第三章 秋の口吸い 4

       4


「紗世、なんででてこなかった?」食事をおえて、食器を流しに運びながら武志郎が


たずねた。


「まあよ、あらかた姉御がいった通りだ。あんまりこっずかしくて死にたくなっ


たぜ。死人しびとのくせしてよ」自嘲じちょうするように唇の片はしをもちあげる紗世。


「子供じゃねぇんだから、しっかりしろよ。心配かけやがって」


「おう、そうだな。だが、おめぇの心配しんぺぇも今日でおわるんだろ?」


「うん……」


「なんでぇ、なんでぇ? うかねぇつらしやがってよ」


「紗世、俺……」イスを引いて紗世の前にすわりなおす武志郎。しかし彼女の目をま


ともに見ることができない。


「わっちを斬るんだろ?」


「え?」


「おめぇ、悩んでたもんな。ぼっちゃんがあやめられて、わっちはうらみを残して


死なねぇとなんねぇ。だがぼっちゃんは助けてぇ、どうすりゃいいんだってよ」


「紗世、ついに俺の心を読めるようになったのか!?」


「なにいってやがる。さっきおめぇ茶屋でさんざんひとり言をいってたじゃねぇか。


はたから見たら気持ちわりぃぞ」


「いってた? 俺」


「おう、おめぇもたいがい恥ずかしい野郎だな」


「うるせぇ」確かに恥ずかしい。それに斬り殺すだの焼き殺すだのといっていたかも


しれない。ヘタをすると通報されるレベルである。


「まあだがよ、あんだけなやんでくれりゃ、わっちも本望ほんもうだ」


「…………」もっととっくになやむべきことだった。そうすれば別の方法を考えられ


たかもしれない。


「わっちも思ったよ。芋侍いもざむらいじゃねえ、おめぇがわっちを斬るしかねぇって」


「紗世……」


「おめぇに斬られるんなら、わっちに異存はねぇ。むしろ女の本懐ほんかいよ」


へへへ、と笑う紗世。「姉御はすげぇ女だな。なにもかもお見とおしでよ」


「なにが?」


「わっちよう……」にがむしをみつぶしたように顔をしかめる紗世。


「なんだよ?」


「おめぇにれてんだ」そして紗世はうつむいた。にがむしを嚙みつぶしたような


顔を真っ赤に染めて。


「──へ?」


「へへ、まあ、初めていたころはせんずりこきで、学問はおろそかにする。


その上、女のことじゃ、うだうだしてやがる、なんて情けねぇくそ坊主だと思ってた


んだがな」


「…………」紗世はいいたい放題である。あってはいるが。


「が、姉御と出あってからのブシローはよ、なんつうか、なかなかの男前だったぜ! 


わっちのこと可愛かわいがってくれたしよ、西郷の野郎にも会わせてくれたし


よ、字も教えてくれたしよ、髪どめも買ってくれたしよ──」紗世は両方のこぶし


ひざの上でかたく握りしめ、ボトボトと涙を落としていた。「おめぇに会えて


わっち、うんとよかったよぉ!」


「…………」武志郎は言葉がでてこない。この女を俺は斬るのか? こんなに可愛い


女を、俺は──。


「だからよ……」紗世は思いきり鼻をすすり上げ、鼻の下をこすった。「ぼっちゃん


もだが、おめぇを男前にしてくれた姉御も助けねぇとな!」


「紗世……」武志郎がまばたきすると、その充血した目からも涙がこぼれた。


「バカ野郎、なんて顔してやがる。わっちはどうせ死ぬこと決まってんだ。じわりじ


わりと焼かれて死ぬより、ズバッとやられる方がなんぼもマシなんでぇ! ズバッと


たのまぁ、ズバッとよ!」


「お前を斬りたくない……」


「おめぇに斬られたい、つってんだろが!」


「ほかの手を考える」


「わからねぇ野郎だな! おめぇにれてるっつったろ! このまま姉御をのっと


っちまうぞ!」


「お前、それ卑怯ひきょうだろ?」


「卑怯もお経もあるかい! 姉御を助けたきゃ、しっかりわっちを成仏させやが


れ!」


「だから別の方法を考え──」ドゴン! 目の前に火花が飛びちった。不意に立ち上


がった紗世が武志郎の髪をつかんで、テーブルに顔面をたたきつけたのだ。「って! 


