第二章 夏の亡者 12

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 八月も中旬となり、盆休みに入るころには武志郎の夏休みの宿題はほぼおわりに近


づいていた。律子がこられなければ勇人が、勇人が遊びにいけば蓮美か孝雄が、毎日


毎日、誰かしらが香里の家での学習会につきあってくれた。いいのか悪いのか、武志


郎が香里とふたりきりになることはなかった。あるときなど近隣の奥さんがみなさん


でどうぞ、とスイカのさし入れにきてくれたりもした。


「様子をさぐりにきたのかもしれない」などと勇人はかんぐっていたが、「それもある


かもしれないけど、それだけのためにこんな立派りっぱなスイカはくれないよ」


という律子の言葉で一同は納得し、おいしくいただいた。


 みなの予定をくるわせているからと、香里が遠慮して翌日から、お盆以降の勉強会


はいったん中止と決まった日の帰り、玄関先で香里が武志郎のシャツのすそをそっと


つまんだ。


「紗世、どうしてる?」


「うん、たまにチャットしてる。元気だよ」幽霊が元気というのもおかしな話である


が、五十音と少しは漢字もおぼえた最近の紗世は多弁で、武志郎の手首と脳が疲れは


てるまで寝かせてくれない日もある。こうしたことは香里にもメールでつたえてあっ


た。


「そう……」


「なに?」


「こうして武志郎君にさわっても現れないんだね、紗世」


「姉御の許可なしじゃでてこれない。本人がそういってるよ」


「なんかいや」


「なにが?」うつむいた香里の顔をのぞきこむ武志郎を呼ぶ声がした。


「おーい、ブシロー、帰るぞ」今日、きていたのは部活が休みだった孝雄と律子であ


る。一度外にでていたふたりは、玄関ドアを開けて入ってくるなり張りつめたような


緊張感にピクリと反応した。


「なんかあった?」声をひそめ気味にして律子がたずねる。


「なにも。武志郎君、明日からは勉強しない!なんていうから説教してたの」香里が


あかるい声でこたえる。


「まあ宿題は終わったようなもんだし、いいんじゃね?」孝雄は笑い、そして肩を落


とした。「俺なんか盆開けたら地獄の合宿だよ、勉強どこじゃねぇもん」


「ご愁傷様しゅうしょうさま」おがむように手をあわせる武志郎。その頭をパチンとたたく孝雄。


「てか、お前がいうな、裏切者!」


「てか、まだいうか」


「てか、一生、のろってやる」


「てか、一生、いわってくれ」


「はい、てかてかいってないで帰るよ! じゃあね香里」律子は孝雄と武志郎の腕を


ぐいぐい引いて半開きだったドアの外にでる。「ったく、人んちの玄関先でなにやっ


てんのよ! てかてかてかてかと!」


「ありがと、りっちゃん、大倉君。武志郎君、あとでメールする」


「おう」武志郎はスニーカーにかかとを突っこみつつ、小さく手をふる香里に手をあ


げた。なにが気に入らないのかは、今夜のメールで判明するだろう。




「夏なのに百人一首大会でもあるのか?」いつもの晩酌ばんしゃく、缶ビールを飲みながら


伸宜がいった。武志郎はカレーライスを食べる手をとめる。


「百人一首? なんのこと?」


「夜中、あんたの部屋からいろは歌が何度も聞こえてきたからよ」カレーのジャガイ


モで口の中をはふはふさせつつ篤子がこたえた。


「ああ」聞かれていたようだ。あのときは子供に字を教えるような口調であった。か


なり恥ずかしいことである。「あれは、その、夏休みの宿題で、暗記してたんだよ」


「宿題か。今年は終りそうか?」伸宜の言葉尻にはどこか達観たっかんしたような、あきら


めのようなニュアンスがふくまれている。昨年の夏休みの宿題の進行ぐあいが強い印


象を残しているのに違いない。


「もうほとんど終わった」


「本当か!?」気管にビールが入りそうになる伸宜。


「最近、毎日どこかに出かけてるけど、本当に勉強会だったの?」篤子も意外そうで


ある。


「制服着て遊びにいくバカがいる?」


「そうか……やっと、やる気になったか。長かったな……トンネル」


「なに、トンネルって? しみじみいうのやめてよ、父さん」それにまだトンネルは


抜けていない。


「いやいうだろ、いわせろよ。今の高校に入れたこと、父さん、けっこう後悔してた


んだぞ。きっかけはなんだ? 彼女でもできたか?」


「そうねぇ、この間も夜おそくまでまで電話してたし。あれ女の子でしょ?」


「なんでも聞いてるな」律子との電話だろう。この家にはプライバシーがないらし


い。


「いやぁねえ、人ぎき悪いこといわないでよ」


「彼女ができたならできたでコソコソするな。ちゃんと紹介しろよ」


「いや、できてねぇから。勉強会の相談してただけだよ! それで宿題、みんなでや


ってた。問題ある?」いいかげん、親の相手がめんどうになってくる。


「ないけど、そんないい方しなくてもいいんじゃない?」篤子は子供のように口をと


がらせる。武志郎はひよこの形をした饅頭まんじゅうを思いうかべ、吹きだしそうになった。


「なによ? なに、笑ってるのよ」


「いや、ごめん、母さん」どうしてこう、うちは平和なのだろう? だからおとなに


なれないのだろうか?


