第二章 夏の亡者 8
8
武志郎が香里の家をおとずれるのは六日ぶりのことであった。メールには時間指定
もなにもなかったので、以前どうよう、午前九時三十分には家の前に到着していた。
そして二階の彼女の部屋を見上げる。どういうつもりで呼んだのだろう? 武志郎の
中で恐ろしい妄想がひろがる。たとえば、香里の母がいて、有坂律子がいて、丘蓮美
がいて、四対一でつるしあげを食らうとか? そのていどじゃすまなくて警察官が待
機していて、婦女暴行容疑で逮捕されるとか? ないないとは思いながら、なかなか
インターホンを押せない武志郎は文庫本を郵便受けに
考えたけれど、香里を心身ともに傷つけてしまったことは事実、許されるとは思えな
いが、もう一度、会ってあやまれるのならそうしたい。香里の顔が見たい、香里に会
いたい! 彼はインターホンをふるえる指で押した。すると、すぐに玄関のドアが音
もなく開き、いっさいの感情を廃したデスマスクのような香里の顔がのぞく。
「入って」
「…………」武志郎はただうなずくことしかできず、奥に消えた香里のあとにつづい
た。
彼の妄想した事態にはもちろんならなかった。家はいつもどおり、香里以外は誰も
いない。彼女の部屋に入って、簡易テーブルをはさんでむきあうふたり。目線を落と
してなにもいわない香里。いたたまれない武志郎も、言葉がでてこない。以前にも同
じことがあった。香里が一度、武志郎への思いを断ちきろうとしたときだ。あのとき
は結局、不仲なまま家を追いだされた。やはりくるべきではなかったか? 武志郎は
まよいはじめていた。しかしここでなぜだか山原勇人から以前いわれた言葉がうかん
だ。持つべきものは友である。
「とにかくブシローから話しかけてやるべきなんじゃないか?」
武志郎は、ああ、そうだと思った。香里を傷つけたのは俺なんだ。いつもいつも俺
なんだ。だからあやまらなくちゃ! 俺がまずあやまらなくちゃ!
「武志郎君」香里がいった。
「は、はい」だらしなく先をこされた武志郎。
「本」
「あ、はい」あわてふためきバッグから『
「読んだ?」文庫を手に、パラパラとページをめくる香里。
「読んだ」
「感想文書いた?」
「いや、まだ」──あやまらないと。
「ダメじゃない」
「うん」──ごめんなさいっていわないと。
「ごめんなさい」香里が頭をさげた。
「え?」
「ひどいこといったでしょ。私、この前」
「そうだっけ?」
「サイコ野郎とか、死んじゃえとか」
「そうだったかな……」おぼえていない。それどころではなかった。
「ひどいこといった。ごめんなさい」
「いや、俺こそ、その……香里を傷つけた。盗撮なんかした。ごめんなさい!」
武志郎は正座の姿勢から土下座した。
「それは許してない。けど……顔、あげてくれる? 話しにくいから」
「あ、はい」
「やっぱり、実験とかっていわれたのショックだった。いやらしいことはしてないっ
ていわれても、それでも、寝てる間、体を勝手にされるのって、すごく……」
「そうだよね、そりゃそうだ。本当にすまなかった」
「これも許してない。絶対、許さない!」
「はい」かしこまることしかできない武志郎。
「武志郎君、この前の動画、まだある?」
「は? あ、忘れてた! 消す! 今すぐ消す!」武志郎がポケットからだしたスマ
ホを香里がすかさず奪いとった。
「見せて録画」
「見たいの?」なんで?
