第二章 夏の亡者 9
9
翌日、武志郎と香里はF県からの乗りつぎで都合のいい京成上野駅に出て、午前十一
時すぎに
もりとしげっているものの、しゃへい物がほとんどないため直射日光が息苦しくまぶ
しい。ゆるやかな階段をあっていくと広大な高台が広がり、樹木の葉のかげから本日
の目あてである西郷隆盛像が見えかくれしている。遠目に見ても銅像の前は写真撮影
などを楽しむ人々でにぎわっている様子がうかがえた。
「くそ暑いのに、なんで人が多いんだ?」汗をぬぐい、何度でもわき上がってくるあ
くびをかみ殺しながら武志郎がつぶやく。
「夏休みだもん。それに、美術館はあるし、動物園もあるし、ボートにも乗れるし。
なにより上野東照宮や清水観音堂、旧寛永寺五重塔とかもあるし。西郷さんだけじゃ
なくて
香里の目がランとかがやいた。
「よく知ってるね。ここ香里の好きそうな所なんだね」歴女的に。
「紗世は
「彰義隊? なんだっけ、それ」最近、なにかで読んだか、聞いたような気がする。
「ここ上野で、薩長の官軍に最後まで抵抗した幕府軍よ。『
てきたでしょ?」
「ああ、そうだった。上野戦争ね。幕府側の死体は野ざらしだったんだろ? 墓なん
てあるの?」西郷の像と同じ公園内にあるのならば皮肉な話だと武志郎は思う。官軍
も賊軍も同じ場所で拝観できること、それが今、平和であることの
ないけれど。
「うん、明治新政府の手前、彰義隊の墓とは書かれてないけど。でも
で戦死之墓って
「歩くガイドブックか。あれ? 山岡鉄舟って誰だっけ? あ、くわしくはいいか
ら」
「新徴組の人よ。武志郎君をバッサリやる山賀乙様のいた」
「へぇー! そことつながるんだ!」紗世のいた時代と現在が地つづきであると、武
志郎はつくづく実感した。バッサリはよけいだが。
「ね? 歴史、おもしろいでしょ?」酷烈な熱射にさらされたせいで、少し赤味がさ
す
は思った。
柵にかこまれた西郷隆盛像を見あげるふたり。さてどうする? 紗世に犬を連れた
西郷を見せてやるのはいい、問題はその先である。江戸に
う。紗世は紗世で武志郎を通して過去を見ているため、異常なほど集中するようだ。
図書館のときは、ひとりが机につっぷしていねむりをしていて、ひとりは勉強に熱中
しているように見えたかもしれない。しかしここではどう見えるだろうか? 武志郎
は暑さにやられ熱中症で倒れた男。そしてその脇で眉間にたてじわをよせる女。異様
な光景ではないだろうか? ベンチにかけてなごんでいる恋人同士にはとても見えな
いだろう。
「どうしたの? 武志郎君」
「江戸に
「ああ、ビデオ見たかぎりだとやめておいた方がいいかも。人前じゃなるべく」
「だよな。紗世、今日は楽しみにしてると思うんだけど……」
「助けちゃうの? 彦五郎君」香里は不安げな目を石畳に落とす。
「だよね……」昨日より前の時間に跳べば彦五郎、紗世だけでなく旦那さんや奥さん
まで一家まるっと助けられるだろう。武志郎にしても人を斬らずにすむのであればそ
うしたいし、可能ならば間違いなくそうする。山賀乙に斬られるよりも斬る方が怖い
のである。夢にまででてくるのだ、あの
「彼を助けて、それで……歴史の教科書が変わるくらいですめばいいけど」
「ねぇ」そこである。デート気分が一変し、高校生カップルは暗い暗いどんづまりの
路地へと引きもどされてしまう。昨晩、それぞれが眠れずに解決策を
たけれど、ヒントすら見つけられなかったふたりは、しばし西郷像の前に立ちつくし
