第二章 夏の亡者 14

       14


 炎と煙、またしてもいつもの光景。きた、江戸時代! なにがあってもあわてるな


よ、俺。


「は?」あわてるなと自分にいいきかせたとたんに武志郎の背筋がこおった。中年男


の腹を斬り、かえす刀で中年女を斬りたおしていたのだ。『大鹿庵おおしかあん』の主人夫婦


だ! 


なぜだ! なんで前と同じタイミングなんだ!? あせるな! あせるな、俺! そ


うだ! 前はふたりを斬った恐怖で刀をふりまわして、積まれていた行李こうりの山を


くずしたんだ。となると、ここでくるぞ彦五郎が! そして現れた、彦五郎が煙にま


かれて泣きながらヨタヨタとさまよいでてきた。


「彦五郎!」武志郎は大声で叫んだ! やった! とにかく彦五郎は死なずにすん


だ! ところがである、薩摩浪士のほえるようなダミ声に驚いた彦五郎は数歩あとず


さり、みずから燃えさかる行李の山の中にたおれこんでしまった! 


「マジか! うわっ!」なだれ落ちた竹籠たけかごから大きく火の粉がふき上がる。彦五郎


はまたしても炎まく行李の下敷きになってしまった。前回、武志郎は火の勢いに押さ


れあおむけに転倒してしまったが、今回は両手を顔の前で交差させて耐えた。ここで


紗世がくるはず! そのとき、安普請やすぶしんの家屋の細いはりが燃えながら武志郎の


頭上にふってきた。よける間もなく無防備な後頭部に角材が直撃、一瞬、意識が飛ん


だ武志郎の薄よごれた和服や、後ろで結んだ毛髪の一部に火が燃えうつる。もうろう


となりつつもバタバタと本能的に消火につとめる彼の手足。前回は転んだせいで、こ


の梁に見まわれることはなかったのだ。


「彦五郎ぼっちゃん! ぼっちゃん!」紗世の声だ! いけない、紗世! その行李


に近づくな! 焼かれちまうぞ! 武志郎は懸命に声をだそうとするが前回よりも


脳震盪のうしんとうの度あいがひどい上に完全に半身が焼けこげ、炎の中でつっぷしていた。


紗世! 気ばかりがじれるも意識が遠のきはじめる、どうやら今回は山賀乙と出あう


こともなく焼死するらしい。自身が焼かれていく苦しみにあえぎながら、必死で顔を


あげた武志郎が最後に見たものは、赤々とうずまく炎の懐中かいちゅうで火柱と化した紗世の


シルエットであった。




 ベンチの上で、うわっと体をおこした武志郎は自分の手の表裏を確認、焼けていな


いことに安堵あんどのため息をもらした。


「だめだったな……」かたわらの紗世がつぶやく。「おめぇ、乙様にあうまでもなく


死んでんじゃねぇか」


「ああ。だけどなんでだ? どうしてだ?」──なぜ、前回と同じ瞬間に跳んだ? 


