第二章 夏の亡者 13

       13


 ところがである。その翌日の朝、伸宜と篤子の目をぬすみ、ふたりよりも早い時刻


に家をでた武志郎が、待ちあわせをしていたJR田町駅西口ロータリーに到着する


と、制服姿でリュックを背負った香里の隣に、彼女の母、黒い喪服を着た亜希が立っ


ていた。


「あ、あれ?」武志郎がすばやく香里に視線をおくると、彼女は悲しそうに首をふっ


た。


「三年前、爆発があったところだから、やっぱりこの子だけこさせるのは怖くて。私


もきちゃったの。おはよう、武志郎君」日がさをさした亜希が頭をさげる。


「おはようございます」武志郎もていねいにおじぎする。想定外ではあるが、理由と


しては納得できた。夫や息子を喪った場所にひとり残った娘をやるのは当然、いい気


がしないのだろう。


「あのあたり一帯は不発弾探査やってるから安全だっていったのに!」珍しくむずか


る香里。


「あなたたち、今日デートだったの?」亜希の目がすぅっと細くなる。そうであっ


た、武志郎には不純異性交遊疑惑もあったのだ。


「いやぁ、デートっていうか……」


「デートよ!」武志郎の憂慮ゆうりょをよそにきっぱりと断言する香里。案外、内弁慶うちべんけいタイ


プで、母親には強くでる子なのかもしれない。


「あらそう、悪かったわね!」負けていない母、亜希。


「悪いなんていってないでしょ? ただデートだっていったの」


「お父さんや弟の命日にデート? あらそう、デート?」


「だから、お父さんと永治えいじに、お花をそなえにいくんでしょうが!」


武志郎は初めて聞いたが香里の弟は永治というらしい。


「あの!」話がおわりそうにないのできりこむようにして武志郎が口をはさんだ。


「そろそろいきませんか? 事故現場。お花も買わないと!」こんな場面に、この街


菩提寺ぼだいじのある武志郎の両親までが登場したら収拾がつかなくなるだろう。とり


あえず駅からはなれた方が無難ぶなんである。


「まあまあ、ごめんなさい、武志郎君。バカな娘で」亜希が笑う。


「お母さん! でも、そうね。確かにバカっぽい。こんな不毛ふもうな会話」香里も


笑った。なんだかんだと仲のよい親子なのだろう、ケンカではなくて会話だったのら


しい。武志郎も笑ってしまう。母と娘、女同志とは、実はこんなものなのかもしれな


いと初めて知った。


「じゃ、いきますか? あの商店街通り」お盆には何度もきていて土地勘のある武志


郎が先頭をきって歩きはじめた、そのとき──。


「あれ? 武志郎!」背後から聞きおぼえのありすぎる男の声が聞こえた。声の主は


もちろん礼服姿の伸宜である。見るまでもなくその脇には、やはり黒い正装の母、篤


子がいた。


「この子は! 知らぬ間にいなくなって!」篤子は気持ち、ゲンコツをふりあげるが


すぐに亜希と香里の姿に目をとめ、えしゃくした。「おはようございます。武志郎、


どなた? ごぞんじの方?」篤子は、息子が道でも聞かれたのかもしれないと考えた


ようだ。武志郎はひざからくずれ落ちそうになった、最悪の事態がきた。


「あの、失礼ですけど、もしかして武志郎君のお母さまで?」亜希は日がさを閉じて


篤子の前ににじりでた。


「はい、そうですが」


「娘がお世話になっております。私、鵜飼香里の母でございます」


「鵜飼香里さん?」篤子は香里を見て、そして武志郎に視線をうつした。


「……同級生。一昨日、話した商店街通りの爆発事故でお父さんと弟さんを亡くした


人」


「まあ!」口を押えた篤子は今度、亜希と香里を交互に見て、そしてやはり驚いてい


る伸宜とともに深くこうべをたれ、哀悼あいとうの意を表した。


「奥さん、頭をあげてください。もう三年も前の話です」


「あの、武志郎君の同級生の鵜飼香里です。初めまして!」しめっぽいムードになっ


ていたので、香里はわざと元気よく声をだした。ところが初めてあう武志郎の両親を


前にした緊張のせいか、思っていたよりも大声になってしまい、平身低頭へいしんていとうした肩の


下で実は赤面していた。


