第一章 春の地獄 14
14
結局、香里の住む町にふたたび武志郎はおりたった。四日ぶりのことである。同じ
学区内に住んでいた保田奈美穂の家の前ですら、ときおり、たまたまといったていで
通りぬけていただけであるというのに。なにやってんだ、俺。そう思いはじめると背
にした駅にもどってしまいそうになる。なにもくることなかったのでは? 電話でよ
かったのでは? メールで──きりがない。自身のヘタレぶりに舌うちする武志郎。
決めたんだ、いくぞ、俺! 彼はゆるいくだり坂の駅前商店街の方へと足をふみだし
た。
雑木林にかこまれた貯水池、「痴漢に注意!」の看板を横目に見ながら、犬の散歩
をしている中年女性の一団とすれちがう。高まる緊張感、そして聞こえてきそうな心
臓の
香里の家に到着してしまう、そのことを足が巨費しているようだ。ただ同級生の家に
いくだけだぞ俺の足。一度立ちどまった武志郎は、自分の
午後五時十七分。そんなわけで香里の家の前についても、インターホンを押すだん
になると武志郎のビビリぶりが
きたり、そのさまはまるで挙動不審者である。とうの本人はそのことにまるで気づい
ていないようであるが。
「武志郎君」小さな声が聞こえた。見ると玄関ドアが細くひらいていて、中で香里の
顔が半分だけ、夕刻近い南西からの日ざしをうけていた。
「あ──」言葉がでてこない武志郎。
「入って。ご近所の目があるから」
「あ……はい」ここで武志郎は初めて思いいたった。まだ日が高い、完全に西へかた
むくまでには少し時間がかかるだろう。主婦や老人、子供らと人通りも多く、制服姿
で落ち着きなくうろつく彼を、うさん臭い目で見る者がいたかもしれない。前回の夜
間訪問時とはまるで状況が違うのである。こうして彼は、なしくずし的に家屋二階の
香里の部屋へと連れられていった。仕事にでている彼女の母親の帰りは午後九時近く
になるのだという。武志郎の顔から血の気が引いたことはいうまでもない。
いいのか?という倫理観と羞恥心。いいの?という好奇心と色欲。そして、ヤバく
ない?という江戸の荒くれ野郎への
着がTシャツに、
動揺させていた。足をだすのは恥ずかしいといってはいたが、ひとりでいるときには
年そうおうの女子らしいオシャレを楽しんでいるのかもしれない。
「あの、なんで俺がいるってわかったの?」香里から冷えた麦茶をうけとり、ベッド
に腰をおろして肩をすくめている武志郎がたずねた。
「パトロールの警官から不審者がいるって通報を受けたので」勉強机のイスに腰かけ
た香里が答える。
「はぁあ!」飲んでいた麦茶と氷を吹きだしそうになる武志郎。
「嘘です」おもしろくもなさそうな
「はぁ?」
「勉強してて、その窓から見えたから、武志郎君が──」
「なるほど」武志郎は、レース生地のカーテンが吊られたアルミサッシの窓から外部
を見おろしてみる。確かに門扉のあたりがよく見えた。あそこでフラフラしていると
ころを見られていたかと思うと恥ずかしくなる。そして
に気をつかいつつ香里の部屋を見わたす。むろん、
の女子の部屋にあがるのは物心ついてからは初のできごとなのだ。六畳間の和室で木
製の学習机とベッド、書棚とクローゼットが機能的に配置されていて、室内の中央に
はラグマットが敷かれている。
こちらに飾られているのはいかにも女子らしい。しかし、天井に江戸時代の浮世絵、
美人画や役者絵のポスターがはられているのいかがなものか。そして香里の性格をも
っとも表していると思えるのは雑然としたところがなく、整頓と清掃がいき届いてい
るところだ。ただ家具も他の品も、どれもこれも古そうな物ばかりであった。鵜飼
家は経済的に苦しいらしいと孝雄がいっていた、それは事実なのだろう。武志郎は胸
がしめつけられる思いがした。この質素な部屋で香里は毎日、新品の暗記シートとド
リルを準備してくれていたのだ。
「あんまり見ないでください、
「そんなことないよ。あ、すごいね、これ」書棚にならぶ本へと目をむける武志郎。