ふれる時間の長さを倍にしたのに。


今生こんじょうの別れみてぇなやり取りしちまったことが恥ずかしいぜ、った


く。なにが忘れねぇだ」紗世は胸元のスカーフをもてあそび、みずからの顔にむけて


風を送っている。


「……ふれる長さじゃないのか?」紗世のうらみ節も耳に入らない武志郎。


「まあよ、おしいとこまでいったじゃねぇか。おめぇがどならなきゃ、ぼっちゃんは


助かってた、そうだろ?」


「…………」武志郎はこたえず、額をコツコツとたたきつづけている。流れ落ちた汗


が木製のベンチに染みをつくる。敗北感でいっぱいであった、今度こそと思っていた


のに。


「ブシローよ、わっちの考え、話していいか?」


「考え?」目をあげた武志郎の額は、たたきすぎて少し赤くなっていた。


「思うんだが、おめぇがあそこに跳んでけるのはわっちの思いってか、執心しゅうしんが元


だろ? 怨念おんねんといってもいいがよ」


「それで?」


「だからよ、あの芋侍がたなに火を放ち、旦那さんやおかみさんを斬るより前にゃ


いけねぇんじゃねぇか? わっちが死ぬあたりにしか跳べねぇんじゃねぇか?」


「なるほど、そうか。放火される前にはうらみが残ってないもんな」


「おう、ねぇぜ」


「だとしたら、やっぱりきびしいぞ、紗世」


「なにが?」


「いく前にちょっと思ったんだけど、薩摩の侍も『大鹿庵』で死ぬことが決まってる


みたいじゃないか? だったら彦五郎だって……」運命論というものだろうか? 武


志郎はそんなものを信じたくはなかったが、やはり紗世や彦五郎が死んだという一五


〇年前の厳然げんぜんたる事実は変更がきかないのかもしれない。


「そりゃ、ねぇよ。前もいったろ? 因果いんがは車の輪のごとしなんだと」


「わかるけど、いくらいい子だからって死ぬときは死ぬんだよ。その、やさしい宗介


さんが理不尽に死んだみたいにさ」現実は因果応報というわけではない。憎まれっ子


が世にはばかるのだ。


「なにいってやがる? 宗介兄いは自分で腹を切ったんだ。坊ちゃんとはちげぇよ」


「そうだけど……」またしても同じ話の堂々めぐり、口ごもる武志郎のえりを紗世は


両手で絞めあげた。


「おめぇ、あきらめる気け? わかんねぇ野郎だな? 坊ちゃんが助からなきゃ


すじが通らねんだい!」


「わかったよ、はなせよ」遠目に誰か見知らぬ男が見ていた。図書館での例もある、


あまりじゃれあうようなまねを他人に見られたくない。しかも今日は制服を着ている


のだ、学校に連絡でもされようものならシャレにもならない。


「おんや? ありゃあ……」手をはなした紗世の目つきが変わった。


「どうした?」


「あの男……」


「知りあいか? そんなわけないよな」江戸時代の人間が生きているわけがない。


「だけどなんだ? あの男……」骨と皮だけになったようにせこけ、目玉ば


かりが突出して血ばしり、土気色つちけいろの顔をしたその男もじっと紗世を見ていたが、


やがてフラフラと泳ぐような足どりで立ちさっていった。見おくった紗世は額にびっ


しりとういていた汗をぬぐう。その瞳には恐怖心がありありとうかんでいるように見


えた。


「たまげたぜ」呼吸をとめていたらしい紗世は大きく息を吸った。


「なんだよ? 誰? 気味の悪い男だけど」


「今の野郎、わっちと同じだ」


「どういうこと?」


死人しびといてたぜ。おそらくぁ長いこと憑きっぱなしなんだろうよ。でなき


ゃあの人相にんそうにゃならねぇ」


「マジで?」


「マジだ。わっちがいるんだ、ほかにいたって不思議はあるめぇ」


「まあな」


「ありゃ、もう長くねぇな。憑かれた男、近々、おっぬぜ。体がもつわけが


ねぇ」


「本当かよ? ヤバいじゃねぇか!」