「まったくこの子は……でも、そう? 宿題もおわったんなら今年はお墓参りにいけ


るわね」


「はあ?」


「そうだ。去年は宿題がおわらないって、お前サボったもんな!」その前の年は受験


を理由に武志郎は盆の墓参りにいかなかった。篤子の親族たちにひとりで対応させら


れることに、伸宜が辟易へきえきしていることを武志郎も知っている。実は申しわけないと


は思っていたのだが、今年の夏こそ、それどころではないのである。いまだトンネル


のどまん中にいるのである。


「去年は部活もあって……あ、田町か!」紗世が、香里の父が、弟が亡くなった街。


「なによ、いまさら。田町よ、決まってるじゃない」


「…………」しばし、スプーンの柄でひたいをコツコツたたき、考えこむ武志郎。


「やめなさい、行儀ぎょうぎの悪い」篤子が武志郎の腕を引っぱるとスプーンがはねとん


だ。「もう!」


「ああ、ごめん」スプーンをひろいながら武志郎は思った。紗世を自分の街に連れて


いってやりたいと。「今年はいついくの?」


「明後日だよ、いくよな? 武志郎」どこかすがるような伸宜の目。そんな父にたま


には孝行してやりたくもある。去年までは思いもよらなかったことだ。やはり、とう


とつに家族を奪われた香里の影響があるのかもしれない。


「父さん、あのさ……三年前に爆発あったよね?」


「また、その話か? まさか、お前、あれがトラウマに──」


「なってねぇから。実はあの爆発で家族を亡くした人がクラスにいてさ」


「え?」顔色が変わる伸宜と篤子。


「明後日、その人と花をそなえにいく予定なんだ」これから入れるつもりの予定であ


るが、香里もいきたがっていたし、おそらくは予定どおりにいくだろう。


「それはまた……」


「だから、そっちをすませてから合流するよ。それじゃダメ? 父さん」


「うん……」夫婦は目と目をあわせる。


「亡くなったご家族って、親御さん?」篤子は沈痛のおももちであった。あの場にい


たのだから無理もない。とても他人事ひとごととは思えないのだろう。


「お父さんと弟さんだって」


「まあ……お母さんは?」


「うん、お母さんは元気」


「武志郎、わかった。いってきなさい。ま、こっちは、こられたらでいいから」


「ありがとう、父さん」


 嘘をいったわけではないが食卓の空気を妙に重苦しくしてしまったし、とにかく香


里との約束を取りつけなくてはならない。そういえばメールするといっていたが、ま


だきていない。帰りぎわ、不機嫌だった理由も気になってきた。武志郎が電話をする


かメールするかを考えているとスマホが鳴動した。香里からのメールだった。


「なんだ、これ? 文字ばけ?」画面にうつるメールの文面に、武志郎はまゆをひそめ


ざるおえなかった。



『武志郎君。婚名古都死手御免名才。出藻、紗世我平仮名尾嫁瑠野奈良、私、小宇背


図二葉苛例真瀬ン。私野MAIL誰火二見羅例瑠野嫌駄空。祖例二武志郎君藻紗世


藻、居間野間間出満足死手意瑠未鯛名野藻嫌出酢。他戸絵場子野先、武志郎君戸私、


