第五話 華爛街


 下層は、ほぼ無法地帯のようなものだ。


 不衛生且つ暗い空間の中で生活すると、心身ともに疲弊する者以外に、仄暗い思いを募らせる者が少なからず現れる。更に、悪徳な人間は下層へと追いやられるので、自然とそういった者達が蔓延るようになった。


 一人きりで腕っ節に自身のない者、身を守る術を知らない者は、薄暗い世界の中でも特に光の届かない地域へ向かうのは、おすすめしない。そういった処程、荒くれ者共が闇に身を潜め、獲物を狙い、待ち構えている。油断すれば、身ぐるみを剥がされ、あげくは身売りされるか、魂のない抜け殻になるか、どちらかだ。


 そんな下層でも、秩序が保たれている地域がある。特に、イリス都U-七区中央街に位置する華爛街がそうだ。


「ようこそ! この国で一番と言ってもいい歓楽街——華爛街へ! 手頃な酒場から高級ラウンジまで。一世一代の大勝負に来たのなら、あちらに見えます大遊戯場へ。寂しい夜を一人で過ごしたくないのなら、可愛い子ちゃんからイケメン君、妖しい魅力のオネェさまがお相手してくれるムフフな……あれ? そうじゃない? えぇと……ではお客様、ご要望は?」


 昼夜問わずネオンの光に満ちた華爛街は、案内人が精が出るほど賑やかで、陰気臭い下層とは思えない程だ。


 辺りを見回せば、客層も様々だ。ガラの悪そうな若者、仕事終わりの社会人、大きな声ではしゃぐ男女グループ、いかにも金を持っていそうな上流階級者など、客層は様々だ。歓楽街なだけに、一見妖しくも血気盛んで近寄りがたい雰囲気があるが、この街では徹底したルールがあり、それさえ守れば身の安全は保障された。なので、気楽に華爛街まで足を運ぶ上層の人間も多くいた。


「あら、レオン。お仕事?」


「レオン! 調子はどう?」


「ねぇ、レオン、良いお酒が入ったの。一杯奢るから寄って行かない?」


 配達物を狙う輩達を振り切り、ちかちかと眩しいネオンの光で彩られた街をストレイ・キャッツ・ハンドの一行が歩くなか、魅惑的な女性達がレオンに声を掛けてくる。毎度の事ながら、この男のモテっぷりはすごい……と、アイだけでなく、クリスとタロウもレオンに目を向けた。


「相変わらず、モテモテですこと」


「妬くなよ、クリス」


「誰がよ」


 やれやれと首を振るクリスは、「そう言えば……」と、唇に人差し指を当て何か思い出し、レオンに言った。


「アタシのお友達も、よくレオンの話をするわよ。『あの凛々しい瞳に、整ったワイルドなお髭、紳士な物腰、チャーミングな笑顔が素敵!』ですって」


 クリスは意味深長に、にやにやと笑った。


「『また是非、ゆっくりお話したいわぁ~ん』って、頼まれちゃったわよ」


「それは光栄なことだな。今度、時間が空いたらお邪魔しに行くとしよう」


 レオンはにっこりと笑った。


「そうやって紳士ぶれるのも今のうちよ。その引き締まったお尻が、弄ばれる日も近いわ。アイもタロウもそう思うでしょ?」


「こっちに話を振らないで」


「……」


 下世話な話をしていると、一行の前方から喧騒が聞こえてきた。まばらに人だかりができている。


「騒がしいわね。まさかケンカ?」


 クリスは片眉を吊り上げた。


「……あそこ……」


 タロウが、ある店を指を差した。


 人だかりの向こうに、南国を思わせる背丈のある観葉植物が、硝子が嵌め込まれた両開きの玄関扉の両脇に飾られているのが見える。その真上には、七色の電飾で、「カオス・オブ・パラダイス」の文字がちかちかと派手に点滅していた。


 そこは、先程話に上がった、クリスの友人達が働いているショーパブの店であり、食材の配達先でもあった。


「やだ、何かあったの」


 クリスは、だんだんと群れだした人の中に飛び込んでいった。レオンも持っていた荷物をタロウに預けて、行ってしまう。そして野次馬の中心から、怒鳴り声が道中に響き渡った。


「この酔っ払いが! 店で暴れられちゃ、たまったもんじゃないよ! 痛い目見ないうちにとっとと出て行きな!」


 細身で節くれだった体に真っ赤なドレスを身に纏ったコンパニオンが、スキンヘッドの赤ら顔の男を店から引っ張り出して、啖呵を切っていた。


「んだと、このオきゃマ野郎! 客に対してナメくしゃった態度、とりやがっちぇ!」


 赤ら顔の男は、だいぶ酔っ払っているようで、呂律が回っていなかった。そんな男に、コンパニオンは馬鹿にしたように「はん!」と、鼻を鳴らした。


「客? 客なら、客らしいマナーってもんがあるだろ。その真っ赤でだらしのない汚い顔を洗って出直してきな!」


 コンパニオンは、小蝿でも払いのけるような仕草で、「しっ! しっ!」と男を追いやった。男は頭頂部までコンパニオンのドレスと同じくらい真っ赤にして、軒先にある観葉植物を蹴り倒した。


