第一章 春の地獄 10

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 期末試験最終日の翌日は土曜日、月曜が「海の日」で祝日なので三連休となる。こ


の連休の中日なかび、日曜日に山原勇人の主催する期末試験慰労会がある。スクール


バッグにつっこんだままであったビラを取りだしてみる。会場は都内よりで私鉄を乗


りつがないといけない、かなり面倒めんどうな場所。時刻は午後一時より、とあった。


──なんでこんな所でやるんだろ? 学校の近くでいいのに。武志郎は土曜一日考え


て、慰労会の参加を決め、ビラに書かれていた勇人のメールアドレスにそのむねを送信


した。またしても丘蓮美のおどしに屈するようでしゃくではあったが、それ以上に


香里と会いたかった。会って真意を確かめたかった。なによりもだまされても腹が立


たない自分自身の心の奥底が知りたかった。


 日曜日、午後十二時五十三分。むせ返るような陽光を吸収したアスファルト舗装ほそう


道を進み、慰労会会場である店の前に立った武志郎は、なんだか胸さわぎを覚えた。


その店はどこからどう見ても──。


「飲み屋じゃねぇか……」高校生が出入りしていい店とはとうてい思えないスナック


であった。店名は『斗弥葉とやは』、クラス全員が集合したらとても入りきらない


規模の店である。


「おう、きたのかブシロー!」サマースーツを着こんだ孝雄と、その隣には──。


「よかったぁ! 香里も喜ぶよ!」ノースリーブに短めのスカート姿の律子であっ


た。律子はかけていたサングラスをひたいに持ち上げて笑顔を見せる。


「有坂……メイクしてるのか?」武志郎には、学校での彼女よりも何割ましか大人び


て見えた。


「まーね。しげしげ見るな!」照れた律子は目元にサングラスのシャッターをおろし


た。そして「なにつっ立ってんのよ、早く入ろ!」といって店の中へとサッサと入っ


ていった。つづこうとした孝雄の腕を武志郎が引きもどす。


「なんだよ?」


「大丈夫なのか? スナックだぞ」


「ビビってんのか、ブシロー。ダセぇ」


ちげぇーよ、ただ……もういいよ。それよりタカ、てめえ!」


「なに?」面倒めんどうくさそうにたずねる孝雄に、武志郎は顔を近づけた。


「お前のいってた秘密の意味、わかったぞ。よってたかってバカにしやがって」


「……あ、そ。バレた? 怒ってる?」気まずそうに苦笑いをうかべる孝雄。


「あたり前だ、お前だけは一生、許さない」


「へいへい。で、香里ちゃんには? もういったのか?」


「まだだ」


「お前、香里ちゃんにキレたりするなよ」


「わかってる。こんなこと知らない方が悪いって笹井にいわれた。俺もそう思う」


「おう。成長したな、ブシロー君」


「るせえ。ただ、このまま知らないフリだってできねぇだろ?」


「だな」


「鵜飼さんにどう話せばいいんだ? タカ」


「はい!?」


「教えろ。そしたら許してやるからよ。そうだ、有坂に聞いてくれ」さらに孝雄へに


じりよる武志郎。


「あつくるしいな。知るか、ボケ」


 ──ゲイよ。ゲイだぜ。ゲイの痴情ちじょうのもつれだ。そんなささやき声が聞こえ


てきた。武志郎と孝雄はあわててはなれる。五、六人の若者の集団がふたりを見てニ


ヤニヤと笑っていた。男も女もみな、それぞれに微妙なオシャレ感をただよわせてい


るが、まぎれもなく彼らの同級生たちである。よれたTシャツにジーンズばきの武志


郎は、聞いてないぞ!と心の中で叫んだ。