「起動して」
「あ、ああ」武志郎は香里の手からスマホを受けとるとロックを解除し、再生ボタ
ンを押して手わたした。香里は約ニ十分ほどの動画を熱心に見いっている。その間、
武志郎は正座をくずすことなく緊張のおももちでただ再生がおわるのを待っていた。
表情からはなにも読みとれない、香里がなにを思っているのかサッパリわからなかっ
た。
「武志郎君」画面から目をはなすことなく香里が声をかけてきた。
「はい」
「この、武志郎君がいきなりひっくり返って眠ったとき、江戸時代に
の?」
「まあ」
「ふうん。それで毎回、到着時間に差がでるんだ?」
「うん、一回はほとんど一緒だったけど」
「前回だけ少し前にいけたんだっけ?」
「うん、紗世が怒りくるって、我を忘れてつかみかかってきたとき」
「ふうん。紗世さんて凶暴な人なんだ。それで?」
「え?」
「紗世さんて
「は? いや、顔は見たことない。いつも、その、首がむこうむいてて」
「見たくないの?」
「いやぁ、
「信じられない」
「だろうね」
「信じられない、そんなうらやましい話」再生がおわったスマホをテーブルにおく香
里。
「うらやましい?」武志郎は目をまるくした。
「だって江戸時代にいけるんでしょ? 山賀乙様に会えるんでしょ?」
「乙様ぁ? 人を斬るんだよ! 斬られるんだよ!」江戸ずきにもほどがある!
「武志郎君」香里は武志郎にむかって右手を差しだした。
「なに?」
「紗世さんもいるの? 私に入ってみて」
「はぁあ! 香里、なにを!?」
「この動画、インチキだったとしても私には見ぬけない。だから私も今、この部屋に
カメラを仕かけてるの。あとでその録画を見て、武志郎君を信じるかどうかを判断す
る」
「はい?」なんちゅう
「私が寝てる間にカメラを見つけてもそのままにしておくこと。いい?」
「…………」
「いいですね!」
「わかった、けど……」それもなんだかな、という心境である。先に盗撮した武志郎
にいえた義理ではないが。
「この五日間、考えてて思いついたことがあるの」
「ん?」
「凶暴な紗世さんにつかみかかられたあと、江戸に跳ばされたら到着時間が早まった
のよね?」
「ああ」──凶暴な? 香里は引っかかるいい方する、さっきから。
「だったらふれる面積とか、無意識とかじゃなくて、問題はふれる時間の長さじゃ
ない?」
「あ!」──そうかもしれない! あのとき紗世は俺のえり首をしばらくしめあげて
から江戸へ跳ばしたんだ! さすがは優等生、頭のデキが違う!
「試してみれば? 凶暴な紗世さんも」目に見えない紗世に挑戦的な態度をとる香
里。
「あの、紗世に怒られるの俺だし、凶暴って言葉、たぶん江戸時代にはなかったので
は?」
「あ、そうかも。なら、荒くれ乱暴女の紗世さんも試してみれば!」
「い、いや香里」
「なによ! 好き勝手に人の体を使ってる女に遠慮がいる!? 冗談じゃない!」
「ああ、そうね」
「はい!」目を閉じて、腕をのばしてくる香里。
「香里、ありがと。試してみるよ」武志郎は、そっと香里の手にふれた。
「凶暴な紗世でぇ! 文句あっか!」武志郎が右目を開くと、久方ぶりの紗世がい
た。こっちはこっちでプンスカしている。
「紗世、『鉄火小町』なんだろ? 意味調べたけど、荒くれ乱暴女であってるじゃ
ん」
「うるせぇよ! だいたいおめぇ、ブシロー、香里にいわれっぱなしじゃねぇか!
