第三話 方舟(一)


 時刻は昼をとうに過ぎた頃だろう。


 ストレイ・キャッツ・ハンドの一行は、高級アパート最上階の一室の前にいた。レオンが呼び鈴を押し、ほんの数秒後——。


「あぁん、レオン!」


 勢いよく重厚な扉が開いたと同時に、化粧が濃く、顔の肉が厚く垂れ下がった老女が、レオンに飛びついてきた。開いた扉の勢いで、タロウの顔面を打ち突けたことに全く気付かず、今回の依頼者マダム・アデリーヌはレオンに熱い眼差しをおくる。


「んもう! あたくしを焦らすなんて、悪い方ね。どれほど貴方が待ち遠しかったか、分かって? 切なさで胸がはち切れそうだったわ! あぁ、でもこうして会いに来てくれてとっても嬉しいわ。そうそう! 丁度あたくしお手製のケーキが、先程焼き上がったところなの。お疲れでしょう? よかったら召し上がってゆっくりとお寛ぎになって。ところで、あたくしの可愛子ちゃんはどこかしら?」


 ぺらぺらと己の熱い想いをレオンへぶつけ続け、やっと本題の方を口にしたマダム・アデリーヌは、きょろきょろと目を走らせた。ばちっと、マダム・アデリーヌと目が合ったアイは、持っていたキャリーバックから猫を抱きかかえ、依頼者に渡した。


「あぁ、可愛い子ちゃん! ママはとっても心配したのよ!」


 アイから猫を譲り受けた——というより、引き剥がすかのようにぶんどった依頼者は、口紅で赤く塗りたくった唇を猫の額に何度も押しつけた。


「本当に、お待たせして申し訳ありません。さぞ、お心を痛めていたことでしょう」


 レオンが、自嘲気味な笑みを浮かべて謝罪の言葉を述べた。


「いいえ、いいのよ! もうよろしくってよ。お気になさらないで」


 そんなレオンの様子に、マダム・アデリーヌは慌ててレオンの肩を優しく摩った。


 垂れ下がった頬肉に厚い化粧を塗りたくった老女が、まるで少女のような猫撫で声で腰をくねらせて甘える姿に、アイは口がへの字になりそうなのを、ぐっと堪えた。


「さ、上がって頂戴。お仕事で貴方がどんな活躍をされたのか、お聞きしたいわぁ」


 そう言ってマダム・アデリーヌは、レオンにのみ声をかけると、自宅へ招き入れた。


「ミラ。お茶の準備を」


「はい、奥様」


 いつの間にか、鷲鼻が特徴的な家政婦が現れ、「御苦労様です」と、アイからキャリーバックを受け取った。ミラはきびきびと主人とレオンの後に続き、アイ達に振り替えり一礼すると、玄関扉をバタンッと閉めた。


 玄関前に取り残されたアイ達三人は、特に気にすることもなく、さっさとエレベーターに乗り込んだ。


「相変わらず、レオンにお熱なこと」


 一階行きのボタンを押して扉が閉まると、クリスは肩を竦めて言った。


「というか、なんか睨まれたんだけど。私」


 アイは、マダム・アデリーヌから殺気に似たようなものを感じていた。


「レオンと一緒にいるのが、気に食わないんじゃないかしら? 女の嫉妬ほど、恐ろしい物はないわ」


「女って……、いい年をしたお婆さんなのに」


 アイは呆れて言った。


「……じょせいに、ねんれいは、かんけいない……」


 タロウらしくない言動に、フードから微かに見えるアイの目が点になった。クリスもそれに、くすくすと笑った。


「レオンからの受け売りかしら?」


 タロウが小さく頷いた。


 やがてエレベーターは止まり、三人はコンシェルジュが控える豪奢なロビーラウンジを通り、エントランスを抜けた。高級アパートらしく、前庭も拘った造りで、石畳を囲む芝生は綺麗に刈られ、低木は規則正しく並んでおり、光を惜しみもなく浴びた葉は青々としている。見上げれば、「空」は青く輝いていた。


「それじゃ、レオンがマダムのお相手をしている間に、依頼された荷物を受け取りに行きましょ」


 クリスが、ぐぐっと軽く伸びをして言った。


 猫探しの他に、まだ配達の依頼が三件あった。クリスはアンティークの茶器を買い取りに、タロウは果物類の食材の買いだしに、そしてアイは花屋でメッセージカード入りの花束を受け取りに行くことになった。


