第一章 春の地獄 12

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 多重人格障害、正式には解離性同一性障害かいりせいどういつせいしょうがいというらしい。武志郎は帰りの電車の


中でスマホ検索をし、その症状やそれらを引きおこす原因について調べてみた。あき


らかに香里は別人格になっていた。そして現れた彼女(彼?)は香里を第三者として


あつかい、別人格として認識していた。どうやらこの病名で間違いないようだ。この


症状を引きおこす要因としてはトラウマなどの心的ストレスが主だというが、もちろ


ん武志郎は香里の


過去や私生活についてはほとんど知らない。現時点で彼に思いつくことといえばふた


つくらい。ひとつは太っていることで過去にイジメを受けた可能性。もうひとつは父


と弟を同時に亡くしたという事故の現場を目撃してしまった可能性。太めであること


をずいぶんと気にしているようであったから、ひとつめの仮説も捨てがたいが、武志


郎はふたつめの説の方が気になった。たとえば自動車事故でふたりがいっぺんにひか


れたのだとしたら、それを目の前で見ていたのだとしたら。それはもうはかり知れな


い衝撃だろう。武志郎は父母が一度にはねられる光景を想像し、青くなって頭をふっ


た。そんな彼を見て、ななめ前の座席に腰かけていた男女酔客がいぶかしげな表情を


うかべていた。


 まだなんとなくアルコールが残っているような気がして、両親と顔を合わせぬよう


こっそりと自宅に侵入してベッドに横になっても、翌月曜日の祝日になっても、武志


郎の頭からあの香里の姿がはなれることはなかった。『斗弥葉とやは』でのパーティー


あやうい楽しさなど、とうに吹きとんでしまっていた。


「どうかしたのか?」朝食をとりながら父の伸宜が心配そうに聞いてきた。


「また、期末の結果が悪かったんでしょ? 今回はがんばってるように見えたのに」


 篤子が自分のご飯のおかわりをよそいながら苦笑いを浮かべる。


「そうなのか? 武志郎、お前、いいかげん──」


「いや、たぶん期末は悪くないと思うよ。いつもよりは、ってていどだろうけど」伸


宜の言葉をかったるそうにさえぎって、武志郎は答えた。そうであった、両親を喜ば


せたくて試験勉強をはじめたというのに、今回の手ごたえを伝えることを彼はすっか


り忘れていた。


「まあ! 本当に? 本当にとかいったら失礼よね、でも、本当に?」


「そうか、いや、すまん。夜遅くまでがんばってたもんな」


「まあね……」あらためて両親のありがたみを感じる。ふたりとも、武志郎がそれな


りに励んでいる姿を見ていてくれたのだ。そして一も二もなく息子の言葉を信じてく


れるのである。武志郎は、勇人や香里に比べて自分がどれだけ恵まれているのかを思


い知った。しかし今、彼の心の大半をめているのは、当然あのことである。


ほかに考えなければならないことも山積さんせきしている。武志郎はまだなにか話したげ


な両親を残し、さっさと食事を切りあげて自室に戻った。期末試験の答えあわせをし


たいから、と適当なことをいって。


 解離性同一性障害については、これ以上考えたところで結論は出ないだろう。仮に


心因性のストレスが原因だったとしても、本人に直接確認しない限りその大元を特定


することは不可能であるし、実は当人ですら記憶に残っていない幼少時のトラウマが


起因している可能性もゼロではない。もしそうであればお手上げである。それこそ専


門医にかかることをすすめるほかにないだろう。ただ、それはまだしたくない。彼女


は簡単には信じないだろうし、そうとうなショックを受けることは火を見るよりもあ


きらかである。一連の言動を見るかぎり、決して彼のうぬぼれではなく、香里が武志


郎に好意以上の感情を抱いていることも、ほぼあきらかであるからだ。修学旅行委員


になるまで彼女とはいっさい接点がなかったので、なぜ好かれたのかは不明である


が。不明といえば謎のの激痛、武志郎はあれも気にはなっていた。眼科へ行く


べきか?とも思ったが、元々がものぐさな彼のこと、喉元のどもとすぎれば熱さを忘れる


のたとえ通り、いったん棚上たなあげにしていた。なにせ現在は痛みもないし、視力も


良好であるからだ。


 さて一番の問題は今後、香里とどう接していくべきかである。なにしろキスをする


寸前までいったのだ。別れぎわの彼女の態度からすると、あれを都合よく忘れてくれ


ているとは思えない。キスをされかけた男から、たとえば無視シカトを決めこまれたり


したなら、さらなるトラウマを彼女に植えつけかねないのでは? ヘタをすると病状


が悪化するなんてこともあるかもしれない。だとしたらどうする? キスをしかけた


責任をとってつきあうのか? 


「ないよなぁ……それは」机にむかって頭をかかえていた武志郎はつぶやいた。実際


に唇へふれたわけではないし、それにもしもつきあったとして、また同じようなシチ


ュエーションがおとれたとしよう──。夏であるというのに、武志郎は身ぶるいして


しまう。


「でてくるよな、またきっと。粗暴そぼうな荒くれ野郎が……」ヤツになぐられ


たうしろ頭の痛みは、まだ少し残っている。優等生気質の香里は、実は心の奥底であ


あいうヤツにあこがれをもっているのかもしれない。それが別人格となって表にでて


きた?


