第三章 秋の口吸い 3

       3


「じゃあ、おそばゆでるね」武志郎を自分の部屋へとまねきいれた香里は、しんどそ


うな顔は見せずにつとめてあかるくふるまっているように見えた。もしかしたら、や


っと決着がつくことで神経が高ぶっているだけかもしれないけれど。「武志郎君、な


んか元気ない?」


「いや、そんなことないよ。食事のしたく、手伝おうか?」答えながら武志郎の脳内


はフル回転で江戸での行動をシミュレーションしつづけていた。


「そう? なんかうわの空な感じだけど?」


「ご、ゴーストキスについて考えてしまって」今の香里に不安材料をあたえるわけに


はいかない。とにかくなにか食べさせないと。


「バカね。したくは大丈夫だから、部屋で待ってて」香里は頬を染めながら一階へと


おりていった、フワフワとしたおぼつかない足どりで。やはり四日間の絶食がきいて


いるのだ。紗世をだすのを延期したいところであるが、しかし、もうあとがない。次


にやったら彦五郎を助けられそう、などと安易に楽観視していた昨日までの自分を、


武志郎はそれこそ斬り殺したくなった。


「うん? 斬り殺す……」武志郎はなにかを思いついたようだが、頭をふって否定し


た。確実ではあるが、それだけはしたくないという方法がうかんだのだ。そしてその


方法を実行できる覚悟が自分にあるとは思えない。そばをゆでるなんて十分もかから


ないぞ、どうする俺! コココココ、武志郎はいつもよりせわしく自分の額を指でた


たいていた。


 階下から香里の呼ぶ声があって武志郎がおりていくと、台所のテーブルには涼しげ


なざるそばと海苔のりに薬味、そしてグリーンサラダに卵焼き、ボイルしたソーセージ


などがならんでいた。


「この前の弁当もだけど、すごいな香里」


「簡単な物ばっかで恥ずかしいけど、たくさん食べてね」


「香里も、少しずつな」


「うん」ふたりは手をあわせて、食事をとりはじめる。香里は、そばもズルズルとす


するのではなく、一、ニ本のみを箸先はしさきでつまみ、こわごわ口へと運んでいた。


ややあって、うっ、とうめき声をあげた彼女は青い顔をして口元を押さえた。


「香里?」


「ゴメン、ちょっと!」う、う、う、と彼女の腹筋あたりが痙攣けいれんしたかのように


ふるえる。香里はそのまま、トイレにかけこんだ。


「…………」武志郎ははしをおいた。そしてふたたびコツコツと額をたたく。やはり


今日だ、今日で決着だ。それしかない! 水洗の流れる音があり、洗面所の方から香


里が歯をみがいているらしき音が聞こえている。席を立った武志郎が洗面台の前で背


をむけている香里に声をかけたが、何回も何回も口をすすぐ彼女は泣いているようで


あった。


「香里……」


「ゴメンね、武志郎君」背中ごしに香里がいった。


「あやまることねぇよ」あやまらねばならないのは、これまで手をこまねいていた自


分の方である。武志郎は強くそう思った。


「キスの前にもどすなんて、キモいでしょ? 引くでしょ?」


「んなことないよ、香里」


「……すぐいくから、おそば食べてて」香里はそういうと、おそらくは涙で濡れた顔


をバシャバシャと音を立てて洗いはじめた。


「わかった」武志郎は腰を折って洗顔をつづける彼女の肩にそっと手をおいた。

 

 ──そのとたん、右目に激痛がきた!




「まさか、紗世か!?」久々に味わう目玉をえぐられるような痛みに耐え、水滴がた


れている横顔を凝視ぎょうしする武志郎。「どうなんだ?」


「ああ、おう、わっちだ」心なしか声にはりがないが、そこにいるのはまぎれもなく


紗世であった。


「顔、ふけよ」武志郎はかけてあったタオルを取り、紗世にわたす。「脅かすなよ


な」


わりぃ……」紗世は素直に頭をさげると、タオルで顔をぬぐった。


 台所にもどったふたりは食卓をはさんで対峙たいじした。まだ心を決めかねていた武志


郎は、とう突に出現した紗世を前にして緊張をかくせずにいる。しかし懸命に平静を


よそおうと努力だけはしていた。ただ、なにから話せばいいのか、言葉がでてこな


い。


「姉御、えれぇことになっちまったな」紗世がポツリとつぶやく。


「ああ」


「見てらんなくてよ、でてきちまった」


「お前がいたら体力消耗するだろが? なに考えてんだ?」


「けど、わっちが姉御の代わりにめしを食えるだろ? 姉御の胃のにわっちが


食い物、つめこんでやるよ!」


「あ、その手があったか!」一長一短ではあるが、確かに悪くない考えだ。


「ブシロー、食っていいか?」


「おう。ただし、ゆっくり、よく噛んで食え──」という間に紗世は箸を取ってそば


をつゆにひたしている。「いただきますぐらいいえよな!」


「なんでぇ、そりゃ?」そして香里とはうって変って、ズルズルと音を立ててそばを


すする紗世。正座の慣習がなかったくらいなのだ。江戸時代には食事前にいただきま


すというあいさつをしなかったのかもしれない。


「お前、マジ、よく噛めよ! あとで香里がひっくり返るぞ!」


「そうけ? そういやそうだな。ゆっくり食わあ。また吐いちまったらかなわねぇも


んな」


「お前、本当はそばにつられてでてきたんじゃねぇの?」


ちがわぁ! おう、うめぇな! 塩気がたまらん。こりゃ、なんでぇ?」


「ソーセージ」


「このあめぇ玉子もうめぇ。姉御、いい嫁さんになるなぁ」


「よくいっとくよ」


「なに、ぬかしてんだ? おめぇがもらうんだろが」


「はあ?」


「だからキスするんだろ?」


「キス? 紗世、キスがわかるのか?」


「あたりきでぇ、もうわからぁ。口吸くちすいはな、わっちをおびきだすためなんぞに


していいもんじゃねぇぞ、ブシローよ」


「ああ、まあ」バレてた。「けど、お前がでてこないせいだろうが!」


「そうだな、姉御には本当、申しわけなかったよ。こんなに腹へってるのに食えねぇ


なんてな。ところでブシロー、そっちのそばもいいけ?」元々少量だった香里のぶん


をたいらげた紗世は、武志郎のそばを箸で指ししめした。武志郎が無言でプラスチッ


ク製そば皿を彼女の前に押しやると、紗世は顔をくちゃくちゃにして満面の笑みをう


かべる。いつか、アメ横で食べたときにも感じたことだが、武志郎はこれほどうまそ


うにそばを食べる人間に、今後、一生出会うことはないだろうと思った。そして今


日、このそば好きの江戸っ子を、彼は消しさらねばならないのだ。


                               (つづく)

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