浮世絵のカラームック、古地図本、解説書、箱入りの歴史小説、棚の
江戸時代関連の書籍、文献で埋めつくされていた。
「江戸時代、好きだから」
「
「
「いや、熱中できることがあるのっていいと思うよ、マジで。俺、なにもないし」
「そうなんですか?」
「江戸時代のどこがいいの?」
「いいです。そんなの聞いてもおもしろくないです」
「いいから、教えてよ」そんな話をするためにきたわけではないのだが、どうにも香
里のテンションが低すぎる。なにを話すにしても、このままではやりにくい。歴女は
趣味の歴史の話になるとがぜん、
思いだしたのだ。
「私の好きな江戸時代は……」ボソボソと無表情のまま話しはじめる香里。しかし、
その話しぶりは趣味を語るというより、江戸時代のどこがいいのかという武志郎の問
いに対し簡潔にこたえているだけのようであった。
「江戸の町では着物でも食器でも家具でもリサイクルが当り前で、なんでも再利用し
ました。トイレの
は路上や木のかげでたれ流しだった時代にです。それから道ばたにはゴミくずなんて
落ちてなくて、トイレもふくめて江戸の町は世界一清潔だったんです。江戸の人々は
多種多彩な料理を楽しむグルメでした。
表もあったくらいです。江戸前寿司やそば、天ぷらばかりが名物として有名ですが他
にもおいしい物であふれていたんです。それから彼らは旅行好きでした。今でいう旅
行ガイドの本も数多く出版されていました。出版といえば、その当時、
世界一でした。どの町にも寺子屋があって、わずかな賃金で子供たちに読みかきソロ
バンを教えるような文武両道のすばらしい大人たちがたくさんいたからです。そんな
人々がいたから、人と人の間に義理人情が息づいていたから、江戸は百万人都市であ
りながら三十人ていどしか同心、今のパトロール警官がいなくても町の治安はたもた
れていました。今よりもずっと安全だったんです。
ですら今と違って
いうものなのかはよく知りませんけど。──まだ、話しますか?」
「いや、いい」じゃっかん
音声解説を聞いているようであった。確かに雄弁にはなったし、知識は果てしなくあ
るようだが、気持ちがあがったようにはとても見えない。以前、勉強のあい間に江戸
の話をしていたときの香里は、もっともっと目を輝かせていたのに。
「だからいったじゃないですか……おもしろくないって……私なんて……」
「え? な、なに? え?」武志郎は
ポトポトと落ちているのである。「か、か、香里? なに? どうした?」立ちあが
り、おろおろとするばかりの武志郎。一気に顔をあげた香里は天井をあおいで呼気を
整えた。そしてティッシュで目元、鼻元をぬぐっている。「どうしたんだ、香里」
「もう、いいです。鵜飼さんで」
「え?」
「一昨日、笹井先生に怒られました。内申点のこと、嘘ついてごめんなさい」
「ああ、それ。うん」──笹井のヤツ、自分で香里を責めるなっていったくせに!
「期末がおわったらいわなきゃ、いわなきゃってずっと思ってたんだけど」
「うん」
「いえませんでした。本当にごめんなさい」
「いや、いいんだよ! 俺も笹井には怒られた、そんなこと知らない方が悪い!って
さ。それに少しは点取れて、両親なんか飛びあがって喜んじゃって。結果オーライだ
よ。マジ、オーライだからさ!」身ぶり手ぶりをまじえ、多少大げさに騒いでみせる
武志郎は必死である。香里に罪はない、むしろ恩人なのだ。
「それだけじゃありません」
「え?」
「塾にいってるとか嘘、いいました。うちにそんな余裕ないのに、
んです」
「違うだろ」──それこそ嘘だ。
「私、武志郎君に好かれてるかな?なんて
しいこと……どうしょうもないです」
「いや、勘違いってか……」
「いいんです。武志郎君、やっぱりデブは嫌いなんじゃない。今日、はっきりわかり
ました」
「へ?」──き、今日? まさか、昼休みの密談、聞かれていた? えー、嘘ぉ!
「そうじゃないかと思ってたけど、やっぱりそうだった。早くいってくれないと」
「…………」──どうしよう、どうしよう!
