第一章 春の地獄 11

       11


 店をでて最より駅までのアスファルトの道を、武志郎は香里とならんで歩いてい


る。街灯はまばらにあるけれど、人影がほとんどない住宅街。昼間きたときにも感じ


たことであるが、武志郎の近所と比較してもかなり殺風景な街なみである。空き家な


のか、背の高い雑草がおい茂り、荒れ放題の家屋がある。目をあげると、空にうかん


でいるのは左側が少し欠けていてラグビーボールを思わせる月がひとつ。そして少し


方角を変えるとおそらくは星座が。昔、習ったのかもしれないが名前はおぼえていな


い。確か、夏の大三角形なんてものもあったような気もするが忘れてしまった。武志


郎はかたわらを黙々と歩いている香里であれば知っているかもしれないと思ったが、


斗弥葉とやは』を出てからお互い、ひと言も口をきいていない。それに小学生でも


知っていそうな星座の名前を聞くのもなにか気恥ずかしい。ほどなくして私鉄の駅の


あかりが見えてきた。午後九時に近い時刻、日曜日のせいか駅周辺であるのに


も関わらず、開いている店はほとんどなかった。


 駅舎に着いて、自販機でキップを買うときに初めて言葉をかわすきっかけができ


た。


「鵜飼さん、キップどこまで? いくら?」


「え?」


「いや、だから、どこ駅まで買えばいいの?」


「あ、家まで送ってくれなくてもいいです」うつむく香里。


「家の前までってのがいやだったら、せめて近所までは送らせてよ。俺があの連中に


どやされる。いや?」


「いやじゃないです……けど……悪いし」最近ではなりをひそめていた香里のもじも


じが再発したようである。武志郎は当初、これにイライラしたものであったが、今は


昔、といったところだ。ちなみに今は昔という言葉は、初めて香里から出題された高


一古文の問題集に出てきた『竹取物語』の冒頭文である。


「いいから、いくら?」金額を聞きだした武志郎と香里はキップを買って改札を通


る。電車の時間まで十分ほどあるようだ。ふたりはプラスチック製の青いベンチに腰


かけて、そして、やはり互いに言葉が見つからずにいる。武志郎は内申点の件を切り


だすべきかをまだまよっていた。香里を悪者にしない話し方が思いつかないのだ。そ


して考える、今、香里はなにを思っているのだろう。やがて列車が到着し、乗りこん


だ車両に乗客はまばらで、ふたりはならんで席に座った。そのさい香里の手に指先が


ふれて、思わず赤面する武志郎。


「ごめん」


「いいんです。私が悪いんです」香里は膝上ひざうえにおいた両手をジッと見つめている。


「え?」


「私、デブだから。面積も体積もほかの子より広いし大きいし……」


「はぁ?」だから指があたったといいたいわけ? そこまで太ってないだろ!


「今日、きてた子たち、みんな可愛かわいいくてきれいだった。私なんて、腕も足も


出すのも恥ずかしい」


「…………」だから夏カーディガンに長めのワンピース? 武志郎はなにかいわない


と、と思ったが気のきいた言葉がでてこない。山原勇人ならうまいことをいえるのだ


ろうに。


「武志郎君、ごめんなさい」


「なにが?」──内申点のこと、聞いたのか? タカか、有坂!?


