第一章 春の地獄 9 

       9


 期末テスト最終日。午前中で試験はおわり、帰りじたくをしていた武志郎は教室内


を見わたして香里の姿を求めた。妙なうわさが流れたせいで、このところずっとさけら


れているようで、教室でも、放課後の図書室でも、ろくに話をしていなかった。試験


の結果はわからない、けれど武志郎はどうしてもひと言、礼をいいたかったし、でき


れば彼女の母親が元気になったのかどうも知りたかった。けれど彼女の席にはすでに


スクールバッグがない、どうやら試験が終了するなりとっとと帰宅してしまったよう


だ。ひとつ吐息といきをつく武志郎。


「ブシロー君」声をかけてきたのは、蓮美であった。


「ああ、なに?」武志郎は夕闇ゆうやみの中でのキスシーンを思いだし、少しドギマギと


してしまう。


「笹井先生が呼んでる。帰る前に職員室によれって」


「わかった」


「それとさ、明後日の日曜、勇人君主催のテスト慰労会いろうかいあるでしょ? いく?」


「いかない」


「なんでよ?」ぐいと顔をよせてにらみをきかせる蓮美。死語に近いが、いわゆるメ


ンチを切るという行為こういである。一瞬、武志郎も腰が引けてしまう。


「自由参加だろ? 参加費、千円だろ? いきたくない」


「きなさいよ、ケチくさい」


「はぁあ?」──また脅迫きょうはく!? 