なにしやがる! だいたいこんな場合、やるなら平手うちだろ!?」


「そうけ?」今度はいきなりビンタをはる紗世。


「てめぇ!」ひたいを押さえた武志郎もイスをひっくり返さんばかりの勢いで立ちあ


がった。


「お? やる気け? 姉御の体を傷つけるってのかい?」不適な笑みをうかつつ、応


接間へと逃げだす紗世。


「くそぉ……」大またで追いかける武志郎。


「おめぇのオツムじゃ別の手なんざ考えられねぇよ! また姉御だのみか? 情けね


ぇ野郎だな!」


「うるせぇ!」


「どうでぇブシロー、わっちを斬る気になったかよ?」古びたソファーセットの周囲


を飛びはねる紗世。本当に子供のようである。


「ならねぇよ!」


「強情な──」突じょ、ふわりと紗世が横倒しにくずれ落ちる。


「危ない!」飛びついた武志郎がなんとか紗世を支えた。「バカ! 香里は四日もめ


しを食ってなかったんだぞ!」


「けへへ……やるじゃねぇか、にぶいわりにゃあ」力が入りきらないのか、紗世はも


つれた足を立てなおそうとして、武志郎の胸に頭からなだれこんだ。肺に頭つきを受


けて、せきこむ武志郎。


「お前、本当、暴力的だな」


「おう……」


「え?」武志郎の胸に顔を埋めた紗世の肩が小きざみにふるえていた。「紗世?」


「なにもいうな。しばらくこのままいさせてくれ」紗世の涙声はくぐもっている。薄


いTシャツ一枚をはさみ、胸元で感じた紗世の唇の動きが妙に官能的であった。そし


て髪からは香里が使っているリンスのいい匂いがした。


「…………」武志郎は彼女の背に腕をまわし、そっと、やがて強く強く抱きしめた。


 五分ほどもそうしていたけれど、紗世はほてった顔をおこして武志郎の目を見つめ


た。


「わっちが姉御になり代わりてぇ気持ち、いくらスカタンなおめぇでもわかるだ


ろ?」


「…………」武志郎は無言で、そして小さくうなずく。


「なら、たのまぁ。わっちに姉御を殺させないでくれ。わっち、こえぇんだ。


わっちがよ」


「──わかった」


「よろしくたのむ。できりゃ一太刀ひとたちで、苦しまねぇように斬ってくれよな」


「もどったら、お前はいないんだな……」


「おう。おめぇがしくじったりしなきゃな」


「しくじり……」


「てめぇ、わざと仕損しそんじやがったら、ただじゃおかねぇからな!」


「紗世……」武志郎は今一度、紗世をきつくかき抱く。逃げてしまわぬように、飛び


たってしまわぬようにと祈るような思いで。


「……ブシロー、愛してる」


「紗──」


 武志郎の意識がはじけた。そして彼は江戸時代は三田、横印町おういんちょうへと跳ばされた。




 立ちのぼる炎と黒煙。武志郎は『大鹿庵』主人、彦四郎を斬りすて、返す刀でその


女房、結衣の命を絶った。しかし、もうあわてふためいたりはしていられない。紗世


に香里を殺させてはならない。そんな重荷を十五の女子に背おわせてはならない。武


志郎は涙をはらい、目をらし、彦五郎がくるのを待った。かわいそうだが彦五郎


には燃えさかる行李こうりの下敷きになってもらうしかない。そして、あとからくる紗世


に、その死を認識させたうえで……素早く、確実に斬り殺す。ヘタに時間をかけてい


たら、本当に彦五郎が死んでしまうかもしれない。それに山賀乙が登場する前に救出


に成功しなければ、かなり面倒なことになるのは目に見えている。落ち着け、落ち着