情けねぇ野郎だ、男のくせしやがって!」
「はいはい。でも紗世、香里のおかげででてこられたんだ、ビデオに撮られてるら
しいし、感謝しとけよ」
「なんでぇ? ビデオって」
「これこれ」武志郎はテーブル上のスマホを指さす。
「あん? のぞきからくりけぇ! まーたやってんのか! やらしいな!」
「いいから紗世、香里に礼をいえよ」香里にきらわれたら次はないのである。
「やなこったい! そんなもんはおめぇ、人さまからいわれてどうこうするもん
じゃあるめぇ。わっちがいいたくなったら勝手にいうよ」
「香里に恩を感じないのか?」
「感じてるさ! けど、香里だってわっちに恩があるだろが!」
「なんだよ、それ。ないだろ? 一方的にとり
「バカ野郎、香里のおっかさん助けたのは誰でぇ! わっちだろが」
「あ……それいう?」実は先日、香里に事態の説明をしたとき、
つつその部分の話をあえてはずしていた。いえば好かれている最大の要因が消えて、
ますますきらわれると思ったのである。こんな形でバレるとは想定外であった。
「……まぁだがよ、あんとき、おめぇが助けにとばなけりゃ、わっちもおっかさんを
助けられなかったなぁ。とすると手がらは半々か。まぁそういうこったな!」紗世は
そういってハハハと豪快に笑い、武志郎の肩をたたいた。そして耳元でポソリとささ
やく、これでいいか?と。
「ああ、おう」珍しく紗世が空気を読んでくれたらしい。いいとこあるじゃないかと
武志郎は嬉しくなった。
「思えば、あれだな。わっちら三人、
「だから紗世は香里に
紗世はどうせこたえられないだろうけれど。
「かもしんねぇな。けどよ、近ごろのおめぇら見ててわっちは思うぜ。香里だから
「だからなんでよ? わかったのか?」以前、同じ質問をしたときの答えは、勝手
にこうなった、であった。
「知りてぇのか?」
「ああ」
「てめぇで考えな! いや待て、こととしだいによっちゃあ教えてやらねぇことも
ねぇぜ」
「えらく恩ぎせがましいな」
「ブシロー、前に西郷芋野郎の銅像がどうしたとかぬかしてたよな? 銅像たぁな
んでぇ?」
「え? ああ、銅で作った、なんていうか人形かな?」
「ああ、こんなか?」紗世は手で子供用の人形サイズをしめしてみせる。
「いや、たぶん、等身大。あ、俺らと同じくらいの大きさ」
「ほーう、でけぇ仏像みてぇなもんだな? なんでそんな物があるんでぇ?」
「明治維新の英雄だから」といってからあわてて「勝った方のいい分だけど」と
つけくわえる武志郎。まさに勝てば官軍、負ければ
はどちらともいえない。侍同士のクーデター、もしくは革命の名もなき犠牲者。それ
が紗世である。
「見てぇな、英雄殿。どこにいる? 西郷」
「上野公園かな?」実は武志郎も実物を見たことがない。
「上野け、そうかい。どんな顔した野郎が
やりてぇ! ブシロー、連れてってくれ! そうすりゃ、香里に
てやるよ」
「足もと見るな。写真でいいだろ?」検索してスマホに画像をだそうとする武志郎。
「写真じゃ、けとばせねぇじゃねぇか!」
「はぁ? けっちゃダメだし、けるには香里を連れてかなくちゃならない。どうして
も本物が見たいなら俺の目からでいいだろ? 明日にでもいくか? 上野」
「香里にたのめねぇかな? ちょこっとさ」このちょこっとが紗世に同情的だった武
志郎をイラっとさせた。香里だって名もなき庶民。しかもある意味、戦争被害者の遺
族なのだ。
「バカいうな。これ以上、香里に
てきてるだけで、香里の体力ゴリゴリけずってんだぞ!」
「……わぁってるよ! がならなくてもわぁってるよ!」しかられた子供がむずか
るような目をする紗世。つねに
