第二章 夏の亡者 3

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「香里さ、宿題とは関係ない話なんだけど江戸の話、ひとつ聞いていいかな?」夏休


み五日目の県立図書館、談話スペースで学習を始めて一時間がすぎたころ、武志郎は


話をきりだした。昨日、江戸の話題に食いつきすぎた歴女体質の自分を、じゃっかん


恥じていたらしい香里は、むろん周囲にも気を配り、慎重な姿勢をたもちちつつ答え


た。


「なんですか? 手短に」


「仮に幕末の江戸の町で火事があって、その間、お茶屋で誰かが斬られたとしたら、


それはどんな事件だったと思う? そんな話、ない?」


「それだけじゃなんともいえない。江戸の火事なんてしょっちゅうだったし」


「でも人が斬られたってのは?」


「それもどうだろう? タバコやかまどの火の不始末や行灯あんどんの油が原因の失火な


ら、その期に乗じた悪党のしわざかもしれないし……」


「悪党……」いやな響きである。これをいわれたあとは必ず殺されるからだ。


「そもそも火つけが初めから強盗をもくろんでしたことかもしれない」


「そんな事件、いくらでもあったってこと? 江戸は安全な町じゃなかったっけ?」


「ああ、うん、そうだけど。でも、どんな時代にだって変わり種はいると思います


よ」


「だったら史実に残るんじゃない? 特殊な事例として」


「八百屋お七みたいな? でもあれは、強盗目的じゃなくて、別れた恋人に会いたい


一心でやったことだから」香里の目はどこかうっとりとしている。そして心なしかそ


の横顔、あごのラインに武志郎は違和感をもった。どこかしら、なぜかしら……。


「あ、そう。ごめん香里、つまんないこと聞いて」八百屋お七が何者なのかはあえて


聞かなかった。話が横道へそれた上に長くなりそうだからである。いずれにしても、


直接話を聞かなければ事件の特定はむずかしいようだ。ここは紗世先生におでましい


ただくしかあるまい。紗世出現の後遺症で苦しむことになる香里には申し訳ないのだ


けれど……。武志郎は消しゴムを机の下に落とし、ひろいつつ、隣席の香里の足首に


そっとふれた。




「おう、けぇったぜ」紗世が笑った。


「はいはい」痛む右目を押さえながらこたえる武志郎。


「今日はめっぽうすんなりだしてくれたじゃねぇか、嬉しいねぇ」


「紗世に早くでてってほしいからだよ」


「けっ! よくいうぜ! 坊ちゃんに甚助じんすけこきやがったくせしてよ!」


「声がでかい。なんだよ、ジンスケって?」


「おう、すまねぇ」声を落とす紗世。「甚助ったら、そうだな、やきもちでぇ」 


「はぁ?」


「おめぇの腹の内はよーくわかった」


「わかってねぇ。それに、もういいかげん、今の言葉、おおえろよ。いつも見てるん


だろ? 俺の見てる本とか、スマホとか」


「──わっちは学問やってねぇから、ろくすっぽ字、読めねぇんだ」少しくやしそう


な表情で、目をふせる紗世。


「ん?」香里の話では、江戸の識字率しきじりつは世界一だったはずだ。「子供のころは寺子


屋いって、かわら版とか、えー、そうそう滑稽本こっけいぼんだっけ? 読んでたんだろ?」


すべて昨日、香里から仕込まれたにわか知識である。


「あんなんおめぇ、むずしい字は書いてねぇ。仮名かなばっかで絵があるからなんとな


く読めるんでぇ。いっとくがブシロー、香里の話ぁホラだらけだぜ」


「は?」


「お武家様や、大店おおだなのこせがれならいざ知らず、わっちら長屋ずまいの貧乏人が


まともに寺子屋なんざいけるもんかい。女はちっせぇうちから子守りにだされるか


くるわに売られた。男だって物心ついたころにゃ奉公にだされちまうんだから


よ。ヘタすりゃ口べらしに捨てられたり、売られたりがあたりめぇにあったんだ。


だからってひと様の面倒めんどうをただで見ようなんて物好きはまずいなかった


ね」


「長屋に義理人情はなかったの?」


「あったさ、まるでなかったわけじゃねぇ。けど、どこも楽じゃねぇからよ。しゃあ


ねぇのさ。まずはてめぇの食いぶちだろ?」


「そうなんだ」──嘘だろ? 話が違う。長屋は人情にあふれてたんじゃないの?