「わかってました。私、保田奈美穂さんみたくスリムじゃないから」
「あ、あの……」──うわっ、やはり聞かれてた! 間違いないよ!
「武志郎君、今日、きてくれてありがとう。助かりました」
「え? え?」
「だって、学校で泣いたらりっちゃんたちが騒いで、大変なことになっちゃう──」
言葉をつまらせた香里の目から
武志郎に背をむけ、勉強机につっぷした香里は声をころして泣きつづける。
「香里……」
「鵜飼さんでいいってば!」
「…………」
「大丈夫! 大丈夫だから、明日からは大丈夫だから! もう帰って!」
武志郎は思わず、香里をうしろから強く抱きしめていた。強く、強く。
するときた! あのえぐられるような右目の激痛が──。
周囲がゆらめいていた。燃えていた。木造の室内が
火事!?と思う間もあたえられず、武志郎は手にした日本刀をふりおろしていた。お
ぞましいほどの哀しい悲鳴がひびきわたる。血しぶきが武志郎の顔や胸にはねかかっ
た。目の前に
劇のようなかつらをつけた首、そして胴体がほとんど切りはなされた血まみれの状態
で。
死んだ! 武志郎は思ったが、女の首を斬りおとしたのはまぎれもなく武志郎自身
であった。さらに、彼女の脇に転がっている小柄な男の姿が目にとびこんできた。
「うわぁあ!」叫びながら赤い血に濡れた刀を懸命に手からふりほどこうとする武志
郎。投げだしはしたものの、感触は
切った、首を切断したという感触が。武志郎は炎と煙に巻かれながら両手を広げて絶
叫した。
「この悪党!」
に斬られた武志郎は、ふりかえり、一歩ふみだすも、次の
板の間に倒れふした。意識が完全に途切れる前に、刀についた武志郎の血をはらう
「ブシロー、おい、ブシロー!」女の呼ぶ声。母さんではない、母さんがブシローな
んて呼ぶはずがない。「しっかりしやがれ、この野郎!」
「!」息を吹きかえした武志郎はせき込みながら、目玉のみを動かして周囲を見る。
炎につつまれてはいない。先ほどまでと変わらない香里の部屋にいるようだ、浮世絵
ポスターがはられた天井が目に入る。ラグマットの上であお向けに寝ているようであ
った。──夢? はねるように体をおこし斬りおろされた肩口、そして腹に手をや
る。血は出ていないし、痛みもない。夢、夢か? 両方の
しかし、女の首を落としたという感触は鮮明に残っている。あの女の断末魔の悲鳴は
耳に焼きついている。
「ブシロー、
「うわあっ!」武志郎は大声をあげて、うしろにとびのく。彼を斬り殺した女が追っ
てきたのだと
「なんでぇ、なんでぇ、男のくせしやがってわあわあわあわあ。ちったぁ、落ち着け
ってんだ」香里はいいながらラグマットの上にドッカリと腰をおろし、あぐらをかい
た。
「…………」──でた、江戸の荒くれ野郎。なんだよ! 次から次から!