「香里も連れてくから」蓮美は声をひそめて笑顔でささやく。


「あのねぇ……」武志郎は自分のひたいを指先でコツコツとたたきながら、

ひと言


ひと言、ふりしぼるようにして言葉を押しだした。「丘さんさ、その山原勇人や、ク


ラス中のみなさまのおかげで、結果、鵜飼さんが俺をさけるようになったっての、わ


かってるよね?」


「まあ……」


「自分や有坂に男ができたからって、鵜飼さんまで巻きこむな。なに様だよ」


「な、はぁ!? そんなつもりないわよ!」蓮美のソプラノは本人も思いがけないほ


ど通り、教室に残っていた数名の生徒たちの注目を集めてしまった。くやしそうに目


をそらし、うつむく蓮美。


「とにかく慰労会なんかいかない」武志郎も蓮美と目を合わさず、そういうとバッグ


をかついで教室を出ていった。


 職員室へと歩きながら武志郎は心の中でしまった!とつぶやいた。香里の母親のこ


とを蓮美ならば知っているかもしれない。もめる前に聞いておけばよかった! 一度


立ちどまり、教室までもどろうかとも考えたが、いまさら顔を合わせればますますこ


じれそうな気がして、やめておくことにした。今度こそ本当に蓮美が扇動せんどうしてイジメ


が始まるのかもしれない。クラス中をまとめて修学旅行委員を選出した実績をもつ女


子なのだ。けれど武志郎は、どうでもいいやと思った。そもそもクラスメイトには関


心がなかったのだし、いよいよとなったら学校をやめればいいのだ。


 ──保田奈美穂のように。


 期末試験の採点に追われている教師たちを横目に見ながら覇気はきのない顔でやっ


てくる武志郎に気づいた笹井は、顔を上げて早くこいと手まねきをした。


「なんですか? もう追試決定ですか?」ふてくされたような武志郎の言葉に、笹井


は吹きだす。そして笑いながら彼の腹を軽くこぶしでなぐった。


「なんすか!?」


「今回、少しがんばったみたいだな」


「はぁ?」


「昨日までの試験結果、なかなかだと聞いた。先生方もかなり驚いていたぞ」


「マジすか!?」


「ブシロー、カンニングやっちまったか?」


「してねぇし! それで俺、呼ばれたんですか!?」


「冗談だよ」お茶をすする笹井。


「ざけんなよ……」小声でつぶやく武志郎。


「ただし、いいのは文系だけで、理数系はあい変わらず壊滅的だ。俺はなにを教えて


るんだっけ?」


「数学……」


「お前、ナメてんのか?」笹井の目がスゥっと細くなった。


「いやぁ、そんな……」


「冗談だよ」


「…………」首をうしろにひねって舌うちする武志郎。


「ブシローは文系を選択するのか?」


「べつに決めてるわけじゃないですけど」


「まあ、いい。この調子をくずすな。いちおう担任だからな、それだけいいたかっ


た。呼びつけてすまんな」


「はぁ……」武志郎はひたすら恐縮きょうしゅくした。五分前に学校をやめてもいいと考えた


ことなど、どこかに吹きとんでいた。そしてまた、すぐにでも香里に礼をいいたくな


った。


「柳川先生も喜ぶだろう、それに鵜飼もな」


「あ!」武志郎は両手をパチンと合わせた。


「なんだ?」


「鵜飼さんの内申点ないしんてん、ちゃんと上げておいてくださいよ」


「内申点?」


「彼女、笹井先生のいいつけ守って、俺にキチンと勉強を教えてくれたんだから。た


のみますよ」


「なにを?」


「だから──」いぶかしげな表情をする笹井に武志郎は、香里に勉強を教わることに


なった経緯けいいを話した。孝雄や律子、蓮美からも援護射撃(脅迫?)を受けたこと


も。


「なるほど……そうか」なぜだか、笹井は頭をかかえはじめた。


「どうかしました?」


「ブシロー、お前、進学する気あるのか? それとも大学にはまったく興味ないの


か?」


「はぁ?」図星ずぼしをつかれた。しかし、ご明察めいさつの理由がわからない。


「鵜飼や、ほかの連中のお前への気持ちを考えるといいだしにくいんだけどな」


「はあ」


「教師としては、だまっているわけにいかんよな……」


「先生、なに、いっちゃってるんです?」


「──中学生じゃあるまいし、大学受験に内申点なんて関係ないことくらい常識だ


ろ」


「はぁああ!! マジすか!?」


「そりゃ、こっちのセリフだ。今まで何度も何度も進路指導を受けてきただろが。全


然、聞いてなかったのか?」笹井は大きな、大きなため息をついて、わき上がる感情


を押さえこんでいるようであった。ひと昔前なら、手を上げられていたところかもし


れない。


「…………」


「まあ、いい。お前も釈然しゃくぜんとしないだろうが、これはどう考えてもだまされた


お前が悪い。そうだろ? 高校生として持っていて当然の知識を身につけておか


なかったお前が悪い」


「…………」


「それから俺も悪い。俺が悪かった。悪かったな、ブシロー」笹井は深々と頭をさげ


た。


「え?」


「ほんの軽口だったんだ。まあ、せっかく、成績が両極端りょうきょくたんのふたりが修学旅行


委員に選ばれたんだし、活動の合間にでも鵜飼がお前の勉強を見てくれたらいいな


と、半分願望の冗談のつもりだったんだ。ブシロー、本当にすまなかった」


「…………」


「それで、すまないついでにたのみがある」


「…………」


「今もいった通り、悪いのは軽口を叩いた俺だ。お前、鵜飼をめるなよ」


「…………」


「たのむぞ、ブシロー」


「…………」武志郎は答えず、入ってきたときと同じように覇気はきのない顔で職員


室を出ていった。笹井は腕をくみ天井を見あげ、この三連休で頭を冷やしてくれれば


いいが、とせつに願った。そして連休明けには鵜飼香里にもあやまらないといかんな


ぁと考え、頭をふった。

 

 帰途、田畑の広がる田舎道いなかみちを全力で自転車をこいでいた武志郎の脳内には、グル


グルとしたうずが巻きあがっていた。


 ──鵜飼香里は俺をだました、それは間違いない。腹が立つのか? わからない。


俺が進学に興味がないってこと、内申点のことなんか理解してないってこと、香里が


知っていたはずがない。教えたのは間違いなく大倉孝雄。タカに腹が立つのか? わ


からない。タカを動かしたのは有坂律子に丘蓮美、たぶんそうだろう。ふたりに腹が


立つのか? わからない。わからない、わからない、わからない、わからない! 腹


が立たない理由がわからない!! 


