第三章 秋の口吸い 2
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そうはいっても、やはりふたりならんで香里の家へむかうことはさけることにし
た。スーパーにより、買い物をして帰るという香里が先に喫茶店をでて、武志郎は一
時間ほど店で時間をつぶしてから彼女の家へとむかうこととなった。今度こそ失敗は
許されない。一度さがってしまった士気を高めるべく武志郎は燃えさかる『大鹿庵』
を心に思いえがき、何度も何度もイメージトレーニングにつとめた。なんとしてでも
彦五郎が助かる姿を今の紗世に見せなければならない。そしてこれはつらいことだ
が、幕末の紗世はなにがあろうと見殺しにしなければならないのだ。──などと考え
ていたそのとき、あらたな
と思わせたうえで死んでもらわなければならない、そうしなければ紗世が地縛霊にな
る理由がなくなってしまう。
「あぶねぇ……」武志郎が脳内シミュレートしたプランは、彦五郎が現れたあとす
ぐ、もしくはこちらからさがしだし、彼を抱いて店の外へ飛びだすというものであっ
た。このタイミングであれば山賀乙が店内に侵入してくる前に助けられる。香里の理
くつでいえば、紗世が『大鹿庵』で死ぬことが時の
ておいても
武志郎の見えないところで勝手に死んでくれるだろうと考えていたのだ。しかしこの
方法では紗世が彦五郎の死を確認できず、地縛霊にならない可能性が高くなる。それ
は大した問題ではないかもしれない。歴史の大きな改変にはつながらないのかもしれ
ない。しかし、香里と武志郎、ふたりだけの問題として完結はしないのではないか?
紗世が幽霊として現れなければ、まず、この夏のすごし方が確実に違ってくるはず
だ。それこそふたりだけではすまない、海にいく予定だった孝雄や律子、勇人や蓮美
にまで影響をおよぼしかねないのだ。なによりも一番気がかりなのは三年前の不発弾
爆発事故のさい、香里の母を救うことが不可能になることだろう。もし、あそこで亜
希までが死んだとしたら? 中二で孤児となった香里はどうなる? 今のあの高校に
入学するかどうかも怪しくなるのではないか? 武志郎の思考は、この問題の初期段
階にかかえた
「……ちょっと待て。考えろ、考えろ」大きく過去を変えることなど、私たちにでき
るはずはないと香里はいった。すべては必然だと。ならば、こんな疑問は無意味なの
か? そうなのかもしれない。そこまで大きな
しかし、かもしれないは、かもしれないであって、確定ではない。危険すぎる賭けに
なるのではないだろうか? しかもあの様子では二学期までこの問題を持ちこせば、
香里の精神状態がどうなってしまうか……。夏休み終了まで本日を含めて二日しかな
い。香里にキスをすれば紗世は現れるだろう。しかし、明日はわからない。おびきよ
せられたことを知り、さらにヘソを曲げてしまうかもしれない。そうなったらおわり
だ。今日、片をつけるしかないのだ。江戸の紗世には彦五郎の死を認識させたうえで
死んでもらい、今いる紗世には彼の生存を確認させる。ただそれだけのことである
が、段どりをミスしてもやり直しはきかない一発勝負なのだ。いつだったか香里はこ
ういっていた。何度も寸どめで実験をくり返し、データを集めて可能性をさぐるべき
だと。本当にその通りだった、この夏の間にそうするべきだったのだ。実験をくり返
すことで、記憶があいまいになっている紗世を斬り殺すバージョンだって検討するこ
とができた。あの前に死んだとされる彦五郎が、なぜ床に倒れていたのかも知ること
ができたのだ。焼死バージョンにしても、彦五郎が
どのていど待てば紗世が意識を失うのかを計ることができただろう。焼けていく紗世
の意識がある内に彦五郎を助けだしてしまったらすべてが水の泡になるのである。い
ずれの場合にしても、跳ぶタイミングを
する余地が生まれたかもしれないのだ。悪い噂に
はいいわけにもならない。
「くそ!」武志郎は大いにくやんだが、本来、時が巻きもどることはないのである。
「いや、待てよ……」彼は常に携帯しているノートをバッグからだしてテーブル上で
開いた。
『一回目 香里をうしろから抱きしめた→瞬間、紗世が香里に
抱きしめる形となる→紗世を■■寸前の江戸。 場所、香里の部屋。時刻、午後六時
ごろ。ふれた所、俺の両腕と手の内側のみ。俺の死に方、後ろから
腹を斬られた』
『二回目 香里に憑依した紗世が俺の頬に人さし指で触れた→紗世を■■た直後の江
戸。 場所、図書館。時刻、午前十一時ごろ。ふれた所、紗世の指先一本分のみ。俺
の死に方、袈裟斬りはよけたが、腹を斬られた』
『三回目 香里に憑依した紗世を前から抱きしめた→紗世を■■寸前の江戸。場所、
香里の部屋。時刻、午前十時ごろ。ふれた所、俺の頬、腕と手の内側、胸元あたり。
俺の死に方、袈裟斬りがくる前に相手の袖口を斬りつけた(なぜあんな動きができた
のか?)。けれど腹を斬られて、おそらく首を落とされた』
「斬る」という文字がにじんでしまったメモ書きである。こんな落書きでも見ように
よってはデータの蓄積といえるかもしれない。じっと
志郎は指をパチンとならした。
「そうか、俺が山賀乙に勝てばいいんだ!」確かに理論上はそうなる。おそらく、紗
世を斬る前に床に伏していた彦五郎は死んでいない。山賀乙さえしのげれば、気絶し
ている彦五郎を店外の安全な場所へと連れだせるに違いない。
「だけど、無理だろうな……」袖口を斬ったことがあるとはいえ、武志郎の身体能力
では山賀乙の
おこなう剣道の試合ですら一勝もしたことがないのである。彦五郎を人質にとって逃
亡するという方法もあるが、動かない彼がすでに死んでいると見なされるおそれもあ
る。事実、紗世はそう思ったまま死んだのだ。死者を盾にとる行為と判断されたら、
山賀乙の怒りに油を注ぎかねない。
「…………」武志郎はこの件について、もっと、もっと深くつきつめて考えておくべ
きだった。間違いなく時間はあったのだ。おそらく無意識にではあったけれど、香里
の語ったループ理論によりかかり、あまえがでてしまったのだ。真に追いこまれない
と行動に移せない、それがあい変わらず改善されない彼の悪いくせなのである。
壁かけの時計を見ると香里と約束した一時間を少しまわっている。武志郎は重い腰
をあげ、レシートを手にしてノロノロと出入口へとむかった。
(つづく)
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