けよ、俺。頭上で細いはりが焼けている。やがて、あれが落ちてくる。香里の話で


は、江戸時代は火事が多かったので、いつなんどきなくなってしまうかわからない住


居には金をかけなかったのだそうだ。だからあんな細く、もろく、簡単に焼けおちて


しまうような木材を使っているのだろう。前回は見つけられなかった水瓶みずがめの位置を


把握した。武志郎は先まわりとばかり、おけを使い全身に水をあびせかけようとした


が、表面がこおりついていた。考えてみれば季節は冬、それも一月なのだ。武志郎は


あとで使えるようにかめを火勢の強い場所にずらした。


 きた。彦五郎が泣きながら奥からでてきた。うまくいくだろうか? 運動神経音痴


の俺が! しくじったら彦五郎を殺しちまうぞ! かけよった武志郎は日本刀の刃を


裏返し、彦五郎の腹をなぎ払った! 彦五郎は悲鳴をあげてつっぷし、炎まきあがる


行李の山に頭から倒れこんだ。ぶわん!とふきあがる火の粉に耐えた武志郎は、背後


で梁が落下してくるのを感じた。うまくいったぞ! そして次は紗世の番。

 

 ──紗世、紗世! 斬るぞ! 斬るぞ、俺は! 紗世!


「彦五郎ぼっちゃん! ぼっちゃん!」きた! 紗世……紗世! このとき武志郎は


彼女の顔を初めて見た。生きて、呼吸する紗世の顔を初めて正視した。そしてこの可


愛い女の命をみずからの手で絶たねばならない。武志郎は日本刀のつかを持ちか


え、刃先を正規の位置にもどした。


「女!」武志郎はそばがゆで上がる前に考えたセリフを懸命に吐いた。「ガキは斬っ


て捨てたぜ! いいぐあいに火葬中でぇい!」いささか芝居がかったいいまわしにな


ってしまったが、紗世に彦五郎の死を強く認識させることはできただろう。あとは斬


る、殺すだけ。


「ぅうわぁああああ!」紗世と武志郎は同時に絶叫していた! 一方の女は炎の中に


身を投じ、男の子のなきがらを引きだそうとして! もう一方の男は、女の首と胴を


真っぷたつに切りはなしながら! 武志郎は紗世の望みどおり、一撃で彼女を死なせ


ることができた。過呼吸発作をおこしたようにぜいぜいと息をしながら、血に濡れた


刀をかたく握りしめていた武志郎は、燃えあがる行李にむかい突進した。日本刀を持


ったままでは、彦五郎を傷つける可能性もあるのだが、もはや彼の平常心は吹きとん


でいた。


「彦五郎! 彦五郎ぉ!」自身もなかば焼かれつつ、炎の中に子供の姿を求める武志


郎。


「この悪党!」バチバチと木と紙をきあげる音にまじり、甲高かんだかい女の声が


響く! 背後から袈裟掛けさがけに斬られることを察知した武志郎は、ふりむきざまに


刀をふった。すいとよけて、かまえなおす山賀乙。


「子供が火の中にいる! 助けるんだ! じゃますんな、ババァ!」十六の武志郎か


らすれば三十路みそじの山賀乙は確かにババァもしれない。しかし確実に激怒させたこと


は間違いない。


「嘘ぶきおって!」山賀乙は三人の斬死体を目のはしでとらえると、武志郎に斬りか


かる。その刀を受けとめる武志郎。激しいつばぜりあい。なぜだか、体が動く、奇跡


のように腕や足が脳の指令に呼応する。考える間もなく刀剣が走る。おそらく、腕力


で勝っている武志郎が山賀乙を押しはじめていた。しかし武志郎には、この女剣士に


かまっている時間はなかった。


 ──彦五郎を助けなければ、紗世の犠牲がむだになるんだよぉお! 


