第一章 春の地獄 6

       6


 武志郎の高校は土日が休みの週休二日制である。剣道部に所属していたころは


土日、祝日も関係なく登校していたものであるが。修学旅行委員のミーティングがあ


った翌日の昼休み。鵜飼香里とのとり決めで、週の内の火曜日と木曜日の放課後を修


学旅行の打ち合わせにあてることにした。それはいいのだが、香里は月水金の放課後


は武志郎と一緒に勉強をするといいだした。しかも完全下校時刻の午後七時までみっ


ちりやると。


「笹井のいったことなんて守ることないよ。火木の打ち合わせだけでお腹いっぱいだ


し」


「でも、先生が……」


「それに、俺なんかの面倒めんどうみて鵜飼さんの成績が落ちたら困るでょ? 


俺もそんなの嫌だし、責任とれないし」担任教師が同級生の勉強を見ろ、などとい


うくらいなのだから香里の成績はけっこういい方なのであろう。成績上位者の順位な


んて昨年の夏以降、武志郎は気にしたこともなかったけれど。


「責任……私の成績が落ちたら、私の責任だと思う」


「ああ、おう。そりゃ、そうだろうけど」


「あ、あの、あの……その……」


「なに?」武志郎はイラっとくる。「はっきりしゃべんなよ」


「ごめん……わかった。武志郎たけしろう君」


「え? あ、ああ」武志郎は学校内でブシローではなく、武志郎と呼ばれることをな


ぜか新鮮に感じた。おかしな話であるが。


「じゃ、じゃあ、笹井先生にいわれたことを私がしないで、心象悪くして、内申点ないしんてん


を下げられたら、責任とれますか?」香里は、武志郎の目を見ずにうつむいたまま


一気にいいきった。


「ないでしょ? それは」


「それで、それで、私が大学落ちたら、武志郎君、責任とれますか?」


「はぁ?」


「私は勉強くらいしか取りえないし、自分で成績、落としたりしない。絶対」


握りしめた香里の丸々とした両こぶしは小きざみに震えている。


「お、おう……」


「で、でも、こんな外的要因、もらい事故で内申点下げられたりしたら、私……」


「…………」もらい事故? 武志郎は正直、驚いた。この子からそんないわれようを


されるとは予想だにしていなかったからである。多重人格者? そんなことまで思っ


てしまった。


「責任、とってくれますか?」


「とれない、かなぁ……たぶん」


「とれませんよね、きっと」


「まあ……」武志郎はなんの話をしているのかわからなくなってきた。俺の存在自体


がもらい事故? まだその言葉のはなつ衝撃から抜けだせずにいるのである。


「なになに? 責任とるだの、とれないだの、真っ昼間から修羅場しゅらば?」そういい


ながら武志郎と香里の間にわりこんできたのは孝雄と、天パーにノッポの女子ふたり


だった。


「香里、ブシローになにかされたの!?」天パー女子の鼻息は荒く、香里を守るよう


に武志郎の前に立ちはだかる。ろくに口もきいたことのない女子からもブシロー呼ば


わりである。──この鳥の巣頭が!


「どういうことなの? ブシロー君」ノッポ女子の方は一応、君づけで呼んでくれた


が、彼女の背たけは武志郎とほとんど変わらないため、威圧感いあつかんがハンパではない。


──この電柱女が!