「じゃましちゃって悪いねえ! おふたりさん」男子のひとりがいった。


「ブシロー君、結局、きたんだ? ふーん。香里、ああいう決断力のない男は、おす


すめできないな」いや味なことをいう女は、ピチッとしたパンツスタイルが妙に似合


っている蓮美である。


「よけいなこといわない!」ひたいに汗をにじませ、口をとがらせる香里は薄桃色


の夏カーディガンに白のワンピース姿。なぜなのか武志郎には彼女がまぶしく見え


た。そして、また夏がくるんだな、としみじみ感じた。もう保田奈美穂とぐうぜん出


会えることなど望めない夏が。


「孝雄君、りっちゃんは?」蓮美が聞いてくる。


「もう中。さ、入って、入って。俺の家じゃないけど」孝雄の言葉で、ガヤガヤとだ


べりながらみな、『斗弥葉とやは』へと入っていく。そんな中、香里だけは腰が引けて


いるようであった。


「香里、ビビってんの?」蓮美が笑うと香里は首をふって、トコトコと戸口をくぐっ


ていく。


「気があうねぇ、ビビロー君」ドアボーイとなって全員を中に引き入れた孝雄は、最


後になった武志郎の肩をたたく。武志郎は舌うちでこたえた。


 店内は意外にあかるく、冷房もきいた快適な空間であった。あやしげな夜の


雰囲気ふんいきを勝手にイメージしていた武志郎は少しだけ拍子ひょうしぬけした。カウン


ター席といくつかのボックス席があり、当然のことながらバックバーには何種類もの


酒が置かれている。そして各テーブルにはカラオケマイクに予約のリモコン。フライ


ドチキンやポテト、菓子類。ウーロン茶やジュースのペットボトルとともに予想通り


というべきか、缶ビールや缶チューハイ、ウイスキーのボトルが置かれていた。集ま


った生徒は男子が八、女子が六の計十四名、クラス総勢の半数以下である。本日のホ


スト役である山原勇人は本当にホストのようなブルーのスーツをキメていた。


「紳士、淑女のみんな、よくきてくれた。品行方正ひんこうほうせいな進学校にしちゃよく


集まった方だ、礼をいいます! ありがとう! 今日はニギニギしくやってくれ。た


だし、臭いが残るから禁煙な。それと酒の強制は絶対禁止。基本、法律違反だしイジ


メの会じゃないんだからな! もろもろ自己責任でお願いするぜ!」勇人はマイク片


手に名司会者ぶりを発揮はっきしている。こうした会を開くのは初めてではない


のかも、と武志郎は思った。「じゃあ、期末試験慰労会をはじめるぜ! 乾杯の音頭おんど


は、我がクラスの女帝じょていにして裏番うらばん、丘蓮美!」


「誰が裏番よ!」蓮美もマイクを取って応戦する。


「ま、いいから、いいから。全員コップに飲み物ついで、ついで」


「…………」紙コップを手にした武志郎はまよった。アルコールを飲んだことは、こ


れまでまったくなかったわけではない。盆の墓参りのさいなど祖父から冗談半分で飲


まされたりもしたし、昨年、剣道部の夏合宿のあと、仲間内で打ち上げをしてビール


を飲んだりもした。しかしいつも困るのが、顔に出やすい体質であることだった。と


にかく真っ赤になるのである。高校生が赤ら顔で往来を歩くのは、どう考えても問題


であるし、家に帰っても親と顔をあわせられない。


「ブシロー、ほら」孝雄が缶ビールを差しだす。


「ちょっと待て」飲みたくないこともないのである。


「乾杯がはじまらないだろが。それに見な」あごをしゃくる孝雄。その先では、律子


が香里のコップにビールをいでいた。


「マジか」──ビビってたんじゃないの?


