第一章 春の地獄 7

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 六月もなかばをすぎ、修学旅行の行動予定計画書、『旅のしおり』作成案の提


出も無事に完了した。武志郎としては、なかなかにがんばった方だと自画自賛じがじさん


たいところであったが、大きかったのはやはり鵜飼香里の存在である。細かな見おと


しや、誤字、きめのあらさを用心深くチェックしてくれたのはつねに彼女であった。


「よくできてる。ブシロー、やればできるじゃないか」笹井にめられた。


教師に褒められたのは武志郎が高校に入学して以来、初のことだったかもしれない。


「いや、鵜飼さんのおかげです」本当のことなので嬉しさを押しかくして武志郎がそ


ういうと、香里はほおを赤らめて両手をふった。


「私、計画とかにがてで。君の作ってくれた草案に目を通していただけ


で……」


「…………」武志郎はよくいうよ、と思う。彼は香里の立てる計画にそって現在、学


習を進めている。勉強以外のたとえば遊びの計画などがにがてということなのだろう


か? ここで武志郎は初めて気がついた、香里は彼の学習計画と自分の勉強でおそら


く手いっぱいだったのだ。なぜなら修学旅行の打ち合わせは週二回、武志郎の放課後


学習は週三回、しかも何教科もあるのだ。今まで考えたこともなかったが、計画を立


てるのがにがてというのが本当であるとしたら、前日の準備にかなりの時間をさいて


くれていたのでは……。


「うん、まあいい。これは学校側に提出しておくよ」笹井はいいながらコピー用紙の


計画書に音を立てて確認印をついた。「ところでもうすぐ期末試験だな? ブシロ


ー」


「みたいですね……」


他人ひとごとのようにいうな。どうだ、鵜飼、ブシローは?」


「は? あの……」香里はうつむいてしまう。武志郎ができのいい生徒だとはいいが


たいせいだろう。


「まあいい、まずはご苦労さん。だが修学旅行委員はこれでおわりじゃないからな。


二学期が本番だ、たのむぞ、ふたりとも」


「へい」


「はい」


 ふたりの生徒が職員室を出ていったあと、パラパラと計画書をながめながら笹井は


つぶやいた。「ふーん、君ねえ……」そして、ふふふと笑った。


 笹井のいう通り、一学期の期末テストまで二週間を切っていた。


「修学旅行委員の方はひとまず片づいたし、今日からは期末に向けた勉強にシフトし


ていこうと思います。いいですか? 武志郎君」いつもの図書室、最近では指定席の


ようになっている窓際のカウンター席で香里がいった。それまでは基礎中の基礎、そ


の反復がおもであったが、いよいよ実戦に備えるということらしい。


「いいもなにも、俺、鵜飼さんだのみだし」実に恥ずかしい話であるが。


「なんか、くやしくなかったですか?」


「は?」


「笹井先生のいい方、なんか、私、くやしかった」


「そお?」──なにが?