年下の女子である。気苦労がたえない武志郎、男はつらいよ。
「どなって悪かった、紗世。けどさ──」
「香里に
「なんだよ、いきなり」
「惚れたのかって聞いてんだよ!」
「正直、よくわからない。けど、五日間、会わなかっただけで調子くるうっていう
か……」
「そいつを惚れたっていうんでぇ。バカ野郎が」
「ぁあ! 紗世、よけいなこというな! 録画されてんだぞ!」
「知るけ! だったらわっちも早いとこ
五日ぶりだってのに、ったく! そろそろいくかい? ブシロー」
「ああ。紗世、香里の話、聞いてたな?」
「あんましわかんなかったがよ。おめぇの我を忘れる話はどうなったんでぇ」
「あれは忘れろ。とにかく香里は俺より頭がいい、成仏したいなら黙っていうこと聞
け」
「へいへい、惚れた弱みかい?」
「いちいちうるさい」武志郎はスマホの画面にストップウォッチを表示した。
「三十秒でいってみる。いいか紗世、俺にさわれ、それで俺がゴーといったら江戸
に跳ばすんだ」
「ごぅお?」といいながら紗世は武志郎の腕をつかんだ。
「ゴーやめ、やれにする。いいか?」ストップウォッチの開始ボタンを押す武志郎。
「わぁったよ。ブシローがやれっていったら跳ばしゃいいんだな」
「ああ」タイムを目で追いながらうなずく武志郎は心の中で念じていた。今度こそ紗
世を斬らせないでくれ! 生きている紗世に会わせてくれ、と。
「まだかよ? おい」十五秒。気の短い紗世が
「──五、四、三、二、一、やれ!」
「いってこい!」
炎と煙、いつもの光景だった。さあ、どうだ? どのタイミングなんだ?と考える
間もなく武志郎は、ちょんまげを頭にのせた男の腹を斬り、返す刀で日本髪を結った
女を斬り殺していた。しかしふたりは少年、少女ではない。どう見ても成人、中年の
男女であった。
「はぁあああ?」当然、何度やろうが人を斬るという行為になれるわけがない、武志
郎は恐怖にかられ悲鳴をあげ、手にした日本刀をやたらめったらにふりまわしてい
た。その刃先がせまい室内の片隅にうずたかく集積され、燃えさかっていたスーツケ
ース大の竹製の箱、いわゆる
に、煙に巻かれた小さな男の子が泣きながらさまよいでてきた。
「うわっ!」なすすべもなく火だるまの
打ちつけたらしく、目の前に星がとびかう! まさか、今の子が──。
「彦五郎ぼっちゃん! ぼっちゃん!」女の声! 武志郎はすぐに紗世だとわかっ
た。
「紗世か!」激痛と脳への衝撃でふらつく後頭部を押さえながら体をおこした武志郎
は一瞬、絶句した。くずれた行李の山の中で、頭髪から腰あたりまでを炎にすっぽり
くるみこまれた和服の少女が、踊るようにのたうちまわっていたのだ。「紗世ぉ!」
武志郎は周囲を見まわすが、水道の蛇口など当然ない。──どうする? どうする?
井戸?
武志郎は入口近くにおかれていた
「この悪党!」すでに火のまわりはじめた木戸が開いて、おなじみの
響く。
声の主、山賀乙は玄関たたきに尻もちをついていた武志郎を見るなりスラリと刀を抜
いた。
「待て! 乙さん、あれ! あれ!」武志郎は必死で、焼かれている紗世らしき少女
を指さし、山賀乙の足にすがりついた。「乙さん、助けて!」
「……問答無用!」名を呼ばれた山賀乙は一瞬、動揺したようではあったが、武志郎
の言葉を本人の命ごいと思ったらしく、手にした刀をためらいなくふりおろした。
気がつくと、武志郎は紗世の
「
「香里……紗世か」涙をぬぐいながら顔をあげた武志郎は後頭部に手をやる。もちろ
ん打撃の痕跡はないが、少しくらくらするようであった。「最悪だ……」