「負けてらんないっしょ?」


「なんの勝ち負けだ?」


「一杯くらいどーってことないって。夏なんだし、日焼けにしか見えないよ」孝雄は


当然、武志郎の体質を熟知じゅくちしている。


「わかったよ、一杯だけな」しぶしぶといったていでコップをかたむける武志郎。少


しくらい酔った方が香里に話しかけやすいかもしれない、とも考えたのである。武志


郎同様、決めかねていた者たちもいたが、結局は大半がアルコールを選んだ。赤信


号、みんなでわたれば怖くないというギャグがしめす通り、集団であることの安心感


と、やはり試験を終え、あと数日で夏休みになるという解放感と開放感が大きかった


のかもしれない。


 飲み物がいきわたったところで蓮美が再びマイクを握った。よ、女帝!とあちこち


から声が飛ぶ。


「誰? ったく! はい、まずは期末テスト、みなさんお疲れさまでした。今日は未


成年者であることを一応ふまえて、ほどほどに楽しみましょう!」


「ビール、持った人がいうかね?」律子のヤジに笑いが起きる。


「いちいちうるさいよ。じゃ、乾杯!」


 乾杯のあと、しばしの歓談かんだんタイムとなった。のちにカラオケタイム、ゲーム


タイム、ダンスタイムとイベントが準備されているらしい。歓談といわれても武志郎


が親しく話せる相手は孝雄くらいしかいない。だが孝雄とて武志郎専属の話し相手と


いうわけにはいかない。サッパリとした気性の孝雄は、実は男女を問わず、人気者で


あるらしい。昨年の夏以降、周囲と一線を引きつづけていた武志郎は、そのことを今


日、初めて実感した。香里はと見ると、律子なり蓮美なりまわりにはつねに誰かがい


て、話しかけるタイミングがつかめない。なにも特別なことではない、クラスメイト


の女子と話をするだけ。ただ、それだけのことであるのに、武志郎の足はいうことを


きかない。そんなわけでうきあがった彼は、スナック菓子を口に運びながら、ビール


や酎ハイを半自動的にあけつづけていた。


「なんか、えらく赤いけど大丈夫?」おしゃべりの輪からぬけてきた律子だった。


「ああ」


「香里に話しかけてあげて」すれ違いざま、小声でそそくさという律子。


「は?」


「帰りは送ってあげてね」そして彼女は、トイレにかけ込んだ。


「…………」水洗の音を聞かないように移動しながら、ハードルを上げやがって、と


武志郎は思った。そんなことを他人からいわれたら、よけい切りだしにくいだろ?


と。


 その内にカラオケタイムがはじまった。ひとり一曲がマストだと説明があり、歌っ


た者が次の者を指名するルールらしい。孝雄に回ったら、間違いなく餌食えじきにされる


だろう。武志郎は予約リモコンを見るフリをしつつ、逃げだす機会をうかがいはじめ


た。人前で歌うなどもってのほか、全校朝礼の校歌ですらまともに声を出したことが


ないのである。トップバッターとなったお調子者ふう男子の歌声を聞きながら少しず


つ、さり気なく、出口へとにじりよる武志郎。──今日は、もう鵜飼と話すのはやめ


だ! 学校でいつでも会えるし! 


「どこへいくのかな?」


「ひ!」息をのんだ武志郎の眼前がんぜんに迫っていたのはブルーのスーツ、勇人で


あった。


「まだ外はあかるいぜ。そんな赤い顔で出てったら、いっぱつで補導されるな」


「…………」さもありなん。


「ひとりつかまったら、ここにいる全員にるいがおよぶってこと、忘れちゃ困る


ぜ」


「…………」確かに。このとき武志郎はみながみな、おとなびた服装をしてきた理由


合点がてんがいった。山原勇人主催の会ならば酒が出るのは必然、おそらく誰


もがそう考えたのだ。一年のころ、または一学期の間、同じクラスですごしてきた者


には自明の理だったのだろう。みな、帰途きとのことを考えてきたに違いない、少し


でも未成年に見えないようにと。つまり、この慰労会にこなかった半数以上の同級生


はそのリスクをきらったのだ。ある意味、当然といえる選択だろう。


「今日、ブシローがきてくれて俺は嬉しかったんだぜ」ウイスキーのボトルをラッパ


飲みしながら勇人がいった。


「え?」


「同好のとしてさ」


「同好?」ゲイ? 武志郎の腰が引ける。


「俺さ、一年のとき、保田奈美穂にこくってフラれたんだよな」


「はぁ?」


「ブシローもれてたろ? しかも熱烈に──いぇえい!」パンパンと拍手はくしゅ


する勇人。ひとり目の男子の歌が終わり、彼は両手を上げて歓声にこたえながら、お


笑い芸人さながらのしぐさをまじえ、次の歌い手を孝雄と律子のデュエット、と指定


した。黄色い声でもりあがる店内。孝雄も律子もデュエットは想定していなかったよ


うで、あわてて相談をはじめている。


「マジか……」ふたりのことだ、ヘタをすると次は武志郎と香里とかいい出しかねな


い。


「そうマジでショックだったよ、二学期になったら本格的にアタックするつもりだっ


たのに。いい女だったもんな、保田奈美穂」勇人の話はつづいていた。


「あの、山原さ、俺は別に保田さんのことは……」


「かくすな、かくすな。あのあとのブシローのヘコみぐあいは尋常じんじょうじゃなかった


って、みんな知ってるんだから」勇人は腕をまわし、武志郎の肩をくんだ。


「みんな?」


「そ、みんな。だから鵜飼も名のりをあげたんじゃないか? けるねぇ!」


「かんべんしろよ」勇人の腕からのがれた武志郎は、孝雄と律子のまわりでニコニコ


している香里に視線をおくる。やはり酒、もしくは熱気のせいかほおが赤い、なん


だかつやっぽく見えた。彼女も化粧をしているのだろうか?


