あと、もうすでに、タロウの怒りが爆発した後だ。それを止めるのは無茶な話だよ」
レオンが「なぁ、タロウ?」と声を掛けると、タロウは、鼻を鳴らした。それを見て、タダシは「分かった、分かった」と何か諦めたかの様に、声を漏らした。
「でもな、自分の体の事なんだ。自制して、もっと自分自身を労ってやれ。な?」
タダシは、タロウによく言うと、眼鏡をずらしたまま、今度はレオンを見た。
「お前もここ、やってんな?」
タダシは己の左頬に指を差して、レオンに言った。
「華爛街で、酔っ払いに絡まれたんだ」
「どうしようもないないな」
タダシは、顔も見たことがない相手を、こき下ろした。
「とにかく手当てするぞ、坊主ども」
タダシは、タロウとレオンに向かって言った。
「俺は大した事ないし、いいよ。キティママにも、冷えたおしぼりを貸してもらったし」
レオンが、あっけらかんと言った。
「大した事がなくても、念のためにもう一度冷やしとけ。タロウは湿布だな。救急箱は——」
「ほら」
いつの間にか、アイは救急箱を手に持って、タダシの前に付き出してきた。
「……あぁ、助かる」
タダシは、どこか戸惑った様子でアイを見上げていたが、すぐ気を取り直して救急箱を受け取り、湿布を取り出した。タロウはタダシの隣に座り、大人しくタダシに腕を差し出した。
「なぁ、アイ。俺にも、冷えたタオルで癒してくれ」
妙に甘く訴え掛けるレオンに、アイは冷めた目線を寄越した。
「大した怪我じゃないんでしょ」
アイの冷たい態度に、レオンは降参したかの様に両手を上げた。
「やれやれ……。そのクールな振る舞いで、この頬の腫れもすぐに引きそうだ」
「馬鹿言ってないで、さっさと冷やしてこい」
タダシに冷静に促され、レオンは「タオルを借りるぞ」と言って、洗面所へ消えた。
「気を悪くしたか?」
湿布のフィルムを剥がしつつ、タダシがアイに問い掛けた。
「何が?」
「あいつは女相手だと、だいたいあんな調子になるからな。お前の場合、不快に感じているんじゃないかと思ってな」
「正直、面倒臭い」
アイがそう言うと、タダシは苦笑いした。
「まぁ、そこはさっきみたいに、適当に流してやってくれ。本気で手を出してくる訳じゃないから」
「……もし、そんなことが有れば――」
アイは自分の掌を、ぐぐっと握り締めた。
「——……潰すから」
……何を?——とは、タダシは敢えて聞かなかったが、自然と口がを引きつり、腰が後ろに引いていた。
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