「それによ、町がきれいだ? どぶ川はゴミだらけだし、長屋は糞尿ふんにょうやら野菜


クズ、魚クズの腐った臭いでくせぇのなんの。おめぇや香里じゃ一刻いっときだって辛抱


できねぇだろうよ。それにおまんまだってひでぇもんよ、米なんぞ奉公にでるまで見


たこともねぇ。奉公先でも、汁もの、こうこ、茶漬けくらいしか食わしちゃもらえな


かった。そうさな刺身なんてよ、ありゃ食えたもんじゃねぇぜ。旦那様が捨てたのを


勿体もってぇねぇって鼻つまんで食っちまったら、はらわたでんぐり返って、わっちゃあ、


死にかけたぜ。そうだ香里、いってたよな? 江戸の名物、そばに天ぷら? あんな


んおめぇ、わっちは食ったこともねぇよ」


「マジで? 江戸にいたのに?」


「奉公人が外でめしを食えるけ? いちんち中、子守りに店番、掃除に洗濯だ。よう


よう『鉄火小町』と評判とって、これからがはなだってときだったのによう……」


「殺されちゃったんだ?」


「おうよ。そば、天ぷら、いっぺん食いたかったぁ」


「…………」ひと言もない武志郎。とても同じ日本人とは思えなかった。えたいの知


れない罪悪感がこみあげてくる。


「まだ、聞きてぇか? ブシロー」


「いや、いい……てかお前、また香里のまねしてない?」


「ま、いずれにせよ香里の話、すみからすみまで与太だらけさ。へへへ、ざまぁ


みやがれ」


「本人にはいえないな」内容がブラックすぎて。夢がこわれるレベルの話ではない。


「ま、わっちは岡場所に売られなかったぶん、ましだったけどよ。ありゃ長生きでき


ねぇからな」


「あ、そう」岡場所、その言葉は知らないが風俗店のことだということは武志郎にも


さっしがついた。風情ふぜいとか優雅ゆうがとは無縁であることは間違いないようだ。


「どのみち長生きできなかったけどよ。へへへ」さびしそうに笑う紗世。武志郎は胸


がしめつけられる思いだったが、あえて心を鬼にした。原理は不明だが、またすぐに


タイムリミットがおとずれてしまうであろうから。


「そうだ、紗世。死んだとき何歳だったんだ?」そして昨晩、紗世への質問を書きつ


けたノートを開く。


「十六でぇ」


「十六? 俺と一緒か!」武志郎は二十代前半からなかばだとふんでいた。


「みてぇだな。けど、おめぇずいぶんと目下に見えるぜ。弟みてぇだなぁ」


「あ、そう、はいはい。で? 誕生日は?」


「たんじょうび?」


「生まれ年と生まれた月と日だよ」


「あ──、嘉永かえい六年、七月。日までは知らねぇな」


「あ、そう。今月か」ノートにメモを取る武志郎。「それと、死んだ場所と日時を教


えてくれ」


「所は三田は横印町おういんちょう多葉粉たばこ屋、『大鹿庵おおしかあん』よ。おめぇにいたあたりだろうが」


「だろうね。でもタバコ屋? 茶屋じゃねぇの?」


「客に茶も運んでたさ。よく粗相そそうして乱暴者だとしかられたがな。ただよ、店先


でわっちが小粋に煙管キセルを吹かすってぇと男衆がわっとよってたかったもんよ。見せ


たかったぜ、わっちのりっぷり」シャーペンを煙管に見立て、粋なポーズを取っ


てちょぼちょぼとやわらかめに三、四口だけ吸い、ポンと灰を落とすしぐさをしてみ


せる紗世。


「十六歳の乱暴者がタバコ、吸ってたんだ?」それで『鉄火小町』か? 確かに評判


にはなりそうだ、よくも悪くも。ひと昔前でいうスケバンにしか思えない。


「わっちぁ、タバコ屋の看板娘だからな」吸うのが当然だと、自慢げな表情の紗世。