「私、なんだか武志郎君にマイクを渡したくなって……そしたらみんなにはやされ


て……迷惑だったですよね。本当にごめんなさい」


「…………」額をコツコツとたたく武志郎。ほんの少しだが面倒くさい子、と思って


しまった。そしてまた、香里はだまりこんでしまう。無言で電車にゆられるふたり。


武志郎は時おりふれる香里の腕のぬくもりを感じた。暑苦しい夏であるのになぜだか


温かいと感じた。


 いくつか私鉄を乗りついで香里の住む町の駅に着いた。武志郎の最より駅からは六


つはなれている。都心に比べると駅と駅の間隔が広いので帰宅は終電近くなるかもし


れない。改札ふ近で彼女は、駅を出ないでこのまま帰ってくださいといった。遅くな


るからと。


「いや、送る。うん、話したいことあるし」


「話?」


「うん、近所まで送るから」武志郎は座席で揺られながら考えていた。今日なにを学


んだのかを。──大切なことを先送りにしてはならない。


 駅前商店街にはさまれたゆるやかな坂道をくだり、やがて平地にでると黒々と見え


る雑木林、樹木にかこまれた貯水池のそばに出た。ときおり車が通りぬけていくだけ


で、人影はまるで見うけられない道筋、樹々の周囲の柵の前に「痴漢に注意!」の看


板が立っている。


「やっぱり送ってよかったじゃん。こんな所、ひとりじゃ危ないだろ」


「毎日、通ってますけど襲われたことないです。私なんか……」


「えーとね、話したいこと、その一」武志郎は早口にいって人さし指を立てる。


「はい?」


「あのねぇ、鵜飼さん、今日、化粧してる?」


「はぁ? いえ」


「でしょ? でも普段着の鵜飼さんを見て、その、化粧してるのかと思った」


「…………」


「つまり、その、なんていうか──きれいだと思った!」女子に向かってこんなこと


をいう日がくるなんて、それもとう突に。武志郎は勢いにまかせるしかなかった。


「嘘ですよ」


「本当だ! マジだって」


「でも……」


「だから、マイク渡されたときだって、嬉しかった」正直、これは嘘である。しか


し、このていどの嘘は許されるだろう。


「本当に?」蚊のなくような声をだし、上目づかいで武志郎を見る香里。


「さっきだって、電車で腕がふれただけでドキドキしてたんだ!」これは本当であ


る。しかし、ここでいう必要があるのかは疑わしい。


「ありがとう、ございます」ペコリと頭をさげる香里。


「なにがありがとうなんだかわからないけど、話したいこと、その二。いいかげん、


そのですます口調、やめない?」


「え?」


「俺が、その、話しにくいオーラだしてるのかもだけど、もっとざっくばらんていう


か、その……」


「でしたら、私にだっていいたいこと、あります」


「な、なに?」


「いいかげん……××××」


「うん?」香里の声が小さすぎて聴きとれなかった武志郎は彼女に一歩ふみだす。香


里は顔をそむけていった。


「そろそろ、名前、さんづけをやめてほしいです」


「ああ……じゃあ、鵜飼」


「…………」香里はなにもいわない。


「じゃあ、香里?」


「はい」


「香里」照れくさくて笑いだしてしまう武志郎。


「はい」そう答えて、やはり笑う香里。「できるだけ私もため口にしま、するね」


「してくれ、香里」どうやら姫のご機嫌きげんがよくなったようで、胸をなでおろした


武志郎はいよいよ、本題に入ることにした。「鵜──香里さ」


「うん」


「昨日、笹井に呼ばれてさ、今度の期末、少しは結果、いいらしい」


「本当に!?」嬉しそうに胸のあたりで手を合わせる香里。「よかった」


「全部、香里のおかげ、ありがとう。これが話したかったこと、その三」


「そんなことない、武志郎君ががんばったからで……だよ」まだぎこちないため口で


ある。


「それで、そのとき──」いいかけた武志郎の言葉が途切れた。立ちならぶ木々の繁


みの中でなにかが動いたような気がしたのだ。香里も気づいたらしく、武志郎の腕に


しっかりと取りすがる。──あ。武志郎は背中にふくよかな弾力を感じたが、それど


ころではない。香里をかばうようにして林の方へと目をらす。「マジか……」


武志郎は小さくつぶやいた。


「なに? なにか見えました?」おそるおそる聞いてくる香里。武志郎は彼女の肩を


両手で持って、それが見える方向へとむけた。「あ」声がでそうになった香里は、あ


わてて口元を押さえる。なんのことはない、立木のかげで若いカップルが熱いラブシ


ーンを展開していたのである。