「しっかりとした娘さんね。あなたもおつらかったでしょうに」篤子は香里の肩にそ


っと手をおいた。顔をあげた香里は複雑そうな表情をしてうなずきも、首を横にふる


こともしなかった。


「つらかったに決まってるだろ! あたり前のこというなよ!」武志郎は篤子をにら


みつける。すると亜希が武志郎の肩に手をおいて笑った。


「いい息子さんですね、奥さん」


「奥さまこそ、素敵なお嬢さまでうらやましいですわ。ねぇ、あなた」


「ああ、本当に」以前、この街で保田奈美穂に出あったときもそうであったが、伸宜


という人は初対面の人を前にすると極端に口数がへる。いずれにしても清輪家と鵜飼


家、両家初顔あわせの儀はこうしてつつがなく進行していった。


 まさかの展開に、どうしても言葉すくなになる息子と娘、おしゃべりに花が咲く両


家の母親たち、ひとりニコニコしているだけの父という編成で歩きはじめる一行。通


り道ということで伸宜と篤子も、鵜飼家につきあい花をたむけることにしたのであ


る。


 駅前ビル群をぬけて、石畳風タイルが敷かれた商店街通りに入った。一まつの懐か


しさとともに、さまざまな想いが去来する場所である。この先で偶然、保田奈美穂と


出あった。この先で偶然、紗世に憑依された(らしい)。この先で偶然、香里の母を


助けることができた。そして、この先で香里の父と弟が死んだ。事故現場に近づくに


つれ香里の表情は心なしか色を失くしているようであった。ところが母は強し、篤子


と亜希の口は変らず饒舌じょうぜつでとどまることはない。


「この通りで私、武志郎君に命を救われたんですよ。カッコよかったわ、彼」亜希が


いうと篤子は目をまるくする。


「武志郎! あんた、そんな話したことないじゃない!」


「はいはい」香里に苦笑にがわらいをむける武志郎。香里は小さく微笑ほほえみ、さ・よ・の・


お・か・げ、と彼にのみ聞こえるようささやく。


「それにあんた、今日、香里さんとデートなんだそうね? はなからウチのお墓参


り、くる気なかったってことなのね?」


「…………」


「なんとかいいなさい! あくさかえたためしはないのよ」


「悪かよ?」


「悪じゃないの。ご先祖様をないがしろにして」


「…………」それはそうかも、と考えてしまう武志郎。ご先祖様が生きぬいてくれた


からこそ、今の自分があるのだとようやく最近気がつきはじめたのだ。


「まあまあ、奥さん。なにかごめんなさい」なぜかあやまることになってしまった


亜希。「ウチのせいで。ほら、あんたもあやまりなさい」


「はい、ごめんなさい」素直に頭をさげる香里。あれだけはっきりデートだと宣言し


たのだから仕方がない。


「もう、いいんじゃない? 母さん」たまらず言葉をはさむ伸宜。「これから家族ぐ


るみのおつきあいになるかもしれないし」


「それは早い!」ふたりの母の声が重なり、そしてたがいにたがいを見て吹きだして


しまう。とても墓参りや献花をしにいく人たちには見えないと武志郎は思ったが、本


来お盆は地上にもどってくる死者の霊魂をまつる行事なので、あかるい笑顔でむか


えいれるのが実は正解なのである。こうして武志郎は墓参りのキャンセルと、香里と


のデートの許可を正式にえることができたのであった。


 工事現場だった空地と和菓子屋のあった場所には、三階だてのカラオケチェーンの


ビルが建っていた。そしてその片すみには大きく『不発弾探査済み。安全安心は保証


されました』と書かれた看板と小さな慰霊碑いれいひ建立こんりゅうされていた。そしてその前に、


おそらくはこの時期にのみ置かれているのであろう献花台があり、すでにいくつもの


花束がそなえられていた。亜希と香里を中心に横ならびした一同は花をおくと慰霊碑


に手をあわせる。嗚咽おえつが聞こえた。亜希が、香里が泣いていた。つられたのか篤子


までが涙をうかべている。武志郎は一心に祈った。息子さんを守れなかったことは心


のこりでしょうが、どうか安らかにお眠りください。永治君はもっともっと生きたか


っただろうけど、紗世みたいにさまよいませんようにと。 