ていたが、明治維新の英雄は、あたり前だがなにもこたえてはくれない。
「少し早いけど先にお昼をすませない? 食べながらどうするか、もう一度考えてみ
ようよ」香里は変らぬ笑顔を見せるが、少し無理をしているようである。猛暑の上、
睡眠不足なのだからやむをえないことだろう。ただ、食欲があるという点では彼女の
方が武志郎よりも一枚うわてであった。
「昼ねぇ、冷やソーメンくらいしか……あ、そうだ!」両手をパチンとあわせる武志
郎。
「なに?」
「ちょっと耳、かして」武志郎は香里にふれないよう気をつかいながら、彼女の耳元
でコソコソと内緒話をした。「どうかな? 少なくとも今日は乗りきれる。一時しの
ぎなんだけどさ」
「オーケー。せっかく上野にきたんだから、西郷さんには会わせてあげたいしね」
「助かる。いつも悪いな」
「ふたりの問題でしょ? あ、ビデオカメラ忘れた!」
「スマホでいいだろ?」武志郎は録画ボタンを押し、ポロシャツの胸ポケットにスマ
ホをつっこむ。普通ならばバレバレの盗撮だが、紗世には気づかれないだろう。
「じゃ、よいランチを」西郷像を見あげつつ、香里が脇に手をのばす。うなずいた武
志郎はその手をギュッと握りしめた。
「なにコソコソしてやがった? あ? ブシロー」でてくるなり武志郎の握る手をふ
りはらう紗世。あい変わらずの激痛に腰をかがめ、右目を押さえた武志郎は片手で頭
上を指さす。
「紗世、ほら、西郷、西郷」
「お、おう! そうけ。わざわざありがとよ。香里にも礼をたのまぁ」紗世は白いロ
ングスカートのすそを両手でパタパタさせて熱をにがしつつ、目つきだけは鋭くいど
むように西郷隆盛の像を見あげた。「こいつかい? この野郎が……ぼっちゃん
を……」
「さ、紗世! 落ち着け、柵をこすんじゃないぞ!」
「わぁってら! 香里の顔ででたらめはしねぇよ。ふん、
「まあね」土台だけで三メートルはありそうだから見おろされても仕方ない。それに
武志郎は、西郷が見ているのは、はるかかなたの空か、上野の街なみのような気がし
た。
「だがよ、こんな立派な造り物なのに、こいつぁ、なんで着流し姿なんだ?」
「それ、調べた。実はこんな
はずだったんだけど、ときの政府が
「軍服ったあ、どんな物だい?」
「うん、そうだな。冬に俺が着てる学ラン、学問所の制服わかるか?」
「おう、カラスみてぇに黒いのな」
「まあ、あんなヤツだ」学生服のルーツは明治時代の軍服なのかもしれない。武志郎
はまた、連綿とつながる紗世の時代と現在について、思いを
った。
「しかしなんだな。やはりこいつは英雄じゃねぇんだな?」
「江戸時代をおわらせたあと作った新しい政府に、西郷は反逆したからね」
「こいつらが作ったんだろ? 新しい仕組み。そいつがなんでまた
んだ?」
「侍がなくなることをいやがった連中がたくさんいたんだ。そいつらにかつがれて
戦争をおこしちゃったらしいよ」
「西郷は勝ったのけ?」
「いや。負けて、確か自殺したんじゃなかったかな?」あまりくわしいことまでは調
べていない、これ以上は聞かないでくれ。武志郎は心の中で手をあわせた。
「へえ。芋野郎もそんなことになったんか。
動かない敵にあきたらしい紗世は柵のまわりをぐるりと歩いて、かたわらに建つ石碑
に目をとめた。「ブシロー、あのでけぇ字、なんて読むんだ? 天と人はわかるが
よ」
「
くれるなとまた思ったが、すかさず紗世がたずねてくる。
「そりゃどんな魂胆でぇ?