「いいじゃないの。保田奈美穂とは全然タイプが違うけど、キープしとけば」


「キープ?」


「誰だってそりゃ一番とつきあいたいさ。でもたいてい、そううまくはいかないもん


だ。だろ? お互いにさ」


「まあ……」


「どっかで妥協だきょうしなきゃ、男と女はつきあえない。そう思わない?」


「山原は今、彼女いるのか?」


「当然。彼女たち、だけどな。ただし、校内じゃ作らないことにしてる。あとあと、


いろいろ面倒めんどうだからな。だから保田奈美穂は、俺にとっても特別だったんだ」


「…………」言葉がでない。住んでる世界が違うと武志郎は思った。


「二番手をキープしとけ。鵜飼、だき心地ごこちよさそうだし」


「そーゆー目で見るなよ」──保田奈美穂のこともな。


「俺の女に手をだすな、ってか?」


ちげぇーよ、バカ」


「お、いいねぇ、ようやくクラスメイトらしくなってきた。赤字かくごでかい


開いた甲斐かいがあったよ」


「……シャレか? てか赤字なのか?」


 そうこうしているうちにド派手はでなイントロが流れ、マイクを持った孝雄と


律子が体をおどらせている。曲は『ふたりのトコナッツ』、ひと昔前のノリノリ


のデュエット曲である。勇人は手拍子てびょうしでもりあげながら


「ひとり千円だぞ、赤字に決まってるだろ?」といって笑う。


「大丈夫なのか?」千円×十四人=一万四千円。確かにこの分量の飲み物や食べ物、


場所代にはたりそうもない。


「大丈夫。ここ、俺のおふくろの店だから」


「マジ?」


「やっぱ知らなかったか。お袋っても今はよそんちの嫁だけどな。ちなみにきてる連


中はみんな知ってるぜ、俺が母親あいつを嫌ってるの。だから安心して騒げるん


だ。いざとなったら泊めてやれるしね。今日、明日、連休で店も休みだからさ」


「なるほど」なにがなるほどなのかはわからないが、山原勇人の家庭環境が複雑であ


ることだけは理解できた。武志郎はのほほんと暮らしている自分に後ろめたさを感じ


てしまう。


「たまにはこーゆーのもいいだろ? これでも心配してたんだぜ、同じ女に捨てられ


た男としては」


「いやないい方するなぁ」そしてじた。こんな気のいい連中と親しくできずに


いたおのれ自身を。


「──って話は全部、嘘」


「なにぃ!」


「といったらどうする?」


「はぁ?」


「ブシロー、気をつけろ。お人よしすぎ、簡単に他人を信じすぎ。将来、必ず人にだ


まされるね」


「…………」自慢じまんではないが、現在進行形で香里にだまされ中である。


「ジョークだよ。まあ、ぬけだそうとか考えずに、千円分は楽しまなきゃそんだぜ」


「わかった、サンキュ。で、ここが母親の店だって話は?」


「本当だよ、嘘はひと言もいってない。俺は嘘が大嫌いなんだ」


「どっちだよ?」


「いいじゃん。常夏、常夏、イェイ、イェイ、イェイ、イェイ!」勇人だけでなく、


店内中の者がほぼ全員で孝雄&律子の歌にあいの手を入れている。大もりあがりであ


る。武志郎以外は。ふたりのデュエットはすでにサビの部分をむかえていた、この曲


が終わってしまったら指名される可能性はかなり高い! まさに絶体絶命である。い


まさら逃げるわけにもいかないし、パスだ、酔っ払ったフリをして一回パスしよ


う! 姑息こそくな手段を思いついた武志郎は、勇人がカウンターに置いたウイスキー


のボトルに勢いこんで口をつけ、壮絶にむせてせきこんだ。涙がにじむ目に、腰を折


りまげて爆笑している勇人がうつる。そして、大歓声と拍手につつまれてふたりの曲


は終了した。


「キスしろ!」誰かが叫ぶ。するとまた手拍子が巻きおこり、キス! キス! キ


ス!と大合唱がはじまった。勇人はもちろん、普段であればおよそこんなまねをしそ


うもない香里や蓮美までが手をたたいてはやしたてている。


「マジか……」酔った勢いなのか、集団心理というものなのか、熱狂する同級生たち


にあわあわと目をおよがせる武志郎。


「しゃーねーな!」とどなった孝雄は、律子の唇にチュッとバードキス。一瞬の早わ


ざだった。照れまくりの律子は、バカ!と孝雄の腕をたたくが、どこかほこらしげ


に見える。指笛と悲鳴じみた嬌声きょうせいが飛びかう中、また誰かが「アンコール!」


と叫んだ。


「しねぇっつの!」真っ赤になった律子が一喝いっかつすると、場は笑いにあふれ、ふた


たび拍手がおきて、このショーは幕となった。


「じゃ、次を指名するぜ! 次はやりづらいぞ! ざまあみろ!」といった孝雄の


獰猛どうもうな瞳はあきらかに武志郎に向けられている。思わず目線をはずした


武志郎は心の中で手をあわせおがんでいた。お願い、やめてあげて!と。そん


な武志郎を嘲笑ああざわらうかのようにニヤリと口元をほころばせる孝雄。全員


の目が、孝雄の視線の先で小動物なみにふるえている男をとらええた。


 万事休す、武志郎!