「おいおいおいおい、涙なんかうかべてどうした?」
「!」知らぬ間に泣いていたらしい。武志郎は歯ぎしりしながら涙をぬぐう。
「まあすわんな、ブシロー。そんなへっぴりじゃ、ろくろく話もできやしねぇ」
「…………」舌うちして、一度まようが、ベッドにかける武志郎。
「おう、前にすわれよ。それともわっちを上から見おろそうって算段かい?」香里は
あごをなでながらニヤリと笑う。
「うるせぇ! 前にすわったらパンツが丸見えだろが!」思わずどなってしまった武
志郎。もう破れかぶれである。あの悪夢にしても、この野郎のせいかもしれない。と
にかく、香里に巣くう荒くれ野郎の正体をつきとめてやる!とそう思った。ところが
彼女の大胆なあぐらのせいで、先ほどからあわいピンクの下着がチラチラとのぞいて
いる。正面に腰をおろしたりすれば、それこそ落ち着いて話もできないだろう。
「パンツ? なんでぇ、パンツって? 聞いたことはあったような」
「パンツはパンツだよ!」武志郎は香里の
「ああ、
横すわりに変更した。
「なんだよ、ユモジって?」
「だいたいこの女、なんて着物を着てやがんだ! まるっきり裸じゃねぇか!」
「……それで、あんた誰?」武志郎は前回の出現時には聞けなかったことを切りだ
す。
「わっちかい? わっちは
「サヨ? 女の人格なのか?」
「ジンカク? なんでぇ、それ?」
「キャラクターっていうか、わかるだろ? 人格だよ!」
「わかんねぇよ!」
「もういい。サヨってどんな字書くんだ?」
「おお、てめぇの名くらいならわかるぜ、
「……あ、そう」とっさに漢字がうかばない武志郎は、あとで検索することにした。
「わっちはこれでも『
通った茶屋娘よ。世が世なら絵師に美人画、描かれてたほどのもんなんだ」
「は?」武志郎には彼女がなにをいっているのか理解できない。
「あれよ、あれ」香里、いや紗世は天井にはられたポスターの一枚を指さす。それは
『水茶屋アイドル笠森お仙』とタイトルだけは現代の活字がおどる、
細見の女性が描かれている浮世絵のポスターであった。
「アイドル?」よくはわからないが、アイドル級の美人だといいたいらしい。人格が
女であることだけは確かなようだ。
「なあブシロー、おったまげずに聞いてほしい」紗世は落ち着かないらしく、またあ
ぐらをかいて、棚にあった大きめのぬいぐるみで下着をかくす。
「なんだよ?」とっくにいろいろ、おったまげだよ! 心の中で毒づく武志郎。
「どうも、わっちぁ幽霊らしい」
「はい?」
「情けねぇこったが、わっちは
ま、そんなもんだろうな」
「じゃなに? 紗世さんが香里にとり
人格ってこと?
「いやぁ違う、とり
「はぁ?」
「わっちはもっぱら、おめぇの右目の奥にいる。もう何年も
「右目!?」思わず声が裏がえる武志郎。
「昔、三田あたりの商家のならびでおっきな
かい?」
「いや……おぼえてる、けど」忘れるはずがない。中二の夏休み、墓参りにいったと
き。商店街で第二次世界大戦中の不発弾の爆発事故に
偶然、出会った二度目の夏に。
「あんとき、地下に埋まってたわっちの
だ。あれからわっちは、おめぇの中にずっといる」
「はぁ? 嘘だろ?」──東京大空襲のときの骨って話? 香里の好きな江戸じゃな
くて戦時中の人格ってこと?
「わっちだって信じられねぇよ! どんなからくりなのかもわからねぇ! だからこ
うして恥をしのんで、てめぇごときヘタレにつれぇ胸の内を打ち明けてるんじゃねぇ
か!」
「ヘタレ!?」
「おうヘタレすぎて……たまに泣けてくらぁな!」
「え?」武志郎は息をつまらせた。紗世の目に、本当に薄くにじむ涙を見たからだ。
「けっ! なんでもねぇよ! 見るなバカ野郎」
「あの……一応、紗世さんを信じるとして、なんで今は香里にとり
の?」女子の涙には本当に弱い男である。
「おめぇが香里って女に
腹が立った」
「それは知ってる」
「そしたらこうなった」
「なんの説明にもなってない」
「なんだ? セツメェたぁ?」紗世はどうやら人格や説明という単語を知らないらし
い。
「つまり紗世さんも、どうしてこうなったのかわからないってこと?」
「ああ。だがな、おめぇにもどる
「どうやるの?」
「なーに、出るももどるも、こう、ちょいと肌がふれればいいだけよ。あとはわっち
の
「なるほど」胸三寸の意味は武志郎にはよくわからなかったが、香里を思わず抱きし
めてしまったせいで、紗世という人格が噴出したということだろう。紗世が幽霊であ
るとはどうしても考えられない。やはり香里の中の別人格というのが正解。一度、香
里にふれて、それから二度とさわらずにいれば、この茶番劇もおわるに違いない。そ
う考えた武志郎はベッドから立ちあがった。
「お、ブシロー、わっちにふれようって
「そしたら、紗世さんは消えるんだろ?」紗世に手をのばす武志郎!