「いや、天を敬い、人を愛する、愛せ、かな? キリストっぽいな」香里なら武志郎
の十倍は解説できるだろう。実際、それほど単純な
「なんだぁ? なんだってこの野郎の脇にそんな
の親玉のくせしやがって!」鉄柵に手をかけてガシガシと前後にゆさぶる紗世。
「こらこら。でたらめはしないんだろ?」紗世の手をおさえたいが、ふれるわけに
はいかない。怒りにまかせて江戸に跳ばされる可能性が高い。ここはこらえどころ
である。
「なーに寝言、いってやがる! でたらめはこいつらだろが!? えらそうにふんぞ
り返りやがって! 犬なんぞ連れてるがよ、こりゃとって食う気だぜ!」
「なわけねぇ……」母の篤子の口ぐせ、世が世なら武家のお姫様だったではないが西
郷の
「おめぇ、芋野郎の味方か? そういう
「俺は紗世の味方だよ」
「──そ、そうけ? たまにゃあうめぇこといいやがる」日焼けで色づいた
がましたように見える紗世。
「…………」武志郎は考えなしに思ったままを口にしただけであったが、確かにうま
いことをおくめんもなくいってしまった。しかしあからさまに照れている紗世を見
て、武志郎まで恥ずかしくなってきた。これは夏の暑さにやられたせいに違いない。
「しかし
のように今度はノースリーブシャツの胸元を大きくパタパタさせる紗世。
「はしたないぞ、紗世」香里の胸はただでさえふくよかなのだ。そんなまねをすると
目だって仕方ない。しかし無理からぬことかもしれない、とも武志郎は思った。紗世
が炎天下にさらされた場所にでてくるのは初めてのことだったからだ。
「
布っ切れ、苦しいんだ、取ってもいいよな? むれっちまってかなわねぇや」シャツ
の上から胸のブラジャーラインに指先を入れてはずしにかかる紗世。いちおうはシャ
ツの内部ですませ、地肌をさらすつもりはないようだが、武志郎は思わず悲鳴をあげ
そうになった。
「わ、わ! ダメだよ、取っちゃ!」香里に殺される!
「ダメけ?
「はいはい。あ、それより紗世、暑いんだろ? 本物のざるそば、食いにいかな
い?」
「そば?
なった。西郷の連れている犬のように
ろだろう。
「おう、冷えっ冷えだぞ。天ぷらは熱々、サクサクだぞ」
「サクサクの天ぷら……けどよ、香里に悪くねぇか?」人前でブラジャーをはずすよ
りはましである。
「今月は紗世の誕生月だからお祝いしていいってさ。香里の許可はもらってるよ」
「おおう、香里、
「いまさら姉御かよ? いくぞ紗世」
「おう、おう!」紗世は自然と武志郎の手をとったが、江戸に跳ばされることはなか
った。「──いや、待て。先にぼっちゃんを助けねぇとよ」手をはなし、視線を落と
す紗世。
「
「…………」うっと
「そばを食えなかったうらみで、またでてくるとかやめてよな」
「わっちぁ、そこまで食い
「百五十年も前から食べたかったんだろ? 彦五郎を助ける方法は見つかったんだ
し、いんじゃね? 明日か明後日でも」なんとかして、一時しのぎの間に最善の策を
見つけなければならない。歴史を曲げずに紗世を成仏させる方法を。雲をつかむよう
な話であるが。
「食うか、そば。せっかくの心づかいだ、姉御の顔も立ててやんなきゃな」紗世はに
がにがしいしかめっ
笑いをこらえた武志郎は上野公園内にそば屋があるのかを検索するため、いったんス
マホの録画をとめようするが妙に熱い、バッテリーの温度上昇でカメラはきれていた
し、画面の動きもおかしくなっている。酷暑の中での長時間録画はどうも無理なよう
だ。しかも熱が冷めるまでは使い物になりそうもない。爆発したりしないだろうな?
こわれたら怖いので武志郎は電源をひとまず落とした。となると、どうするべきだろ
う? 広大な園内をいたずらに歩きまわるのか? JR側へいくべきか?
「そうだ、アメ横があったな」小学生のころ一度、母に連れられていった記憶がよみ
がえった。上野駅から
ひしめく大商店街。そんなイメージだった。あそこならば普通のそば屋くらいあるだ
ろう。立ち食いでは本物とはいいがたいし、高級すぎる店は財布にきびしい。「普通
でいこう。リーズナブルで」
「なに、ごちゃごちゃいってんでぇ? わっち、腹へったぜ! あはは、昔ゃひもじ
いと泣けたもんだが、腹へって物が食えるってのは嬉しいもんなんだなぁ。わっちぁ
しみじみそう思うぜ。めったやたらと死ぬもんじゃねぇよなぁ、え、おい」
「そうかい」明治まで生きのびることができたら、そばや天ぷらばかりでなく海外か
ら入ってきたいろいろな物を紗世は食べられたのかもしれない。そう思うと武志郎は
胸が痛くなった。
アメ横通りに入ると、その活気と人ごみに、紗世は目を白黒させて
いた。
「
「いや」
「両国? 日本橋? 吉原け?」武志郎が恥ずかしくなるくらい大声ではしゃぐ
紗世。
「上野だ。なに興奮してんだ? こんな繁華街、紗世はいつも俺の目から見てるだ
ろ?」
「バカぬかせ。おめぇ、盛り場なんてほとんどいかねぇじゃねぇか」
「……なるほど」紗世が
し、彼女どころか友達も多くない武志郎は、
たかもしれない。行動範囲は学校周辺と家の近所にかぎられていた。これまで考えた
こともなかったが、これはそうとうに情けないことだと気持ちが重くなる。ハイテン
ション紗世がほおっておいてはくれないけれど。
「あれはなんでぇ?