藻津戸親密二名瑠事我阿津多戸氏手、祖野時、貴方葉、奴血羅尾抱苦野? 私? 祖


例友紗世? 婚名野津図家拓名井。早苦尾張二死体。 


                全部あて字。頭の中で読んでください。 香里』



「あて字……」武志郎は必死で脳内変換をおこなう。すると次のようになった。



『武志郎君。こんなことしてごめんなさい。でも、紗世が平仮名を読めるのなら、


私、こうせずにはいられません。私のメール誰かに見られるのいやだから。それに武


志郎君も紗世も、今のままで満足しているみたいなのもいやです。たとえばこの先、


武志郎君と私、もっと親密になったとして、そのとき、あなたは、どちらを抱くの? 


私? それとも紗世? こんなのつづけたくない。早くおわりにしたい』



「…………」武志郎は絶句した。こんな暗号じみた文だから書けたのかもしれない


が、香里が抱くという言葉を入れてきたことにも軽くショックを受けていた。彼女を


抱く、妄想したことは正直あった、しかし具体的に考えたことはなかった。その勇気


も覚悟もない。香里もおそらくはそうだろう。だが、彼女は未来、将来を見すえてい


る。本当に誰に対しても劣等感をいだいてしまう。誰からもお子様だといわれている


ような気持ちになってしまう。そして紗世のこと。確かに自動書記で会話ができるよ


うになって、以前にもまして気やすい関係になった。今のままで満足しているわけで


はないが、楽しんでいたことは否定できない。香里のいうとおり、こんなのいつまで


もつづけてはいられない。早くおわりにしなければならない……。


 武志郎はノートを開くと紗世の名を呼んだ。すると、ピクリと右腕がこたえる。ま


るで可愛かわいがっているペットがはしゃぎながらよってくる感覚。これも間違っている、


紗世は……人だ。


『どうかしたのかい げんきねえな』紗世がノートに書いた。


「紗世、今度、田町、三田にいく。香里もさそってさ。どう思う?」小声でささやく


武志郎。この家にはプライバシーがないのだ。


『いいな わっちもだしてもらえるのか』紗世も少し漢字を書けるようになった。小


さな〝つ〟もおぼえた。かしこい娘である。


「ああ、もちろんだ」


『ありがてえ あねごにれいをたのむぜ』


「わかった。ところで紗世、早く成仏じょうぶつしたいか?」武志郎が問いかけたが、めずら


しく紗世の返事はおそかった。そのうちペンを持った手が動きだすが、迷いばしでもし


ているかのようになかなか書きださない。「どうした、紗世?」


『じょう仏するときえちまうんだろ そいつはちっとこええな』


「怖いか? そうだよな。でも彦五郎を助けないとな」心にもないことをいってみ


る。まだ助けるわけにはいかない。寸どめにとどめなければならない。


『おうとも ぼっちゃんはたすけてえ』


「そうだな。ああ──紗世、お前、目をつむることはできるか?」


『なんのこった』


「香里が、その、メール、ふみを紗世に見られるの恥ずかしいんだって。わかるだろ? 