「みなさん、おつきあいくださって本当にありがとうございました」ひとしきりし


て、あらためて亜希が清輪家に頭をさげた。「今までここにはこられなかたんです。


こんなところにきて、この子まで亡くしたりしたらと思うと、怖くて……」亜希はま


た涙を落とした。


「お母さん、大丈夫だって。私は」香里は母の背中を軽くさする。


「わかってる、わかってるけど理くつじゃないの!」


「香里さん、いつまでも長いきして、お母さんに孝行しなくちゃね」篤子がいった。


「はい……」


「ついでに武志郎も私に孝行するのよ。うんとね」つけくわえる篤子。


「はいはい」武志郎は小さく小さくうなずいた。


 伸宜と篤子はそのまま菩提寺である『御生寺おんしょうじ』にむかい、亜希は亡くなった


ご主人の実家である長野での法要へとむかった。武志郎と香里は非常に暑かったこと


もあり、涼をとることもかねて、おあつらえむきのカラオケボックスに入ることにし


た。待つようならあきらめるつもりだったけれど、午前のまだ早い時刻であったた


め、ことなきをえた。利用時間は三十分間。それだけあれば十分だろう、香里が紗世


に変身するためには。


「香里、一曲くらい歌ってよ。天使の歌声で」予約リモコンをさしだす武志郎。


「そんな気になれるわけないでしょ? それに三十分しかとってないのよ」


「でも、飲み物くるまでは歌ってないと変じゃね?」


「あ、そうか。じゃ武志郎君、歌ってよ」


「イジメか? ヘタなの知ってるだろ」


「よかったよ、アルプス一万尺」うふふとふくみのある笑みをうかべる香里。


「うるせえ」


 そんな会話をかわしつつ、リモコンの押しつけあいをしているうちに店員が飲み物


を運んできた。武志郎はストローも使わず、さっそくアイスコーヒーでのどをうる


おす。暑さのせいもあったが、久々に紗世を呼びだし、江戸に跳ぶことへの緊張感で


カラカラにかわいていたのだ。香里はクリームソーダをスプーンでツンツンとつつき


ながらいった。


「武志郎君、わかってると思うけどSDだからね」


「わかってる」SDとは寸どめの略。彦五郎を今は助けないことを紗世に気取けどられ


ないためのふたりの隠語いんごである。


「一分間でどこまで時間をさかのぼるのかな? 前にいきすぎなんじゃない?」


「でもギリギリだと、俺、またあわてちゃうからさ」


「なれない?」


「なれるわけないだろ? 普通に日本刀もってるんだぜ」


「そうだ! 『大鹿庵』に入る前だって薩摩の浪士は斬りあいやってるかもしれない


よ」


「マジか!」


「そりゃそうでしょ。幕府側に襲撃うけて逃走中なんだから」


っと怖いことをいうな」


「それをいうなら、っとでしょ? まだまだお勉強が必要ですね、武志郎君」


「はいはい。わかりました、先生。宿題だけじゃダメなんだよね」


「そうよ……少しは落ち着けた?」


「ああ」


「えーとね」香里はかたわらにおいていたリュックからクリアファイルにはさんだ二


枚のコピー用紙と、いつぞやの小型ビデオカメラをテーブルにだした。


「こっちは江戸時代のこのあたりの古地図で、こっちが現在の地図。紗世と外を歩く


ときに使って。それからスマホは熱もつと録画できなくなるからカメラもってきた


の。今度はちゃんと撮っておいてね」


用意周到よういしゅうとうだな」武志郎はまた香里に嘘をつかれていたことを知った。修学旅行


委員で『旅のしおり』の草案を作成したとき、計画を立てるのは苦手だと彼女はいっ


ていた。あのときは彼の学習の準備に追われていたせいだと考えたのだが、違う。彼


女はできたのだ、できたのだがあえて引きたて役にまわってくれたに違いない。情け


なくもありがたい話である。


「あたり前でしょ? 寝てる間におかしなまねされたらたまらないもの。あ、武志郎


君にじゃなくて、紗世にね。必死にもなるわ」メロンソーダにいったん沈めたアイス


クリームをすくってなめ、その冷たさにくーっと顔をしかめる香里。


「あと注意点ある?」