か!」
紗世はたい焼き屋の店頭へ子供のようにはりついた。録画されていなくて本当によか
った。はたから見たらコロコロと太ったただの腹へらしにしか見えない。十六歳の女
子高生、香里がこの姿を見たらたぶん泣くだろう。たい焼きを二尾買って一尾をわた
してやると紙袋からのぞく魚らしき物の頭に、紗世は心そこ驚いているようであっ
た。
「
「じゃ、返せよ」
「バカ野郎! もらった物、返せるけぇ! どう食うんだ?」
「頭から……小骨があるから気をつけてかじるんだ。あと、目をあわせると
るぞ」
「祟られる? なんでそんな物、売ってるんでぇ?」紗世はたい焼きの目玉を手でか
くし、おびえたように顔をそらす。
「嘘だよ」武志郎は頭からガブリと食い、笑いながら中のあんこを見せた。
「てめぇ……ぶっ殺されてぇのか!」そうどなりながらもおそるおそるたい焼きを口
にした紗世の
意外なことであったが、探してみると日本そば屋はなかなか見つからない。あまり
時間をかけると香里の体力消耗が心配になってくる。そんな武志郎の思いをよそに、
紗世は
おかれている紫水晶のついたかんざしと、
しい。
「ほしいのか?」かなりの高額なので武志郎にはとても買ってやれないが。
「見ていいけ?」
「ああ、まあ」金も時間もないぞ、幕末少女! そうは思いながらも
ず、紗世のあとについて店内に入っていく武志郎。
「しこたま
うな目つきでウットリとしている紗世。つづいて彼女は今風のヘアピンやバレッタの
売り場へと移動、鏡を見ながら髪にあてはじめた。
「かんざしじゃなくていいのか?」
「
「やってやるよ」武志郎は小さな花がふたつついたヘアピンを紗世の髪にとめてや
る。相手が香里だったら恥ずかしくてとてもできなかっただろう。鏡を見て嬉しそ
うにしている紗世は別のピンを武志郎にさしだした。
「これもやってくれ」
「しょーがねーな」今度、姫はリボンの形のヘアピンをご
「仲がいいんですね。これなんかもお似あいですよ」若い女性店員がやってきて金色
の星型がキラキラしたピンを武志郎に手わたした。取りつけ係は決まっているらし
い。そんなこんなで葉っぱの葉脈をかたどった銀のヘアピンを買うハメになってしま
った。とはいえ銀メッキなので税込み千円もしなかったのであるが。鏡にむかってウ
キウキとしている紗世。よく似あっているが、似あっているのは本当は香里である。
切ないな、と武志郎は思った。
ようやくそば屋を見つけて店に入ることができたが、昼時なのでけっこうこみあっ
ている。紗世が香里に
すでに三十分をまわっている。ハーリーアップ天せいろ、クイックリー、ヒヤー!と
心の中で叫んでから、この英語が正しいのかどうか不安になる武志郎。どうでもいい
ことであるが。ここで武志郎はスマホを取りだし録画を再開することにした。店内は
クーラーがきいているので温度上昇にもたえられるだろう。なによりも意識を失くし
ている間、なにがおきているのかを香里に見せる義務がある。
「これが
とざるそばを前にして