「ああ、ヤベぇよ。あれが姉御のゆくすえかもしんねぇからな」


「香里の!? なんで? 前、大丈夫だっていったじゃないか?」


「今はな」


「どういうことだよ!」武志郎は紗世の両肩をつかんでまっすぐに見つめる。しかし


紗世は目をそらし、彼の手をはらいのけた。


「筆談ていうのかい? あれはあれでいいんだがよ、やっぱ、こうしておめぇとじか


にしゃべってる方がわっちは楽しいんだ」


「え?」なんだかドギマギしてしまう武志郎。


「そばやらあめぇもの食わしてくれたろ? もの食うってのがまた、切ねぇくらい


しあわせなんだ。わかるめぇがな、おめぇらにゃ。なんせ生きてんだから」


「…………」


「おめぇに、へへ、髪かざり、買ってもらったの身もだえするほど嬉しかったんだ


ぜ、本当ほんとによ。初めてなんだよ、男になんか買ってもらったの」そして紗


世は首に巻いたスカーフを指先でヒラヒラとたなびかせる。「これが二度目だ」


「宗介さんは?」


「あめ玉くらいならもらったがよ。兄いの家は小普請組こぶしんぐみでな、ろくなんざたかがしれて


るドサンピンだからよ」


「こぶしんぐみ……」よくわからない単語だが、どうやら貧乏侍ということのよう


だ。


「だから、かんざしを買ってくれようとしたって話聞いて泣けたんだ、わっち」


「そうか」


「話がずれたな。そんなことだからよ、いずれわっちぁ姉御の体、のっとっちまうか


もしれねぇ」


「はぁあ?」


「たまにもどりたくねぇって思うときがある。姉御の口まねだってもうやれるしな。


ね、武志郎君、今日はこのスカーフ、ありがとう。私、ずっと大事に──」


「やめろ!」


「へへ、安心しな。姉御がいやな女ならとっくにそうしてたんだからよ。わっちぁ姉


御のこと好きだからな、死なせるようなことできねぇよ」


「かんべんしてくれよな」


「けど、この先はわからねぇ。わっちにもわっちの胸の内がわからねぇんだ!」


「紗世……」


「ブシロー、苦しいんだよ。なんとかしてくれ! わっちを消してくれ!」紗世は涙


を見せぬように小型カメラをぶらさげていた武志郎の胸にしがみついた。人目は気に


なったけれど、彼女の背にそっと手をまわすと、紗世は彼の元へと帰ってきた。




 例によって苦し気に頭を押さえながら香里がうめき声を上げている。たかだか一時


間ていどの憑依ひょういでもこれだけ脳や体に負担がかかるのだ。もし仮に紗世


が本格的にとり憑いたら……考えただけで恐ろしい。


「どうだった? 武志郎君」まぶたをかたく閉じて頭痛に耐えながら香里が聞いて


きた。


「うん、またダメだった。彦五郎を助けられなかったよ」


「ぇえ?」目をショボショボとさせつつ顔をあげた香里は思わず叫んでいた。全身の


倦怠感けんたいかんで声量の調整ができないのかもしれない。「助けちゃダメでしょ!」


「あ、そうか。SDだったよな」


「あぶないなぁ……ふぅ、おさまってきた。なに、このスカーフ? いやだ! 染み


になってる! クリームソーダ?」


「そういうこと」


「全部、飲んどけばよかった、もう……そうだ、カメラかして」


「お、おう」武志郎は躊躇ちゅうちょした。この録画を見たら、香里はもう紗世に体を


かさなくなるかもしれない。当然、そうするだろう。


「どうしたの?」


「いや」武志郎はカメラを香里にわたしながら思った。そうなったら、そうなったで


仕方がない。以前、香里はいっていた、これはふたりの問題なのだと。そう、これは


香里ぬきでは語れない話であり、事案なのだ。




「あれ! これ、保田奈美穂さん?」江戸薩摩屋敷跡から『御生寺』へむかうあたり


まで黙って動画を見ていた香里が目をあげた。


「ああ。驚いたよ」極力、平静をよそおう武志郎。