「──と見せかけて、次は香里! 聞かせて、天使の歌声!」律子が流れるような口


調で香里を指名した。しかし危機はまださっていない、デュエットとか絶対いう


な! 武志郎は胸の内で懇願こんがんする。


「香里ちゃん、歌、うまいんだって? 次、たのむね」孝雄は香里にマイクをわたし


てやさしく微笑ほほえむ。武志郎に向けた悪魔のようなみとはえらい違いであ


る。


「別にうまくはないんだけど……」もじもじ、おずおずとしながらも、リモコンで曲


を入れた香里は、ひとつ、ほぉおと息をいた。


「ブシロー、ビビった? ビビった?」笑いながら缶ビールを持った孝雄が近づいて


くる。人前でキスなんかしておいてケロっとしていられる神経が、武志郎には理解で


きない。


「るせぇ、この女好きのチャラ男が。それでも剣道部か?」


「なぁ勇人、こいつ、こんなこといってるぜ」かたわらの勇人に話をふる孝雄。


「本当だぁ。女のせいで剣道やめた野郎がなぁ」調子をあわせる勇人。


「いやまったく恐れいるよ。どの口がいうんだか」ビールを一気に飲みほす孝雄。


「…………」舌うちしながらも、しかし、武志郎にいやな気持ちはなかった。あれだ


け好きだった保田奈美穂のことでふたりにいじられているというのに、なんだか楽し


さがこみあげてくる。酒のせい? 取りあえず危機回避ききかいひできたせい? 武志郎に


はわからなかった。


「お、はじまるぜ」勇人が緊張きんちょうしてガチガチになっている香里の方を見る。むだ


口をたたきながらも全体の流れだけはつねに把握はあくしているあたりは、さすがと


しかいいようがない。ところで香里の選曲は、歌いだしがイントロなしでアカペラか


ら入るという難易度たかめの切なくも甘いバラード曲であった。令和の歌姫といわれ


る人気アーティストの大ヒットナンバーで、誰もが一度は耳にしている曲であるか


ら、見事に歌いあげれば先の孝雄らのノリとは別の意味で場をもりあげることができ


るだろう。逆にはずしたら、みなが知っている曲なだけにかなり悲惨なことにもなり


かねない。なにしろ流行歌などには興味がない武志郎ですら知っている曲なのだ。大


丈夫かよ、鵜飼さん──という武志郎の心配など無用だといわんばかりに彼女の歌声


は高く高くのび、そしてみわたっていた。ようはメッチャうまいのである。


店内の誰もが聞きいってしまうほどに。律子がいった天使の歌声は、決して誇張こちょう


はなかった。


「マジか……」つぶやいた武志郎は、また嘘をつかれたと思った。彼女は勉強しか取


りえがないと確かにいったのだ。


「オペラ歌手みたいだな……体型も」失礼なことをいいながら、勇人もしきりにあご


をなでている。ちなみにだが、太りすぎが原因で降板させられたオペラ歌手が過去に


いたことなど彼は知らない。


「こりゃすげぇや、またまた次のヤツがやりにくい」孝雄も感心しきりである。


 ラストでふたたびアカペラとなるサビをしっとりと歌いあげ、香里の選曲『プラッ


トホームにて』はフィナーレをかざった。しばし鳴りやまない拍手がうねりのように


つづく。当の本人はその間、恥ずかしそうに頭をさげっぱなしであった。


「鵜飼、次を指名してくれ!」司会進行の勇人が声をかける。


「あ、はい。じゃあ──」まだ歌っていない武志郎や勇人をふくむ十人の男女が息を


つめる。確かに彼女のあとは誰もがさけたいところである。


「──武志郎君で」


「はぁあ?」香里は妙なうわさ話をいやがっていたから、この展開はないと武志郎は


ふんでいたのだ。みながカラオケにあきはじめたころ、こそっと歌う方向へと心の


かじを切っていたのだ。


「武志郎君で……」香里が神妙しんみょうな顔つきでマイクを差しだしている。これは


もはや脅迫きょうはくに近い。


「あの……あ、一回パ──」パスで、といいかけた武志郎をだまって見逃すわけがな


い男たちがしくも周囲にふたりいた。勇人が武志郎の尻をけってセンターへと


押しだし、孝雄は「ブシロー、いきまーす!」とロボットアニメばりに叫んだ。


「て、てめぇら!」


「ルールはルールですので、お客様」低い声ですごむホスト勇人。


「いいからいってこい。お前にれた女が勇気をだしたんだ、こたえるこたえ


ないは別にしたって、せめて正面から向きあうくらいのことはしろ。男だろ?」酔い


がまわりはじめているらしい孝雄の言葉は一見いい話ふうに聞こえないこともない


が、実際はカラオケのマイクを受けとるだけのことである。「ヘタくそなのは知って


る。いってくだけてこいっ!」


「…………」舌うちしまくりの武志郎。彼は本当に最新の流行歌などほとんど知らな


いのだ。そして、運動神経同様、音感も不安定でにぶい。早い話が音痴なのであ


る。そんなわけで、場の中央に押しだされはしたものの、当然、曲は決めていない。


「なんか……本当にすいません」周囲を見わたしつつ、申し訳なさそうに、今にも泣


きそうな表情でマイクを持った手を伸ばす香里。酔った孝雄の放言ほうげん、お前に


た女が勇気をだしたんだ、のあたりに過度な反応をしめしているのかもしれない。


「いや……タカのバカがいうことなんかいちいち気にしなくていいから」


 ──そんな顔をされると、俺が悪いみたいじゃねぇか!? まいった、いっそじい


さんが好きな軍歌でも歌うか? それとも校歌? なんかない? あ、そうだ! 