「私の体力とか気にしなくていいから。地図見て、紗世のいきたいところへ連れてい


ってあげて。なにかヒントがつかめるかもしれないから。ループの」


「バカ、香里になにかあったら、お母さんに殺される」──またループか? あれか


ら香里は考えつづけているのだろう。ノーヒントのままで。


「……心配してくれてありがとう。でも、心配してくれるのなら、早く問題を解決し


て」


「わかった」香里のすがるような目に思わず武志郎はうなずくが、問題の解決、それ


は紗世をこの世から完全に消しさることである。ここで壁かけの電話が鳴った。時間


終了十分前の知らせである。


「じゃあ、武志郎君、いって。ってのも変か? 紗世、おいで」香里は武志郎に手を


さしのべる。武志郎はその温かな手の甲にそっと自分の手を重ねた。




 右目の激痛とともに、武志郎からとびだしていった紗世が隣にいた。彼女はいつも


以上に目を輝かせている。筆談はしていたが表にでるのは久しぶりなので嬉しくてた


まらないといったところだろうか。


「今か今かとジリジリしちまったぜ! お、今日は涼しいな、え、おい」


「はしゃぐなよ、外は暑いよ。そのブラ、胸の布、はずそうとか絶対するなよ」制服


のワイシャツに薄くすけるブラジャーを指さしつつ、カメラを作動させる武志郎。


「わかってら。姉御の嫌がるまねは金輪際こんりんざいしねえよ。それよりブシロー」


「うん?」


「こりゃ食い物け?」アイスがほぼとけてしまっているクリームソーダに好奇心むき


だしの紗世は、ストロ─でグラスをかきまぜている。「おお、きれいな色だな。抹茶


かなにかか?」


「飲んでみな、甘いから」時間がない、紗世がソーダを片づけたら店をでようと武志


郎が思ったやさき、ストローを使わずに直接口をつけて飲みだした彼女がブッと吹き


だした。


「冷て! なんでぇ、こりゃあ! 氷水か! へぇえー」まじまじとグラスを見つめ


る紗世。


「ああー」武志郎は悲鳴ともため息ともつかない声をあげてしまう。香里のシャツの


胸元に緑色の染みができていた。「ティッシュ、ティッシュ、紗世、早くふけ! 香


里、怒るぞ」


「こりゃ、いけねえ!」ドタバタとしているとまた電話が鳴った。カラオケルーム利


用時間が終了したのだ。


 超過料金を取られることはなかったが、そそくさと逃げるようにして外にでたふた


りは、あらためて今でてきた三階だてのビルを見あげた。


「ここにわっちの骨が埋まってたのかい」しみじみと紗世はいった。死んで地縛霊と


なったあと真っ黒い闇に閉ざされつづけていた彼女は、『大鹿庵』のあった場所を直


接見るのは初めてのことであった。


「ずいぶんと変わっちまったなあ……」


「だろうな」


「夏に氷が食えるんだもんな。そりゃ、変るわ。おったまげだぜ」


「そうかい」江戸の庶民しょみんは、夏に氷を食する機会など皆無だったのだろう。


「となると、わっちはここで焼けて墓にも入れてもらえなかったんだな。悲しいね


ぇ」


「あの感じだと店ごと全焼したっぽい。砕けたかなんかして骨の一部だけが残ったん


じゃないか? いくらなんでも遺体をほったらかしにはしないだろ」


「わかんねぇさ。焼け跡を片付ける人足にんそくがずぼらな野郎ならそのまんま埋めちまう


だろうよ。奉公人なんざ犬っころみてえなもんだからな」


「『鉄火小町』でもか?」


「へへへ、焼けちまえば器量も気性もありゃしねぇよ。旦那さんや坊っちゃんが化け


てでねぇのは墓に入れてもらえたからじゃねぇのかい?」


「どうだろう?」長い歴史の中で、非業ひごうの死をとげた人は大勢いるに違いない。そ


うした者がみな、化けてでてきたら世界人口よりも幽霊の方が多くなりそうだ。


「まあ、いいやな。そこのいしぶみにわっちも乗っけてもらうかな」紗世は不発弾被害者


の慰霊碑に手をあわせる。「こりゃあ姉御のおとっつあんと弟の墓なのかい?」


「墓とは違うけど。なんていうか、ここで死んだ人の魂をしずめる祈りの記念碑か


な?」


「そうけ、おとっつあんら、成仏してりゃいいがな……人さまのこたぁいえた義理じ