「時間がとまったみたいな感じがしたでしょ?」


「なんだそりゃ?」


「入学式で武志郎君を見かけたときの私がそうだったから」


「あ、そう」


「彼女のこと、今でも好き?」


「なわけねぇだろ?」おかげさまで、ふたりでひとりの女子で手一杯である。


「ふうん」香里はとめていた動画に再び目を落とす。そして、しばらく見ていたがあ


るシーンで悲鳴をあげた。「なにやってんの!」


「あ、それは!」カメラをのぞきこんだ武志郎の声も上ずっていた。胸にさげていた


ため、カメラのレンズはちょうど、香里の胸のアップをとらえていた。そして、そこ


に武志郎の手がペタリとはりついているのだ。


「なんてことを……」


「ちゃんと見ろ、見てよ。ふれただけで、指は動かしてない! もんでないから。そ


れに紗世が、そうしてほしいと──」


「紗世がエッチしたいといったらするの? 私の体に! 武志郎君!」


「しないけど。それとこれとは」


「同じことでしょ? 意識ないのをいいことに。最低!」


「はい。もうしません」


「こんなことしたら、二度と紗世にはならないからね!」香里は目には見えない紗世


にむかって怒声をあびせているようであった。「江戸の子はおっぱいを軽く見す


ぎ!」


「そうだったね」ラストの方を見たらもっと紗世にはなりたくなくなるだろうと武志


郎は思った。しかし、見せなくてはならない。そして香里の判断をあおぐしかない。


「あ、これ」


「な、なに?」ややあわて気味に画面を見る武志郎。江戸からもどってきて普通に紗


世と会話しているところで静止しているようだ。


「前も紗世いってたわよね? 因果は車の輪のごとしって」


「ああ、なにも悪くないのに彦五郎が死ぬのはおかしいって理くつだけど、それをい


ったら香里のお父さんや弟さんだって一緒だよな」


「そうだけど。紗世のいってること、そういう意味なのかな? なんか引っかかる」


「そうかい?」首をひねる武志郎。香里もしばし考え込んでいたが、あきらめてつづ


きを見はじめる。そしてついに動画は最重要シーンにさしかかった。見つめている香


里の顔色がどんどん蒼白そうはくになっていく。


「怖い……」ビデオカメラのスイッチをきった香里がつぶやいた。


「うん。香里の口まねをする紗世、俺もすごく怖かったよ。幽霊なんだって実感し


た」


「そういったでしょ? 今、いちゃいけない人なんだって」


「ああ」


「どうしよう……」


「こんなの見たら、もう紗世に体はかせないだろ? もうやめよう、香里」


「……それもいや」 


「は?」


「今日の録画を見てはっきりわかった。やっぱり紗世、武志郎君が好きなのよ」


「それはないでしょ。だって宗介さんが」


「宗介さんはただの兄貴分でしょ?」


「けど、かんざしを買うために走ってたせいで因縁つけられたと聞いて泣けたって」


「そりゃ誰だって泣けるわよ、亡くなった人のそんなエピソード聞いたら。たとえ好


きじゃなくてもね。宗介さんの方は紗世を愛していたのかもしれないけど」


「そうかな? でも、それがなんで、俺を好きって話になるの?」


「態度見てたらわかるでしょ? それに紗世、いってたじゃない?」


「なにを?」


「姉御のこと好きだって。よ、! 私のことは武志郎君のついでに好きって


意味じゃない!」


「考えすぎじゃね?」


「武志郎君もそう」


「へ?」


「保田奈美穂さんと出あって、あまりショック受けなかったのって紗世と一緒だった


からじゃないの?」


「そんなことは……」


「ねえ、もう紗世、ビデオのことわかってるのよね?」


「うん、たぶん。あいつ頭いいからな」


「私がこの録画を見るのわかってて、のっとるかもなんてどうしていったと思う? 