「行こうか」武志郎が小声でいうと、香里はうん、とうなずいた。暗さでよくはわか


らないが、昼間、酒を飲んでいたときよりも赤くなっているに違いない。


 武志郎と香里とて若い男女である、あんな煽情的せんじょうてきなものを見せられたあとは、


しばらく言葉が出てこない。どうしたって、互いを意識してしまう。


「あの、ついちゃいました」香里の口調はもとのですます調にもどっている。


「え?」


「私の家」香里は古い木造家屋を指さした。大きいとはいいがたい二階屋だが、手入


れはいき届いているように見えた。一階に灯りがともっている、彼女の母親がいるの


だろう。


「あ、そうだ。タカに聞いたけど、お母さん、体、大丈夫なの?」


「え? ああ。全然、大丈夫です。今は元気です」香里はちらと家の方を見て笑う。


「そう。まあ、だったらよかった」


「父と弟が事故で亡くなってから働きづめだったから、ちょうどいい休暇きゅうかがとれ


たって笑ってます」


「弟さんも……」それは初耳だった。


「だから私の夢は、いい大学いって、いい会社に就職することなんです」


「え?」


「母を少しでも早く楽にしてあげたいんです」こういったあと、香里はまた笑う。


「ちょっと恥ずかしいです。すごい優等生発言、ドン引きですよね? 夢なのに夢が


なくて」


「そんなことない」武志郎は愕然がくぜんとした。そんな先のことを考えたことが、これ


まで一度もなかったからだ。勇人もだが、この香里もはるかに彼の前を歩いている、


同い年でありながら。


「これでも子供のころの夢は歌手になることだったんですよ。デブだからアイドルは


無理だけど」


「そんなに太ってないし、歌、うまかったよ、本当に」誰もが聞きほれていた。


「えへへ、それにしてもりっちゃん、おしゃべりだなぁ。母さんのことは大倉君にも


だまっててっていったのに。明後日、学校でガンといわないと」


「そういう話し方、俺にもしなよ」


「あ」香里はまた口に手をやる。「いけない!」


「いいけど。俺も香里って呼ぶの、まだ恥ずかしいし」──どうしよう? 武志郎は


またまよう。先のばしにはしない、そうは決めたものの、内申点の話題をだすにはな


ごやかになりすぎた。とてもいいだしにくい。それに女子の家の前で長話というのも


問題があるような気がする、近所の目であるとか。日曜の夜のせいか、人通りはまっ


たくないけれど。


「あの、さっきの、ビックリしたね。あんなの初めて見た」香里がうつむきつついっ


た。


「あ? ああ、そうだな」武志郎も雑誌や動画はおいておいて、実際に目にするのは


初めてであった。


「蓮美といい、今日のりっちゃんといい……みんな、すごいよね」


「そうだな」心なしか、武志郎の目に映る香里の瞳がうるんで見える。


──まさか、誘ってる?


「どんどんおいてかれちゃうみたい……」


「…………」──まさか、そんなこと。ないよ、ないだろ? ないない!


「…………」香里は武志郎を見つめていたその目を一度ふせ、そしてそっと閉じた。


「…………」──ええー、マジか? 嘘だろ? どうしよう? どうしよう!?


「…………」


「…………」──ありえない、マジありえない! ヤバい、ヤバい、ヤバい!!と思


いながらも、武志郎は吸いよせられるように香里へと顔を近づけていた。いつものリ


ンスの香り、唇まであと五センチメートル。




「二番手をキープしとけ。鵜飼、抱き心地よさそうだし」勇人のささやきが聞こえる。


「待ってると思うよ、香里ちゃんも。ブシローのことをさ」孝雄の言葉までもが。




もう、いくしかない! 武志郎は香里の両肩に手をおいて、そして目を閉じた。


──ところが、その閉じたに、突然えぐられるような強烈な痛みが走る。目


を押さえ、うっ!と声をあげる武志郎! 次の瞬間、鈍器どんきを振りおろされたよう


な衝撃が後頭部を襲い、星がとび、胸部に手荒いつっぱりのような打撃を受けてあお


向けにひっくり返った。せき込み、頭と胸に手をあてながら顔をあげた武志郎は、左


目のみで見えている香里の姿に驚愕きょうがくする。豊かな胸の下で腕組みし、これまでと


は別人にしか思えないけわしい表情で倒れている武志郎を見おろしていたのだ。


まるで汚物でも見るような目つきで。の痛みはトラックにはねられかけたとき


と同様、すぐに引いてくるが、うしろ頭はズキズキするし、突かれた胸と、倒れたと


きに打ちつけた尻もジンジンしている。これって、もしや──。


「香里?」香里が頭をなぐり、胸を突いて押し倒した!? 