でぇ?」
「どうって、天ぷらは熱いうちがうまいよ。塩ふってもいいし、つゆにつけてもい
い。そばものびないうちに食いなよ」
「おう、わぁった! いただくぜ、ブシロー」紗世は、かー、とか、くー、とか、
うめぇ、だとか感動を
これだけ喜ぶ客は、この店にとって彼女が最初で最後ではないだろうか? 店員もほ
かの客も楽しそうに笑ってながめているようであった。
「あの」「あのよ」そばを食べおえて、お茶を飲むふたりの声が重なった。
「ブシロー、先にいいな」
「ああ、香里の体、まだ大丈夫そうか?」そばを食した時間は比較的、短かったが、
そろそろ
「ま、ころあいだな」
「そうか、じゃ、またにするよ」どうして香里に
ったのだが。
「なら、わっちもちゃっちゃとしゃべるぜ。ブシロー、今日、ありがとな。
楽しかった。楽しかったぜ、ありがとうな」紗世は深々と頭をさげた。
「いや、いいよ」たった一時間のデートでそこまで感激しなくても。
「ひとつ聞きてぇ」顔をあげた紗世はつらそうな表情をしていた。
「なに?」
「彦五郎ぼっちゃんが助かると、おめぇや姉御にマズいことでもあんのか?」
「なんで?」
「そば食おうなんていいだしたのも、そのせいなんだろ? なにがいけねぇんで?」
「……そばは前から食わしてやりたかったんだけどな」
「おう、そんなのわかってたよ。おめぇときどき情けねぇとり
とうないい野郎だからな」
「ほめてねぇし」
「ほめてんだよ。それで? どうしてでぇ?」
「──紗世が生きてたころから百年以上たったのが今。俺や香里が生きてるのが今
だ」
「おう、で?」
「
ひ孫がひょっこり、いきなり現れるかもしれない」
「おう、なにがいけねぇ? めでてぇじゃねぇの」
「逆に、今、生きてる人が、たとえば俺や香里がピュッといなくなることもあるかも
しれないんだ」
「なんでだ? 今いるのにピュッとは消えねぇだろ」
「だよね。説明、むずしいなぁ。消えるっていうか、いなかったことにされるってい
うか」
「なんだ? どこのどいつがそんなべらぼうなまねしやがるんでぇ?」
「ええと、たとえ話だよ。生きのこった彦五郎が俺のひいひい
するだろ──」
「ぼっちゃんは、んなことしやしねぇよ!」
「そうだね。しないね、きっと」お手あげであった。武志郎自身が明確な理論を持ち
あわせていない上に、相手は幕末少女なのだ。現在、
の音声やメモ書きの件を話しても理解させるのは不可能だろう。頭をかかえてしまっ
た武志郎を見て、哀しげな表情をした紗世は、そわそわと目をおよがせる。
「一服してぇな」
「一服? タバコか? ダメだよ、紗世。禁煙店だし」
「ダメけ? そうかい……ブシロー、わっち、おめぇらを困らせてるみてぇだな?」
「だからいまさら?」
「わっちぁ、ぼっちゃんは助かってあたり
立たねぇ。ここじゃ
「そりゃ悪いことしてないのに殺されるのはおかしいけど……」西郷にもいっていた
「ああ、わっちのオツムじゃ、おめぇらがいき悩むわけがさっぱりわからねぇ!
