第六話 蟻地獄の女王(一)
秘密の扉を潜ると、そこはフロントだった。
酒場の店内と同じようにチャイナテイストの内装だが、色調ががらりと変わって深い紅色を基調とし、壁掛けには鞭や鎖の付いた手枷等、物騒な物が飾られている。
この蟻地獄という店のネーミングといい、装飾といい、被虐趣味の客が訪れるには似合いの内装だと、アイは眉をひそめて思った。
華爛街には、出会いの場と称した欲望の捌け口なる店もある。しかし、未成年者も訪れるので、その目に触れないよう、実際に営業する酒場などの店舗をカモフラージュにして構えており、こっそりと訪れたい客にも配慮があった。勿論、十八歳未満の未成年者の立ち入りは出来ない。
階段と奥に続く扉に挟まれたフロントには、この店の従業員がおり、ストレイ・キャッツ・ハンドの面々を見て頭を下げた。
「どうぞ、お茶の部屋までご案内します」
一行は、従業員に案内されるまま、フロント横の開け放たれた扉の奥へ向かった。
「主の準備が整うまで、お寛ぎ下さいませ」
そう言って従業員は、一行を通した部屋から下がっていった。
お茶の部屋は、所謂客間だった。座り心地の良さそうな椅子に、足の先まで芸術的に彫り込まれたテーブル、綿密に織られた絨毯と、どれもこれも高級感溢れる調度品で調えられていた。
そんな豪華な部屋に、アイはとても寛げる気になれなかった。
「花束、どうしよう?」
アイは、腕に抱えた花束を見下ろして言った。
「そこの飾り棚に置かせてもらったらどうだ?」
レオンが、部屋の角にある飾り棚に親指を立てて示した。
「……今、届けに行こうか?」
「何バックレようとしてんのよ」
アイの魂胆が、あっさりとクリスにばれてしまった。思わず舌を打ちそうになったアイは、クリスに聞いた。
「ターニャ、今日は出勤日だったよね?」
「そうだよぉ」
ガチャッと、扉が開いたのと同時に、少女の声がお茶の部屋に入ってきた。アイ達は、扉の方へ目を向けた。
「今日、ターニャちゃんは出勤日だけど、まだ来てないよぉ。何か用事?」
そこには、車椅子に乗った小柄な人物がおり、年嵩の男を連れていた。男の方は兵隊で、その黒い装束を全身に纏っていても、屈強な体躯だということ分かる。
「ご機嫌よう、クイーン。実は、ターニャ宛に花束の届け物があるんだ」
レオンは、アイが持っている花束に視線を遣って言った。
「わっ、綺麗だねぇ」
クイーンと呼ばれた車椅子の人物が、はしゃいだ声を上げた。
クイーンは、謎だらけの人物だ。
まず、容貌が奇っ怪であった。
クイーンは、漢服のような衣装を身に纏い、薄緑色の柔らかそうな羽織に、上着は白地に赤い小花を散らし、足先まであるふわっとした
クイーンの一番奇妙なところといったら、その顔……というより、面だ。クイーンの顔は、額から鼻の部分まで青灰色の面で覆い、面から垂れた黒い薄布は耳と喉元まで隠していた。また、その面のデザインが不気味だ。黒で縁取った目の形が能面のように、見る人間によっては他者を哀れむような、はたまた微笑や怒り、侮蔑など、様々な表情を覗かせた。このような面で、じっと見詰められると、実に居たたまれないであろう。
「クイーン、頼まれた品よ」
クリスが、布で包まれた品をクイーンの前に差し出した。
「やった! ありがとぉ! また茶器コレクションが増えたよぉ」
クイーンは、嬉しそうな声で言った。
小柄な彼女は、声音が幼く、大人の女性か幼い少女か、判別が出来ない。唯一、露出している三つ編みを二束に結んだ白く長い髪も、白髪だからといって老齢だと推測するのは難しい。
このような姿なので、クイーンは素顔どころか、実年齢や肌の色さえ、謎であった。
「立ちっぱなしもなんだから、座って座って」
クイーンが「ほらほら」と、皆に腰を下ろすよう勧めた。クイーンも、車椅子の手元にあるレバーを操作して、テーブルの前へ移動した。兵隊の男はクイーンの後に付いて、後ろの方へ控えた。
クリスが差し出した品は、クイーンと兵隊の後から入ってきた女性の使用人が、丁寧に受け取り部屋から下がっていった。その後すぐに、また別の使用人が、ティーセットを乗せたカートを引いてやってきた。その間に、各々席に着いていき、アイは花束を飾り棚に置いて、クイーンと離れた扉に近い席に座った。アイはクイーンが苦手だった。