「もう辛抱しんぼうならねぇ! おめぇ、わっぱのくせしやがって口吸くちすいなんざ百年


はええんだ!」香里が目をいてどなった。


「へ?」──わ、わっぱ? くちすい?


「だいたい、なんでぇ! おめぇ香里って、この女にれてもねぇじゃねぇ


か! ただ抱きてぇだけか? この色惚いろぼけ坊主、恥を知れ!」


「…………」えもいわれぬ恐怖感とともに多重人格という言葉がうかぶ。そういえ


ば、もらい事故という単語が香里の口からでたとき一度、その病気を疑ったことがあ


った。


「毎日、毎日、あきもせず、ばっかこきやがって、あー情けねぇ、わっちぁ


情けねぇよ、え? ブシロー!」


「…………」──なんだかすごいことをいわれてるような気がする! しかも毎日な


んかしてねぇし! ただ、今はそれどころではない! この声のデカさはヤバすぎ


る!


「おっと、わっちとしたことが、つい余分よぶんなことまで口走っちまった。恥かか


してすまねぇ」多少、照れたように声のトーンを落とした香里はしかし、追撃をやめ


たわけではないらしい。「いずれにせよ、なんだ! 香里って女が許しても、このわ


っちが不埒ふらちなまねは許さねぇ。わかったかい?」


「…………」誰だよ、お前?と武志郎は思ったが、当然、口には出せず、ただわかっ


たと首をたてにふる。


「おう、そうかい、わかりゃいいんだ。ほれ、立ちな」誰だか知らない香里が右手を


差しだしてきたので、武志郎はおそるおそる、その手を取った。とたん、右目にビン


タを食らったような激痛! 香里の手を握ったままの武志郎の首はガクンとのけぞっ


た。




「武志郎君! 武志郎君!」かすんだ視界の先で香里が呼んでいる。


いてぇ」左手で右目を押さえた武志郎は、香里に引きおこされた。


「なにがあったの? 大丈夫? 武志郎君」不安そうな表情をうかべている香里。ど


うやら別人格が引っこんだようだ。なにがあったのかこっちが聞きたい! 武志郎は


どなりたい気持ちを必死でおさえこむ。


「香里か?」彼女から手をはなし、一歩、後ずさってたずねる武志郎。


「え?」


「本当に香里なのか?」


「……頭、うった? 記憶がとんでるとか?」真っ青になり、あたふたとする香里。


「いや、頭はうってない」──なぐられたけどな、お前に!


「私も、なんか、記憶、変」香里は首をかしげつつ、自分の足をたたく。「それに、


頭痛がすごくて、足元がフラフラするみたい」


「……まだ、その、酒が残ってるんじゃないか?」香里はたった今おきたことを、お


ぼえていないようだ。いったところで信じはしないだろう。それにまたあの人格が現


れたら、そう考えただけで武志郎は、一刻いっこくも早くこの場から逃げだしたかった。


「そうなのかな? うん、酔ってるのかも」


「今日はもう休みなよ」


「え……あ、うん。そうする」香里はなにかいいたげな思いを押しころすようにして


うなずく。


「そうしなよ」


「──武志郎君、今日は、ありがとう」


「うん?」


「送ってくれて。あときれいっていってくれて、すごく嬉しかった。名前のことも」


それだけ口早にいって、香里は家の中へそそくさと入っていった。確かに足元がおぼ


つかないようで、ヨロヨロとよろめきながら。


 そのうしろ姿をぼうぜんと見おくっていた武志郎は、ひとつ大きなため息をつい


た。


                                (つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る