ゃねぇがよ」紗世は自嘲じちょう気味に笑った。


 香里の用意してくれた古地図を見せて、紗世にいきたいところがないかと聞くと江


戸薩摩藩邸跡を見たがった。以前調べたところでは大きな会社の外部植えこみの中


に、やはり小さな石碑があるだけだったはずである。それでもいいからと紗世はいい


はった。


「へえ、江戸時代よりずいぶんと埋立地がふえたんだな」片手がカメラでふさがって


いるため、紗世に持たせている古地図と現在の地図を見くらべてつぶやく武志郎。


「あのでけえ建物のへんらしいな、芋屋敷いもやしきは」紗世はもう今の地図を読めているよ


うだ。


「芋屋敷ね」でけえ建物の企業に怒られそうなネーミングである。石碑を見て、さら


に車道をはさんで歩道を少し歩くと、ビルとビルの間で開放されている広場に入る。


美しく整備されたビジネス街のいこいの場といった風情の空間に、屏風びょうぶのように


ならんでいる十一の石柱が見える。どうやら案内板らしい。「芝さつまの道っていう


んだと。こっちが屋敷の中心だったみたいだぜ」コピーの地図に香里が赤字で書きこ


みをしておいてくれたから知りえた情報である。


「はん、芋の道かい。江戸の町につける名じゃねぇな、田舎いなかくせえや。それにした


って屋敷の跡はなんにもねぇんだなぁ」たいくつそうに伸びをする紗世。


「だからそういったろ。だいたい焼き討ちされてるんだし」


「ま、そりゃそうだ。おうブシロー、わっち、ここもいきてぇんだけどよ」薩摩屋敷


跡にあきたらしい紗世は、古地図の方の一点を指でたたくようにしめした。どうやら


立ちならんだ寺の中の一件らしい。「わっちの兄貴分が眠ってる寺なんだ」


「へえ、だけどどうだろね? このあたりは空襲でほとんど焼けたみたいだから。


あ? 『御生寺』? マジか?」


「空襲たあなんだか知らねぇが、どうなんでぇ? お寺さん、焼けちまったのか?」


「焼けてない。アメリカの焼夷弾、じゃなくて、えーとメリケンの砲撃もよけて通っ


た奇跡の寺らしいから」母方の祖父の長谷貝林太郎からさんざんそう聞かされてい


る。武志郎はスマホで時刻を確認した。まあ、今からいけば父母や祖父母、親戚たち


遭遇そうぐうすることはないだろう。そろそろ食事会にむかっているころだ。


「そうけえ。あるか、『御生寺』!」嬉しそうに笑う紗世。より道に時間をかけると


香里の体力が心配になるが、ここは連れていってやるべきだろう。武志郎は紗世の兄


貴分という男も少し気になった。


「じゃあ、紗世、ちゃっちゃといくか」


 結局、元いた商店街通りにもどることになり、武志郎と紗世はカラオケボックスを


通過、三年前、保田奈美穂とバッタリでくわしたコンビニの前にさしかかった。


「え?」──デジャブ? 武志郎の心臓があの日同ようにはねあがった。手にエコバ


ッグをさげ、おとなびた印象の保田奈美穂がこちらにむかって歩いてくるのだ。武志


郎の知らない年上の男ともう一方の手をつなぎながら。楽しそうに笑う彼女は武志郎


の存在に気づくことなく通りすぎていった。


「おう、どうしたぃ?」不意に足をとめた武志郎を不審げに見る紗世。「今の女、見


たことあんな……」


「なんでもない、気にすんな紗世」あのとき、中二の夏、保田奈美穂はカップのアイ


スをふたつだけ買いにコンビニにきていた。おそらく、つまり、今の彼氏と食べるた


めだったのだ。彼の家はこのあたりにあるのだろう。実はあのころからつきあってい


たんだな……。いまさら未練があるわけでもないが、武志郎はなんだか全身の力がぬ


けてしまったように感じた。中一の夏から昨年の夏までの三年間、空まわりしつづけ


ていたのだ。ひとり相撲ずもうもいいところだった。それがたまらなかったのだ。


「ブシロー?」


「ああ、ごめん、ごめん」武志郎は顔をあげた。そしてかつて好きだったひと


しあわせそうに笑っていてくれてよかった、そう思った。強がりもいくぶん、まざり


こんではいたのであるが。


 ところで歩きながらも気になるのは紗世の胸元についたクリームソーダの染みであ


