第二章 夏の亡者 5

       5


 夏休み六日目。武志郎はある決意をもって香里の家のインターホンを押した。紗世


と会うのは今日が最後、決着をつけると。令和を生きる自分は、同じ時代に生きてい


る女子の命をどうしたって優先しなければならないのだ。香里は生者、紗世は死者


だ。


 香里の部屋に入るのは二回目なので武志郎は案外、肩の力がぬけるのではないかと


考えていたが、そうはいかなかった。やはり女子の家は女子の家、しかも家人が誰も


いない女子の部屋なのである。ハンパな気持ちで香里に手をださない、確かにそう宣


言はしている。しかしはずみってこともある。魔がさすことだってないとはいえな


い。今は紗世がいるから安心だというだけで。いくら一緒に勉強をするという大義たいぎ


あるにしても、この状況はよろしくない。明日からは別の場所を考えなけえれ


ば。明日からは、紗世はもういなくなる……。


「どうしたんです? むずしい顔して」部屋に入ってきた香里が、簡易テーブルに麦


茶をおいて武志郎の前に腰を下した。


「やっぱ緊張するよ。人の家って」


「そうですかぁ?」といいながら顔を近づけてくる香里。武志郎はラグマットの上を


うわっと後ずさる。「冗談です」歯を見せて笑みをこぼす香里。その笑顔を武志郎は


なぜだか美しいと感じた。ただ、なんというか、あやういというか、はかないという


か。そう、病的な美しさであった。極端きょくたんにどこがどう変わったわけではない。


しかし顔のライン、肩のライン、胸のラインですら見なれているはずの香里のものと


違って見える。


「香里、ぐあい悪くないか? なんとなくだけど顔色よくないような」


「全然なんともないです。ただ……」


「うん?」──やはり紗世のせいだ。早く決着をつけなければ。


「このところ、急に頭痛がしたり足元に力が入らなくなったりがつづいたでしょ?」


「ああ、そうだったな」──すまない、香里。


「武志郎君、なんか私にもってません? 危ないクスリとか?」


「は?」


「だって、武志郎君と一緒のときにしかおきないんですよ、あの症状」


「ああ……そうなの?」それはそうだろう。ドラッグより何倍もたちが悪いことをし


ている。


「これも冗談です。でも、さすがに何度もつづいたし、少しなんていうか──」香里


はここで言葉を一度きった。「あるわけないけど、記憶がとんでるような気がするん


です」


「…………」


「変ですよね? あるわけないのに、そんなこと」


「香里」


「私、頭おかしくなったのかな? ごめんなさい、さ、勉強、勉強」テーブルにプリ


ントを広げる香里。


「これで終りだ」武志郎は香里の手に自分の手を重ねた。




「おう」紗世が重ねられていた武志郎の手から自分の手をぬきとった。「おめぇのヘ


タくそな字、わっちにゃむずしかったが、なんとか読んだよ、昨夜ゆうべ。ちょいと泣け


たぜ」


「そうか。だったら話は早い、彦五郎を助けにいくぞ。それで紗世は成仏じょうぶつしてく


れ」


「そう簡単にいくのかねぇ?」


「お前、他人ひとごとみたいにいうな。見えてたろ? 香里、明らかに弱ってるじゃな


いか!」


「そうだな、今、わっちもしんどい。昨日も妙だった。まあ、日に日に弱ってるらし


い、この女」


「だから──」


「ブシロー、おそらくこの女、米くってねぇぞ」


「はぁ?」


「わっちも飢饉ききんなんかでえたことあっからわかるがよ、こりゃあ七、八日は


ろくに物を口に入れてねぇぞ」


「本当かよ!」七、八日? まさか……。




「武志郎君、やっぱりデブはきらいなんじゃない。今日、はっきりわかりました」


「わかってました。私、保田奈美穂さんみたくスリムじゃないから」




「あれが八日前……」


「おめぇの好きなスラムになるため、なんだろうな。いじらしいっていゃあいいの


か、バカだっていゃあいいのか?」


「バカとかいうな! それにスリムだ!」


「へへ。バカだけどつえぇ女だな、香里は」


「は?」


「幽霊のわっちですら今、腹がへって倒れそうなんだぜ。それをこの女、笑ってたじ


ゃねぇの、さっきまでよ」


「……香里」


「おうブシロー! 血まような! 今、わっちはお紗世だ!」


「だな。そうだ、紗世! お前、腹へってるのか?」


「おう、まるで力が入らねぇ」


「ちょっと待ってろ!」武志郎は部屋をでて階段をかけおりた。