「ああ、ひでぇもんだったな。何回見てもひでぇ死にようだ、ありゃ」武志郎の目を
通して見た自身の死にざまに、紗世もショックを受けているようである。
「最初に斬ったのが旦那さん夫婦か?」
「ああ、
で大きく深呼吸をした。
「旦那さんの名前、彦四郎なの? それで息子が彦五郎? 単純だな」
「うるせぇや。代々、男は彦に数をつけるってお家なんだよ、あそこぁ。だいたい、
おめぇの名だって似たりよったりだろが!」
「まあな。そんなことより香里の作戦は正しかった。三十秒でかなり前に跳べたぞ、
紗世!」
「あん? ああ、そういやそうだ。てぇことは、ブシローよ、次はうまくやれそう
か?」
「うん。もっと前に跳べれば、誰も死なずにすむかもしれない!」
「おおお! 本当け?」思わず武志郎に抱きつく紗世、しかしすぐに自分の行動を恥
じるように彼からはなれた。「すまねぇ、つい」
「いや。ただ、それでいいのかな?」どこか引っかかるというか、
を感じる武志郎。
「なにが? いいに決まってんだろが! おめぇがあわ食って
きゃ、わっちがぼっちゃんを助けだせるってもんだ。いや、そうじゃねぇ。おめぇが
わっちらんとこくる
よ! ははは! やったな、ブシロー!」やたらとはしゃぎ、しゃべりたおす紗世。
よほど嬉しいのであろう。
「
「ああ、あれけ? ありゃタバコの葉よ。たまたま大口の
「へぇ、タバコ? よく燃えるわけ──あ!」
「なんでぇ?」
「紗世、さっき何回見てもっていったな?」
「あん? なんのこってぇ?」
「いや、前は斬られて死んだろ? 焼け死んだの初めて……あれ? 違ったっけ?」
「なに寝とぼけてんだ。おめぇ、何度も何度も殺しやがって!」
「俺じゃねぇし! 薩摩の浪士だろ! いや、待て。なんかおかしい……」武志郎は
ような気もする。そんな気がしてきた。でもなんだ? この変な感じ。気のせいなん
だろうな……たぶん。
「おかしなことあるかい! まさかよ、死んでから明日ってヤツに望みがもてるだな
んざ思いもよらなかったぜ! 楽しみだぁ、明日がよ!」
「香里の
「てめぇ、
「香里がもう俺に会いたくないといったらおわりだし、会えても凶暴な紗世にはもう
なりたくないといわれたら、俺、どうにもできないし」
「バカ野郎! どうにかしろよ! ブシロー!」
「だからいったろ? 香里に感謝の言葉を伝えろって」
「…………」
「紗世がいいたくないなら別にいいけど。そろそろもどれ。香里の体力が心配だ」
「……ま、待て。待ちやがれ!」武志郎がのばした手をふりはらう紗世。
「なんだよ?」
「おめぇも、わっちと一緒に土下座しな」
「はぁ?」
「おめぇ、死ぬまでわっちに
のかい? おう、どうなんでぇ!」
「…………」
「ブシローがそういうつもりなら、わっちはいっこうかまわねぇけどなぁ!」腕を組
んで歌舞伎役者のような
イョーォというかけ声と、カカカンという
そういうわけでふたりの利害は一致し、不本意ながらそろって土下座する運びとなっ
た。今や香里こそがキーパーソン、
「ブシロー、どこ見て
「とりあえず、机でいんじゃね? そこに香里がいるつもりで」
「わぁった」
ふたりは簡易テーブルを取っぱらい、ラグマットに横ならびで正座、香里の勉強机
にむかい一礼する。そして打ちあわせどおり紗世から謝意を伝えはじめた。
「か、香里殿。いつも、すまねぇ。わっちは、ああ、
さんの
が、香里、いや香里殿、このとおり、礼をいうぜ」ここで紗世はラグマットに
こすりつけるように頭をさげた。武志郎もあとにつづいて平伏。
「紗世、おい、今後とも」おじぎした状態で武志郎がささやく。
「けぇ! こ、今後ともよろしくお願いいたします……もういいだろ? もういいよ