「
ンク色のパンツをしっかりおがむことだけはできた。「前もこうして、ぶっとばした
ろ! 忘れたのか? ふれただけでおめぇにもどるわけじゃねぇんだよ!」
「……なるほど」胸三寸とはつまり、紗世の気持ちしだいということのようだ。彼女
に消える意志がなければ、武志郎がいくらふれようと香里に居すわりつづけるという
ことらしい。しかし──。「それ、香里がかわいそうじゃね?」
「……んなこと、いわれるまでもねぇ。けどよ、けどよ」口ごもる紗世。
「紗世さん、わかった。もう一回、話しあおう。それでどう?」とにかく紗世が冷静
になりさえすれば元の香里にもどるらしいことはわかった。そして紗世という女、話
せばわかる人間、いや人格だと、なぜか武志郎は思ったのだ。
「ブシロー」
「うん?」
「ありがとよ」
「お、お、おう」どうしてだか武志郎は、中一の夏、なわとびの練習中に自転車の保
田奈美穂からふいに声をかけられたことを思いだして赤面した。なんの関係もないの
に。
「あと、ブシロー、わっちはただのの
お紗世でいいぜ。さんづけなんざもってぇねぇや、なぁ」
「ああ、わかったよ、お紗世」さんづけをするな。宿主と同じことをいう、やはり
紗世は、香里の作りだした人格なのだろう。「あの、やっぱ紗世でいい? なんか時
代劇みたいでいってて恥ずかしい」
「あ? ジダイゲキたぁなんだか知らねぇが、ま、好きに呼びな。だがブシロー、せ
っかくだが、あんましときはかけられねぇんだ」
「どういうこと?」
「香里だよ。今、わっちがおめぇとこうしてること、この女、まるっきりわかっちゃ
いねぇ。わっちがおめぇにもどったとき、あんましときがたってるとヤベぇだろ?」
「ああ、なるほど」前回、紗世がでてきたときは確かに短時間だった。
「なんで、ちゃっちゃとしゃべるぜ」
「わかった」
「今んところブシローへのたのみごとはふたつ、ひとつは香里と
ほしい」
「はぁ? オウセってなに?」
「かぁー、そんなことも知らねぇのか!
「逢引き……つきあえってこと?」──じゃましにでてくるくせに!
「おめぇらの話聞いてると、学問所はどうも長めの
か?」
「ヤブイリ?」
「いちいち
「ああ、夏休み?」──お前が面倒なんだよ!
「となりゃおめぇ、休みの間おめぇらが逢瀬を
にでてこれねぇだろが」
「だけど……どうやって」──でてこなくていい!
「知るけ! てめぇで考えろ! ブシローだいたい、女のことでグズグズ、ウジウジ
やりすぎなんでぇ!」
「な、なんで、そんなこと」
「わっちがいつもブシローの目ん玉ん奥にいること、忘れんな。次、たのみのふたつ
目、わっちを
「はい?」
「だから助けてくれ! 坊ちゃんをよ!」
「なにをいってるんだ?」
「おめぇ、
「……はぁあ!?」
「ブシロー、わっちの顔、見たかい?」
「いや、見てない」──斬った首なんか見てられるか!
「そうけ。でな、あの前に、おめぇ、いや本当はおめぇじゃねぇが、おめぇは坊ちゃ
んを
「…………」──ほかの人まで斬った? 俺が! かんべんしてくれ!
「わっちはいい!
紗世は
「坊ちゃんさえ助かりゃ、わっちの思い残しは消えるんだ! お願いだ!