「ちょっと、違うの! ふたりとも! 大倉君も、違うから!」香里はあわてて胸の


あたりで、開いた両手を左右に振る。もみじ饅頭まんじゅうのような手だと思


いながら、武志郎は吐息といきをついた。やはり、自分とは話しにくいのであろう。香里


の三人に対するものいいは、そうとうに気安く、くだけていた。これが本来のクラス


メイトというものなのかもしれない。


「なにがどう違うのかな? 香里ちゃん」孝雄が彼女にたずねた。


「ちゃん?」──香里ちゃん、だと? タカのヤツ、いつの間にそんなになれなれし


く女子の名前を呼ぶようになった? いや、一年生のときの同級生、保田奈美穂に対


しては保田奈美穂とフルネームで呼んでいたような気がする。彼女もクラスになじめ


なかったのかもしれない、俺と同様、ういた存在だったのかもしれない。そんな武志


郎の思いをやぶるように午後の授業の予鈴が鳴った。昼休みの教室での不条理ともと


れる武志郎への波状攻撃は、これでいったん打ちきられた。


 午後一番の授業は「数学Ⅱ」。教師は担任の笹井なのであるが、数学は武志郎がも


っとも苦手とする教科である。素数だの虚数だの因数分解だの、中学校では理解でき


たことも、今となってはさっぱりである。笹井が黒板に書きなぐる数字や記号の羅列られつ


を見ていると、いい感じに眠気が襲ってくる。


「?」うしろの席の女子からトントンと指先で背中をつつかれた。肩ごしに見ると、


小さく折りたたまれたノートの切れはしを差しだしてくる。手紙まわし? 誰かにま


わせということらしいが、いまどき、こんな古風なまねをする女子がまだいたのか?


と思いながら笹井の目をぬすみ、リレーのバトンパスの要領で受けとった武志郎は手


紙に書かれた宛名を見て目をうたった。『ブシロー君へ❤』とヘタくそな字で書かれ


ている。はぁ? 思わず声に出しそうになった。タカだな、ピンときた武志郎が左な


なめ後方の席の孝雄を見ると、そ知らぬ顔はしていたが、あきらかに笑いをこらえて


いた。なんなんだ!? 武志郎は机の下、股間こかんのあたりで手紙を開く。『メール見


ろ! タカオ』とだけ書かれていた。メール? 剣道部在籍時は、授業中でもたまに


スマホの「マイン」でチャットを楽しむことがあった。今考えると気持ちが悪いが、


男子部員同士でである。しかし部をやめてからすぐ「マイン」の友達リストはすべて


削除したし、メールは面倒くさいので元々ほとんど使っていなかった。なんのつもり


だ? 緊急? 仕方なくコソコソとスマホを見ると、三通の新着メールがあった。一


通は孝雄からであったが、他の二通は知らないアドレスである。武志郎は出会い系か


なにかのスパムかとも思ったが、タイトルは三通とも共通して『ブシローさまへ』で


あった。


『ブシロー、話は香里ちゃんから今、聞いた。お前、香里ちゃんと勉強するべき。部


活やめて、その上、成績最悪じゃ、学校までやめるんじゃないか?なんて柳川や先輩


方もお前のこと、ずいぶんと心配してるんだぞ。お前、剣道へたくそだったけど一生


懸命だったのはみんな知ってるから。少しはありがたいと思え、それから恥ずかしい


と思え! 部活でヒーコラいってる俺らより成績悪いって、マジありえないっょ! 


孝雄』


「…………」武志郎は、少しだけ胸を打たれた。先輩たちの顔がうかぶ。そしてため


らいながら次のメールを開いてみた。


『ブシロー、あたしも成績のことじゃ、偉そうにいえる立場じゃないけど、香里には


将来の夢があるの! そのために香里は勉強がんばってるの! そのじゃまをするこ


とはあたしが許さないからね。香里の内申点が下げられたら、全部あんたのせいだか


らね! あたしより下でいいから(というか、下で)少しは成績上げなさいよね! 


律子』


「…………」


『ブシロー君、初メールですが少しきびしいことを書きます。さいわいこの学校は進


学校でイジメなんて低次元なものは少ないようです。でも、あなたが香里に協力でき


ないっていうのなら、クラス中に話しを持ちかけて、あなたをイジメの対象にしてや


りたいと、そう考えております。それが嫌だったら香里と勉強しろ! 意気地いくじを見せ


ろ! 放課後までに答えだせ! 蓮美』


「…………」スマホをそっと机の中にもどした武志郎は背筋がこおる思いがした。


 ──ついには脅迫かよ! 律子に蓮美? 鳥の巣頭と電柱女であることは確かであ


るが、どっちが律子でどっちが蓮美なのかはわからない。それにしてもタカの野郎、


おそらく「マイン」のチャットで女子たちと話したんだろうけど……今、授業中だ


ぞ! お前らが勉強しろ! おまけに俺のメアドさらしやがって!


 このぶんじゃ鵜飼香里も俺のメアドを知っていることだろう。当の本人からメール


がきていないことにも不穏ふおんなものを感じる。あのもみじ饅頭、いったいなにを


考えているんだ!? 