「まあ、いいや。紗世が死んだ日はいつなの?」


「そうだなぁ、忘れもしねぇ。慶応けいおう三年十二月二十五日。昼四つくらいのことだっ


たよ」


「昼? 夜じゃなくて?」クリスマスの昼か、と武志郎は思ったが説明が面倒なので


口にはださなかった。あえていうのならキリシタンのお祭りさわぎ、といったところ


だろうか。


「ああ、ドンパチやってんのは聞こえてたし、火の手があがってるのも遠目に見え


た。だが旦那さん、いくさがこっちまでくることあるめぇと高をくくってたん


だな。それがこの始末よ、不甲斐ふがいねぇ」


「誰にやられたのかはわかってるの?」


「ああ、おそらく御用盗ごようとうだろうぜ、田舎者の芋侍いもざむらい不逞ふていのやからよ」


「ごようとう? それでほかの家族は?」武志郎はノートにごようとう、イモ侍とメ


モを取った。いちいち単語や名称の意味を質問していたら話が進まない、あとで検索


すればいいのだ。


「旦那さん、おかみさんはまっ先にやられたよ。わっちは彦五郎ぼっちゃんのそばか


らはなれなかった。さしでがましいが、ぼっちゃんを弟みてぇに思ってたからよ」


「弟……」


「ぼっちゃん、まあだここのつだったんだぜ。こんなちっちぇ時分からわっちが子守り


して、わっちが育てたみたいなもんだったんでぇ……」紗世は膝頭ひざがしらを両手できつく


握りしめ、ギリリと歯がみしている。泣くまい泣くまいとしているように見えた。


「そっか」たまらなくなった武志郎はいきなり過去へ跳ばされるリスクもあったの


が、紗世の肩にそっと手をおいた。すると紗世はへへへ、と力なく笑って、ふるえて


いる自分の手を重ねてきた。


「すまねぇな、ブシロー」


「いいってことよ。……あ、ところで紗世、このまま俺を跳ばしてみないか?」


「ああ?」


「昨日、考えたんだけど、一回目と二回目で到着時刻にズレがあった理由、あ、わ


け、紗世にふれたときの面積の差かもしれない」ひときわ声をひそめる武志郎。


「どういうことでぇ? メンセキたぁなんだ?」紗世は武志郎の手をはなし、ぐぐっ


と身をのりだしてくる。


「つまり、一回目は俺が香里をうしろから抱きしめたときだ」


「だったなあ。れてもねぇのに」


「だまれ。つまり、こう両方の腕の内側が香里にふれてたことになるんだ」あのとき


の香里は勉強机にむかいつっぷして泣いていたから、イスの背板にはばまれて腕以外


の場所が直接ふれることはなかった。「それに対して二回目は紗世の指先、それも先


っぽだけが俺のほおにさわっただけだった」自分の頬に人さし指を押しつけて


みせる武志郎。


「だから?」


「だから、ふれてる範囲、じゃない、ふれるところが広ければ広いほど、紗世たちが


斬られる前の時間に跳べるんじゃないかと思うんだ」


「おめぇ、わっちの体にべったりさわりてぇだけなんじゃねぇか?」身を引きながら


疑わしそうな目をむけてくる紗世。


ちげぇーよ」しかも実質、紗世ですらない。ふれるのはあくまでも香里の体


である。


「そんなバカげた話、本当ほんとにあるのかい? ちぃと信じがてぇな。眉につばぬ


るねぇ」


「お前がいうな、幽霊のくせに。やってみなくちゃわかんねぇだろ?」


「そりゃあそうだ、まっとうな話だ」


「よし、紗世。前回は指先だけだった。だから今回は試しにてのひら全部で江戸に跳ば


してみてくれ」意を決し、腕をさしだす武志郎。だが、紗世はなぜだか躊躇ちゅうちょしてい


