第一章 春の地獄 8

       8


 翌朝、前の晩よく眠れなかったせいか遅刻ギリギリのタイミングで教室の前にたど


り着いた武志郎は、おそるおそるといった調子で入口ドアをスライドさせた。はっき


りとはわからないが、どうやら鵜飼香里を怒らせてしまったらしい。学校で顔をあわ


せるのはしんどいなぁ、そう思う気持ちが足どりを重くしたことも遅くなった原因の


ひとつである。


「よー、ブシロー、おはようさん」教室に入るなり声をかけてきたのは同級生の


山原勇人やまはらはやとであった。そしてなにかチラシのような紙切れを押しつけてきた。


「なにこれ?」


「期末のあと、三連休があるだろ? クラスみんなで集まって試験慰労会しけんいろうかいをやろう


って企画だよ。くわしくはチラシを読んでくれ」


「慰労会……」嫌なひびきだ、と武志郎は思う。おそらくは香里もそう思うのではな


いだろうか?


「ブシロー、彼女もちゃんと連れてこいよ」


「彼女?」


「鵜飼だよ、彼女だろ? 毎日、一緒にいるじゃん。昨日だってバーガープリンスに


いただろ? 見たぜー、かくすなよ」


「いや、違うって!」


「いいから、いいから」勇人は教室に飛びこんできた朝練帰りの女子生徒に目をとめ


ると、チラシのたばを手にかけよっていった。


「…………」困ったもんだ、と武志郎は思った。考えてみれば「バーガープリンス」


は通学途上にあるのだ、誰に見られていても不思議ではない。正直いって武志郎自身


にとっては悪くない話であった。勘違いではあるのだが、無味乾燥むみかんそうでモノトーン化


していた高校生活に少しばかりはなやいだ色あいの絵の具がたされたような気


になれる話である。しかしかわいそうなのは鵜飼香里の方だ。太めではあるが、最近


ちょいちょい可愛かわいいらしく見えるときが武志郎にはあった(ぬいぐるみ的


にであるが)。そして彼氏はいないといっていた。となれば成績最低、部活からも逃


げ出した男とのうわついた話など迷惑以外のなにものでもないだろう。ただでさえヘ


ソを曲げてしまったようであるし、放課後学習も中止にするべきではないだろか? 