な? こっ
りつく紗世。
「おい、まだ──」という間に右目に衝撃が走り、紗世は武志郎へと逃げこんだ。
「香里、大丈夫か?」武志郎は隣でしきりに頭をふる香里に声をかける、自身も目の
痛みをこらえつつ。今回の紗世のもどり方は勢いがつきすぎだった、目から頭の芯ま
でがジンジンする。
「うん、平気……頭痛の原因、まったくわからなかったときよりはまだ安心感があ
る」
「あ、そう」そうとう不安だったのだろう。武志郎は久々の正座でしびれた足をくず
しつつ思った。本当、毎回、すまないと。
「それより、確認、確認」鉛をつめられたような重い頭にゆさぶられ、フラフラと立
ちあがった香里は書棚の上においてある猫のぬいぐるみを手に取り、その背中部分を
ふたつに割った。するとなんと、小型のビデオカメラがでてきた。デフォルメされた
目の部分に小さな穴があけられている、本格的な盗撮であった。
「マジか?」
「このぬいぐるみには、紗世さんも武志郎君も絶対にさわらないと思ったから」
「なるほど」怖い女、とはもちろんいわない武志郎。「映ってる?」
「うん。いい感じ」香里は指先でこめかみをマッサージしつつビデオの再生をはじめ
た。
通常の自分が映っている部分は軽く流し見し、紗世が現れたあたりからじっくりと
録画を見はじめる香里。武志郎は裁判の判決を待つ囚人の気分であった。ラストの土
下座シーンまで見おえた裁判長、香里は顔をあげて武志郎を見すえた。頭痛はおさま
ったようで、その目はおだやかに澄み、しかし、ロボットのごとく無表情に見える。
「あの、香里?」──信じてくれるだろうか? もろもろ許してもらえるのだろう
か?
「紗世さんとずいぶんと仲いいのね? すごく楽しそう」
「は?」
「ムカつく」
「いや、仲いいとかじゃなくて……」
「へぇ、私のお母さん、助けてくれたのって紗世さんとの共同作業だったんだ?」
「あ……」
「超ムカつく」
「はい」神妙にうなずく武志郎。それ自体もそうだが、なにより黙っていたことが恥
ずかしい。
「──て、いってる時点で私、武志郎君の話、疑ってないんだよね」
「え?」
「超々ムカつく!」
「はい。すいません」
「それで? 私に五日、会えなかっただけで調子くるうんだ?」
「あ……」
「そういった? 武志郎君」
「いった、よなぁ」確かな証拠が動画に残されている。
「なら、信じる」
「へ?」
「信じるし、許す」
「マジか……」ホッとため息をもらす武志郎。
「私だって自分が分裂症だとか思いたくない。このビデオがある以上、私は病気。
それか武志郎君を信じる。その二択だもん、仕方なくよ」
「なんでもいい。信じてくれてありがとう」武志郎は香里の手を取って、頭をさげ
る。
「私だって内申点のことじゃ、武志郎君に嘘ついたし……あいこにしとく」
「…………」ええ子やぁ、と武志郎は思う。あいこにできるレベルの話ではないし、
なにより内申点など、遠い昔のことのような気がした。
「それに江戸時代の人の言葉を聞けるなんて貴重なことだし」
「そうなの?」時代劇を見ればいいのでは?と単純に考える武志郎。
「明治になってからしか日本人の肉声は残されてないのよ。現代人は江戸時代の人と
は会話が成立しないって説もあるくらいなんだから」さすがは歴女である。
「成立してるし」
「たぶん紗世さん、気をつかってしゃべってるんじゃない? 武志郎君に
三年になるんでしょ? 少しは現代の言葉だっておぼえただろうし」
「あいつが気をつかう女かな? たまに空気読むくらいのことはするけど」
「あいつ? ああ、紗世さんて年下なのよね?」