 笹井の授業がおわり、どうしたものかと武志郎がグズグズしていると、教室内には


孝雄、香里、律子(?)、蓮美(?)の姿がなかった。しめし合わせたに違いない。


ひとりで考えろ、ということのようだ。そうこうしているうちに休み時間もおわり、


六限目の「古典」の授業が始まってしまった。四人はなにくわぬ顔で教科書に目を落


としている。武志郎もいちおうは教科書を開くが、同じ日本語であるというのに文法


や単語が理解できない理由がわからない。あさまし、をかし、ねむごろなり……本当


に眠くなる。しかし、うとうとしている場合ではない。放課後までに答えを出さなけ


ればならないのだ。そんなことを考えていたら、ふと、今の気持ちを古文で書くとど


うなるのだろう?と、ついそんなことを思った。ようは現実逃避げんじつとうひなので


あるが、授業はスルーして「古典A」の教科書と参考書をひっくり返し、彼なりに答


えを出してみた。


『他人にわりなしうれひばかりかけて、むげなるなり、われ


 これが正解かどうかなど、武志郎にわかるはずもないのだが、集中してものを調べ


る作業はけっこう嫌いではなかった。


 放課後。孝雄と電柱女は部活があるということで、鳥の巣頭と香里に「しっかり」


などといい残して教室を出ていった。電柱女はバレー部のエースアタッカーなのだそ


うだ。どうりで迫力があったはずである。


「で? どうすんの? ブシロー、やるの? それともヘタレたまま?」鳥の巣天パ


ーがギロリとにらむ、また呼びすてだ。おそらくこっちが律子の方だろう。となると


脅迫きょうはくしてきたのはエースアタッカーの方か……。武志郎が知らないだけで蓮美


というノッポは学内じゃ、ちょっとした有名人なのかもしれない。クラス中を扇動せんどう


て一個人をイジメの対象にする、武志郎は実にバカバカしいと考えていたのだが、に


わかに現実味をおびてきた。


「りっちゃん、そんな、いい方しなくても……」困ったような顔をしているが、もみ


じ饅頭、お前がいいだしっぺだろが!? 武志郎はそういいたい気持ちをぐっとこら


えて、ふたりの女子の前に進みでた。彼にしても元剣道部員である、その目つきにすご


みがないこともない。


「……な、なによ?」香里の腕をとり、ひるむ鳥の巣頭、いや律子。


「鵜飼さん」武志郎は律子の方はあえて無視し、香里を見る。


「は、はい」


「勉強、教えてください。よろしくお願いします」頭を下げる武志郎。


「ぇええ!!」香里は口元に両手をおいて、嘘!という言葉をのみこんだようだ。


「嘘、嘘! 本当? えー、だって孝雄、ブシローは絶対、一発じゃオーケーしない


って断言してたのに! やり! スムージーボンボン、ゲットぉ!」


「──りっちゃん」武志郎はスムージーボンボンがなんなのかはわからないが、どう


やら孝雄とけでもしていたらしい。しかもこの女子、孝雄まで呼びすてである。


「て、なに、ブシロー。いきなりその呼び方って、なれなれしくない?」律子が口を


とがらせる。


「お前がいうなって話じゃない?」武志郎は彼女の名字すら知らないのだ。


「あ、なるほど。そういや、そうか。そうだね、ブシロー」あっけらかんと笑う律


子。悪い人間ではなさそうである。


「タカとあの、で、もうひとりのバレー部にいっておけ! 俺は脅迫にくっしたわけ


じゃないからな!」蓮美の名前が出てこなかっただけでなく、武志郎はあやうく電柱女


といいそうになった。


「脅迫!? なにそれ!」目をいた香里が律子につめよる。


「あはは」まあまあ、と香里をなだめる律子。


「鵜飼さんと勉強しないとクラス中動員してイジメの標的にするとおどされた」


抑揚よくようのない声でいった武志郎は、香里が脅迫について知らなかったらしいことに、


なぜだかホッとしていた。


「ちょっとブシロー! なにチクッてんのよ!」


「りっちゃん!」顔を真っ赤にして目をつり上げる香里。


「香里、違うって! 蓮美だってばさ! あたしじゃないよ!」


「わー、チクッてる、チクッてる」武志郎は笑いをこらえ、またぼう読み口調でいっ


てみた。クラスメイトとこんな風に会話ができている自分自身に戸まどいを覚えなが


ら。


「うっさい! ブシロー!」律子はどなりながらバッグをかつぎ、教室から逃げだし