ひとりきりでなんのおもしろ味もない暗記を二週間も続けられる自信はまったくない


けれど……。そんな後ろむきな思いを武志郎がめぐらせているとチャイムが鳴った。


「おはようございます!」元気のいい声を出しながら武志郎の脇を走りぬけた香里


は、着席するとあわててバッグから教科書を取りだしている。昨日と同じ芳香、リン


スの残りがあった。なんか、怒ってないみたい? 武志郎はほぉっ、と安堵あんどのため


息をもらした。


 放課後、図書室の指定席でひとり、前日の復習をしていた武志郎はふと顔を上げ、


入り口の方へと視線を送る。やはり、怒らせたのかもしれない。いつもの時刻をすぎ


ても香里がこないのである。しかし、怒る理由がわからない。考えられそうなことが


あるとすれば──。


「まさかな……」女子にれられる理由を、武志郎は自分自身に見つけられな


い。それはありえない、思い上がるなと自戒じかいする。彼女は教室で声をかけても


終日、にべもない態度を示すばかりで律子や蓮美とどこかへいってしまった。武志郎


はため息をつきながら香里が用意してくれた古文の暗記シートに目を落とす。そして


また、まさかな、とつぶやいていた。


「遅くなっちゃいました、ごめんなさい」おがむような手つきをしながら香里がカウ


ンター席の隣に腰をおろした。


「あ? おう」なんでもない風をよそおいつつ武志郎が顔を上げると、彼女の手には


山原勇人の作ったチラシが握られていた。


「山原君につかまっちゃって。おかしなこというから、あの人」


「おかしなこと?」武志郎にも想像はついた。


「いいの、いいの。それよりえらいですね、武志郎君」


「なにが?」


「ひとりでもちゃんと自習してたじゃないですか」


「ちゃんとはできてない」それは事実であったし、彼女のいったひとりでもという言


葉に武志郎は動ようを感じた。


「じゃあ、はい」香里はいつかのように付箋ふせんのついた問題集を差しだし


た。「昨日の暗記が完璧ならけるはずですよ。それをやってから、これは今日


の分」


「おう……わかった」古文の問題集に英単語の暗記シートをわたされ、目を白黒とさ


せながらも武志郎は胸をなでおろしていた。よかった、いつも通りだ、と。


「そりゃ、そうですよね。毎日、こうしてれば」


「え?」


「変な誤解も受けますよね。ごめんなさい」


「なんで? あやまる?」


「武志郎君、いやでしょ? こんなデブな子とうわさになったりしたら」


「んなことないけど」それは本当である。それどころか逆に迷惑をかけるとすら考え


ていたくらいなのだ。また武志郎の存在が香里のもらい事故になるかもしれないと。


「それで私、考えました。期末まで毎日、こうして暗記シートとドリルを持ってきま


す」


「ああ」


「武志郎君にわたして、前日のドリルを受けとったら、私、帰るから」


「はぁ?」


「それで解決です。あ、採点した答案は翌日、返しますね」


「いや、ちょっと待て。俺、ズルするかもしれないじゃん。鵜飼の前でドリルやらな


いと」


「あ」


「なに?」


「初めて鵜飼って呼ばれた」


「はい? ああ、鵜飼さん、悪かった。それはおいといて、マジ、ひとりじゃ俺、勉


強やんないって!」なんの自慢じまんにもならないセリフを普通の音量ではいた


ことで、期末試験前の学習を粛々しゅくしゅくとこなしていた生徒たちからいっ


せいに視線をあびた武志郎は、首をすくめて口元を押さえた。


「元々やりたくなかったんですよね? 勉強」香里は静かな声でこたえる。


「…………」


「私のつごうで押しつけたようなものだし、ズルするんならしてください。やりたく


なかったら、やらなくてもいいです。私はいちおう、暗記シートとドリル、毎日、届


けますから」


「…………」


「それに私、塾に通うことにしたんで、あまり時間も取れなくなったんです」


「あ……そう」


「じゃ、武志郎君、また明日」ペコリと頭をさげて香里は足ばやに図書室を出ていっ


た。


 翌日、翌々日も香里は、休み時間は武志郎をさけるようにどこかへいなくなり、放


課後には図書室まで暗記シートと付箋のはられた問題集を運んできた。そして、そそ


くさと下校するのだ。律儀りちぎにカウンター席で彼女を待ち、答えを書きこんだ


前日のドリルをわたしている自分を、武志郎はしつけられた犬のように感じはじ


めた。なんだかバカにされているような気もするし、採点ずみの答案用紙に書かれた


彼女の細かなアドバイスなどを見ると、そんなことはないような気もする。それにこ


こ数日、一緒にいる時間が長かっただけの間がらであるが、少なくとも、こんなこと


で他人を小バカにして喜ぶような女子には思えなかった。うーん、とうなる彼はその


日、暗記問題になど集中できなかった。


 結局、暗記学習に専念することも投げだすこともできず、退室時刻まで図書室でう