その気持ち」


『わかる』


「だから、俺が香里に文を書いたり、読んだりするとき目をつむっていてくれない


か?」


『わかった げんまんだ』


「げんまん? ああ、指きりか。紗世、ありがとな」


『わっちはひとねむりするぜ あねごとめえるがおわったらまたよんでくれ』


「めえる。はは、紗世、メールおぼえたのか? えらいな」武志郎の言葉に返事はな


かった。肉体を持たない幽霊に睡魔がおとずれるとは思えない。紗世は目や耳をふさ


ぎ、じっと身をちぢこませるようにして〝げんまん〟を守ってくれているのだろう


か。それともえらいとほめられて照れているのだろうか。


「じゃあ、めえる書くか」武志郎はスマホにむかいつつ胸の中で、うい奴よのぅ、


とまるで悪代官のようにつぶやいている自分に気づき、苦笑してしまった。


しかしこれは武志郎の間違いである。悪代官は、お主もワルよのぅ、が正しい。



『香里へ。まずは報告。紗世にメールは見ないようにたのんだ。紗世も読まないと約


束してくれたから安心してください。それから、確かに香里のいうとおり、このまま


じゃいけない気がする。そのためにも俺たちふたりで会う機会を作らなければと思


う。明後日だけど、香里のお父さんと弟さんの命日だよね? どうだろう? 前に話


したように田町にいかないか? 花をそなえに。返事ください、待ってます。あ、お


願いだから普通に送って! 武志郎』



 じりじりとして待っていると、七分後、香里からの返信がとどいた。



『武志郎君。さっきは変なメールしてごめんなさい。なんていえばいいかな、また変


なこと書くけど、あれだけ傍若無人ぼうじゃくぶじんだった紗世がなんだかいい子になりはじめてる


……私、それが怖くなったの。今の言葉や文字もおぼえたら、だんだん幽霊だなんて


思えなくなっていきそうで……私じゃなくて、いつも一緒にいる武志郎君が』



「…………」ここまで読んで武志郎は言葉を失っていた。すでに片足つっこんでない


か? そう思った。



『考えすぎ、妄想、ジェラシーだと笑いとばしてくれたら嬉しいです。そうなのかも


しれないし。ただ、これだけは忘れないで。本来、紗世は私たちと交わってはいけな


い人なの。もし生きていたら百六十歳以上の人なんだからね。これ以上書くと自己嫌


悪におちいりそうなのでこれでやめときます。このままじゃいけないって武志郎君の


言葉を私、信じてますから。田町いきの件ですが、明日、母と相談しますね。去年、


三回忌はすませましたが、今年も母とお墓参りにいく予定でしたから。菩提寺ぼだいじ


ちょっと遠くて長野にあるんです。ごめんね、明日、またメールします。 香里』



「生きてたら百六十すぎか」確かに紗世は、十六の武志郎には交流できるはずのない


年齢である。それはそれとしてうかつであった。お盆で、しかも命日なら墓参りに普


通はいくだろう。そのことが頭からすっぽりと抜けおちていた。父と弟が亡くなっ


て、まだたった三年なのだ。「あれ?」三回忌は亡くなって三年目にやる法要だと思


っていた武志郎はスマホで調べてみる。どうやら亡くなった日を一回忌と数えるらし


い。生まれた年を一歳と数える江戸時代の考え方に近いのかもしれない。武志郎はま


た少しヘコんでしまう。あまりにも一般常識を知らなすぎると。しかしそうなると


父、伸宜を喜ばせることはできそうだ。今年はあきらめて母の家の御先祖様を参りに


いくことにしよう。むろん、明日、香里のメールを待ったうえでだが。


 夏休み終了まであと半月である、武志郎は自分に問うてみる。俺は本当に紗世を成


仏させたいのだろうかと。彼はこたえをだせなかった。


 翌日の昼ごろ、香里からメールではなく電話がきた。母親から田町いきの許可がお


りたのだそうだ。お墓参りはお母さんにまかせて、あんたはお父さんたちが亡くなっ


た場所に花をたむけてらっしゃい、そういってくれたのだという。彼女の声ははずん


でいた。これでようやくふたりきりで会える、紗世を成仏させるための第一歩をふみ


だせると。武志郎も香里に同意してスマホを片手にうなずいたけれど、どこかわりき


れない思いもあった。ただ、このままではいけない、それも厳然げんぜんたる事実である。


明日、彼女のいう第一歩をふみだす覚悟を武志郎はかためた。紗世もこのままでいい


はずがない。


                                 (つづく)

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