った。当の本人は平気なようであったが、白地のシャツに合成着色料のメロン色はけ


っこう、恥ずかしい。武志郎は仕方なく手近な洋品店にかけこみ、スカーフを買うこ


とにした。もちろん一番安い品物の中から、色は紗世に選ばせた。ついでにビデオカ


メラを胸にさげられるよう自分用のストラップも購入。この夏は出費がかさむ、また


しても男はつらいよである。紗世は赤に黄の模様が入ったスカーフを選択し、武志郎


が首に巻いてやると染みがうまい具合にかくれた。くるくるとまわって子供のように


喜び、赤いスカーフをひるがえす紗世を武志郎はいとおしく見る。保田奈美穂の残像


が一気に消えさってしまうほどに。


「ブシロー、似あうけ?」


「おう、似あうぞ、紗世」


宗介そうすけ兄いもほめてくれっかなぁ」


「宗介? 誰?」


「わっちの兄貴分の名だよ」はねるように、はずむように商店街通りを闊歩かっぽしてい


る、紗世。


「ふうん……」武志郎はどうしてだか、初めて聞く男の名前に動ようしていた。


 寺の門をくぐり、本堂を横目に見て墓所にむかかった武志郎は落ち着きなく周囲に


目をくばり、家族とのまさかのはちあわせに備える。見た目は香里、中身はガラッパ


チ。紗世と会わせるわけには絶対にいかない。母の家の墓石のあたりに目を凝らす。


もしいたら、いったん逃げるしかない。どうやら取りこし苦労だったようであるが、


まだまだ気はぬけない。お盆期間中なのでお墓のそうじや敷地内の雑草をぬいている


人がけっこういる。いききもそれなりにある。この中に長谷貝家ご一行様がいないと


もかぎらないのだ。


「なーに、きょときょとしてやがんでぇ?」


「今日、ウチの家族もきてるんだよ。もう帰ったとは思うけど」


「そうけ、わっちもあいさつしてぇなぁ。おめぇのふた親によ」


「バカいうな。さっき会ったばっかの香里との違いに腰ぬかすだろ」


「あら、ひどいこというのね? 武志郎君」


「は? え?」


「私、どこかそんなにおかしい?」


「香里? なんで!?」いつの間に? どのタイミングで? 武志郎こそ腰がぬけそ


うになった。あわてふためく彼を見て香里はあははと高笑い。


「どうでぇ? 見わけつかねえだろ? やろうと思やぁ、わっちだってこんくらいの


芸当、朝めし前なんでぇ。なんてな、姉御のまねは近ごろ鍛錬たんれんしてたんだ」


おどかすな! また、なにか違う心霊現象がおきたのかと思ったじゃないか!」


なんの鍛錬してやがる? 武志郎は舌うちした。


「まあ、そんなこったから親に会っても心配しんぺぇすんなよ、ブシロー」


「ったく! で? どこなんだ? 宗介さんの墓は」


「知らねぇ」


「はぁ?」


「こん中のどれかだよ」


「どういうこと?」


「お武家さんの葬式によ、わっちみたいな貧乏わっぱ、いくこたぁできねぇじゃねぇ


か。遠くから見てただけだからよ」


「お武家さんだったのか、宗介さん」


「おう。でもよ、おさねえ時分からわっちのこと痛く可愛かわいがってくれてな。ひと


つ年が上なだけだったのに、ずいぶんと甘えたもんだ。本当にあんちゃんみてぇだと


思ってよ」


「ひとつ上か……」今の武志郎と同い年である。「なんで死んだの?」


「往来で酔っ払いの侍に因縁いんねんつけられてなぐるけるされてよ、たまらず刀をぬい


ちまったんだそうだ。そいで脅すつもりがあやまって斬りつけちまったんだそうだ


が、その相手が悪かった、親戚すじにお大名がいたのよ。へへ、それで宗介兄いは切


腹よ。打ち首になる前に自分で腹、かっさばいたんだ。おかげでお家の断絶はまぬが


れたみてぇだがな」


「切腹……十六で? 相手は死んだのか?」


「いや、そのあともピンピンして飲み歩いてたぜ。なんのおとがめもなくな」


「そんな無茶な……相手になぐるけるされたんだろ? 正当防衛だろ! 江戸時代っ


てケンカ両成敗りょうせいばいだったんじゃねぇの?」


「相手が悪かったといったろ? 口惜くちおしいがな」


「そんなバカな」


「そんなバカがまかり通っていたんだよ。わっちにゃなんもできねぇ」