 武志郎の腹は決まった。誰にどう思われようと別にかまいはしないのだ。


「歌うから、鵜飼さん。大丈夫、歌うから」


「はい」


「鵜飼さん、歌うまいね。あのあとは正直、誰でもきつい。かえって目立たなくてい


いよ」武志郎がおどけて破顔はがんすると、香里もホッと笑顔を見せる。


「ありがとう。がんばって、武志郎君」


「よー、よー! 歌、決まったの?」ヤジが飛ぶ。「熱いんじゃないの? おふたり


さん!」この声を聞いてハッと武志郎からはなれ、蓮美らの輪の中へとまぎれる香


里。その間、武志郎はなれないリモコンを操作し、ようやく曲を入れることができ


た。そしてカラオケモニターに曲名が出て、陽気なイントロが流れはじめると全員が


腰をぬかさんばかりにうめきのような吐息といきをもらす。武志郎が選んだ曲は


『アルプス一万尺』であった。


「マジかい?」絶句ぜっくする孝雄、そして笑いをこらえる勇人。


「アルプス一万尺 小槍こやりの上で アルペン踊りを 踊りましょ!」


 ラララの部分はほぼ絶叫に近いダミ声で歌う武志郎。この曲を選択した理由は簡単


であった、なにしろ短い曲である上にラララの部分は音程がはずれても声のデカさと


勢いでごまかせると考えたからである。元剣道部である彼は、気合いの出し方だけは


他者に引けをとらない。


「お花畑で 昼寝をすれば 蝶々が飛んできて キスをする!」


 二番になると、しだいにノリ始めた周囲の者がヘイ!とあいの手をくれ、武志郎よ


りももちろんうまい合唱でもりあがる。子供のころ習った振りつけをはじめる女子も


いた。


「やるなぁ、ブシロー。小賢こざかしいというか、あざといというか」勇人はゲラゲラ


と腹をかかえて笑いながらつぶやく。


「開きなおると案外、逆境に強いタイプかもな」手拍子を打ちつつあきれたように孝


雄がこたえる。


 ほんらい『アルプス一万尺』は二十九番まである曲であるが、子供用のカラオケで


ある。歌詞は四番でおわり、実際に武志郎がマイクを持った時間は二分半ほどですん


だ。その割にはかなりの成果をあげることができたようである。とにかく大任をはた


した武志郎はとくに目立っていた振りをしていた女子を次に指名し、マイクをわたし


て孝雄たちの元へ逃げかえってきた。


「疲れた……」孝雄の手から缶ビールを奪いとり、のどをうるおす武志郎。


「お疲れ。なかなかだったよ」


「もう二度とやだ! 断じてやだ!」


「いいこと教えてやるよ。『カエルの合唱』なら、あと一分短縮できたぞ」


「マジか。……山原は?」


「うん。母親が裏の方へきてるみたいだ。ま、いろいろあるんだろ」


「なるほど」いろいろと、大人の事情か……。武志郎は、ホント俺、お子さまだ、な


んせ『アルプス一万尺』だもんな、と情けなく思った。


 総勢十四人分のカラオケタイムがおわるころには午後四時をまわっていた。母親と


もめていたらしく、しばらく店内にいなかった勇人がトリをつとめ、大トリをかざっ


たのは裏番? 蓮美であった。ふたりともに見事なパフォーマンスを披露ひろうし、会場


を大いにわかせた。


 次に用意されているというゲームタイムまでの間、しばしの雑談タイムとなったの


であるが、ここで勇人がふたたびマイクを取った。


「はい、注目! えーと、もう四時半になる。そろそろ帰りのことも考えなきゃいけ


ない時間だな? 全員、酒はここまで! いいな!」