「…………」武志郎がなにもいえずにいると、紗世はふらりとうしろむきに倒れそう
になり、床に片手をついた。
「おっと、そろそろヤベぇな。ひとまず
紗世が手を握ってきた。そのとたんガクン!と強烈な衝撃が、ふたたび武志郎の右
目をつらぬいた。
「あ、あの、あれ? 武志郎君!」香里はあわてたように、武志郎の手をはなしてラ
グマットに尻もちをついた。
「あ、え? 香里? 香里か?」
「あれ? どうしたんだろ? 私」香里は頭痛でもするのか、
しきりに頭をふっている。どうやら本人にもどったらしい。
「あ、あのね、香里」──どうだった? 香里がどんな状態のとき、ああなっ
た!? 懸命に思いだす武志郎。確か、そうだ! 香里が泣いていて、それで俺がつ
い抱きしめた、それで……。「香里、すまない! 俺が、その、悪かった!」
「え?」
「その、香里を抱きしめた、で、その、そのひょうしにふたりして転んだんだ」
「…………」
「ええと、どういえばいいのかな──」
「武志郎君」香里はまだ痛むのか両手で頭をかかえるようにしながらも、充血した瞳
を武志郎へとまっすぐにむける。「どうして、私を抱きしめたの?」
「あの……」
「デブはきらいなのに」武志郎を見つめる香里の目、その目はある意味、現実。まが
い物っぽい自称幽霊の紗世とあい対するよりもむしろ怖いと武志郎は感じた。香里の
か、人を殺した悪夢や紗世のせいでいら立ちがつのっていたのか、自制のタガがはず
れ、期せずして大声をはりあげてしまった。
「デブがきらいと誰がいった! あんなのタカのでまかせだ!」武志郎の心奥を探れ
ば完全なでまかせとはいいがたい。しかし少なくとも彼は、そうした他者への雑言を
口にだしたことは一度もない。鳥の巣頭、電柱女、もみじ饅頭……思うことは多々あ
るけれど。
「だって保田奈美穂さんみたいなスリムな子が好きなんでしょ!」香里の真剣な目が
いじましいものへと変化した。そのさまは痛々しいとすら感じられる。
「俺は中学のころからずっと保田奈美穂という人が好きだっただけだ! 彼女の体型
が好きだったわけじゃねぇ! バカにするな!」もはや歯止めがきかない武志郎。
「じゃ、なんで私を抱きしめたりしたのよ! 女ならなんでもいいってこと!?」頭
痛の余波のためなのか、つもりにつもった武志郎への
の口も止まらない。
「あ、それは……」口ごもる武志郎。無理もない、彼自身もよくわからないのだ。た
だ、胸の内に
が、照れくさくてとても言葉にはできない。
「最低! 最低です! 抱きしめられて、ちょっと嬉しかった私がバカみたいじゃな
いですか!」
「え?」
「あ」あわてて口を押えた香里は「今のはなしで」といって自虐的な笑みをうかべ
た。
「お、おう」
「大きな声だしたら、少しスッキリしたみたい。なんか、頭痛までおさまったし」
「香里、大きな声もだせるんだな」
「だせますよ、そりゃ。武志郎の気を引きたかっただけです。好きな人の前じゃ猫か
ぶってるだけです」
「
「はい。怖いですよ、私。しつこいし」
「しつこい?」
「話しちゃおうかな、誰にもいったことないんだけど」香里はモジモジと下をむい
た。「もっと怖がられるかもしれないし」
「いいよ、聞かせてよ」武志郎がベッド上ですわりなおすと、香里はラグマットに正
座した。紗世のときの彼女とはえらい違いである。
「武志郎君はね、私にとって白馬に乗った若殿様なの」
「若殿?」それをいうなら普通、王子様である。彼女らしいといえばらしいけれど。
武志郎は、勉強ができない
「おぼえてないですよね? 中二のとき、私たち一度、会ってるんですよ」
「マジで? どこで会った?」
「やっぱりおぼえてない」ふくれっ
ている。
「悪い、全然、わかんない」
「ちょうど三年前の夏、お盆のころに東京で爆発事故があったでしょ?」
「ああ、不発弾の?」紗世と同じ話題だ、と武志郎は思った。やはりふたりは同一人
物であり、同じ知識を持ちあわせているということだろう。まさか香里までがそのと
き武志郎にとり
「あの爆発で父と弟が亡くなったの。ふたりで和菓子屋にいて」
「ぇええ!」──和菓子屋。確か事故現場の隣の店で、全焼したと聞いた。
