第三章 秋の口吸い 6

       6


 八月三十一日。約束どおり午前十時に武志郎の家を香里がおとずれた。二日連続で


彼女の家に単独でいくのは近所の手前、はばかられる。その上、この日は篤子がでか


けていて昼間、武志郎ひとりが留守番をいいつかっていたのである。ちなみに篤子は


学生時代の友人ふたりと芝居見物なのだそうだ。少なくとも早い時刻に帰宅すること


はないだろう。武志郎の部屋にとおされた香里は、しばし物めずらしそうに、居心地


が悪そうに、そわそわと落ち着けずにいた。


「なんだよ? 香里、そこらにすわれよ」武志郎がベッドを指さす。


「うん」おずおずと腰をおろす香里。


「なんか気になる? におうとか?」


「ううん。だって、男の子の部屋くるの初めてなんだもん」


「俺だって女子の家いったのって、香里んちだけだぜ」


「初めてウチにきたのっていつだった?」


「いつだっけ?」


「おぼえてないの!?」ベッドからものすごい勢いで立ち上がる香里!


「嘘だよ、おぼえてるよ。期末のあとの慰労会の帰りだろ」初めて紗世が現れた日、


忘れるはずがない。


「よし。あはは、あのときは私、武志郎君によし、なんていえなかったな」


「ずうずうしくなったよな、香里」


「ひどい!」思わず武志郎をたたきそうになり、そして、あわてて手を引きもどす香


里。まだ心の準備ができていない、カメラもセットしていないのだ。


「……いろいろとあったね、この夏は」目線を落とした香里がいう。


「ああ。びっくりするくらいな」


「あはは、なんか、年よりくさいこといってるね。私たち」


「そうだな。これからもきっとまだまだあるよ、いろんなこと」


「うん……あ、そうだ、お母さん、帰ってくる前におわわらせなくちゃ!」


「じゃ、香里、カメラだしてくれ」


「はい」


「はい? どうしたの? しおらしいな」


「ずうずうしいとかいうからよ!」香里は笑いながら小型カメラをリュックからだ


し、武志郎に手わたす。むろん、指先がふれぬように注意して。武志郎は昨夜、父か


らかりておいた三脚にカメラを取りつけ、ベッドの方にむけて立てた。スイッチを入


れると、液晶ファインダーにダブルのピースサインを送ってくる香里がうつる。武志


郎は気持ちカメラを彼女に近づけた。


「こんなもんかな?」これだけよれば紗世の微細な表情変化も十分、とらえられる。


「いけそう?」


「ああ」うなずく武志郎。「香里の方は? いけるか? あ、朝めしは? 食っ


た?」


「前にも聞かれたね、朝ごはん食べたかって」


「いいから。どうなんだ? 食えたのか?」武志郎の問いに小さく首をふる香里。


「そう。じゃ、紗世にまた、なにか食わせるか。白飯と佃煮つくだにくらいなら……」


「武志郎君、よりなにを紗世に聞くかを教えて! 私もいくつか──」


が大事だろ? 香里の体がもたなきゃ、紗世に長く話を聞けな


いぞ」


「そうね……確かに」


「香里、食ってみる? 朝めしの残り物しかないけど」


「食ってみる、かな」香里は恥ずかしそうに顔をそむけながらこたえた。


 三脚を手にしてキッチンへと移動し、テーブル上に白めしと温めなおした味噌汁、


香の物に煮物などをならべる武志郎。イスにかけた香里は彼のだす惣菜を興味ぶかく


ながめている。


「わ、これ、イナゴの甘露煮かんろに?」丸型のタッパーを手にとる香里。「初めて見た」


「あ、気持ち悪いだろ? しまうよ」体長三センチから四センチの羽をむしられたイ


ナゴがそのままの姿で佃煮にされているのだ。母の篤子の好物で、武志郎自身もきら


いではないが、軽くゲテモノ料理の範疇はんちゅうといえるだろう。父の伸宜などいっさい、


これに手をつけない。


「いい、おいといて。清輪家の味、ためしてみたい」


「虫をウチの味とかっていわれてもな……」


「あはは。ところでどうしてカメラを持ってきたの?」


「間違って香里にふれたら、紗世がでてくるかもだからさ」


「そっか、困ったもんね。食べてるとこ、撮らないでよ」


「撮らないよ」吐くかもしれないのだ。「さめるから、早く食べな」


「うん……武志郎君さ」はしを持った香里がいった。


「なに?」三脚の高さを調整しつつふりむく武志郎。


「守ってくれるのよね? 二学期も、三学期も、三年生になっても、ずっと守ってく


れるのかな?」目線を食卓に落としたままの香里は、不安感を全身からにじませてい


た。


「守るよ」


「どこまでも?」


「どこまでも」顔をあげた香里に笑顔を送る武志郎。彼女はようやく食べる気になれ


たようである。


「いただきます」まず味噌汁の椀を手にした香里はひと口、ふた口つけてしみじみと


つぶやいた。「おいしい……」


「そうか? よかった」


「この味、お母さんに教わりたいな……いつか」


「お? おう……」なんか、ちょっと怖い。本能的にそう感じてしまう武志郎であっ


た。


                                (つづく)

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