すまねぇ! だが、おめぇや姉御がどうあってもっつうことなら、わっちぁ……」
湯のみを握りしめて肩をふるわせる紗世。
「まあ、あわてるな、少し時間くれって。もともと考える時間がほしくて一時しのぎ
したんだからさ」
「…………」
「紗世、いったろ! 俺は紗世の味方だって」
「…………」紗世の目から大粒の涙がみるみるあふれだす。
「お、おい、泣くなよ、紗世」小声でささやく武志郎。これではなごやかな食事風景
が一転して別れ話になったようにしか見えない。バチン! 泣きながら武志郎の肩あ
たりをひっぱたいた紗世は、武志郎の右目へともどってきた。
「うー、なんで私、泣いてるの?」いつものように頭痛に苦しみながら香里がいっ
た。
「大丈夫か?」同じく目と肩の痛みにもだえている武志郎。
「なんとか。おそば食べられたのね、紗世。よかった」頭をふりながらも、香里は
自分が今、どこにいるのかをぬかりなく確認した。
「まあね」武志郎の方はすぐにおさまったが、香里の苦痛と
つづいた。やはり一時間はきついのだろう。図書館のときのように周囲の目を集めて
しまっていることはわかっていたが、とにかく香里の回復を待ってふたりはそば屋を
でた。別れ話が一転、よりをもどしたカップルに見えたことだろう。
「変な感じ。食べたおぼえがないのに、口につけ汁の味がのこってる」
「お
から」
「え! やめてよ! また太っちゃう!って、あれ?」香里は前髪をとめているリー
フ型のヘアピンに気づいた。「なに、これ?」
「ああ、紗世への誕生プレゼントかな。ま、結局は香里の物だけど」
「ふーん」口をとがらせる香里。「武志郎君、私の誕生日は知ってる?」
「は? いや」
「ムカつく」
「香里だって俺の誕生日なんか──」
「二月九日の水瓶座」
「あ、そう。申しわけございません」名前はブシローだと思っていたくせに!と頭を
さげた武志郎は思った。
「十二月二十一日のギリギリ射手座。おぼえておいてね」
「1221、おぼえた」
「よろしい」と香里は笑い、「私にはなにをいただけるのかしら?」と怖いことをい
う。そして「ビデオ、見せて」と
「それがさ……」
京成上野駅のベンチに腰をおろし、ふたりは上野公園での最初の数分、そしてそば
屋で撮られた中ぬけの動画を見ていた。
「だから泣いてたの。私、ってか紗世」
「うん。タイムパラドックスを理解させるのは無理だと思う」
「理解させる必要ないよ。紗世が理くつだけわかってくれてもなにも変わらないし、
苦しめるだけでしょ?」
「まあね」そうなにも変わらない。ただ武志郎は紗世を
ではないような気がした。死人だが、一番の当事者なのだから。
「理解できなくてくやしい気持ち、すごくわかるけど。紗世が泣いた気持ちも」
「ま、わかるけど。泣くほどのことじゃないよな」
「うわー」目を見ひらいて腰を引く香里。「女心、わからなすぎ! びっくり」
「どうせそうだよ。そんなことより問題は、今後、どうするかだ」面倒な話になり
そうなので論点をずらした武志郎は、紗世の言葉どおり、情けないとり
男なのかもしれない。
「一番の問題は紗世がブラをはずそうとしたことよ。あんなこと、二度とさせない
で!」
「俺がさせたわけじゃ」
「江戸時代の人にはね、その、女性の胸は、えと、性的な意味あいはあまりなかった
の。単に赤ちゃんへお乳をあたえるものだったの」
「マジで?」
「そうよ、
も、もちろん前はかくしてたと思うけど」
「でも混浴? それあり?」思わず香里の胸に目がいってしまう武志郎。
「見ないの! そういう女性の胸に対するエッチな発想は明治以降、西洋からもち
こまれたものなんだからね。よくも悪くも」
「いいな、江戸……」
「だから、江戸時代の人はそういう発想しないんだって! 武志郎君、紗世はそんな
時代の子なんだからね。それを忘れないでほしいの」
「確かに、なにをしでかすかわからないところあるよな、あいつ」
「今の常識じゃってことでしょ? タバコ吸ってたし、正座だってしないのよね?
それは変だなと思って調べたら、未成年のタバコが禁止になったのも、正座が一般に
普及したのも、やっぱり明治以降なの。おかげで私も勉強になった」
「時代、時代で意識も常識も変わるってことか……」こちらこそ、勉強させていただ
いております。武志郎も香里を姉御と呼びたくなった。
「時代が変わっても、女心だけは変らないけどね」
「そこにもどるわけ? 話がループしてるぞ」
「……ループ? ループか!」
「なに? 英単語、おかしい?」
「じゃなくて、なにか思いついた。ちょっと待って」
「ああ」──待ちますぜぃ、姉御。
「ループ、
宙に円を描きながら考えこむ香里。ループからなにがひらめいたのか? 武志郎も思
案をめぐらせてみるがさっぱりである。「なんだろう? なにを思ったんだろう?」
自身に問いかける香里は、武志郎のクセをまねてなのか
じめる。
「そうだ!」突然、武志郎にアイディアがふってきた。
「なにか思いついた?」うめいていた香里が目をあげる。
「ようは、紗世に思いこませればいいんだよ。彦五郎が助かったって!」とくいげに
声をはる武志郎。紗世をだませば解決である!