頭のいい紗世が」


「そうだな。なんでだろ?」


「紗世の宣戦布告よ」


「はぁ?」


「私を怖がらせて武志郎君から遠ざけるために決まってるじゃない!」


「いや、ちょっと待て、それはないよ。香里をのっとる可能性があるから早く成仏さ


せてくれって、あいつ、そういってたろ? そんな悪意を持つ女じゃないし」


「そうはいってなかった。なんとかしてくれっていったの!」


「消してくれっていったぞ!」


「武志郎君、どっちの味方なの!?」


「はぁあ!?」


 ふたりはしばしにらみ合い。墓参りをおえて通りかかった大家族が興味本位の視線


を注いでいたが、彼らの目には入っていないようであった。そのうちに香里のお腹が


小さくなった。恥ずかしそうに腹部を押さえた香里は、ばつが悪そうに笑う。そうい


えば昼めしどきはとっくにすぎている。いつの間にか午後になっていた。


「腹へったな、なんか食べにいくか?」武志郎も笑いながらいうと、香里はコクンと


うなずいた。


 電車賃にカラオケ代、スカーフにカメラのストラップ購入と手もちが心もとなくな


っていた武志郎は、「バーガープリンス」田町店に入ることを提案した。以前、安価


ではない小型ビデオカメラを購入していたことで、実はあまり金を持っていなかった


香里もこれに同意、ふたりはともに多くない小づかいをやりくりして、この夏を乗り


きらなくてはならない学生の身なのである。


「結局、紗世の件から手をひくの、なんでいやなんだ?」チーズバーガーをかじりな


がら武志郎がたずねた。


「女の意地、かな?」香里は今回も、いつぞやの慰労会のときと同じビッグプリンス


を食べている。


「どういうこと?」


「さっきはいいすぎた。確かに紗世は悪意のある権謀術数けんぼうじゅっすうをめぐらす子じゃないと


思う」


「お? おう……」権謀術数の意味がわからない武志郎はあいまいにうなずき、本


日、二杯目のアイスコーヒーをストローですする。


「だから無意識だと思うの。好きだといってくれてたから、私を殺したくないっての


も本当で、でも無意識にじゃまな私を排除したかったのよ」


「じゃま? 香里がいなきゃ成仏できないのに?」


「苦しんでたでしょ、紗世。胸の内がわからないって。成仏したいのか、したくない


のか迷いはじめてるんだと思う。大好きな武志郎君と一緒にいることがしあわせすぎ


て」


「まさか……」


鈍感どんかん。そうとしか思えないじゃない!」香里は油が回りかけたポテトをくわえ


ながら武志郎の右目をするどくのぞきこんだ。「私だって負けないよ。幽霊ゴーストなんか


に絶対、負けない」


「…………」ふたりでいるのに三人でいるかのような感覚。武志郎は浮気現場を妻に


押さえられたダメ亭主のような気分であった。


「武志郎君にもひとついっておく」


「な、なに?」完全に気おされている武志郎。


「このまま私が手をひいたら武志郎君、一生──」ここで香里は周囲をチラと見て声


をひそめた。「童貞だからね」


「ど……」そんなことはわかっている、いやわかっていた。恥ずかしいのでこのとこ


ろは自慰もしていない。男としての機能が喪失していくような危機感を感じはじめて


はいる。それにしても香里に童貞と決めつけられたことは正直、ショックであった。


「いいの? それでも」


「よくはない」よくはないが、武志郎は夜中に紗世と筆談することを、実は楽しみに


していた。性的な欲望など最近はあまりわいてこなくなっていた。つまりこれが肉体


を持たない死者にとりかれるということなのかもしれない。死人しびとは子孫を残せ


ないのだ。


「それにね、紗世だってつらいと思う。武志郎君はやがて五十になり、六十になって


いく。それを紗世はずっと十五のままで見つづけることになるのよ。何年も何十年


も」


「ああ、それは思ったことがある。俺がとしくって死んだら紗世はどうなるんだろう


とか」


「だから考えなくちゃ。過去を変えずに紗世を成仏させる方法を。三人のしあわせ


のために」


「結局、そこなんだよな。前もいったことあるけどさ、彦五郎ひとりくらい助けても


そんなに歴史に影響しないんじゃね? 次にやったら、俺、助けられそうな気がする


し」


「ダメよ! そうなったら紗世は地縛霊にならなくなって、この何カ月かで私たちが


作った思い出も消えてなくなるかもしれないのよ。そんなの絶対にいや!」


「いやったってなあ……彦五郎を助けなきゃ紗世は成仏できないし」


「……それに、次に紗世をだしたら、私が消されるかも」


「ああ」それが一番の重大問題。もはや八方ふさがりである。


「武志郎君は、その方が嬉しいのかもしれないけど」


「な、わけねぇだろ?」


「紗世にはヘアピンやスカーフ買うくせに私にはなにもくれないじゃない!」


「なにいってんだよ、子供か?」


「お寺にいた男みたく死にそうにせて、保田奈美穂さんみたくスリムな紗世と


いる方が楽しいんでしょ? そうに決まってる!」


「香里!」武志郎は思わず声を荒げ、ギュッと香里の手を握っていた。


「……ゴメン」その手を見つめる香里の目には薄っすらと涙がにじんでいる。


「俺こそ、どなって悪かった」平静をよそおってはいたが、香里の恐怖とストレスは


想像以上に深刻であった。なんとかしなくてはならない、三人のために。そうは思う


のであるが武志郎にはこんな言葉しかでてこなかった。


「十二月二十一日にはプレゼント買うからさ」その日は1221と彼がおぼえた香里


のバースデーである。


「クリスマスプレゼントとは別にしてよ」目元をぬぐいながら香里が笑う。無理をし