「改めて、お茶会にようこそ。わたし、ストレイ・キャッツ・ハンドの皆のこと気に入ってるから、来てくれて嬉しいなぁ」
クイーンがにこやかな声音で喋る中、使用人がお茶の準備を整えた。お茶請けの菓子は、ポルボローネやラングドシャ等のクッキー類が用意され、陶磁器のポットから注がれる淡い茶色のお茶は、林檎のような甘い香りがたった。
「あら、ハーブティー?」
配膳されたカップを前に、クリスが呟いた。
「今、ハーブティーに嵌まっているの。今回は、カモミールティーなのです」
クイーンが頷いて言った。
「鎮痛やリラックス効果があるから、さっき嫌な目にあった皆にお勧めだよぉ。特に、レオン君に」
クイーンは人差し指で、レオンの左頬を差した。
クイーンはついさっき起こった、カオス・オブ・パラダイスの騒動を既に知っているようだ。レオンはカップを持ち、クイーンに向かって高く掲げた。
「女王様からの慈悲深い心遣い、光栄至極に存じます」
「ふふ、畏まり過ぎだよぉ」
芝居かがったレオンの仕草に、クイーンはくすくすと笑った。
「でも、本当にありがとぉ。この街の子達が傷付いちゃったら、悲しいもん」
クイーンはそう言って、器用に薄布で覆った口元へカップを運んだ。
「さすが華爛街の顔役。情報が早いわ。華爛街で、クイーンに隠し事は出来ないわね」
クリスがそう言うと、クイーンは「勿論!」と、得意気に言った。
「わたしは、この街のお母さんなの。ちゃ~んと、面倒は見なくっちゃねぇ」
クイーンと相対する人間の大半が、一つ、彼女の事で分かっている事と言えば、この蟻地獄の主であり、華爛街の元締めであるという認識だ。クイーンが華爛街を造り、兵隊を動かし、華爛街ならではの秩序を保っていた。上層の有力者とも繋がりもあり、表沙汰に出来ない厄介事等を引き受ける事もあるようだ。その中に、犯罪まがいな案件でなければ、クイーンが、ストレイ・キャッツ・ハンドに仕事を回してくることもあった。
「タロ君も、レオン君が殴られたのに、よく我慢したねぇ。えらい、えらい」
クイーンが、ボリボリと菓子を食べるタロウに向かって言った。
「ま、タロ君の場合、手を出さなくて正解だったねぇ。……本当に」
一瞬——、お茶の間に緊張が走った。クイーンの感情の乗っていない言葉に、菓子を口に運ぶタロウの手が、ぴくっと止まる。
「あ、お砂糖の代わりに蜂蜜を用意してみたの。よかったら試してみてねぇ」
クイーンの朗らかな声に、またすぐに空気が入れ代わった。タロウの菓子を食べる作業も、再開した。
先程の空気は、おそらく警告だ。いくらクイーンが「気に入ってる」と言っても、華爛街で事を起こせば容赦しないのだろう……。
「ところで、アイちゃんは便利屋さんのお仕事には慣れたぁ?」
唐突にクイーンから話を振られ、アイはハーブティーに蜂蜜を注ぐクリーマーを傾けすぎた。
「まぁ……」
アイは曖昧に答えた。
「働きはじめて、一ヶ月ぐらいだっけ?」
「たぶん……」
「もし、今のお仕事合わないのだったら、わたしが面倒見るよぉ。気軽に言ってね」
「……」
それは嫌だ――とは、仲介人に対してそんなあからさまな事は言えず、アイは首を傾げてどっち付かずな仕草をとった。
「男の子ばっかりの仕事場って大変そう。それにアイちゃんは、格好は地味だけど可愛いから、色々と心配だよぉ」
男所帯の仕事場に身を置くアイを、クイーンは何かと心配していた。そこへ、レオンが溜め息混じりに、口を挟んだ。
「心外だな。確かにアイは魅力的だ。だが所長の手前、不埒な真似はしない……ぞ?」
「なんで疑問符が付くのよ」
「そこは言い切りなよ」
レオンの煮え切らない態度に、クリスとアイがすかさず言った。
「ダーリン。君の美しさが罪なんだ」
まるでアイが悪いかように、レオンは首を振り、アイを呆れさせた。
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