「おじゃましまーす」よそ様の家の台所をあさるというのは実に気が引ける行為では


あるが、背に腹はかえられないのである。紗世にタイムリミットがくる前に、とにか


く香里になにか食べさせなければならない。冷蔵庫にはほぼ野菜しか入っていなかっ


た。トマト、大根、キャベツにレタス。野菜を食べるのはいいことに違いない。しか


し、野菜しか食べないってのはどう考えてもダメだろう。まだ完成形ではない成長期


にあるのだから。


「あ、たまご」たとえば香里は、これひとつで一日分のタンパク質を補っていたのだ


ろうか? 武志郎は舌うちした。ふくよかでいいんだよ、香里は! 保田奈美穂とは


違う人間なのだから。



「おう? なんかいいにおいするじゃねぇか」


「紗世、もう食えるよ。いちおう、そばだ」武志郎が選んだのは結局、カップめんで


あった。それも紗世が食べたがっていたそばである。天ぷらそばではないが、キツネ


でも文句はあるまい。時間に制約がなければほかの選択肢もあったのかもしれないけ


れど。


「おう、そば? そばけ……」感無量かんむりょうといった表情の紗世は、プラスチックのカッ


プをおがみ、紙のふたをはいで、もったいぶるようににおいをかいだ。しかし、なぜ


だか一瞬、表情をくもらせる。


「どうした?」


「わっち、キツネ、あまり好きじゃねぇんだ」


「あ、そ。じゃ、キツネだけ俺が食うか?」


「やだ! やんねぇ。おげは好きなんだ」


「わけわかんねぇ。早く食わないとのびるぞ」


「そうかい? なら、いかせてもらうぜ」はしを手にした紗世はズズズとインスタン


トめんをすすり、ふやけはじめている大きな油揚げにかじりつく。


「うめぇ! おう、たまごだ! たまご入ってるぞ! 気がきいてるじゃねぇか。ブ


シロー、これ、くさってねぇよな?」


「賞味期限は確かめた」


「そうけぇ、なんだか知らねぇが、大丈夫でぇじょうぶなんだな! うめぇ、そば、うめぇ!」


「本物じゃないけどね」カップめんに、そこまで感激しないでくれ。空腹だったから


かもしれないけれど。


「ほう、なら本物ほんもんはもっとうめぇんか?」いいながらも箸がとまらない紗世。


半熟になったたまごをじゅるっと吸いあげる紗世。武志郎は切なくなった。


「ああ、うまいよ。俺はざるそばの方が好きだけど」


「ざるか、ああ、見たことある。夏はあれのがよさそうだ」


「ところで紗世」


「ああ?」最後の一滴までおしむように汁を飲みほす紗世。「なんでぇ?」


「香里は無理なダイエット、つまり断食だんじきで体が弱っていたんだな?」


「おうよ」


「バカだなぁ……」図書館の食堂で、香里はがんとして弁当を見せようとしなかっ


た。おそらくだが中身はサラダのみだったのだろう。本当にバカだ。


「ほれみい、おめぇだってバカだと思うだろ?」


「お前のバカと俺のバカは違うバカだ。とにかく紗世のせいじゃないんだな?」


「あたりめぇだろ! なんでわっちが香里をとり殺さなきゃなんねんでぇ?」


「そうか」ホッとして力がぬけて、武志郎は簡易テーブルに両手をついた。


「まあ、わっちがくと一刻いっとき、香里が弱るのは間違いねぇがよ」


「はぁ!?」どんでん返し?


「そりゃそうだろう? よそ様に脳みそや体、使われてんだ。疲れねぇわけがねぇ」


「ああ……」そうかもしれない。自分の意思に関わりなく他人の操り人形にされた


ら、おそらく脳や神経系がまいってしまうだろう。それが記憶に残らない無意識下の


できごとだったとしても。


「そんなわけでわっちは、香里の体がもういけねぇ、となったらおめぇにもどること


にしてんだ。そば食ったからな、今日はまだいけるぜ!」


「うん。でもあまり時間ないよな」


「ああ。そろそろ面積ってのを試すかい?」


「はは、面積、おおえたんだ」


「うっせぇ! どうやんだ?」紗世はバン!とテーブルをたたく。


「こうする」武志郎は、あぐらをかいている紗世を正面から抱きしめた。




 きた! 江戸時代、三田の横印町おういんちょう!と思った瞬間、刀をふりおろしていた。


「はぁああ?」うねる炎と煙の中で、武志郎は紗世を斬り殺していた。むろん、かた


わららには少年、彦五郎が転がっている。ほとんど一回目と同じ光景。そんなバカ


な! 武志郎は動転した。今回は全身で紗世を抱いた、絶対に初回よりふれた面積は


広かった!


「違うのか!?」面積じゃない。やはり時の気まぐれ? 法則なんてないのか?


