第一章 春の地獄 5

       5


 またしてもさんざんだった中間試験をへて、高校二年生の一学期もなかばをす


ぎたころ、一限前のホームルームの議題の中に、秋に予定されている修学旅行


の実行委員選出があった。各クラスで男女一名ずつ選抜する決まりらしい。


ようは『旅のしおり』を作成したり、クラスの行動予定を教師と打ち合わせの


上で決定したり、現地での集合、解散の号令や確認をする役わりである。


はっきりいって、とてもめんどうな仕事である上になんのメリットもない。


立候補者は当然のごとく皆無かいむであった。ちなみに旅行先はよくある


京都、奈良である。


「清輪ブシロー君、推薦すいせんしまーす。たぶん、超ひましてると思いまーす」手を


上げて発言したのは二年になってから同じクラスになった大倉孝雄であった。


「タカ、てめぇ! お前がやれ!」剣道部から逃げた俺への報復ほうふくのつもり


か!? 武志郎は思わず声をあらげていた。


「だってボク、部活でいそがしいから」


「…………」ボクじゃねぇ!と思いつつ、武志郎は舌うちした。


「勝手にしゃべるな。ちゃんと手を上げて発言しろ、ブシロー」担任男性教師


笹井ささいも武志郎をブシローと呼んでいる。というか、中学時代から引


きつづきで彼の名はブシローで通っており、本名を知る人間の方が少ないと思


われた。笹井は黒板に白チョークで『男子、清輪武志郎』とガシガシ書いてク


ラス全体を見わたす。「みんな、男子はブシローでいいか?」


こんなときだけはいっち団結するようで、武志郎をのぞく全員がいっせいに手を上


げた。


「はい、次、女子。立候補、いないか?」


「先生!」武志郎は懸命に挙手きょしゅした。


「なんだ?」


「俺、決まりですか?」


「当然」笹井は大きくうなずく。「一限が始まる、女子もとっとと決めるぞ」


「…………」武志郎の視界のはしで、大倉孝雄がゲラゲラと笑っていた。


 一限目の授業がおわり、教科書を片づけていた武志郎におずおずと話しかけて


きた女子がいた。二年生になって同じクラスになってから、これまで一度も会


話したことのない小太りの女子であった。彼女は武志郎どうよう、別の女子から


修学旅行実行委員に推薦すいせんされ、おそらくはなしくずし的に任命されてしまった、


はっきりいってさえない子である。ホームルームのとき黒板に名前を書かれて


いたはずだが、彼は彼女の名を覚えていなかった。


「……ブシロー君」


「はい」名も知らぬ人にあだ名で呼ばれるのにはなれていたが、武志郎は少し


ムッとしたようにこたえた。彼女もまた武志郎の本名を知らないし、興味もない


のだろう。中一の学級会で名前を読みちがえて端正たんせいな顔を真っ赤に染めていた


保田奈美穂とはくらべようもない。


「あの、放課後、その……」


「はい?」彼女の妙にオドオドとした、はれ物にでもさわるような態度にもイラ


イラする。


「実行委員の顔合わせをするそうだから、四時に視聴覚室にいくようにっ


て……先生が」


「ああ、そう。わかった」


「……じゃ」


「ありがと」武志郎が形式的に礼をいうと、彼女は軽く頭を下げて自分の席へ


と戻っていった。そして着席するなり天然パーマの子とノッポの子、ふたりの


女子が彼女を取りかこみ、笑顔で話しかけている。彼女もくったくのないえびす