ていった。


「…………」やれやれ、とため息をつく武志郎。


「なんか、ごめんなさい。武志郎君」モジモジとおじぎする香里。いや、と武志郎が


いいかけたとき、律子が入口ドアのすき間から顔を出した。


「香里、よかったね! ブシロー、孝雄にいっとくから。しっかり学べよ!」


「うっせ!」武志郎がこたえると、律子は笑いながら走りさった。「いつもあんな感


じ?」


「だいたいは。でもりっちゃん、悪い子じゃないんですよ」


「それはわかる」武志郎はイスを引いて席に腰かけた。「ところでさ……」


 鳥の巣頭の名は有坂律子ありさかりつこ、電柱女の方が丘蓮美おかはすみであることが判明した。


ふたりの名前を聞かれた香里は驚きを隠さなかった。それはそうだろう、二年生にな


ってもう二カ月が経過けいかしているからだ。武志郎は正直に一年で同じクラスだっ


た者と男女剣道部の者、それ以外はほとんどの生徒の名前を知らないことを小声で打


ちあけた。まだ教室に残っている者もいたからである。武志郎はまずクラスメイトの


名前を教えてくれと香里にたのんだ。


「そこから!?」香里はあきれたが、なんだか嬉しそうに笑っている。


「なんだよ?」


「だって、武志郎君……私の名前は知ってたじゃないですか」


「え? ああ、まあ、かな?」そういうことにしておこう。これから鵜飼香里に気持


ちよく勉強を教えてもらうために。武志郎が突然やる気をだしたのは九割方、自分の


ためではなかった。両親、それにともなう親族。笹井、柳川の両教師。剣道部の先輩


たち、仲間たち。孝雄、それにともなうおかしな女子たち。それから鵜飼香里。自分


の成績が少しでも向上することで彼ら、彼女らの心労やストレスが軽減けいげんするの


であれば、それもいいのかもしれない。そう考えたのである。


『他人にわりなし憂ひばかりかけて、むげなるなり、我』


 他人に迷惑や心配ばかりかけて、最低なやつだ、俺。授業中、思いを古語に訳しな


がら武志郎は心を決めたのであった、一歩、足をふみだすことを。保田奈美穂をキッ


チリ忘れることを。しかし、後者の方はなかなかにむずしいかもしれないな、などと


考えながら香里が説明してくれるクラスメイトの名前や特ちょうに、いちいちうなず


く武志郎であった。


 その日は水曜日だったので修学旅行の打ち合わせは翌日からということになった。


「じゃ、今日は解散で」武志郎がスクールバッグを手にすると、香里は両手でバッテ


ンを作った。


「ダメですよ、勉強、今日からしなくちゃ。しょっぱなが肝心かんじんなんですから」


「ええー!」


「あれこれ考える前に、まず実行。父親の受けうりですけど……私もそう思います」


「あ、そう」まずダイエットを実行したら?と、失礼なことを思う武志郎。


「私の父さん、死んじゃいましたけど……」


「え? あ……そう」帰りにくい、ひじょうに帰りにくい。肩にかけられず、いき場


を失ったスクールバッグをなんとなくブラブラとふる武志郎。


「すぐ期末もあるし、早く始めたほうが結果も出やすいと思います」


「そりゃ、そうだよね」正論せいろんすぎて腹立たしい。


「私も、笹井先生に怒られずにすみます」


「わかった、わかりました。今日からね、はいはい」武志郎は観念かんねんした。


 教室は、鬼ごっこを始めた生徒たちがいてそうとうに騒がしくなっていたので、ふ


たりは図書室で勉強することにした。進学校らしく蔵書ぞうしょ数が充実していて、


静ひつなムードがただよっている。はっきりいって、これまでの武志郎にはほぼ無縁


の空間であった。貸出受付には図書委員の女子生徒がひとり、そして熱心に読書する


者、参考書を広げながら居眠りする者、自習する者、小声と身ぶり手ぶりを交えてな


にかしらの資料を検討しているらしき者、いずれにしても武志郎にはなじみのない空


気であふれている。香里はなれているようで、無言で一番奥の窓ぎわ、カウンター席


へとすたすた進む。武志郎は下っ腹のあたりがなんだかもよおしてくるような気がし


た。


「武志郎君、まずは得意科目を教えてください」席に着いた香里は片手を口元にあて


がい、ヒソヒソと話しかけてくる。横ならびで腰かけた武志郎は首をひねる。


「ないな」


「好きな教科は?」


「ない」