「この悪党!」山賀乙の甲高かんだかい声が聞こえた。武志郎は初めてその言葉をうるさい


と感じた。


「うっせぇ! 今、それどころじゃねぇんだ! 黙ってろ!」怒りにかられた武志郎


のふみこみは速く、山賀乙にひと太刀たちあびせた。


「へ?」これには、着物のすそを斬られた山賀乙よりも、武志郎自身の方が驚いて


いた。だが歴史は繰りかえす。彼女の次の一刀で腹を斬られ、首にやいばがあたる


感触があって意識を断たれた。




「面積、ダメじゃねぇか! まーたわっちを斬りやがって!」どなる紗世に引っぱた


かれて、武志郎は目をさました。首はついていた、当然であるが。


「……ダメだったな」


「おめぇ、やっぱ、わっちにさわりてぇだけだろ?」


「紗世、もう一回だ、もう一回、試してみたい」


「バカ」また武志郎をたたく紗世。


「なんだよ!」


「日に何度もあれをやっちゃあ、それこそ香里が死んじまうぞ。おそらくな」


「ああ。だな」肩を落とす武志郎。なにが決着をつけるだ?


「ブシロー」


「ああ?」


「まだまだ長ぇつきあいになりそうだな」


「はいはい」武志郎、ため息。


「わっちぁ、嬉しいけどな」


「は?」


「そろそろもどるわ。そばうまかったぜ、ありがとよ」




「あれ? は?」香里が覚醒かくせいする。


「どうした? また頭痛か?」


「そうみたい。クラクラする。一服いっぷくもった?」


「無理でしょ? マジシャンじゃねぇんだから」


「だよね」といいながら重そうに頭をかかえる香里。


「なぁ香里」


「なに?」


「頭痛がおさまるまでベッドで横になったら? 俺、宿題やってっから」


「でも」


「襲ったりしねぇよ」


「わかってる。そうする」


「そうしてくれ」──紗世を救いたい、香里は守りたい。どうすりゃいい? 俺、浮


気者? そうだ、香里を守らねば! ベッドに身を横たえて目を閉じる香里に、武志


郎は話しかけた。


「──うちの母さん、ぽっちゃりなんだ」


「?」


「父さんなんか、かげでダンゴとかいってる」


「ひどい……」目を開き、顔をおこして武志郎をにらむ香里。


「でも父さん、母さんのこと大好きなんだ」


「え?」


「俺も、おっとりでぽっちゃりの母さん、実は好きなんだぜぇい!」かなり照れるセ


リフである。


「…………」


「無茶すんなよ、香里」


「…………」香里はなにもこたえなかったが、壁の方をむいて泣いているようだっ


た。こんなことで無理なダイエット、やめてくれるだろうか? やめてくれたらいい


のに。


 この日は久々に宿題にも熱が入り、物理に化学のプリントまでおわらせることがで


きた。一歩も二歩も先をいく香里は読書感想文もおわらせていた。午後七時をまわ


り、あたりが暗くなりはじめたころ、武志郎は香里の家をでた。昼食にと彼女が作っ


たチャーハンを、武志郎と一緒においしそうに食べてくれたことがなによりも嬉しか


った。そっと台所のゴミ箱に捨てたカップめんの空き容器には首をかしげていたけれ


ど。そして香里は、また明日ねといって送りだしてくれた。

 

 ここに一本の動画データがある。今日で決着と思いあがっていた武志郎は、紗世の


最後の姿を記念に残したくなったのである、これが見おさめだからと。いやらしい話


であるが、今日、香里の部屋にむかえられ、彼女が麦茶を持ってくるまでの間にスマ


ホの録画機能をイスのかげでセットしておいたのである。武志郎は誘惑と戦ってい


た。これを見たら人間やめますってことになりかねない。エッチなシーンこそない


が、どう考えても盗撮は犯罪行為だから。


「ううう」野良犬のようにうなる武志郎。それにスマホをしかけた時点では今の時


刻、紗世は成仏して消えている予定であった。盗撮を紗世に知られるのも実に気まず


い。やはりこのまま封印するべきだろう。


 ──いや待て。江戸に跳んだときの時間差、面積じゃなければなにが原因なのか? 