 全力疾走で自転車をとばす武志郎には、晴れ晴れとした初夏の青空も、水ぬきされ


た田んぼの土をおおい隠してゆったりと風にゆられているイネの茎先くきさきですら、


わずらわしく感じられた。毎日、見なれている景色であるはずなのに。


 やがて自宅近くの市街地に入った武志郎は、大規模なショッピングモールができた


せいでさびれつつある商店街入り口ふきんの交差点に差しかかった。信号は赤、しか


しわき目もふらず、吹きだす汗をぬぐいもせずに自転車を走らせていた武志郎の目に


は映っていなかったのかもしれない。


 金きり声のような甲高かんだかい長めのブレーキ音が路面にひびき、自転車がはねとば


され、武志郎の体が宙に舞う。横ぶれしながらななめに停車する宅配の大型トラッ


ク。交通量が少ないことがせめてもの幸いだった。後続車や対向車が一台でもいた


ら、大惨事になっていたことだろう。八百屋や肉屋、書店の店先から住人が出てき


て、遠まきに不安そうな表情をうかべている。運転席から蒼白そうはくな顔をした宅配便


ドライバーが飛びおりて、周囲を見わたす。はねた自転車は直近に立つ電信柱の足も


とに横たわり、前輪がカラカラと回っていた。中年のドライバーは、トラックの背後


にぼうぜんとつっ立っている男子高校生の姿を認めると、息せき切ってかけよった。


「おい! 大丈夫か!?」


「…………」顔面が白ろう色の武志郎は、体中を小きざみにふるわせながら懸命けんめい


うなずくことしかできなかった。とくにひざから下が大きくふるえ、今にもくず


れ落ちそうな気がした。そしてなぜかの奥がジンジンと熱くうずき、眼球が


まるでペンチで引っぱられたように痛んだ。


「と、とにかく救急車、救急車!」ドライバーは腰のホルダーから携帯電話を抜こう


とするが指先がおぼつかず、路上に落としてしまう。


「あ、あの、俺、大丈夫です。ひかれてないですから」ガクガクとゆれる膝がしらを


押さえつけながら片目を開けられない武志郎がいうと、携帯を拾ったドライバーは電


柱までとばされた自転車を見る。


「しかし……」なにかをはねた、そんな衝撃が彼には確かにあった。


「とっさに、どうしてだかジャンプ?して、トラックはさけられたみたいです。なん


かすいません」武志郎は自身でも判然はんぜんとしないらしく、首をひねりながら答え、


ドライバーに頭をさげた。 


「本当に!? それが本当なら、本当に助かる──」あちこちから大きくクラクショ


ンがひびいてくる。ななめに停車しているトラックが道をふさいでいるため、数台の


車が立ち往生おうじょうしていたのだ。「ああ、君、ちょっと待ってて!」宅配ドライバー


は何度も両手を胸のあたりで広げて、待ってて、待ってて、といいつつ車の運転席へ


とかけもどる。


「…………」トラックのエンジンがかけられたので、武志郎はひとつ大きく深呼吸を


して、ふらつきながらも路肩へと移動した。どうやら問題なく足は動くようだ。


 車輛をはしによせて、たまっていた何台かの車をやりすごしたドライバーはすぐさ


ま武志郎の元へと急いだが、すでに彼の姿はなく電柱の下に転がっていた自転車も消


えていた。


 どうもフレームが曲がったかゆがんだらしく、ギクシャクとした動きで走る


自転車を懸命にこぎ、武志郎はとにもかくにも事故未遂現場から逃走した。いつの間


にかの痛みもおさまり、外傷がなかったことも確かなので、面倒めんどうはご免であっ


た。それにしても──と武志郎は自問じもんする。なぜ助かったのか? 宅配ドライ


バーにいったことは嘘ではない。確かにジャンプした、重力を無視するかのようにフ


ワリと体が持ちあがったような……。そして気がついたら大型トラックの脇ではな


く、背後に立っていた。どうやって? 車高は三メートル以上あったし、全長だって


五、六メートルはあるんじゃないだろうか? ただでさえ運動神経がにぶいのだ、


どう考えたってありえない! 今日はわからないことばっかりだ!! 武志郎はイラ


イラとれつつも、今度こそ安全運転を心がけて家路いえじを急いだ。そして、自宅


にたどり着いてから、自転車の修理代くらいならもらえたかもしれないな、とセコい


ことを考えた。


 (つづく)

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