「集合場所は、広場でね」


 クリスが言った。


「……じぇらーと? ……」


 タロウが聞いた。


「そう。ミケーラのジェラート店の~……近くに見える時計塔辺りでどうかしら?」


 クリスの問い掛けに、タロウは頷いた。


「集まらないで、各々配達しに行くのは駄目なの?」


 アイが尋ねた。


「配達先は全部華爛街なんだし、皆で行くのよ。今回は攫い屋も出たし、皆で行動する方が安全でしょ。それに、クイーンからお茶会に招待されているしね」


 クリスがそう言うと、アイは眉を顰めた。


「そのお茶会、全員で?」


「全員よ」


「私パス」


「ダメ。付き合いは大事なことよ」


 クリスに窘められたアイは、不服だと言わんとばかりに口元を引き結んだ。


「じゃ、また後でね」


 歩道に出ると、先にクリスが離れていった。タロウも向かい側の道に渡って脇道に消えていく。


 明るい陽射しの中、それを避けるように被っているフードを更にぐいっと引っ張り、アイも歩き出した。






「お待たせしました」


 エプロンを着けた店長らしき中年男性が、注文を受けた花束をアイに愛想良く差し出した。真っ赤な薔薇の花束だ。


「最近蘇った品種で、香りも良いですよ」


 アイは花束を受け取ると、確かに香り高い芳香がアイの鼻をくすぐった。


 ——それにしても、似合わない……。


 花屋で、華やかな花束を携えているなんて……と、アイは今の自分の現状が不釣り合いだと、自嘲した。


「その花束の配達先って、下層ですよね?」


 不意にアイは声を掛けられた。


 声を掛けてきたのは、箒と塵取りを持った若い女店員だった。先程、店先で掃除をしていた店員で、入店するアイをどこか不審な目で見ていた。


「うちの店、下層まで配達しないし、上層の代行サービスだって下層まで仕事する所なんて、なかなかないんですよね~。……もしかして、下層の住人だったりします?」


 軽薄そうな女店員に、アイは無言で頷いた。


「やっぱり~! どうりで陰気臭いわけね!」


 女店員が、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべて言った。


 さっきまで穏やかに笑んでいた店長の顔が、一瞬で青褪めた。


「君、何てことを! 失礼しました!」


 店長がアイに向かって、がばっと頭を下げた。アイは、何でもないと言う風に、首を振った。


「君も謝りなさい!」


 店長が女店員に謝罪を促すと、女店員は「えぇ~……」と、不満げに声を漏らした。


「だって下層ですよ? いわゆる負け組の巣窟みたいな所に花束なんて微妙というか……そもそもそんな人に上層の敷居を跨ぐなんて、おこがましい——」


「黙りなさい!」


 店長は顔を真っ赤にして怒鳴った。


 アイは、自分がこれ以上ここにいると、店員同士がヒートアップするだろうと思い、花束を抱えさっさと店を出ていった。


 不愉快に思った。けれど、苛立ちより呆れていた。そして、「陰気臭い」のも本当のことだ。嘲笑されたのは、仕方のないこととアイは思い、……自分も上層と下層という世間の見方に毒されているなと、苦笑した。






 四十六年前、世界統一国ノアは、まだ毒の瘴気が蔓延していない都市を基盤に造られていった。そこには、世界中から生存者が集まり、先の戦争で傷ついた家屋や仮設住宅に住まい、動ける者はノアの建造に携わった。その他にも、食事を拵える者、病人を看護する者など、それぞれ役割を割り振られ、それこそ各々の協力の元、ノアは造りあげられていった。そこに身分の差などなかった。


 ——だが、世界は分断された。


 ノアは、毒の瘴気を遮断する囲いが出来上がっていくと同時に、十二の都市、そして二つの層に造られた。


 上層——巨大隕石が衝突する前の環境に似せ、家屋、生活、娯楽までもが整った住み良い世界。


 下層——ノアの基礎となった旧世界の都市。上層を支え、戦後で傷跡が残ったままの都市は、再開発……されないままだった。


 生存者は、ノアの国民として選り分けられた。下層に選り分けられた国民は、上層の都市開発が成り立てば、下層も改善されるだろうと思っていた。何故ならば、皆で協力して造った世界に一つだけの国だからだ。


 けれど、そうではなかった。


 そればかりか、「臭いものには蓋をしろ」とはよく言ったもので、下層は上層という蓋を被せ、「汚れ」を閉じ込めた状態であった。先程の廃棄物収集処理場がいい例だ。上層は不自然な程に「汚れ」がない。上層の全ての廃棄物は、各地区に点在する廃棄物分別所にある巨大なダクトシューターによって下層の廃棄物収集処理場へ送られていた。


 更に、明らかなアンチモラルの人間は下層に追いやった。その結果、下層に生きる人間の倫理感は軽薄になっていき、下層は徐々にアンダーワールドと化しつつあった。その分、上層の秩序は保たれた。


 不要なもの、都合の悪いもの、そういった「汚れ」は、すべて下層に送り、それらを隠すかのように下層の上は「地面」に覆い尽くされてしまった。そうして上層での生活は、いつでも快適に、汚れのない世界を保たれている。……下層に住む人間には目もくれずに。


 いつしか、上層の住民は下層住民を憐れみ、嘲笑し、蔑んだ。下層の住民は己を卑下し、嘆き、このように追いやった国を——憎んだ。

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