ているのは明白であった。


「わかった──あ?」グリンと武志郎の右手首が回転した。「やめろ、紗世!」


「なに?」目をみはる香里。


「紗世だ」武志郎の右手は食べかけのチーズバーガーやポテトを香里の方へと移動さ


せ、トレーに敷かれていた広告の紙を裏がえした。そしてコーヒーに指をつけると文


字を書きはじめる。


「自動書記、なの?」話だけは聞いていたが、初めて現状を見る香里は驚きをかくせ


ない。まさに心霊現象、ホラー映画の一場面のようである。


「ああ。人前じゃやるなといってあるのに」書きおえた右腕は紙をつかんで、香里の


眼前につきつけた。


「あ……」コーヒーで書かれた紗世の手紙にはこうあった。



『あねご 心ぱいない しなせない 大好き』



「やれやれ」指先を紙ナプキンでふきとる武志郎。


「大好きとかって、すっかり現代人のものいいなのね。漢字も使って……怖いよ」こ


の文面は、なり代わろうと紗世が思えばいつでもできるということを動画以上、痛切


に香里へ実感させてしまった。紗世はおろかにも彼女をよけいにおびえさせてしまっ


たのだ。


「信じるか? 香里」


「……考えとく」


 夕刻、すっかり言葉すくなになってしまった香里と別れ、自宅にもどった武志郎に


伸宜と篤子は、デート楽しかったか? どうだった? なにをしていた? などなど


矢つぎ早に質問ぜめしてきた。ひとり息子に初めて彼女ができたことが嬉しいやら、


寂しいやら、そんな思いもあるのかもしれない。しかし武志郎はノーコメント、とつ


っぱねて、早々に自室へと引きあげた。


「紗世、よかれと思ってしたんだろうけど完全に裏目にでたぞ」ノートを開いた状態


で紗世に話しかけてみたが、めずらしく返事がない。彼女は彼女で反省、もしくはし


ょげているのかもしれない。当面、または永遠に香里は、紗世に体をあずけないだろ


う。


 もやもやとした気分で風呂に入って汗を流し、髪をガシガシとタオルでふきつつ部


屋にもどるとスマホのランプが点滅していた。着信があったようだ。孝雄か勇人だと


思ったら、もやもやの原因である香里からであった。武志郎は目をいてすかさず


折りかえしする。数秒間の呼びだし音があって彼女がでた。


「もしもし、電話くれた?」


『うん……今日、なんかごめんなさい。メールしようかと思ったけど、ちゃんとあや


まりたくて』香里の声は沈んではいたが、少しは元気を取りもどしているように武志


郎は感じた。


「あやまることないって、無理ないもん。それに──」別れぎわ、次の約束もしなか


った。今度こそ香里とはこれきりになるかもしれないと危惧きぐしていたのだ。


「電話くれて嬉しいし」


『本当?』


「ああ」本当に、本当だ。


『紗世はどうしてる?』


「今日はでてこない。たぶん、へこんでるんじゃないかな」


『あはは、幽霊ゴーストもへこむんだ?』


「頭いいヤツだと思ってたけど、案外バカだったな」


『そんなことない。紗世、頭いいよ。私、さっきビデオを見なおしていて気づいた


の、紗世のいいたかったことに』


「どういうこと?」あんなに落ちこんでいたのに動画を見なおした? さすがは勤勉


な人だと感服してしまう。


『明日は会える?』


「もちろん」


『じゃ明日話す。私も思いつきだから、まだ考えまとまってないの。それに武志郎君


も少しは考えてみてよ』


「なにを?」


『ヒントはやっぱりループ。それが紗世のいってた因果、車の輪だったのよ、きっ


と』


「さっぱりわからん」


『どこで会う?』できれば金のかからない場所がいい。しかし図書館は使えないし、


当然、香里の家はさけたい。


「紗世はださないんだろ? だったら俺んちはどう? 母さんはいるけど、昼めし代


かからないし」どうせ公認の仲だし。今のところ正式には誤解なのだけれど。


『……それ緊張する』


「今日、会ってるじゃん」


『今日の明日じゃ、肉食女みたく思われるでしょ! それに紗世はだすかもしれない


し』


「だすの? マジで!」


『まだわかんないけど、場合によっては武志郎君に江戸へいってもらうかもしれな


い』


「そうなるとウチはまずいよな」江戸に跳ぶと、突然、意識をなくしたように昏倒し


てしまうのだ。そんなところを篤子に見られたら騒ぎになりかねない。しかし、そん


なことよりも……。「香里、紗世を信じられるのか?」


『まだ、わからないけど……』


「だよな」


『信じたいとは思ってる』


「…………」


『そうしないとなにも先に進まないから』


「そうか」本当に強い女だ。もやもやと思い悩んでいただけの武志郎とは大違いであ


る。彼は、くそぉ!と心の中で地団太じだんだをふんだ。


『で、明日、どうする?』


 結局、武志郎と香里の家の中間あたりにあるF県国定公園で落ちあうことに決まっ


た。入園料が二百円であることと、のんびりと寝ていても不自然ではないことが決め


手となった。電話をきった武志郎は香里のだしたヒントについて二時間ほど思いをめ


ぐらせてみた。ループ、そして因果は車の輪のごとし。紗世はなにをいいたかったの


か? 香里はなにを思いついたのか? 武志郎はやはり因果応報の発想から抜けだす


ことができなかった。


 くやしい思いはつのったけれど、どうやら明日を待つしかないようである。


                                 (つづく)

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