「うん。十五で死んでるからね」
「じゃ、私も紗世でいいね。紗世も仕方なくお礼いってくれたみたいだから、私も
仕方なく彼女につきあうことにする」そういって笑いをこらえる香里。
「な、なに?」
「紗世、本当にいやそうに頭さげてた。土下座でビデオに映ってるのは私なのに、紗
世に見えたのが不思議で、おかしくて」
「ああ。確かに」確かに、紗世が
あいかわらず本人の顔を見ていないせいだろう。
「そうだ。明日、上野へいかない? 西郷さん、紗世に会わせてあげようよ」
「いいの? 外でだしちゃって」いってから、なんかエロくねぇ?と自分につっこむ
武志郎。しかし香里は気にもとめていないようで、彼はホッと胸をなでおろした。
「図書館でだってでてきたんでしょ? 夏休みだし、私も、その、デー、おでかけ
くらいしたいわよ。紗世がなんで私に
「ああ、そんな条件だしてたな、あいつ」
「だけど銅像、けらせないでね。捕まるの私だから。それから武志郎君、勘違いして
るみたいだけどあの銅像、身長四メートル近くあるからね」
「マジ?」仏像どころではない、それでは大仏だ。
「それに西郷の奥さんがあの銅像を見て、全然似てないっていった
これにも諸説あって──」香里はここで言葉をきった。歴女ぶりを
場合ではないと思ったのだろう。「武志郎君さ、私もビデオ見てて違和感があった
の」
「違和感?」
「ちょっと待って」香里はビデオカメラのデータを早もどしする。「やっぱり」
「なにが?」
「これ見て」香里が見せたのは前半、彼女が紗世に
であった。
香里 『紗世さんて
武志郎 『は? いや、顔は見たことない。いつも、その、首がむこうむいてて』
香里 『見たくないの?』
武志郎 『いやぁ、●首にはさわれないよ。それに、あっという間に山賀乙に斬られ
るし』
「
た。
「だったと思う。変でしょ? 今、私もなんとなく紗世は焼け死んだって聞いてたよ
うな気になってるんだけど……」
「そうだ!」武志郎はスマホを出して以前撮った動画を再生する。
紗世 『面積、ダメじゃねぇか! まーたわっちを●●やがって!』
「なんだこれ?」スマホの動画も一部の言葉がやはり聞きとりにくくなっていた。
「斬り、とも、焼き、ともとれるわね」のぞきこんだ香里にも緊張が走る。
「あの、これって映画なんかによくある、アレ?」なにか
話しているときそう感じた理由、それがこれか? 紗世の死にざま、過去が
なっている。
「タイムパラドックス」うなずく香里。「──かもしれない。どっちにしても今の
ところ紗世は死んだし、失礼だけど、紗世の死に方が多少変わっても歴史に大きな
変化は生まれない。けど……」
「もし紗世や、彦五郎が助かったら?」
「武志郎君、今、私の家にいないかも。そもそも今の私たち、紗世の地縛霊が武志郎
君に憑いたところからはじまってるんだし」そして紗世が香里の母を助けたところか
らである。
「どうなっちゃうんだろ? 俺たち」怪談にSF!? うさんくさいにもほどがあ
る!
「見当もつかない……」
しばし言葉を失う武志郎と香里。さまざまな憶測と妄想がはじけとび、ふたりの顔
色はどんどんと青ざめていく。とんでもないことに巻きこまれた? いや巻きおこそ
うとしている?
「……町人の娘や子供が生きてても、世の中たいして変わらないよね?」沈黙にたえ
かねた武志郎はおそるおそるいってみる。
「どうなんだろう? なんともいえない」不安げな表情をうかべる香里。ふたりは
またおし黙ってしまう。それはそうだろう、本来、幕末の江戸の町で死ぬはずだった
紗世という娘が死ななかったら? 彦五郎という少年が死ななかったとしたら?