だうだとすごした武志郎は、実に宙ぶらりんな気持ちで自転車置き場へと重い足を引


きずっていった。


「なんだかしょぼくれたジジイみたいだな」自転車の鍵をはずしていた武志郎は声を


かけられて、ぎくりとふりかえった。思った通り、少し白っちゃけた紺色こんいろの道着に


袴姿はかますがたの孝雄が背後に立っていた。懐かしい異臭、鼻にツンとくる汗の匂い


がした。


「おう、タカ。もう部活おわったのか?」


「ああ、たまには一緒に茶でも飲もうかと思ってさ。待ちぶせしてた」


「気持ち悪ぃな」


「ブシロー、いいだろ? 着がえてくるから少し待ってろよな」孝雄はそういい残し


て部室の方へと走りさった。



「はぁ、ブシローの悩みは女がらみばっかだな。保田奈美穂につづいて今度は香里ち


ゃんかよ」ビッグプリンスにかぶりつきながらあきれたように孝雄が笑う。


「そんなんじゃねぇよ。ただ鵜飼さんが、なに考えてんだかわからないっていってん


だ」


「バーガープリンス」は本日も学生たちや仕事帰りの若いサラリーマン客でにぎわっ


ている。香里とふたりできたのが、たった三日前であることが嘘のようだと武志郎に


は感じられた。


「香里ちゃんがなに考えてるって、ブシロー君が大好き!に決まってんだろ?」


「はぁ? ねぇよ」


「お前、なーんもわかってないな」


「なにが? だいたい、れられる理由がない」


「理由ねぇ……確かにないな。なんでだろ?」


「るせぇよ!」武志郎の口からポテトのかけらが飛びだす。


「汚ぇな! 飛ばすなよ。でも、なーんか、昨日あたりから様子が変だと思ってたら


そんなことになってたのか」


「タカ、まさかとは思うけど、有坂にさぐりを入れてこいといわれてきたんじゃねぇ


だろうな?」孝雄を上目づかいにねめつける武志郎。孝雄という男はいい人間ではあ


るが、それほどするどくはない。


「バレた? まぁ、そんなとこ。ブシロー、女は怖いぞ」


「もう、なにもしゃべらない」


「だいたい聞いたからもういい」


「…………」はっきりと聞こえるように舌打ちする武志郎。


「まだいうなって律子からいわれてんだけど……いっちゃおうかなー」孝雄はわざと


らしく苦渋くじゅうの表情を作りながら武志郎のポテトに手をのばす。


「なんだよ?」武志郎はポテトを脇にずらして孝雄の指先をかわす。


「やっぱりいえないよなー、いったらブシロー、キレるかもなー」


「はぁ? なんだよ、マジ!」仕方なくポテトを差しだす武志郎。


「キレるなよ」孝雄はごそりとポテトの束をつかんで口にほうりこみ、コーラで流し


こんだ。


「だから、なんだよ?」


「修学旅行委員な、ブシローと香里ちゃんが選ばれたのはぐうぜんじゃない、仕込しこ


だ」


「な、なにー!!」目をく武志郎。


「声でけえ。つまり──」


 つまり、香里が武志郎に気があることをさっ知した律子が、リーダーシップのとれ


る蓮美と、こうしたことにはなぜかけている勇人をきつけ、クラス


中に呼びかけて一致協力させた上でふたりを修学旅行委員に選出した。そういうこと


であった。


「…………」開いた口がふさがらない。その言葉どおり、武志郎の口はぽかんと開い


たままである。


「いっておくけど、この件、香里ちゃんはいっさい知らないから。全部、ウチの律子


の悪だくみ。な、女は怖いだろ?」ヘラヘラと笑う孝雄。


「お前だってかんでたくせによ! ふざけやがって! えーと、勇人って誰だっ


け?」


「え? ブシロー、まだクラスの連中の名前おぼえてないの? 山原だよ、期末のあ


との連休に慰労会をやるってビラくばってた」


「あいつか……」あの男のせいで香里と武志郎はぎくしゃくしているのだ。


「委員、やめるとかいわないよな?」


「いえるか、いまさら」


「だよな。剣道部はやめたけど」


「くどいな。悪かったよ」


「冗談だよ。まだ秘密はあるんだが、ま、これ以上はな」


「はぁあ!! なんだよ、かんべんしろよ!」武志郎は口からつばとともにアイスコ


ーヒーのしぶきを散らす。うわっと顔をぬぐう孝雄。


「だから飛ばすな! けどな、これだけはいっておく」


「なに?」


「香里ちゃん、親父さん、いないんだ」


「聞いてる。それが?」


「そうカリカリすんなよ」


「するだろ! それでなんだよ?」


「つまり、親父さんが突然事故で亡くなって、香里ちゃんち、経済的にきびしいらし


いんだ」


「え?」


「律子の話じゃ、なんか、巻きこまれたみたいな事故で、補償金もそれほど出なかっ


たんだそうだ。くわしいことは香里ちゃんいわないみたいだけど」


「車かなんかか?」──もらい事故!?


「どうなんだろうな。それと最近、香里ちゃんの母親がたおれたらしい」


「なにぃ!?」──聞いてない!


「いや、単なる過労で、風邪かぜひいただけだそうだが」


「なんだよ!」──おどかすな!


「だから塾にいくって話、そりゃ嘘だ。おそらく母親の看病があるんじゃないか? 