た。


「早くしろよ、紗世。こういうのは勢いつけないと」武志郎だって怖いのである。


「すまねぇが、今は気のりがしねぇ」


「はぁ?」


「ぼっちゃんのこと、いろいろと思いだしちまってよ。見たくねぇんだ、あんなの、


今」


「…………」──泣きそうになってたもんな、こらえてたもんな、紗世は。


「明日にしちゃもらえめぇか?」


「わかった。そうしようか」実はホッとして腕をおろす武志郎。


わりぃな、おめぇだってこええってのによ。ふるえてたぜ、おめぇの手。無理


しやがって!」


「わっ!」紗世が武志郎の胸にしがみついた。ヤッベ! 両腕をあげる武志郎。電車


内で痴漢なんかしてませんアピールをする男のようである。当然、衆目を集め、周囲


にいる人々からは完全に見世物にされていた。しかも二日連続である。この図書館で


はふたりに明日はおとずれないかもしれない。


「紗世……」武志郎は彼女を抱きすくめたい思いを懸命にこらえた。そして右目に激


痛、紗世が武志郎の中に帰ってきた……。






「あ……」武志郎の胸においていた頭がズルリとさがり、そのまま香里はイスから転


がり落ちそうになった。「香里!」思わず大声をあげてしまう武志郎。


「大丈夫……まただ」机に手をついてつらそうにあげた香里のその顔は、完全に血の


気が失せており、しかもゲッソリとやつれているように見えた。「頭、痛い」


「香里……」武志郎は唇をかむ。そして気づいた。気のせいではない、間違いなく香


里のほおは以前にくらべてほっそりとしていた。今朝、横顔を見たときに感じ


た違和感の正体はこれだったのだ。ほんの少しではあるがあきらかに、丸かった香里


のあごのラインにスッキリとした角度が見てとれた。これはまさか、紗世という亡霊


に一時的にでもとりかれているせい? 紗世が香里の精気をうばっているのか?


「どうしたんだろ? 本当に、私……」不安そうな表情で、目尻にシワをよせ何度も


まばたきを繰りかえす香里。


「…………」


「あ──治まってきた。なんか、頭痛もちになっちゃったみたい」


「そっか」そんなんじゃない。武志郎は、気のきいたことのひとつもいえない自分に


ジリジリとする。


「ごめんね。なんか全然、勉強に集中できないね」


「いや、そんなの」──俺のせいだ。たとえば、このまま同じことをつづけていたら


香里の体がもたなくなって最悪、命を落とすなんてこともあるのではないか? 遠い


昔の死人の願いをかなえるために、今生きている人間が死ぬ? それも紗世とはなん


の関係もない女の子が! それはさすがにおかしくねぇ?


「もう平気。宿題、つづけよう」


「いや香里、あの……」武志郎は周囲をちょいちょい指さす。ふたりはあきらかに注


目を集め、どこか白い目で見られているようであった。ボソボソとしたささやき声が


聞こえてくる。



「なにしにきてるのかしらね」「ラブホいけばいいのに」「リア充死ね!」 



 先ほどまでは青かった香里の顔が真っ赤になっていた。恥ずかしがっているのか、


怒っているのかわからない表情をしながら。


「武志郎君、帰ろう!」どうやら怒っているらしい。


「そうしようか」武志郎も、とても宿題をつづけられる気分ではなかった。


                                (つづく)


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