「私と母は近くの洋品店にいて助かったんだけど、あの騒ぎではぐれちゃって。それ
でお母さん、人波に押されて頭を打ちそうになったところを、バスケ部の男の子に助
けてもらったの」
「え? はぇえ!」
「すごいジャンプだった。奇跡みたいなジャンプだった。遠目に見ただけだけど、私
にはキラキラして見えた」
「…………」
「武志郎君がいなかったら、私、ひとりぼっちになってたかもしれない」
「…………」
「あれから武志郎君が私の白馬の若殿様。えへへ、しつこいでしょ?」
「信じられない」記憶の糸を
母親の顔すら思い出すことはできなかった。あのときは保田奈美穂の安否を気づかう
ことで精一杯であった。
「私も信じられなかった。入学式で武志郎君を見かけたとき、卒倒しそうになったん
だから!」
「そりゃ、どうも」実に不思議なめぐりあわせである。保田奈美穂がいなければ、武
志郎が今の高校に進学することはなかった。あの夏、彼女と偶然、出会っていなけれ
ば、香里の母を助けることもなかっただろう。香里が武志郎を意識することもなかっ
たのだ。
「私、一年のころ、剣道部の練習とか試合、ちょくちょく見にいってたんですよ」
「え! マジで?」
「はい。私の若殿様が剣の修行をしてる!って勝手に盛りあがってました」
「がっかりしただろ」武志郎はめったに選手に選ばれたことがない。たまに試合に出
ても勝てたためしがない。
「そんなことない。がんばってる武志郎君が大好きでした」そういってから香里は、
あははと笑った。「今日、私、だいたん!」
「…………」紗世いわく、わっぱ(子供)の武志郎でも香里の気持ちは理解できた。
彼女は白馬の若殿様と決別しようとしているのだ。最後だから、思いの
だしているのだろう。それでいいのか? 武志郎は自問した。本当にそれでいいの
か?と。
「そのころ、大倉君と仲よくなって。武志郎君の話、よく聞いてたの」
「タカと? 一年のときから?」
「うん。部活をよく見にいってたから声をかけられたの。武志郎君には見向きもされ
なかったけどねー」舌をだしてベーとする香里。
「あ……そう。すまん」
「大倉君には一度、つきあわない?っていわれた」
「ま、マジ?」──あのチャラ男が! 有坂にいいつけてやろうか!
「大倉君、やさしいから。武志郎君が保田奈美穂さんしか見えてないこと知ってたか
ら。私を哀れに思ったんじゃないかな? だから武志郎君が悪いの」武志郎をにらむ
香里。
「…………」
「冗談です。でも、その保田奈美穂さんがあんなことになって、二年になって武志郎
君と同じクラスになって、修学旅行委員になって、私、運命かな? なんて舞いあが
っちゃったんです。最低。内申点で嘘ついたり、キスを、その、誘ってみたり、最低
でした」
「そんなこと──」
「でも、これでおわります! もう大丈夫です! 二学期も修学旅行委員、がんばり
ましょう! 武志郎君!」
香里の勢いに押されるようにして彼女の家を出た武志郎は、ただひとつ灯りがつい
ている二階の窓を見あげた。最後はあかるくふるまっていたが、また泣いてやしない
だろうか? そればかりが気になった。
「白馬の若殿様……」そんな風に思われていたこと、武志郎は実にショックだった。
そんなものにはなれはしない。自分がいかに何者でもなく、いかに無力であるかを思
い知らされたような気がするのだ。そして、紗世のいった通りだと思う。──香里は
俺を本当に好きだからキスをしたかった。そんな彼女にキスをしようとした俺、抱き
しめた俺はなんなんだ。ただの
「……紗世、お紗世か」とても信じられた話ではないが、武志郎が彼女を斬り殺し、
その前に彦五郎坊ちゃんとやらも殺したらしい。そして、その坊ちゃんを守れなかっ
たことが心残りとなって紗世は成仏できずにいる? 彼女はらしくない涙をうかべな
がら腕にしがみついてきた。坊ちゃんを助けてくれと。
「わけわかんねぇ。モテ期とうらいか?」
世、同じ人間であるのに
たのである。
「父さんさ、三年前の爆発事故、おぼえてる?」武志郎は夕食の席で伸宜と篤子にた
ずねてみた。不発弾の爆発があったあたりに人骨が埋まっていた可能性はあるだろう
かと。