「見かえしてやって、武志郎君」


「え?」


「笹井先生なんか、見かえしてやって」


「あ……お、おう」できそこないではあるが、自分が教えている生徒がバカにされ


た。香里は笹井の言葉をそんなふうに受けとめたのであろうと武志郎は理解した。


が、試験で見かえすなんてが重いんですけど!と叫びたくもあった。そもそも


笹井はバカになどしていない。武志郎の成績が最悪なのは事実であるし、当人もそれ


を自覚している。担任教師が気にするのは当然のことだろう。


「笹井先生、武志郎君の学習進行ぐあいを私に聞いたんですよ。おかしいです、あ


れ」


「あ、おう……そう?」武志郎はどうもかみ合わないな、と感じた。香里が武志郎の


勉強を見ていることを笹井が認識しているというのは、彼女にとっては喜ばしいこと


のはずだから。笹井のいいつけを守るため、内申点を守るために放課後特訓を始めた


はずだから。


「そうですよ。でも、もういいです、あと二週間弱、毎日が一夜漬け、とにかく暗


記、これでいきます」


「はぁ……」


「武志郎君、基本はおおよそ把握はあくしはじめてくれたから、国語、とくに古典は


単語を覚えてしまえば応用もききます。英語だって文法以前にまず単語の意味さえわ


かれば、なんとなくでも出題意図をよむことができます。歴史はできごとと年号、と


くにできごと名は正確に暗記、これです」暗記のところで香里はぐぐっと丸いこぶし


を握ってみせる。


「暗記……にがてなんだけど」


「たった二週間です、一緒にがんばりましょう。武志郎君」


「はい」本当に先生みたいだな、と武志郎は思った。それも小学校の。


 午後六時四十五分、図書室の閉室時間ギリギリまで古文の単語を暗記していた武志


郎。明日は本日の軽い復習と英単語の暗記にかかるのだという。また次の日は地理、


そして世界史、日本史……これを二週間続ければ確かに少しは試験で点を取れるかも


しれない。


「ちゃんと、家でも復習してくださいね、武志郎君」日没まぎわ、夕暮れ色にいろど


られた校舎裏を武志郎とならんで歩く香里がいった。そう決めているわけではない


が、図書室を出たあと自転車置き場によって、武志郎が自転車を引いて歩き、校門前


で別れることがふたりの日課となっていた。しかし、修学旅行委員がひとくぎりとな


った今日、思いつきではあるが武志郎は香里にいいたいことがあった。


「あの、鵜飼さん」


「はい……あ!?」不意に香里は校舎の外部柱のかげへと身をひるがえす。


「え? あ!」武志郎もあわてて香里の背後にかくれる。オレンジ色に染まるどこか


の部のプレハブ用具置き場の裏側で、長身の男女生徒がキスをしていた。長いキスで


あった。香里の髪の芳香ほうこうが武志郎の鼻腔びこうを官能的にくすぐ


る。やがて唇をはなした女子の顔が見えて武志郎は仰天ぎょうてんした。


 それは同じクラスの電柱女、丘蓮美であった。蓮美の身長は一七三センチの武志郎


と同じくらい、その彼女よりも頭ひとつ背の高い男子の方もおそらくはバレー部員な


のであろう。ふたりは笑いあいながら手をつなぎ、校門の方へと歩いていった。


「なんか、ドキドキしちゃいました……」香里のほおを染めているのは夕映えの


せいばかりではなさそうだ。


「ああ……でん、丘さんて彼氏いたんだ?」


「知らなかったんですか? あんなに目立つカップルなのに?」


「デカいもんな、ふたりとも」知らないというよりも他人に関心がなかったのだ。


「蓮美の前でデカいとかいわないでくださいね」


「ブチ切れるとか?」エースアタッカーのパンチ力はハンパなさそうである。


「いいえ、傷つきますから」


「おお、あ、そう。気をつけるよ」クラス中を味方につけてイジメをするとか脅迫きょうはく


してきた女が? まあ、それが女の子なのか……。まさに今見た丘蓮美は恋する乙女


であった。保田奈美穂もそうだったのだろうか?


