第二章 夏の亡者 2

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「幕末か……」その日の夜、図書館ではほとんど手がつかなかった物理のプリントを


勉強机に広げてはいたが、どうしても気持ちがそれていってしまう。このままでは七


月中に宿題を終わらせるなどとても無理だろう。だが紗世はこの瞬間にも目の奥で自


分の監視をつづけているのかもしれない。そう考えただけで、いてもたってもいられ


ない気分になるのだ。


 この時点で武志郎は、紗世が香里の別人格であるという可能性を捨てていた。それ


がとんでもなく非常識な判断であるということは間違いない。だが、武志郎とはそう


いう男なのである。山原勇人の言葉を借りれば、お人よしすぎ、ということなのだろ


う。


「どうしろってんだ?」武志郎は教科書にもほとんど出てこない新徴組しんちょうぐみについて


スマホで検索してみる。記事の数はそれなりにあったが、どれもこれも似たりよった


りの内容であった。ネットよりも香里の話の方がはるかにくわしい、そんな気がし


た。きちんと専門出版物でも読めば、また違うのかもしれない。ただそのときは香里


のいう通り、漢字をいちいち検索しないと読めないに違いない。武志郎は思わず、香


里スゲーとつぶやいていた。ネット情報の中では隊旗の画像がなかなかにおもしろい


と思った。新選組の方は「誠」の一文字が書かれている旗なのに対し、新徴組の方は


「SHINTIOU CO」とローマ字で書かれているのである。しかもなんとなく


不自然なローマ字、そしてCO。これでは新地王商会になってしまう。武志郎はさす


が江戸時代だと微笑ほほえましく思ったが、COの訳に自信が持てずに、また検索した。


意味はどうやら合っていたようだが、確かに勉強って必要かも? あらためて自身の


学力不足に慄然りつぜんとする武志郎であった。


 紗世について思いをめぐらせてみる。そして、また検索する。どうやら人格や説


明、意味という単語ができたのは明治時代になってから、たとえば自由という言葉で


すら江戸時代には存在しなかったということがわかった。武志郎はショックを受け


た。普段、なにげなく使用している言葉が、現に会話がそれなりに成立している幕末


の女性に理解されないという事実に。昔からあるものだと信じて疑わなかった言葉の


歴史の浅さに。さらに好奇心で調べると、キス、接吻せっぷんという単語も維新前にはなか


ったようだ。


「だから口吸くちすいか……まんまじゃねぇか! エロいな江戸時代」武志郎は紗世にも


文字がよく読めるようにと、スマホを右目に近づけてみた。


「少しはこっちの言葉もおぼえろよな」見えてるんだろ? そう思いながら。


 ──などと楽しく歴史を学んでいる場合ではない。紗世にはぜがひでも、でていっ


てもらわねばならない。風呂もトイレも×××も、一生涯のぞかれつづけるなんてと


んでもない話である。


成仏じょうぶつねぇ」──神社かなにかで祈祷きとうを受けるとかじゃダメだろうか? 


ダメだろうな。目の手術を受けて紗世のかけらを物理的に取りだすとか? いや、そ


れはそれで怖い、あの爆発から時間がたちすぎている。とっくに目の細胞の一部と化


しているかもしれない。結局、彦五郎ぼっちゃんとやらを助けるよりほかに手はない


のだろうか? 


「爆発?」武志郎はここでハタと気づいた。あの不発弾はJR田町駅から少しはなれ


た三田の建築現場で爆発した。つまりあそこが紗世の死んだ場所ということだ。それ


に紗世自身から死んだときの日時を聞ければ、時間の特定でもきる! 紗世を斬るこ


とになる男の正体もわかるかもしれない! そうだ、香里なら江戸時代のマップとか


持ってるぞ! 


「でも、だからどうしたって話か……」ひたいをコツコツとたたく武志郎。


 一回目と二回目、過去にもどった時間にズレがあった。一回目は彦五郎はすでに死


んでいて、紗世を斬る場面からはじまった。二回目はふたりとも斬り殺したあと。こ


の差はなんだ? なにか法則でもあるのだろうか? それとも単なる時の気まぐれ? 


いや、それをいうなら紗世の気まぐれかもしれない。なにしろ胸三寸むねさんずんで、彼を江戸


時代にばせるらしいから。しかし抑制がきくのならば、少なくとも二回目は


ふたりが斬られる前に跳ばしただろう、それはありえない。厄介やっかいなのは紗世自身


がアレをできる理由をわかっていないことだ。実に無責任な話である。アレがあの場


所、あの瞬間であるというのは、やはり紗世の怨念、執念のあらわれと理解するしか


ないのだろうか。


「何度もためすしかないってこと? 怖いの嫌だなぁ。ほかに方法、ないのかな?」


まあないだろう。武志郎は、紗世が憑依ひょういするたびに苦しげにしている香里を見る


のもつらかった。──そもそもなんで香里なんだ? 三年間、でてこなかった紗世が


なぜ、いきなり香里にとりいたんだ? ほかの人間で代用はきかないのだろ


うか? たとえば丘蓮美とか。あいつなら頑丈がんじょうそうだし。


「いや……」蓮美の体にさわった瞬間、ぶっとばされるだろう。バレー部できたえあ


げたパワーが、同い年の女子とは思えないほどのアタックが炸裂さくれつするだろう。


「同い年?」そういえば、紗世の年齢を聞いたことがない。自称、水茶屋のアイドル


だそうだから勝手に若いと思いこんでいたが、どうなのだろう? そして、彦五郎ぼ


っちゃん、ヤツは? ぼっちゃんという呼び方から子供を想像していたがそうとはか


ぎらない、大人だってぼっちゃんと呼ばれることはある。中学の教科書にって


いた夏目漱石の小説の主人公は確か大人で、教師だった。もし幼い子供を助けられる


のであれば、それはありかも?と心のどこかで思わないこともなかったが、まさかの


色恋? どうだっただろう? 紗世に気をとられていたから彦五郎の遺体にまでは注


意がいかなかった。もし大人だったとしたら、彦五郎は紗世の男!?


「はぁあ! なんでそんなもんを俺が助けなきゃならねぇんだ!」いってから武志郎


は自室のドアをキッと見た。今のはひとり言としては声が大きすぎた。両親に聞かれ


ていたら心配されるレベルだろう。伸宜も篤子も、案外、自分を気にしてくれている


ことを武志郎は知っている。ドアの外に異変はなかった。ため息をひとつつく武志


郎。


「もう無理……」破裂しそうな頭をかかえた武志郎は、物理のプリントを脇に押しや


り、新品のノートを開いた。そして次に紗世と会ったら聞くべきことを箇条がきにし


はじめる。確認するべきことを先にしてから行動に移すべきだと思いいたったのであ


る。この夏の目標が今、武志郎の中で明確にさだまった。彼はノートにガシガシと書


きこんだ。



『なんとしてでも夏休み中に紗世をおっぱらう! あわよくば成仏させてやる!』



これである。どうせ去年もおわらせられなかったのだ、宿題なんて二の次である。生


涯、幽霊にきまとわれることを思えば宿題なんて、そう、夏休みの宿題なん


てもの、どうということはない。


「…………」ここで残念そうな香里の丸い顔がうかんだ。「くそ!」武志郎は夏休み


の目標を上方修正することにした。



×『なんとしてでも夏休み中に紗世をおっぱらう! あわよくば成仏させてやる!』

                    ⇓     

〇『なんとしてでも夏休み中に紗世を成仏させる! 宿題も勉強も全力でやる!』



 武志郎は片すみに追いやった物理のプリントを机の中央へと引きもどした!


(つづく)

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