もしかしたらこのビデオが解明の手がかりになるのではないか? いずれにしても紗


世を救わねばならない、香里のためにも。だったら、見るべきだろう、心を鬼にし


て! 武志郎はそう自分を納得させたが、ようは見てみたかっただけである。


 画面には緊張のおももちの武志郎がひとりで映っていたが、すぐに香里が現れ、簡


易テーブルに麦茶をおいた。しばしふたりの会話、音声も明瞭めいりょうれている。


はっきりいって恥ずかしい。さて第一のポイントがきた。香里が紗世にのっとられる


瞬間である。いつも右目がえぐられるような激痛に襲われるため、その一瞬を正視す


るのは不可能なのだ。CG映画のような映像を期待したが、なんということはなかっ


た。激しい痛みにしかめた顔を前部に落とす武志郎、それと同時に引っこぬかれたよ


うに首が背中側へとゆらされる香里。それだけだった。そしてうしろに垂れた首が定


位置にもどってくると、香里のその表情は自信に満ちた江戸の荒くれ野郎のものに


変貌へんぼうしていた。


「こりゃキツイわ」つぶやく武志郎。あれだけ頭をうしろに持っていかれたら頭痛を


おこすのもうなずける。ヘタをすればむち打ち症になりかねない勢いだった。それか


らしばし、紗世とダイエットに関する会話があって、武志郎が画面から消えた。台所


へ食料を取りにいったところである。ひとりになった紗世は居心地いごこちが悪そうに


あぐらをかいた足を組みなおしたりしていたが、やがてどこからか猫のぬいぐるみを


持ってきてテーブル上におき、指先でつついたり、猫の鳴きまねをしたりしてひとり


遊びをはじめた。


「マジか……」思わず目を細めてしまう武志郎。適齢期だわ、がらは悪いわ、タバコ


は吸うわ。でも、やはり十五の女子なんだな、と思いつつ。階段の足音を聞きつけた


のか、紗世はあわててぬいぐるみを元の場所へともどし、なにくわぬ顔で腕組みをす


る。武志郎はククク、と笑いをこらえた。そしてそばをうまそうにすする紗世のシー


ン。一度、本物のそばを紗世に食わせてやりたいな、と考えているとついにきた、問


題の第二ポイントが。


 武志郎が江戸へとばされるそのせつな、その前後のふたりの動きを見のがすな! 


そう気ばった武志郎であったが、一回目との近似点きんじてん、二回目とのあきらかな相違


を、三回目を試みた今日の動画では見つけることができなかった。何度見ても見つけ


られなかった。


「なにが違うんだ……」武志郎は三回の江戸へのトリップ状況をノートに書きとめて


みる。憑依ひょういという漢字はスマホで調べて書いた。


『一回目 香里を後ろから抱きしめた→瞬間、紗世が香里に憑依→俺が紗世を抱きし


める形となる→紗世を斬る寸前の江戸。 場所、香里の部屋。時刻、午後六時ごろ。


ふれた所、俺の両腕と手の内側のみ。俺の死に方、うしろから袈裟斬けさぎりの上、腹を


斬られた』


『二回目 香里に憑依した紗世が俺の頬に人さし指でふれた→紗世を斬った直後の江


戸。 場所、図書館。時刻、午前十一時ごろ。ふれた所、紗世の指先一本分のみ。俺


の死に方、袈裟斬りはよけたが、腹を斬られた』


『三回目 香里に憑依した紗世を前から抱きしめた→紗世を斬る寸前の江戸。場所、


香里の部屋。時刻、午前十時ごろ。ふれた所、俺の頬、腕と手の内側、胸元辺り。俺


の死に方、袈裟斬りがくる前に相手の袖口を斬りつけた(なぜあんな動きができたの


か?)。けれど腹を斬られて、おそらく首を落とされた』


「わからない」場所も時刻もまちまちである。唯一の相違点と思われた体がふれる面


積を三回目ではふやした。けれど、結果は一回目と一緒。二回目は斬ったあとへと跳


べたのだから、紗世と彦五郎を斬る前へも跳べるような気はするのだが。


「やっぱランダムなのかなぁ?」そうだとすると明日いけるかもしれないし、ずっと


ダメかもしれない。武志郎は夏休み中になんとかしたかった。学校がはじまったらな


にかと厄介やっかいな気がするからだ。たとえば武志郎が気をつけていても、香里が肩を


たたくかもしれない。そこで紗世が表に現れたら授業どころではなくなるだろう。


「困ったもんだ……」さらに問題は香里が武志郎に疑念をいだきはじめていることで


ある。クスリをもった?などと冗談めかしてはいたが、あまりに頻発ひんぱつすると冗談で


はすまなくなるに違いない。そして録画で見た彼女の首の動き、あんなことをつづけ


ていたら本当に体を壊してしまいそうだ。──なんで、俺と香里にとりきやがっ


た? 紗世……。


「ん?」ここで武志郎は根本的な疑問を持った。三年前、武志郎にくまでの


紗世は一五〇年あまり、どこでなにをしていたのか? 不発弾の爆発で目ざめるま


で、地面の下でおとなしく眠っていたのではないのか? だとしたらその状態にもど


せないのか? 失明のリスクはあるかもしれないが、やはり手術で紗世の遺骨を取り


だし、土中深くに埋めてやれば、魂もしずまるのではないのか? 香里を守る最後の


手段としてはかなり有効なのではないだろうか?  明日、紗世にさぐりを入れてみ


ようと武志郎は思った。


                               (つづく)


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