「あっても不思議はないなぁ。空襲で逃げおくれた方はたくさんいただろうし」
「戦後の食糧難で餓死された方も大勢いたみたい。誰もかれもがキチンとお墓に埋葬
されたとはかぎらないわね」篤子は手にした白米大盛の茶碗を複雑そうに見る。
「たとえばさ、空襲のさなかに刀で人が斬られたりとかあったと思う?」確か、夢の
中の景色、木造家屋はせいだいに燃えていた。あの火災はアメリカ軍の爆撃によって
おこったのでは? 武志郎はそう考えたのだ。しょせんは夢である、戦時中の軍刀を
江戸の侍の日本刀と
「どうだろう? 空襲のさなかは考えにくいんじゃないか。みんな逃げるのに必死だ
と思うし」伸宜の意見はしごく当然で納得できる。「ただ、戦争終結反対派のクーデ
ターなんてのもあったみたいだから、そのときには刀くらいふるっただろう」
「そういうんじゃなくて、たとえば、商店街の女子供が斬られたりとか……」
「女子供はありません。昔から日本人には武士道があるんだから」きっぱりといい切
る篤子。武志郎はそれもどうかと思う。だとしたら、この
は? あのときの武志郎は日本人ではなかったのか? 夢を思いだした彼は食欲がな
くなるどころか、吐き気をおぼえた。
「なんで突然そんなことを聞くんだ?」けげんそうな顔で缶ビールを飲む伸宜。
「うん、夏休みの宿題」
い、それどころではない。
「そうだ! おじいさんに聞きなさいよ。もうすぐお盆のお墓参りだし」篤子が無邪
気に笑う。
「ああ、そうだね」確かにその手もある、と武志郎は思う。しかし、一カ月も先であ
る。
「うん、俺たちよりは宿題に役立つ情報が聞けそうだ。そうしろ武志郎」
「わかった」父さん逃げたな、と武志郎は思ったが仕方のないことだろう。彼の両親
はともに戦後三十年以上たってから産まれてきたのだから。
「しかし、最近の学校じゃ戦中、戦後の近代史なんてあまりやらないと聞いてたけ
ど。そうでもないんだな」
「いいことなんじゃない」
「ごちそうさま」手をあわせる武志郎。紗世が香里の作りだした人格であるならば、
香里に聞くのが一番てっとり早い違いない。彼女の学んできた近代史の中から紗世の
人格が生まれたはずだから。あの夢とのつながりは不明であるが。しかし、問題は紗
世よりも香里である。今日、きっぱりと絶縁状をたたきつけられたようなものなの
だ。
自室のベッドに横になった武志郎は自身に問いかける。香里をどう思っているの
か? 正直、わからなかった。どうしてだか無性に彼女を抱きしめたくなった、あの
気持ちはキスをしようとしたときの衝動とは別物のような気がする。では、好きなの
か?
ベッドで
する? こんな中途半端な気持ちで近づくのは懸命に白黒をつけようとした香里に失
礼じゃないのか? 香里は三年近くも思いつづけた白馬の若殿様を今日、切ったの
だ。
「白馬の若殿様?」しかし、考えてみれば香里だって失礼な女だ。勝手にそんな理想
像を押しつけられる方の身になれ! それで理想に破れたような顔をして決別? な
んだそりゃ!とは武志郎には思えなかった。剣道部を退部し、勉強もできず、クラス
でも孤立していた武志郎を彼女は想ってくれていた。ただ理想を追いもとめているだ
けの女子ではない。好きとか嫌いとか明確なものではなく、どこかグレーな部分で、
どうしたって彼女を悪く思うことが武志郎にはできないのだ。
「…………」はねおきた武志郎は机にむかい、香里にメールを送ることにした。なに
をどう打つかを決めていたわけではない、なにかをしないではいられなかっただけの
ことである。書いては削除、書いては削除を繰りかえす。いいわけ、弁解、逃げ口
上、なにを書いてもそんな文にしかならない。そんなことを書いてどうする、俺!
一度など書きかけた長文がスマホの電池切れで消えてなくなったりもした。ほとほと
疲れはてた彼は、あきらめ半分、意を決してごく短い文面を香里に送信した。
『ひとりで勉強してても全然はかどりません。香里、お願いだからもう少しだけ、夏
休みの間だけでも俺に勉強、教えてください! 武志郎』
(つづく)
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