第二章 夏の亡者 7
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「ま、そりゃ信じねぇよな」午後一時すぎ、自室に戻りくたびれはてた体をベッドに
投げだした武志郎はひとりごちた。香里には紗世が初めて姿を現したときからの
をできるだけこと細かに説明した。紗世という幕末に死んだ娘を
り、武志郎にも香里にも永遠につきまとってくるのだと。江戸時代が香里の思うほど
お花畑ではなかったという話と、もうひとつのこと以外はすべて正確に伝えたつもり
だった。けれど香里の反応は
く荒れくるった。
「私が江戸時代ずきだと思ってバカにしてるんでしょ! どこの誰がそんな話、信じ
るのよ! 冗談じゃない! バカ! 死んじゃえ! 私、今から病院に行く! 武志
郎君も頭みてもらった方がいいわよ!」そういいはなった香里は、二度と顔も見たく
ない、修学旅行委員も辞退すると宣言した。
「やれやれだ……」しかし一方で、これでいいのかもしれないとも武志郎は思ってい
た。少なくとも香里の脳や体に負担をかけることはなくなった。自分が紗世に監視さ
れつづけるだけのことであると。意識さえしていなければ、紗世は日常生活になんの
影響もおよぼさない存在であるし、紗世の望みどおり京都奈良へも連れていってやれ
るだろう。自分の目を通して観光気分を味わえるだろう。それにいつかなにかの事故
に巻きこまれそうになったら、また紗世が命を救ってくれるかもしれない。それはそ
れでラッキーなのではないだろうかと。
「うん?」ふと彼は疑問に思う。仮に武志郎が死んだとしたら紗世はどうなるのだろ
うということだ。武志郎の遺体とともに焼かれて消えるのか、それとも成仏できない
魂がふたたび漆黒の闇の中に押しこめられて永遠にさまよいつづけるのか。考えたと
ころで
答えが返ってくるだけだろう。そして笑いながらこうもいうだろう。
「ブシローがわっちを成仏させてくれりゃ、それでいい話じゃねぇか! なぁブシロ
ー」
そのままなにも手につかず、ひたすらベッドでゴロゴロしていた武志郎はふと思い
たち、香里から読書感想文用に借りたまま持ちかえってしまった『
という文庫本を読みはじめた。たのんだとおり薄めの本であったため、夕食をはさん
で五時間ほどで読みおえることができた。もちろん知らない単語や読めない漢字をス
マホで検索しながらである。確かに今の日本では考えられないほど熱い時代だったよ
うだ。維新志士、サムライ、男たちが知略、策略、暴力のかぎりをつくし、命懸けで
国の変革にいどむ姿は感動的ですらあった。ただこの小説には、紗世のような江戸の
庶民はひとりもでてこなかった。一行たりともふれられていなかった。武志郎はなん
だかそのことがむやみに腹立たしく、文庫をベッド脇にほおりだした。こんなんで感
想文が書けるかよ! なぁ、紗世……。
「紗世……すまない。ごめんな、紗世」武志郎は顔も知らない女に心から
俺はもうお前を助けられないと。
五日がすぎ、夏休みの宿題もあの日以降、まったく手つかずのまま八月をむかえて
いた。香里という女も、紗世という女も、初めからイレギュラーな存在だったのだと
自身にいいきかせることで、なんとか日々をやりすごす。これが武志郎のかかげた新
たな夏休みの目標であった。まずは宿題、そして高校生らしく遊びにいくべき、など
と考えてはみたがプリントを広げれば香里の泣き顔がうかぶし、遊びにいくにしても
一緒にいってくれる親しい友人など彼にはいなかった。大倉孝雄は剣道部で忙しいは
ずだし、
った以上、彼らと関わるのはわずらわしいだけである。つまるところ、武志郎は自宅
に引きこもり、宿題を開いたり閉じたりを繰りかえしてばかりいた。
自分でも情けないと自覚しながら。
居間でアイスキャンディをかじりつつテレビ映画を見ていた武志郎のポケットでス
マホが振動し、見ると孝雄からの着信であった。ある意味、天の助けのような電話で
ある。図書館でしていた勉強もやめて、ここ数日は昼間からうだうだとすごしている
彼に対し、母、篤子の視線がきびしくなりはじめていたのだ。
『ブシロー、海いこうぜ!』孝雄がいった。
「タカ、部の
『今年は土日休みになったんだよ。だから弱いんだろうな、うちの部』ヘラヘラと笑
う孝雄。
「へぇ。今年、合宿は?」
『
「じゃ今週か、来週だな」
『だな。急だけど今週がいいんだよ。来週はライブ聴きにいくからさ』
「有坂とか?」確か、彼女と孝雄は春休み、ライブ会場で仲よくなったと聞いた。
『そそ。で、海なんだがよ、香里ちゃんのつごう、確認してくんない?』
「え?」
『律子が聞いてもいかないっていってるらしいんだ。なんか、人前で水着を着たくな
いとかなんとか』
「……そうか」
『ブシローがさそえばくるだろ?』
「…………」
『なんだよ?』
「いや」
『香里ちゃんとなんかあったのか?』孝雄の声のトーンがひとつ落ちた。
「なにもないよ。ああ、そうだ、俺も今週は予定ができた、じゃない、あった」
『相談しろよ、保田奈美穂のときだって話聞いてやったろ?』
「黒歴史だ」それにあのころの孝雄とは違う。今はなにをいおうが律子に
う。
『ブシロー』
「とにかく無理。海、キャンセル」そういって武志郎はスマホをきった。とたんにま
たかかってくる。当然、孝雄である。武志郎は居間から自室へとそそくさと引っこん
だ。篤子が心配そうな、なにかものいいたげな目で見ていることには気がついていた
が、あえて無視した。
孝雄からは何度も電話がきたが、すべてスルーした。武志郎はスマホにむかい、す
まんタカ、と頭をさげる。孝雄も、律子にしても当然、悪気はない。むしろ善意と好
意しかないのだ。それはわかっているものの、つづいてメールがくると、つい舌うち
してしまう武志郎であった。ところが──。
「はぁ?」武志郎の心臓ははねあがった。メールを送ってきたのが香里だったから
だ。スマホをいったんふせて心を落ち着かせる。そしておそるおそるメール画面に
むきあった。
『明日、本を返しにきてください』文面はこれだけであった。
(つづく)
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