彦五郎は出世して総理大臣などの歴史に名を残す人物になるかもしれない。気性の荒
い紗世が武志郎の父の先祖を殺したら? 彦五郎の子孫が若いころの香里の母と結婚
し、父と出会わなくなったとしたら? そうなったら、今ある現実の歴史はどうなっ
てしまうのか? 武志郎と香里はほぼ同じことを考えていた。すべてが映画やアニメ
にたびたび登場する設定からのみの知識であり、そこにはなんら
が、しかし絶対にないと誰もいいきれない事象なのだ。おそらく、これまでそれを経
験した者がひとりもいないからだ。
「…………」武志郎は紗世を説得して、彦五郎の救出をあきらめるようにいいふくめ
ることも考えた。過去の改変をすれば大変なことになると。時間の逆説によって世界
規模、いや地球規模で異変が起こるかもしれないと。しかし、このたとえ話を江戸時
代、幕末を生きた町娘に信じさせる自信はまったくなかった。
「時間? 逆説? 世界規模? 地球? なんでぇそれ? 知らねぇよ、このすっと
こどっこい!」おそらくこんな風にいわれておわるだろう。すっとこどっこいとは
江戸っ子の言葉で、バカ野郎という意味である。それにこの提案は、どこか紗世に
対する逃げのような気もした。なにから逃げているのかは不明であるが。
「武志郎君」香里は
「うん?」
「今後、紗世をだすときは必ずビデオを撮って。私も一緒に対策考えるから」
「香里……いや、こうなったら紗世はださない方が」
「今は私に気づかって一日一回しかでてこないんでしょ?」そういって香里は武志郎
の手をとった。「だけど、もし彼女がブチきれたら、今、こうしてるだけでまたでて
くる。何度でもでてくるかもしれない。それが一生つづくんだよ。いいの? 武志郎
君」
「…………」
「紗世が私にしか憑依できないのなら、私と会わなければいいだけかもだけど。将
来、同じことが別の人でも起きるかもしれない。違う?」
「違わない」初めからわかっていた話である。もはや生涯独身確定かもしれない。
「それにあまりいいたくないけど、私だから信じたんだよ。普通、誰も信じないから
ね、こんな話」
「だろうな」武志郎は香里をたのもしく見た。やはり秘密を共有できる者がひとりで
もいてくれるのは心強い。だが一方で、紗世とは別の意味で彼女にとり
な気がして首筋あたりがヒヤリとした。思いすごしであろうけれど。
「でも悩ましい。彦五郎君を死なせなければ紗世は消えるんだもんね」
「あのときの紗世を助ければ、俺に憑いた事実もなくなる。ただ、歴史が変わる可能
性がある。どう変わるか見当もつかない」
「堂々めぐりだね。やっぱり、毎回ビデオを撮って検討するしかないみたい」
「助かるよ、香里。正直、ひとりじゃどうにもならなかった。マジで」
「ブシロー! わっちにまかせとけってんでぇ!」
「はぁあ?」武志郎、ぎょうてん! 一歩も二歩も後ずさる。
「なーんてね」
「ざけんな」武志郎は香里の頭をポンとたたいた。
香里の提案で夏休みの宿題のつづきをすることになった。この五日間、香里もまっ
たく勉強に手がつかなかったのだという。武志郎は当然、気のりしなかったし、この
日はプリントのたぐいも持参していなかった。すると香里は読書感想文を書けばいい
と作文用紙をだしてくれた。『幕末志士義烈譚』に対してよい印象をだいていなかっ
た武志郎は
ここで
なので、とりあえず簡易テーブルにむかうことにした。書きだしに頭を悩ませなが
ら、ハッとした武志郎はバッグからノートをとりだした。紗世とのことでなにか変
わったことがあれば書きとめておけるよう持ち歩いていたいつものノートである。
案の定であった。
『一回目 香里を後ろから抱きしめた→瞬間、紗世が香里に憑依→俺が紗世を抱きし
める形となる→紗世を■■寸前の江戸。 場所、香里の部屋。時刻、午後六時ごろ。
ふれた所、俺の両腕と手の内側のみ。俺の死に方、うしろから袈裟斬りの上、腹を斬
られた』
紗世を「斬る」と書いたはずの文字がにじんだように消えていた。二回目、三回目
の書きこみも同様である。今、過去は紗世の死に方が
のだ。どちらかに確定した時点で
しれない。
「──怖いね」遠慮がちにノートをのぞきこんだ香里がいった。
「ああ、怖いな」武志郎はノートを閉じたが、感想文は一向に進まなかった。
(つづく)
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