「…………」ただ、荒くれ野郎のいったことは、ある意味正しい。武志郎も香里に好


意は持っている。しかしそれは、修学旅行の計画をともにり、試験勉強を教


わり、すごした時間がほかの者よりも少し長かったからにすぎない。ようは大倉孝雄


を好ましく思う友人感となんら違いはないのだ。保田奈美穂へ抱いていたくるおしい


ような感情とはまるで別物なのである。荒くれにいわれた「色惚いろぼけ坊主、恥を


知れ!」は本当にその通りだと武志郎も痛感していた。山原勇人がいうところの二番


手キープ、妥協だきょう。それはそれで間違ってはいないのかもしれない。だが武志郎は、


彼の言葉をいいわけにして彼女にキスをしようとした自身を恥じた。勇人は勇人、自


分は自分なのだと。


「で?」武志郎は自問する。


 ──俺は俺だと息まいたところでなんの問題解決にもならない。夏休みに逃げこむ


まで、あと四日は登校しなければならないのだ。その四日間、香里とどんな顔で会え


ばいい? なにを話せばいい? キスを迫っておきながら、あれは間違いでした、あ


なたは多重人格者びょうきだし、なんていえるか? 内申点の件で怒ったフリをして無視


で通すか? いや、それはダメだ。自分の勉強時間をけずってまで面倒めんどうをみて


くれた恩人に対してしていいことではない。いや待て! 実は彼女、俺のことな


んて全然、好きじゃなくて、キスされそうになって拒否するために多重人格者のフリ


をしたとか? そんなオチ? ああ、その可能性もなくはない! そうだ、彼女、江


戸時代が好きだといっていた。そういえばあいつの口調、江戸っぽくなかったか? 


なんていうんだっけ? 調、だっけ?


「……なわけねぇよな。だったら逆に気楽なんだけど」ひたいをコツコツたたき、頭


をかきむしった武志郎は後頭部に鈍痛どんつうを感じた。──痛え、あの野


郎……いや、あのとき江戸の荒くれ野郎がでてこなかったら、俺は香里にキスをして


いただろう。れてもないのにキスしていただろう。そしたら、どうなってい


た? こんなに悩まずファーストキスをただ喜んだ? それとも、もっと落ちこんで


いた? わかんねぇ、わかんねぇよ、マジ……。


 武志郎の思考と妄想は堂々どうどうめぐりとなり、えんえんと答えのでない負のスパイ


ラルにおちいってしまった。その日の彼はほぼ一日中、うわの空ですごし、夕食のさ


いも伸宜や篤子との会話は成立していなかった。武志郎が食卓をあとにすると、夫婦


は顔を見あわせた。


「どうしたのかしら、あの子。なれない勉強をしたせい?」


「学生がそれじゃ困るだろ……昨日、あいつ珍しくクラスの連中と遊びにいったよ


な?」


「期末試験の慰労会いろうかいとかいってたわね」


「そこでなにかあったのかな? ちょっと飲んでたっぽいし」


「ぇええー! 飲んでた!? お酒!?」ガタンとイスを鳴らして立ちあがる篤子。


「いやいやいやいや、なんとなくそんな気がしただけだよ」


「そんな気って、どんな気なの!」


「ま、ちょっと落ち着け。酔って暴れたわけじゃあるまいし」


「でも、あなた、そんな甘いこと!」


「俺にもおぼえがあるし」


「あなたのころとは時代が違うでしょ!」


「昔は自販機で酒、タバコも普通に買えたもんな」


「そんな時代と一緒にしないでよね!」


「ただあいつ、二年生になって初めてだろ? 友達と遊びにでかけたの」


「……そうかも。そういえば、そうだわ!」篤子は嬉しそうに両手をパシンとあわせ


る。


「だからって飲んでいいことにはならないけどな。ま、今回だけは俺たちの武志郎を


信じて大目に見よう」


「俺たちのね……」


「ああ。次にやったら、なぐってでもやめさせるから」


「あなたにできるの? そんなマネ」篤子は疑わしそうな目を伸宜にむける。


「やれるさ。たぶん……」


「ふうん。お願いするわよ、お父さん」篤子は夫の肩をパーンとたたいた。


「はい」伸宜は、やわらかく笑う。


 武志郎はこの夫婦の息子で本当にしあわせ者である。


 その晩、武志郎はあやしい夢を見て夜中に目がさめた。女性とのキスの夢である。


相手は保田奈美穂でも、鵜飼香里でもなかった。甘く、官能的な気分ではあったが、


彼女の顔が思いだせない。ただ、祖々母が生前、たまに着ていたような簡素かんそな和服


を見たような気がする。ベッド上の武志郎は、頭をかきながら、夢のつづきを見たい


ような、見たくないような、つかみどころのない思いにとらわれる。やはり香里との


こと、明日以降のことが胸のつかえになっているのであろう。


 まだ十六の彼にとって、あのキス一歩手前のなまめかしさは、衝撃的なできごとだ


ったに違いない。


 (つづく)

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