それにいいにくい話だけど、予備校って金かかるだろ?」


「……なんで、そんな嘘」


「そりゃ、愛するブシロー君に心配かけたくないって乙女心だろ」


「ふざけるところか? だいたい有坂だって鵜飼さんから直接聞いたわ


けじゃないんだろ? 単なる勘違いかもしれない」


「ちょっと待て。なんでウチの律子が有坂で、香里ちゃんは鵜飼さんなんだ? なん


でウチのは呼びすてなんだ?」


「お宅の律子が俺を呼びすてにしてるからだ。それに……鵜飼さんには勉強、教わっ


てるし」


「なるほど。そうだな、次の期末でいい点とれたら、お宅の鵜飼さんも喜ぶんじゃな


い? 内申点のこともふくめて」


「…………」武志郎は小さく小さく小きざみにうなずき、スクールバッグを見た。中


には毎日用意されてくる付箋のついた問題集と暗記シートが入っている。おそらく香


里は少ない小づかいをやりくりして、あれを準備しているのであろう。「……てか、


お宅の鵜飼さんてやめろ」


「てか、ブシロー、お宅の鵜飼さんとつきあっちゃえばいいじゃん。いいんじゃね、


巨乳だし。うらやましいー」


「てか、タカ、鵜飼さんをそういう目で見てんのか?」


「てか、見るでしょ? 普通。ただ、ブシローがウチの律子をそんな目で見るのは許


さない」


「てか、タカ、お宅の律子とはどこまでいってるんだ?」


「てか、そんなこといえねぇし」


「てか、そこは口がかたいんかい?」


「て──もう、いい。そんなことしゃべったら律子に殺される」


「ふーん、殺されるほどの深いなかね」


「ま、そんなとこ。マジな話……」


「なんだよ?」


「待ってると思うよ、香里ちゃんも。ブシローのことをさ」



 同じ夜。自宅で夕飯をすませた武志郎は、図書室ではほとんどできなかったドリル


設問せつもんに取りくみ、つづいて日本史の暗記シートにかかる。


「日本史ねぇ……」


 香里は日本史、中でも江戸時代が一番好きだと話していたことがある。鎖国をして


いたせいで日本独自の文化が花開いた時代。商いが盛んで、食べ物がおいしくて、町


人が生き生きとしていた時代。そして長屋は人情と温かさであふれていた、そんな時


代だと武志郎に語った。ただし最後に、そんな風に歴史を考えると勉強も苦になりま


せんよね、とつけくわえることも忘れなかった。


「苦だよ……」なんといわれようが歴史にはまったく興味のない武志郎は、自室にい


る気安さで、うんうんとうなりながら試験範囲内の年号や人物名、用語の暗記をつづ


けた。初めて聞かされた香里の現状。なにかしてあげたい気持ちもあったが、当然な


にもできない。せめて国、英、地歴、教えてもらっている教科だけでも次の期末で結


果を出したい。武志郎の心はおよそ十カ月ぶりに燃えあがった。ただし香里に対して


孝雄のいうような恋愛感情は、はっきりといっさいもてなかった。これは差別である


とかヘイトと呼ばれるものではなく、単に好みの問題であるが、このころの武志郎は


基本的に、保田奈美穂のようなスリムな女子にかれるたちだったのである。


まだ十六歳、これはいた仕方のないことであろう。


 午前三時近くまでつづけた暗記学習をおえ、ベッドに横になった武志郎はふと思っ


た。結局、うやむやになったけどタカのやつ、まだ秘密があるとかぬかしてたな、実


に思わせぶりに……。引っかかりはしたけれど、なれない勉強にこんをつめた武志郎


は五分もしないうちに寝息をたてていた。


 翌日、それ以降もことあるごとに武志郎は秘密とはなんだ?とつめよったが、孝雄


はヘラヘラと笑うばかりで答えは返ってこなかった。そして変わらず、香里は毎日、


ドリルと暗記シートを運んでくれた。しかも期末試験が近づくにつれ、内容も分量も


急激にふえている。当然、放課後の図書室だけの自習では追いつかず、自宅に持ち帰


り夜中まで机に向かうはめになった。ごくあたり前の高校生ならば誰もがしているこ


とではあるが、武志郎の心はときおり、折れそうになる。しかし、香里は自分の試験


勉強をしながら、これだけの内容の教材を日々、武志郎のために準備しているという


ことである。投げだすわけにはいかなかった。しかも、もしかすると母親の看病をし


ながらなのかもしれない。彼女の母の病状がどうしようもなく気にはなっていたが、


香里が塾に通っているていでいる以上、たずねることもできない。武志郎は心にもや


もやをかかえつつ、とにかく今は期末に向けての試験勉強へ打ち込むことに専念


した。


 そして、七月初旬、いよいよ四日間の期末テストがはじまった。


(つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る