 ええーっ!というブーイングが上がる。「バカか、お前ら! 退学や停学になりた


いか? ここからは酔いさましタイムに入る、いいか、水や茶をガンガン飲んでアル


コールを抜くんだぞ!」


「賛成!」といったのは蓮美であった。そして、彼女が拍手をはじめると、一部はし


ぶしぶといった様子であったが結局、全員が拍手した。


「女帝、サンキュ!」勇人が笑うと蓮美はサムズアップでこたえた。とはいえ、もと


もと本気で酒を飲んでいた者はごく数人で、女子にいたっては香里もふくめ、最初の


一杯に口をつけたていどの者ばかりのようであった。誰もかれもちょっとした背のび


と、アダルトな気分を味わいたかっただけで、たった一日のイベントで将来を棒にふ


るほどおろかではないのである。このような場面に免疫めんえきがなく、けっこう


飲んでしまった武志郎は、詐欺さぎのような話だ!と真っ赤な顔で憤慨ふんがいしたが、


あとの祭りである。


「オーケー、オーケー、じゃ、いったん、お手元の酒を総員、片づけ、開始!」勇人


の号令で全員が動きはじめる。お茶やジュースは残して、酒類がみるみる片づけられ


てカウンター内に集積されていく。


「──すげぇな、山原」まさに段どり名人、気配りとリーダーシップがハンパではな


い。武志郎は同い年である勇人に尊敬の念すらいだいてしまう。そして、蓮美にも。


確かにこのふたりにかかれば、周囲がまったく見えていなかった子羊を修学旅行委員


にすえることなど造作もないに違いない。


 酒の撤去がおわると、お次はゲームタイムとなった。ゲーム名はワンコインデスマ


ッチ。参加は自由、ひとり五百円を出した者が全員でジャンケンをして、最終的に勝


ち残った者が総どりするというものである。一回目は全員が参加した。総どりできれ


ば七千円、高校生としてはバカにできない金額である。うわー、ぎゃあー、と叫び声


があがり、悲喜こもごも、ゲームは白熱した。人数が多いのでなかなか決着がつかな


いのがミソである。三回戦までおこなわれたが、武志郎は当然というべきか、最後ま


で残ることは一回もなかった。ギャンブル運が彼にあるとはとうてい思えない。


 酒に博打ばくちとつづいたので、ラストのダンスタイムは、もしやあやしげな大人


のダンス? 武志郎は内心ドキドキしていたのだが、なんとフォークダンスであっ


た。またしても全員で店内のテーブルや丸イスを片づけ、場を広げると小さな輪にな


って二列にならぶ。一曲目は昨年の体育祭での演目『オクラホマミキサー』。男子の


方が多いので男同士で踊る回も当然あるのだが、それはそれで、また楽しい。つづ


き、『コロブチカ』が流れ、最後は『マイムマイム』でみなが大声をだし、日ごろの


ストレスを発散したようであった。しかし、武志郎には実はけっこうなストレスがか


けられていた。ダンスの順番が回ってくるたび、律子にも蓮美にも「カオリ、オク


レ」と昔の電報のような文言もんごんをささやかれつづけていたのである。当の


香里はうつむきかげんでほおを染めているだけであったのだけれど。


 そして午後八時、期末試験慰労会は盛況せいきょうのうちに閉会となった。勇人はひとり


ひとりの顔色や歩行バランスを確認して、外にだすのは危険と判断した者にはしばし


の居残りを命じた。そして許可のおりた者から三々五々、引きあげはじめる。目立つ


