第三章 秋の口吸い(オータム・キッス)1
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自室で武志郎が呼びかけても彼の右手は反応をしめさず、翌日、翌々日、その次の
日も、ほぼ毎日のように香里と会うようにしていたけれど、紗世は完全にムクれてし
まったらしく、ついぞ姿を見せることはなかった。夏休み中に紗世を成仏させるとい
うのが武志郎の立てたこの夏の目標であったが、いよいよ残り十日をきってしまっ
た。季節は夏から秋へと移りかわろうとしている。夕刻をすぎるとスズムシやコオロ
ギの鳴き声が聞こえはじめていた。もうあとがない上に、いったんもりあがったモチ
ベーションまでがダダさがりになりかけている。このまま紗世がでてこないのなら
ば、それでもいいような気持ちが彼の中にめばえつつあった。しかし香里はその考え
を断固、否定した。
「いつなんどき、ひょっこり現れるかわからない子をこのままにしておけない!」し
ごく当然の話である。二学期がはじまり、学内で突然出てこられでもしたら、香里自
身が変人あつかいされてしまうことになる。同じ教室で互いに肩もふれないよう、常
に警戒しつづけなければならない。しかもふたりは修学旅行委員、ともに行動する機
会が今後、確実にふえてくるのだ。香里はぼやきや泣きごと、
多くなり、やがて極度の心的ストレスが原因なのか摂食障害の症状がではじめた。二
学期以降のことを思うと吐き気が襲ってきて、なにを口にしても
いうのだ。
「ダイエット効果は抜群かも」当初、香里は武志郎の前ではそううそぶいていたけれ
ど、危機的状況にあるのは明白であった。八月もおわりに近づき、いくらか涼しくな
ってきたとはいえ、まだまだ残暑がきびしいおりのことである、このままではいつ倒
れても不思議ではない。絶食の状態が四日もつづくと、ふくよかな彼女の豊かな胸
も、尻もひとまわり小さくなったように見える。以前、当人の意志でダイエットを実
行したときは野菜や卵で最低限のカロリー摂取だけはしていたし、なによりもあのと
きとは精神的不安感のレベルが違うのだ。
八月三十日。口数がへり、出歩くことでさえ四苦八苦する彼女を前にして、武志郎
はいよいよもって覚悟を迫られることとなった。
「紗世はさ、やっぱり大好きな武志郎君のそばからはなれたくないのかもしれない
ね」今日ふたりは、香里の家のもより駅近くの喫茶店で会っていた。炎天下の中、あ
まり遠くまで連れだすのは危険だと武志郎が判断したからである。以前の例もあるの
で顔見知りと遭遇することを香里は恐れたようであったけれど、食べられない上に睡
眠不足までがくわわり息も絶え絶えの彼女は、どこか捨て鉢な態度で承諾した。口を
つけていないレモネードのグラスをストローでつつき、カラカラと音をたてる角氷を
うつろな目つきでながめながら香里は言葉をついだ。「くやしいなぁ、私、紗世に負
けるのかな?」
「勝ち負けの問題じゃないだろ」おそらく理屈では
めした結果が、この状況なのであるが。
「母さんが心配して、今度、精神科のカウンセリングを受けさせるっていうの。私、
本当に病気にされちゃう。そのうち、
「…………」生気のうせた香里の表情は、まさに悪霊にとり
ある。
「怖いよ、私。助けてよ!」
「──香里、昨日、徹夜で考えたことがある」ここ数日、武志郎も眠れずにいた。
「なに?」
「キスを、しないか?」
「え? あ!」口元をおおった香里は、瞬時に武志郎の意図を理解した。初めて紗世
が現れたときの状況を再現するつもりなのだと。多くを語らないのは紗世に
ないためなのだと。
「ファーストキスがこんなんじゃいやかもだけど」
「私にはファーストキスじゃないから」
「は!?」そんな場合ではないのだが、武志郎は動揺した。律子がいっていた香里に
告白したという男たちの影がチラつく。
「
「あ? あはは、そういうこと?」
「
香里がいたずらっぽく笑ってくれた。しかし喜んでばかりもいられない。
「ただ、香里の体力が心配なんだ。なんとか食べられないかな?」
「…………」押しだまる香里。ここ数日間、くり返した嘔吐、その印象をぬぐいきれ
ないのかもしれない。
「きびしいか」
「……でもない。おそばくらいなら」
「そば?」
「ルチン、コリン、ナイアシン、ビタミンBⅠ、B2、タンパク質。栄養たっぷりだ
し」
「か、香里?」
「スーパーにいこう。どうせ食べるんだったら十割そばがいいな。買いにいこう
よ!」
「そば屋じゃなくて?」
「乾麺をうちで
「そりゃ助かるけど。いいの? 香里んちで」
「おそばが食べられて、安あがりで、キスできる場所、ほかにある?」
「ないかな」
「それにみんなのおかげで、変な
「なるほど」家の近所の喫茶店にくるのもいやがっていたくらいだから、完全に噂が
消えたわけではないのかもしれない。しかし香里の表情に
る。水をさしたくはなかった。
「
「…………」強くて、
でてもこられない紗世は、追いこまれて逃げまわる子供のようであると武志郎は思っ
た。
(つづく)
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