土間に落とした山賀乙にむかい、一段高い上りがまちから飛びかかった武志郎は、


上段のかまえから一気に刀をふりきった。彼女は素早く受けたが、その体重をのせた


力押しで刀をへし折ることができた。二本差しの脇差わきざしを抜こうとした彼女の首に


切っ先を突きつける武志郎。


「強いな、ぬし。斬れ!」山賀乙はどっかりと土間にあぐらをかく。武志郎は彼女の


脇差しを抜きとり、炎の中へと放りこんだ。


「山賀乙、ここにいろ! 動くなよ!」時間がない。武志郎は氷をとかしておいた水


瓶の水を頭からかぶると、いよいよ紅蓮ぐれんのごとく燃えたつ行李の山の中へとダイブ


した。


「気でもふれたのか?」驚愕の表情をうかべ、素早く立ちあがった山賀乙の周囲にも


火勢が迫っていた。これ以上はこの家がもつまい、柱が焼けてくずれ落ちかねない。


逃げるか? 彼女がそう考えたとき、全身を焼かれ、ほぼ全裸と化した武志郎が悲鳴


をあげながら、うねうねと巻く炎の中から飛びだしてきた。そして、抱きかかえてい


た子供を水瓶の中へとつっこんだ。ジュッという小気味よい音とともに男の子にまと


わりついていた火が消える。


「お主、いったい、これは……」


「いいから、乙さんは、この子を連れて逃げろ! まだ生きてる!」


「なにゆえ私の名を!」


「うっせ! ババァ、早くし……ろ」その場にばったりと大の字で倒れる武志郎。彼


はもう動くことができなかった。しかし、これでいいのだ。この炎の中で紗世をひと


りになどできるはずがない。これって心中沙汰しんぢゅうざたってこと? 