顔で白い歯を見せていた。つまり、暗い子ではないわけだ。ということは、武志


郎自身がなんらかののオーラ、話しかけにくい雰囲気ふんいきをかもしているという


ことだろう。せめて高校くらいは出ておかないと。そんな世間体せけんていだけのために


学校へきていた彼は、そういえば、二年になってから同じクラスになった同級


生とほとんど交流がなかったことに気がついた。たとえば彼女ら三人とも、誰


の名前もわからない。──これって、さすがにヤバくね? いまさらながら武


志郎は学校にきている理由を見失っている自分に不安を覚えた。そもそも、こ


の高校を選択した理由からしてどうかしていたのだ。少なくとも武志郎自身の


将来のためではなかった。いや、自身の欲望に忠実であったともいえるけれ


ど。理由……理由……根拠こんきょ、いわれ、ゆえん……学校にきている意味……勉強


はおもしろくない……スポーツは苦手……好きなひとは消えた……友達は


──。


「ブシロー、修学旅行委員、しっかりたのむぜ! 期待してるよん」大倉孝雄が


よってきて、ニヤニヤと笑いながら空いていた隣の席にすわった。


「うっせーよ」思惟しいを破られ、声をあらげる武志郎。友達はこんなのしか


いない。


「あ! 保田奈美穂!!」孝雄は突然、廊下の方を見て目を丸くした。


「え!?」武志郎ははじかれたように立ち上がり、勢いをつけて通路へ向かお


うとしたが、彼の腕を孝雄がつかんだ。「タカ、はなせよ!」


「いいけど、嘘だよ。いるわけないじゃん」


「な……」武志郎は顔を赤くして周囲を見わたし、ドスンと音を立ててすわりな


おした。まだ心臓がはねまわっている。──こんなにもはねている。


「熱いねぇ、ブシロー君。そしてわかりやすくアホだね」


「るせぇ……」


「まさかとは思ってたけど、まだ引きずってた? 本当、バカだな」


ちげぇーよ」


「女のせいで捨てられた剣道部ちゃん、かわいそう……」


「タカ、てめぇ……」


「なんだよ?」武志郎より体が分厚くて大きい、丸刈りの孝雄が真顔ですごんで


みせた。これははたから見るとけっこう怖い絵面えづらである。「文句あるのか?」


「ねえよ」孝雄の気性を心えている武志郎はもちろん怖くはなかった。かつて


保田奈美穂ショックのあまり、あきらかに挙動きょどう不審者になっていた武志郎を一


番真摯に心配し、話を聞いてくれたのが大倉孝雄であった。そんな男を裏切っ


て部をやめたのだ、文句などいえた義理ではない。だがこのときばかりは彼女


のことを話すべきではなかったと深く後悔した。武志郎はいつもいつも後悔を


繰りかえしてばかりいる。二限のチャイムが鳴って、隣席の女子生徒が戻って


きたので孝雄は席を立ち、そしていった。


「ブシロー、お前、なんかやった方がいいよ」


「え?」顔を上げる武志郎。


「クソつまんない委員でもなんでもさ」


「…………」ヘラヘラと笑いながら自分の席に戻る孝雄を見ながら武志郎は思


った。まったくクソいい野郎だよ、タカ。本当にさ。


 放課後。四時近くなり、二年生各クラスの担任教師と修学旅行実行委員男女


が視聴覚室に集まってきた。どの生徒の顔を見てもやる気がなさそうに見え


る、武志郎は少しホッとした。ところで室内中どこを見まわしても、武志郎に


このミーティングを知らせてくれた当の本人の姿が見えない。同じクラスのあい


かた(?)がきていない。──バックレ!? マジかよ!