「武志郎君、さっきなにかいいかけませんでした?」香里が聞いてきた。


「ああ、うん」生々しいキスシーンを見せられたあとでは、ひじょうにいい出しにく


い。影響されてさそうみたいではないか! 下心があるみたいではないか! 武志郎


は、今日はやめようかとまよいはじめた。


「どうしました? 今日の勉強でわからないところとか?」


「いや……いや、今日、無事に計画書を提出できたこと、俺、鵜飼さんに感謝して


る。マジで」武志郎は思いなおした。今日いわなければ、明日送りにすれば、保田奈


美穂のときのように間にあわなくなってしまうかもしれない、そう思った。そう思っ


てから、なにかにつけ保田奈美穂に思考がむかう自分に嫌気いやけがさした。今は


香里への感謝を形でしめすべきときである。これからも勉強で世話になるのである


し。


「そんなこと、私、なにも……」香里はうつむく。私はなにもしていないと。


「まあ、いいじゃん! ええと、おごるよ」


「え?」


慰労会いろうかい。なんかおごらせてよ、鵜飼さん」


「いいんですか?」


「すごく高いのはかんべんだけど、お茶くらいなら──」いっていて恥ずかしくなっ


てくる。当然のことながら女子をどこかにさそうなど武志郎には初めてのことなの


だ。


「……バーガープリンス」


「は?」


「バーガープリンスに行きたいです」香里はのなくような細い声でいった。




「バーガープリンス」は学校のもより駅近くにあるハンバーガーショップである。武


志郎も部活在籍中は孝雄や仲間とたまによってはハンバーガーやポテトをパクつき、


ダベっていたファーストフード店である。安上がりな女子で助かったと内心思いなが


ら、トレイを持った武志郎は香里が待つテーブル席に腰をおろす。武志郎はアイスコ


ーヒー(L)とフライドポテト(S)。香里はアイスティー(L)にチキンナゲッ


ト、それにビッグプリンスという巨大ハンバーガーとシーフードバーガーを注文し


た。


「夕食前にそんなに食って大丈夫なのか?」おデブちゃん、とはもちろんいわない。


「私、これを夕飯にしますから。帰ったら勉強しなきゃですし」


「あ、そう。なんか、かえって迷惑めいわくだった?」


「そんなことないです! さそってくれて嬉しいです、本当に」


「おお」ズズッと音を立ててコーヒーのストローに口をつける武志郎。香里はいただ


きます、といってからカリカリのチキンを指でつまんだ。


「うち、母親の仕事の帰りが遅いから夕飯はいつもひとりなんです」


「そう」ひとり、ということは武志郎と同様に兄弟もいないのだろう。


「だから、誰かと一緒にご飯食べられるのってすごく嬉しいんです」


「昼飯は有坂さんや丘さんと机ならべていつも一緒に食べてるじゃない? 女子はあ


あいうの好きだよな」また保田奈美穂を思ってしまう、彼女はどうだったのだろう


か?と。


「そうですね、れたがりですね」バーガーにかじりついた香里は口元をぬぐいなが


ら笑う。


「そーいや、たまにタカも一緒になって弁当食ってるときあるよね? あれ、なん


で?」


「はあ?」バンズからはみ出したレタスを舌先ですくい上げつつ、香里は異星の生物


でも見るような目つきで武志郎を凝視ぎょうしした。


「え?」


「大倉君とはお友達ですよね?」


「まあ、かな?」


「だったら……まさかと思いますけど、知ってますよね?」


「な、なにを?」


「大倉君とりっちゃんがつきあってること」


「……はぁあ!?」まさに驚天動地きょうてんどうち、武志郎は店中に響きわたるような大声を


出していた。


「やっぱり知らなかったんですか?」周囲の注目を集めてしまって、恥ずかしそうに


している香里。しかし武志郎はそれどころではない。


「いつから?」


「ええと、今年の春休みからみたいです。ライブイベントでぐうぜん会って、意気投いきとう


ごうしたんだそうです」


「ほうお……」春休み、部活に出てこいという孝雄からの「マイン」やメールがやけ


に少ないと、武志郎は実は不審ふしんに思っていたのである。


「あ、じゃあ、いっちゃいけなかったのかな?」香里は不安そうな顔をしつつアイス


ティーのストローをかむ。


「ほかの人も知らないの?」


「いえ、たぶんクラス中みんな知ってます。というかわかります、ふたりを見てれ


ば」


「あ、そう」武志郎にわかるわけがない。なにしろ最近まで有坂律子の名前すら知ら


なかったのだから。「じゃ、いいんじゃない。べつに内緒にしてるんじゃないんでし


ょ? 俺がうとかっただけだし」うといのにもほどがあるだろ! 武志郎は自分にツ


ッコミを入れた。


「そうですよね」ホッとしたように目を細める香里。


「しかし丘さんも彼氏もち、有坂さんまで……驚いたな。鵜飼さんも彼氏いるの?」


「…………」香里の表情が一瞬、ひきつったような気が、武志郎はした。


「あれ? あの──」


「彼氏がいたら、武志郎君とふたりきりでこんなところへはきていません」


香里にしては珍しくピシャリといいきり、そしてその日、彼女は簡単な相づち以外は


ほとんど口をきかなくなり、ふたりの慰労会はお開きとなった。


(つづく)

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