「ちょっと! アンタ何を——っ」


「うるせぇ!」


 男は歯を剥きだしにして、拳を振り上げた。コンパニオンは、ぎょっとして身構えた。目をぎゅっと瞑ったコンパニオンが殴られそうになった寸前、パシンッと音が響いた。そして、その容姿に似合う低くよく通る声が、赤ら顔の男に警告した。


「やめろ」


 レオンが男とコンパニオンの間に入り、男の拳を掌で受け止めていた。その果敢な姿に、コンパニオンは思わず「きゃっ」と、頬を赤らめた。


「ぁんだ、テメェはよぉ」


 赤ら顔の男は、レオンを睨み付け、ふらふらと近寄っていった。男は、今にもレオンに殴りかかっていきそうな勢いだが、レオンは何も身構えずにいた。


「お前、この街の礼儀を知らないな? 店で暴れて、女性に手を挙げようとするなんて、とんだ愚か者だな。彼女の言う通り、痛い目に合わないうちに、とっとと消えた方が身の為だぞ」


 レオンはもう一度警告するが、男の耳には入らなかったようだ。男は激昂した。


「はぁ? カマやろうにだ、だぁ? キザやろうが、偉しょうにオレに指図しゅんじゃねぇっ!」


 ガッと、男はレオンの頬を殴り付けた。コンパニオンは悲鳴をあげ、事の成り行きを見守っていた野次馬はざわめいた。易々と殴られたレオンに、赤ら顔の男は、良い気味だと言わんばかりに鼻を吹かした。


「腰にゅけが! 手も出しぇねぇくせにしゃしゃり出やがって、とんだ馬鹿だにゃ!」


 男は勝ち誇り、舌が回らない大きな声でレオンを嘲った。それに対してレオンは冷静だった。


「タロウ、動くなよ」


 レオンは咄嗟に、野次馬に埋もれているタロウに忠告した。


 野次馬の中で、花束がひしゃげない様に抱えるアイは、隣にいるタロウを見た。タロウの持っているダンボール箱が指の力で少しへこんでいた。タロウの横にいたクリスは、宥めるようにタロウの肩をぽんぽんと叩いていた。


 レオンは、嬉々とする真っ赤な顔の酔っ払い男に、憐れみの笑みを浮かべて言った。


「さて……、馬鹿はどっちだろうな?」


「あん?」


 赤ら顔の男は怪訝な顔をした。レオンの言った意味が分らないようだ。だとしたら本物の馬鹿者だと、この場にいる誰もが思った。この華爛街のルールを知らないなんて、この華爛街でこんな騒ぎを起こすなんて、——狂気の沙汰だ。


「なん、だよぉ……?」


 周りの人間が、好奇と畏怖の目で男を見る。それに耐えられなくなり、男は思わず声を漏らして軒先に後退した。後ろに「影」が潜んでいるとも知らずに……。


「ぎゃっ!」


 赤ら顔の男は、軒の影からぬっと伸びてきた腕により、地面に叩きつけられ捻じ伏せられた。影から現れたのは、全身黒一色を身に纏った者だった。まるで昔の日本に存在した忍者のような姿をした者が、他にも一人、また一人と軒の影から現れた。


「な、なななんだよ! おまえらっ……!」


 声もなく、ただじっと男を見下ろす影達。男は怯え、赤ら顔がすっかり青白くなった。


 影達は腰元のベルトに挿した特殊警棒を手に取り、感情の読めない目で男を捉える。そして、その特殊警棒を振り上げ、男を殴った。


「ぁぎゃぁあああっ!」


 影達は、殴って殴って殴り続けた。男は、悲痛な声を上げ、許しを乞うた。その光景に、思わず目を背ける者もいる。悲鳴がだんだん小さくなり、男はすっかりぼろぼろになった。もう自ら体を動かせない男を、影達はその足を掴み、あえて目立つ様にずるずると何処かへ引きずっていった。


 華爛街での争い、各店舗での営業妨害、暴力行為等々、そのような行為を犯した者は、華爛街の見回り、警護をする「兵隊」と呼称される者達によって、制裁が下される。制裁が下された後、わざわざ目立つよう道のど真ん中で連行するのは、見せしめだ。「こうなりたくなければ騒ぎを起こすな」という事だろう。一見、酷な行いに見えるが、こちらが大人しくしていれば至って平穏だ。騒ぎを起こし、兵隊に目を付けられようとする酔狂な者は、まずいない。