 なあ、紗世、これもありかもな……。


「……はっ!」一瞬、逡巡しゅんじゅんした山賀乙であったが、おのれを鼓舞こぶするかのように


叫び、ひん死の彦五郎を抱きあげ、燃え落ちつつある『大鹿庵』から飛びだしていっ


た。


「やったぁ……やったぞ、紗世! 彦五郎は生きてるぞ! 生きてるぞ! さよなら


だ、紗世! さよなら、紗世ぉおお!」


 勝利の雄叫おたけびをあげた武志郎の上に、黒煙をはらんだ角材が次々と倒れ


かかってきた。




「はっ!」大きく目を見開いた武志郎は、呼吸困難におそわれたように懸命に肺へと


酸素を送りこんだ。送っても送っても焼けついたような体中の細胞が空気を求めてい


るような気がするのだ。実際、彼の顔や手には低酸素状態からくるチアノーゼが表


れ、青紫色に変色しかけていた。そんな彼を、不安げな目に涙をいっぱいためてのぞ


きこんでいる女の顔があった。


「香里……」ゴロンと応接間の床に横になった武志郎は、泣きながら宣言した。「香


里、おわったよ」


「よかった! 死んでるかと思ったよ、


「わっち?」眉をひそめ、バッと体をおこす武志郎。


「ブシロー、見事だった。わっち、びっくらこいたよ。おめぇがあそこまでやれるた


ぁ」


「……香里、たのむから冗談はよしてくれ」今はそっとしておいてほしい気分なの


だ。


「ブシロー、すまねぇけど、わっち、紗世だ」吐息まじりに彼女はうつむいた。


「はあ!?」ヘトヘトだった武志郎はイラッときた。「くどいぞ、香里!」しかし精


神的ダメージで彼女が摂食障害におちいっていたことを思いだし、すぐにあやまっ


た。「ああ、ゴメン。悪かった。けど、おわったんだ。彦五郎を救った。紗世は成仏


したんだ。もう俺たちの前には、現れない……」


「…………」彼女は困ったようにモジモジとし、そして泣きそうな顔になった。


「? まさか、本当に紗世なのか!」


「…………」バツの悪そうな表情で両手を腹のあたりで重ね、握りあわせ、ゆっくり


とうなずいてみせる紗世。


「マジか! 嘘だろ!」武志郎はバタンと大きな音を立ててふたたび床にひっくり返


った。「もう二度とあんなまねできねぇぞ! やんねぇからな、俺は!」


「……わっちも、なにがなんだか、わかんねぇ」こうつぶやいた紗世は、消えいるよ


うに武志郎の右目に逃げこんでしまった。




 頭を押さえ、苦しそうにうめく香里を横たえた武志郎は、このてんまつをどう彼女


に話すべきかでもだえんばかりに苦悩していた。おかげで鈍器を押しこまれるような


右目の痛みも気にならなかった。二学期は明後日からである。事実をもし伝えたら、


確実に香里はおかしくなってしまうだろう。今回だって紗世は、いってみれば勝手に


でてきたのだ。


「いたたたた……」こめかみを押しもみつつ体をおこす香里。「紗世、でてきた


の?」


「あ? うん」


「ゴーストキスは出番なしか……」


「まあ。あ、そうだ、香里、吐き気はないか?」


「え?」


「胃が重くないか? 大丈夫か?」


「……紗世がなにか食べたの?」香里は頭と腹を同時にさすった。


「ああ。あいつ、食べられない香里を見てられなくなってでてきたんだ」


このにおよんで紗世の弁護をしてしまう自分に、心の中で舌うちをする武志


郎。「どうだ? 吐きそうか?」


「吐く吐くいわないで。いわれると、そんな気になるから」


「ああ、悪い」


「んん──大丈夫みたい。そっか、紗世が代わりに食べてくれたんだ」笑顔を見せる


香里を見て、逆に追いこまれるような気になってしまう。どうする、俺。「動画


は?」天井をあおぎ、目をしばたたかせた香里はようやく頭痛から解放されて


きたらしい。


「あの、急だったから、その……」嘘ではない、完全に忘れていた。香里は唇をとが


らせたが、怒ってはいないようであった。


「だと思った。まあ、いいか? 家の中でのことだから。それで武志郎君、江戸には


跳んだの?」


「あ、あの……」──どうこたえるのが正解なんだ?


「彦五郎君を助けることに成功した?」


「それが、その、あの……」


「失敗したんだ?」


「ま、まあ、かな?」なんとも煮えきらない返答をする武志郎。香里にとって一番重


要なテーマは彦五郎の救出ではない、紗世が消えたかどうかなのだ。そう考えると、


こたえはもちろん失敗である。


「そっか。どんな状況だったの? くわしく聞かせて」


「な、なにを?」


「なにって、江戸でおったことよ。私の説は正しかった? 彦五郎君は生きていた


の? それから紗世。今現在、あの子が私をのっとろうとしているのかどうかも、わ


かる範囲で教えて。今回は私を心配してでてきてくれたんだろうけど、それは嬉しい


けど、そもそも私がこうなったの、あの子のせいなんだからね! 武志郎君、ビデオ


をまわしてくれてないんだから、あったことを一部始終、全部話して!」一気呵成いっきかせい


にまくしたてる香里。やはり今回、不意うちのようにしてかれたことで不安が


増幅し、怒りまでが込みあげてきているのかもしれない。だから武志郎はよけいなに


もいえなくなった。彼女の希望を断ちきるようなことをいえるわけがない。だが適当


なことを話して逃げようとしても、香里にはつけ焼刃の嘘など通用しない。すぐに見


透かされ、論破されてしまうだろう。彼女とつきあいはじめてわずか三カ月ていどに


すぎないのであるが、武志郎はおそらくほかの誰よりもそのことを思いしっているの


である。


「──武志郎君、なにかかくしてる?」香里がいった。


「へ?」声が裏がえってしまう武志郎。「香里に俺がなにをかくすの?」


「絶対、かくしてる」


「だから、なにを?」あやふやにお茶でもにごすようなことをいう武志郎に香里がキ


レた。


「お願いだからごまかさないで! 紗世ばっかじゃない! 私だって今、たよれる


人、武志郎君しかいないの! ほかにいないの! わかってよ!」


「…………」そう、紗世ばかりではなかった。彼女をおびえさせていた原因のひとつ


は、武志郎のあいまいでどっちつかずの態度にあったのだ。香里は床に手をついて子


供のようにビービー泣きだした。涙と鼻水をぽとぽとと落としながら。体の中の水分


がすべて流れだしてしまいそうな勢いであった。肩におかれた武志郎の手をふりはら


い、香里は声がでなくなるまで泣きつづけた。武志郎はくやしさにふるえた、おのれ


不甲斐ふがいなさに腹が立って仕方がなかった。


                             (つづく)

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