苦手にがてな教科は……全部?」


「あたり。さすが」


「…………」香里は頭をかかえ、クククと笑いをこらえる。武志郎もつられて笑って


しまうが、笑っている場合ではない。香里は気息をととのえて武志郎に向きなおっ


た。


「教える気、なくなった?」見すてられたら、それまでである。それならそれで仕方


がないと武志郎は思った。


「じゃ、あえていうなら理数系? 文系? どっちなら成績上がりそうです?」


「ど──」


「どっちも無理はダメです。どちらかを選んでください」


「……文系?」無理やり消去法にあてはめてみればであるが。武志郎らの通う高校の


文理選択、いわゆる文系クラス、理系クラスの類型わけは三年生からとなっている。


なるべくはば広い教義を身につけるべき、というのがいまどき珍しいがこの学校の教


育方針なのである。


「じゃあ、国語と地歴、英語にしぼりますね」


「う、鵜飼さん、国語は現代文に古文、地歴は地理に日本史、世界史だろ? その


うえ、英語? そんなに無理でしょ?」


「武志郎君、甘えちゃダメです。この学校の生徒はみーんな、やってます」


「…………」ぐうのも出ないとはまさにこのことである。


「じゃあですねぇ──」香里はバッグから問題集を数冊とりだし、付箋ふせんのはっ


てあるページを指定、時間を切って今、やるようにと武志郎へつげた。というより、


頼んだ。


「テストかよ? てか、これ一年生の問題集じゃん?」


「あ、あの、おもしろくないかもしれないけど……笹井先生もいってたから」


「なにを?」


「武志郎君、その、あの……」


「ああ……」武志郎も思いだした。確かに笹井は基礎から始めないとダメかもといっ


ていた。


「ご、ごめんなさい、本当にバカにしてるんじゃないの、ただ、その……」ま


た香里のモジモジ、シオシオが始まる。


「……この問題集、新品だな。わざわざ買ったの?」


「あ、うん、昨日。武志郎君の実力がわからないと、どうしていいか、私……ごめん


なさい!」思わず、声高こわだかになってしまい、あわてて口を押えて周囲を見る香里。


「…………」いわれてみれば昨年の夏いこう、武志郎がろくに勉強していないことは


事実である。一年生で学ぶことを理解できていない状態で、二年生の学習についてい


けるとも思えない。その上、この付箋の数……理数系の問題集も香里のバッグには入


っているに違いない。やれやれ、と武志郎は頭をふった。


「あ、あの、怒っちゃいました?」香里の瞳はおびえたようにふるえている。


「やる。やります」怒れるわけないだろが! このもみじ饅頭まんじゅうが!と、内心


では毒を吐いていたが、表情にはなるべく出さぬようつとめる武志郎。いくら内申点


のためとはいえ、ここまでしてもらったら、本来なら礼をいうべきところである。し


かし、男はこれができない。「鵜飼さん、やるから。時間、計っておいて」


「わかりました……ありがとう」香里は嬉しそうに腕時計を見る。「はい、スター


ト」


 武志郎が問題集に向かうと、香里はノートと参考書を相手に自分の学習を始めてい


た。公約通り、自分の成績も絶対に落とさない。横目に彼女を見た武志郎は、そんな


強い意志を感じた。予備校とかいってないのかな? そういえば、父親が亡くなった


といっていた……どんな状況だったのだろう? 病気? 事故? あまり他人には話


したくないことなのかもしれないけれど、武志郎はなんとなく気になった。


 武志郎が香里から受けたテストの結果はさんざんであったが、彼女の方針は決まっ


たらしく翌々日までにカリキュラムを組んでみるねといって笑った。翌日の放課後は


修学旅行の行動計画や『旅のしおり』の打ち合わせをしなければならない。そっちは


俺ががんばるか……さもないと、あまりにも情けないし、カッコ悪すぎる。


 午後六時半、校門で香里と別れた武志郎は自転車に飛びのり、そのまま学校近くの


本屋にむかった。そして京都・奈良の観光ガイドブックを二冊購入、夜おそくまで読


みこみ、メモを取り、不明点をスマホで検索した。香里は修学旅行実行委員で、


武志郎が委員長なのである。


(つづく) 

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