 こうして、他の下層地域よりも断然に治安が良い華爛街は、上層の上流階級者も足を運ぶようになり、上層の娯楽施設と比にならないほど金が動き、年中賑わっていた。


「あぁ、レオン! 大丈夫!?」


 騒ぎも収まり、野次馬も消え、赤いドレスのコンパニオンがレオンに駆け寄った。


「ごめんなさい! ワタシなんかの為に、アナタの顔に怪我させちゃうなんて……っ!」


 おろおろと心配するコンパニオンは、レオンの頬の傷の具合を見た。レオンは、自分の頬を優しく労わるコンパニオンの手を取り、微笑んだ。


「何のこともない。君に傷一つないのなら、この顔の傷も名誉なことだよ」


 そう言ってレオンは、優雅な仕草でコンパニオンの手の甲に軽く口付けをした。コンパニオンは頬を薔薇色に染め、うっとりとはにかんだ。


「こら。うっとりする前に、手当てする方が先でしょう」


 店から、ショッキングピンクの髪をポンパドールに盛り、紫色のマーメイドドレスを着た派手な人物が現れた。


「あ! キティママ」


「『あ!』じゃないわよ。全くアンタは、血気盛んで困るわ。ごめんなさいね、レオン。迷惑を掛けたわ」


 カオス・オブ・パラダイスのママ――キティが、レオンによく冷えたおしぼりを、その逞しい手で差し出した。


「ちょっと店の中散らかっているけれど、休んでいって頂戴な。他の皆も。お詫びに奢るわ」


 キティは、アイ達にも目を遣った。


「嬉しい申し出だけれど、遠慮するよ。怪我も大したことはないし、クイーンの配達がまだなんだ」


 レオンはおしぼりを頬に当てつつ、クリスが持っている荷物に顎をしゃくった。


「あらあら。まだ仕事があるのに、こっちのことに巻き込んじゃって本当にごめんなさいね。タロちゃんが持っているのが、うちが頼んだ食材ね。受け取るわ」


 キティは、タロウから食材が詰まった段ボール一箱と二袋を、野太い声で「ふんっ!」と気合いを入れて受け取った。


「それじゃ、また遊びに来て頂戴ね。あ、クリス。今日の手伝い、よろしくね」


「オッケー」


 クリスはキティに手を振った。


 カオス・オブ・パラダイスへの配達が終わり、ストレイ・キャッツ・ハンドは最後の配達先に向かった。


「でも、なんでアンタ殴られたのよ? あんな酔っ払いのパンチなんて、避けれたでしょう?」


 クリスが腑に落ちない顔をした。


「どっちみち、あの男は兵隊に制裁を受けた。敢えて殴られたのは、あの男の末路に対する俺なりの情けだよ」


「お優しいというか、なんというか……」


「意味分んない」


 クリスは曖昧に笑い、アイは呆れた。


「……おれ……」


 タロウが、自分自身を指差して言った。


 レオンは、タロウが何を言いたいか察して、苦笑した。


「タロウが前に出たら、逆にタロウが兵隊に捕まっていたさ。敵と見なしたら、容赦しないだろ?」


 その上、タロウの戦闘スタイルはとんでもない暴れっぷりだ。相手を血祭りにするだけでなく、周辺の器物破損、営業妨害などしかねない。そうなれば、相手よりタロウの方が問題視され、制裁を下されることになっただろう。


「というか、タロウなら兵隊も倒してたかも?」


 クリスが言った。


「そうなったら、華爛街へは出入り禁止になって、クイーンからは、うまい話を貰えないだろうな」


 レオンは注意深く言った。


「とにかく、華爛街では行儀よくすること——即ち、クイーンの機嫌を損なわないことだ」


 一行は、賑やかな通りから脇道に入っていった。細い道程に軒を連ねる店舗は、落ち着いた酒場が建ち並んでいるように見えるが、どことなく妖しい夜の薫りが揺蕩っている。


 その建ち並ぶ店舗の中で、一行は「巣穴」という店へ入った。カランッと、ドアチャイムが店内に響くと、ボーイがすぐに現れた。レオンがボーイに一言言葉を交わすと、ボーイはお辞儀をし、一行を店内へ案内した。


 店内は、オフホワイトの内壁に中国格子の窓枠やシノワズリ風のシンプルな装飾品で飾られている。疎らに客がいるカウンター席とテーブル席には案内されず、ボーイは衝立で遮られている奥まった場所へ案内した。衝立の向こうには、小さなテーブルに二脚の椅子、飾り気のない素朴な扉があった。一見、従業員用の出入口のような扉だが、ボーイはその扉を開き、「どうぞ」とレオン達に頭を下げた。


 普通の酒場にはない、その秘密の扉に、ストレイ・キャッツ・ハンドの一行は、臆することなく潜っていき、店内に残ったボーイは静かに扉を閉めた。ボーイが閉じた簡素な扉は、よく見るとの取手に文字が刻まれていた。


 ——「蟻地獄」と。

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