「つらい話だな」現代でだってありそうな話である。


「ああ、もっとつれぇ話はよ、宗介兄いが死んだあと人づてに聞いたんだが、野郎、


わっちのかんざしを買うために走ってて相手の肩にぶつかっちまったんだそうだ」


「それで因縁を……」


「わっちぁ、たまらなかったよ。宗介兄い、バカな男さ、町人のわっちたぁどうせ


夫婦めおとになんざなれねぇってのによ」


「…………」なにかいってやりたいが、どうにも言葉にならない。それに予想はして


いたことであるが、夫婦という単語に武志郎はじゃっかん狼狽ろうばいしていた。兄貴分


なんかじゃない、宗介は紗世の身分違いの想い人だった。江戸時代では十五は結婚適


齢期。それはいただろう、好きな人くらい……。


「まあ、そんなこんなでよ、わっち、どこの墓かは知らねぇが、この寺にきちゃあ手


をあわせてたんだ。ときおり、使いの帰りなんかによ。で、申しわけねぇんだが、ど


っかで彦五郎ぼっちゃんを兄いの代わりにしていたのかもしんねぇ……」そして紗世


合掌がっしょうした。墓所すべてにむけて祈りをささげているようであった。武志郎も手を


あわせて、今度は同い年で死んだ宗介のために心の中で祈った。どうかあの世ではし


あわせでいてくださいと。そして、必ず紗世を成仏させますから彦五郎と一緒に待っ


ていてくださいと。自身が一瞬でもいだいてしまった嫉妬のようなもの、あってはな


らないよこしまな心をはらうかのように。


「紗世……」


「あん?」顔をあげた紗世のまぶたはかすかに濡れている。


「成仏しても魂が消えてなくなることはないと思うよ。あの世にいけば宗介さんにも


会えるだろ? 怖がることないさ」


「そうかもな。ありがとよ、ブシロー」


「おう。そろそろいくか? 今度こそ成仏させてやる」


「おっ、てめぇ、めずらしくたのもしいじゃねーの」紗世にこういわれて笑う武志郎


は、香里との約束、SD(すんどめ)がすっかり頭からぬけおちていた。


いっときの感傷に流され、我を忘れていたのかもしれない。


 本堂わきにおかれていたベンチに腰をおろしたふたりは、おそらくこれが最後にな


るであろう江戸時代へのタイムトリップにいどもうとしていた。


「で? どうするんでぇ、ブシロー」


「前は三十秒、紗世にふれた。これを一分にすればかなり前、薩摩の浪士が『大鹿


庵』に押しこむ前に跳べるはずだ」


「おめぇ、それで帰ってこれんのか?」


「あ──そうだな、そこらをウロウロしてたら山賀乙様が斬り殺してくれるだろ」そ


れはそれで怖い話だが、これまでの経験則では死ななければ現在にもどってこられな


い。死ぬのを先おくりにして銭湯の混浴を一度、体験してみたい気持ちもあるが、あ


の浪士、彼もあの場所、あの時刻に死ぬべき人物に違いない。


「なるほどな。だがよ、乙様に精一杯、あらがえよ、ブシロー。わっち、おめぇがた


だ斬られるのなんざもう見たくねぇぜ」


「わかった」いちおう元剣道部だし、母方の祖先は武家なのである。ただ斬られるの


は確かに屈辱的だ。山賀乙に一矢いっしむくいたいと武志郎は思った。運動神経音痴であ


るから勝ち目はむろんないのだけれど。


「じゃあ、たのむぜ、ブシロー」紗世は武志郎の手をとり、自身の胸へといざなっ


た。


「え?」ぎょうてんする武志郎。


「これが最後なんだろ? おめぇがもどってきたとき、わっちはこの世にいねぇ。姉


御には悪いがよ、わっちの心の臓がドクドク動いてんの、おめぇに忘れてほしくねぇ


んだ」


「──忘れるわけ、ねぇだろが!?」


「おう。わっちも忘れねぇぜ。ブシロー、おめぇをよ」


 首に赤いスカーフを巻きつけた、ちょっと太めの制服女子高生、その胸に手をお


く、やはり制服姿の男子高生。この一見ヤバい絵面えづらが一分間つづいた。


 そして武志郎は跳んだ。ラストサムライの時代へと! 


                             (つづく)

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