ので集団で帰るのは禁止、そう蓮美がいったせいだ。まだ少し目のまわりに赤味が残


ってはいたが、武志郎はなんとか帰宅の許しをもらえた。


「さて」孝雄は当然、律子と帰るだろうからひとりで帰るか、と武志郎が伸びをして


いたら、その律子にジッと見つめられていた。視線をはずすと他方からは蓮美の威圧いあつ


てきな眼光が。──なんのホラーだよ? 確かに今日は香里と話をするためにきた


のだ。少しは期末テストで結果をだせそうだという報告と感謝の気持ち、それから内


申点のことでだまされていた心のもやもやを晴らすつもりできたのだ。しかし、なん


だか楽しかったし、まだ少し残る酔いも手つだって、またでいいか、という気持ちに


かたむいていた。蓮美からも顔をそらすと自然と勇人の方へと目がいった。ろれつの


怪しい男子に水を飲ませている。リーダーシップは抜群で、めんどう見もいい。そん


な男ですら保田奈美穂はフッたのだ。自分などとうてい相手にされなかっただろう。


しかも勇人は告白した、武志郎は三年間も告白できなかった。そこに男としての差異さい


猛烈もうれつに感じた。むだだっただろう、ダメだっただろう、それでも先のばしに


しつづけるべきではなかった……。


 香里は、もうひとりの女子とともにカウンター内で食器の洗い物をかってでてい


た。勇人がいうところのオペラ歌手体型のせいか、母親を思わせ、流しに立つうしろ


姿が板について見える。武志郎にはなぜだか微笑ほほえましく感じられた。


「ブシロー」律子が孝雄をともなって声をかけてきた。「内申点のことバレてたんだ


って? 今、孝雄に聞いた」


「ああ」


「怒ってる? 香里、なにも悪気があってしたわけじゃないんだよ」


「怒ってない。わかった」


「本当?」


「本当。だから鵜飼さん、今日、送ってくよ。あそこでにらんでる人も怖いしね」武


志郎が指さすと、なによ!といいながら蓮美が大またでやってくる。


「蓮美、ブシロー、香里を送るって!」嬉しそうに律子が笑うと、蓮美はバチンと武


志郎の胸をたたいた。


「よっ、男前!」蓮美はいいながらガッツポーズ。


「送りオオカミになるなよなー」孝雄も笑顔である。


「てか、お前こそな」武志郎、いつもの切りかえし。


「てか、俺は合意のうえ」孝雄がこう返すと律子は真っ赤になり、よけいなこという


な!とどなった。武志郎は笑いながら、本当にいい日だった、と久々にそう思った。


 まだ、数人の酔っ払い男子が残っているが、蓮美がひと足先に出ていき、ついで孝


雄と律子が帰っていった。そしていよいよ武志郎と香里の番となった。送っていくと


いう話は、三人がいる間にすでにできている。


「ブシロー、鵜飼をたのむぞ」出がけにタバコをくわえた勇人に声をかけられた。武


志郎は、おうとこたえたが勇人のことだ、なにをたのまれたのかわかったものではな


いと、そう思った。


                                (つづく)


※ この物語には未成年の飲酒描写が含まれますが、未成年の飲酒は法律で禁じられています。また、この物語は未成年の飲酒を推奨するものではいっさいございません。この物語はフィクションです。過去はさておき、現在の実在の人物・団体・事件にはいっさい関係ございません。

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