「順番からいって彦五郎君が先に死ぬんでしょ? そこ変えられる?」
「違うよ。江戸の紗世じゃなくて、今の紗世をだますんだよ」
「……ダメだと思う。紗世、私たちの会話、聞こえてるんでしょ?」
「あ」武志郎は口をおさえる。
「それに、ループと関係ないし」また目をふせて
「まあねぇ」ループにこだわる理由はどこにある? 女の直感ってやつ? 武志郎は
口をとがらせる。紗世の願いをかなえるのは簡単なことなのだ。三十秒だった彼女に
ふれる時間を、たとえば一分間にのばして、もっと以前、浪人者が『大鹿庵』に押し
こむ前に跳べばいい。そこで彦五郎が死ななければ、紗世が化けてでることもなくな
る。ただ、歴史に
ない。仮に自分らに直接関係ないところでの
重すぎるような気がする。この思考こそがまさに
ふたりはそのまま京成上野駅のベンチから、その日の夕焼けを見るにいたった。
「ダメだ! なにかヒントをつかんだような気がしたのに!」キリキリと頭をかきむ
しる香里。そのボサボサと乱れた髪から買ったばかりのヘアピンがこぼれ落ちた。
「いけない!」
「明日、どうするか……」ピンをひろい、香里に手わたす武志郎。
「情報が少なすぎるのよ! なにを考えるにしてもデータを取らないと無理なのよ」
「試してみるってこと?」
「そう、何回も何回も。寸どめで」
「寸どめ? 彦五郎、助けないのか?」
「助けたらおわりじゃない! くり返し実験して、段階をふんで可能性を探るしかな
いわ。過去が確定する前に。うん、このくり返しがループなのかもしれない」
「紗世が承知しないだろ?」
「承知させてよ! 私だって何度も何度も頭痛になるんだから! 武志郎君だって何
度も怖い思いするんだからね!」
「今の香里が怖い」武志郎が冗談半分にいうと、キッとにらむ香里。
「あと、紗世が死んだ場所、あそこにも一度いきたいわ。なにかわかるかもしれな
い」
「でも、お父さんと弟さんが亡くなった場所でも……」
「うん。あれからいってないし、それにふたりが地縛霊になってるかもしれない」
「ああ……」紗世がいる以上、ありえない話ではない。成仏していてほしいけれど。
「お花くらいそなえたいの」
「じゃ、いくか、田町。今、あそこがどうなってるのかはわからないけど」
「うん。それから──」
「なに?」
「海……もいきたいな」照れるように上目づかいで武志郎を見る香里。
「は?」
「りっちゃんに誘われてるの。武志郎君も大倉君から誘われたでしょ?」
「ことわったんだろ?」人前で水着になりたくないと。
「ことわったわよ。親友の前で紗世がでてきたらって、そりゃ考えるわよ」
「うん。だよな」絶対に病気だと即断されるだろう。
「でも、そんなことで高二の夏がおわるの、やっぱりいやなの」
「……今週末だよ、予定」あと四日しかない。
「武志郎君、明日、紗世を説得して。海に連れていくから人前じゃでないでって」
「いうこときくかな?」
「きかせて! 一生に一度なのよ、私の高二の夏!」
「わかった、やってみる。ま、あいつも喜ぶかも。江戸の町からでたことないみたい
だし、近所の品川の海にもいったことないのかもしれない」
「喜ぶわよ、きっと。武志郎君と海を見られたら」
「は?」
「こんな
かっていった。そんな挑発は逆効果ではなかろうか?と武志郎は思う。
「そんなわけで武志郎君、明日は田町。明後日は水着買いにいくのつきあってね」
「水着? 恥ずかしいだろ」
「紗世のヘアピンは選んだくせに」
「買い物のレベルが……ま、いいや。で? 宿題は?」
「自己責任ということで」
「かんべんしろよ、マジ」
「嘘。水着買ったあとはみっちりやります。宿題だけおわらせればいいってもんじゃ
ないんだからね。武志郎君、あきらかにほかの人より遅れをとってるんだから」
「まあ……」六月のころのモジモジ香里と同一人物とは思えなかった。ただ、武志郎
はそれが嬉しくもあったので問題はない。
問題は、もうひとりの乙女の方であるなあと彼は思っていたのだが、その夜、香里
の方にとんでもない大問題が
(つづく)
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