 そうこうしているうちに定刻となり、教卓についた学年主任の教師が修学旅


行の概要がいようから説明を始めてしまった。武志郎は担任の笹井に目くばせして相方が


きていないことを訴えたが、笹井はやはり目つき、顔つき、首ふりだけで、だま


って聞けと返答してきた。武志郎はしぶしぶメモを取りはじめる。クラスから


きているのがひとりである以上、取りあえず説明を聞くよりほかにない。


「……次に『旅のしおり』について。今、大まかに話した旅行日程に合わせて


各クラス独自の行動予定表を作成し──」


「すみません!」という悲鳴にもにた声とともにショートの髪をふり乱し、首


から上を真っ赤に染めた小太りの女子生徒が「必死」という文字を貼りつけた


ような顔つきで視聴覚室に入ってきた。相方の登場である。彼女がスライドド


アを閉じる直前、廊下にチラと別の人影が見えた。どうやら顔合わせに遅刻し


た彼女のつきそいらしい。おそらく天パーとノッポのふたりだろう。


「早くすわれ」笹井があご先で小さく指示をする。


「はい……」彼女はずんぐりとした体をさらに丸めて、教員たち、各クラスの


委員たちに頭を下げ、武志郎の隣に腰をおろした。


「旅先じゃバスに乗りおくれるなよ」学年主任は小さな笑いを取ってから『旅


のしおり』の作成工程や草案の提出期限についての説明を再開した。彼女は


の鳴くような声で「ごめんなさい」とささやいたが、武志郎は聞こえないフリ


をしてメモを取っていた。見た目通りどんくさいヤツ、と失礼なことを思いながら。


 武志郎の相方の名は鵜飼香里うかいかおりといった。同じクラスで一カ月以上すご


してきているので、いまさら名前など聞けなかったのだが、約三十分間のミー


ティングが終ったあと担任の笹井が彼女に向かって「鵜飼、お前、なにやって


たんだ?」というのを聞き、彼女が開いていたノートの表紙に書かれていた


「KAORI」の文字を盗み見て判断した。この時点では漢字表記は不明だっ


たので、武志郎の中で彼女の名はウカイ・カオリであった。


「とにかくブシローが委員長な。で、鵜飼が副委員長。それでいくぞ」笹井が


明言めいげんした。


「えぇー」武志郎も明確めいかくに不服そうな表情をアピール。


「仕方ないだろ? 鵜飼は初めの説明、聞いてないんだから」


「ごめんなさい……」丸っこい指先を腹のあたりで固くくみ、小さくちぢこまる


香里。


「…………」武志郎は口をとがらせ、小指の先で耳の穴をほる。そうしながら、


理不尽りふじんだと感じながらも香里がかわいそうな気がしてきた。「……わかりまし


たよ」


「よし、決まった。ブシロー、たのむぞ。お前の責任において書類提出の期限、


絶対守れ」


「はいはい」


「それから鵜飼」


「はい……」


「委員の仕事のあい間でいい。お前さ、ブシローの勉強、少し見てやれ」


「ぇえ?」「はぁ!?」武志郎と香里の声がハーモニーをかなでた。


「ははは、さっそくいいコンビネーションだな。鵜飼、たのむぞ。ブシローの場


合、基礎きそから教えないとダメかもしれんけど」


「先生、なにいっちゃってるんですか!? おかしいんじゃないですか!」武


志郎、必死の抗議。実行委員とはまるで関係のない話である。


「この間の中間テストの結果見て、柳川先生、心配してたぞ。ブシローのこ


と、すごく」


「え……」思いもかけず剣道部顧問の名前が出てきた。


「なんとかしてやれんのか?と相談を受けたんだ。元部員でもやはり可愛かわいいっ


てよ」


「マジか……」嘘をついて退部したのに?


「少しは気概きがいを見せたらどうかな? 男だろ? ブシローの名が泣くぞ」


「名前、ブシローじゃねぇし……」


武志郎ぶしろう君じゃないの!?」香里がすっとんきょうな声を上げ


た。どうやら本気で清輪せいわブシロウだと思っていたらしい。武志郎は舌うちした


が、ついさっきまで彼女の名前すら知らなかった男に腹を立てる権利は当然な


い。あはは! 高笑いした笹井はふたりに向かっていった。


「ブシロー、修学旅行計画しっかりたのむぞ。鵜飼、ブシローのフォローと勉


強、二本立てでたのんだぞ」


 笹井やほかの教師、生徒たちが出ていったあと、視聴覚室の机に肩ひじをつ


いた武志郎は、指先でひたいをコツコツとたたきながら考えていた。両親、タカ、そ


れに笹井はともかく柳川まで……。どれだけ人に心配かければ気がすむんだ


ろ、俺。情けない──と。


「あ、あの……」


「え?」忘れていた、まだ鵜飼香里が残っていたのだ。


「ごめんなさい!」香里は体をふたつおりにして頭を下げた。


「遅刻のこと? それなら別に」


「違うの! 名前……」


「ああ。いいよ、そんなの。昔からよくある──」


「よくないです! ダメです、すごく失礼なことです!」


「あ、そう」なんだかひるみながら武志郎は、こちらこそ、と心の中でつぶや


いていた。


「あの……」


「はい」


「本名、教えてください」


「…………」彼女の真剣そのもののひとみに見つめられた武志郎は、なんとかこら


えようとはしてみたものの、こらえようと思えば思うほど──くくく、ふふふ


、ははは! しまいには笑いながらせき込んでいた。


「え? なんで? なんか私、おかしいですか!?」机のはしを握りしめて笑い


つづける武志郎のわきで、あたふたと自分の手やブレザーの胸元、スカートに視


線をめぐらせる香里。


「違う、違う。ごめん……だってさ、本名教えてってさ……」


「はい?」香里は、まだ笑いのとまらない武志郎に不安げな目を向けた。


「俺、スパイじゃねーから偽名ぎめい使って生きてねーし。本名、隠してねーし」


「あ!」両手で口を押えた香里も吹きだした。「そうですよね。名前教えて、


ですよね!」 


「だと思う……タケシロウだよ、清和武志郎。まあ、よろしく」目じりににじん


だ涙をぬぐいながら武志郎は、あれ? と思った。学校で笑ったのって何カ月


ぶりだろう?


「タケシロウ君……武志郎たけしろう君か……こちらこそよろしくお願いします」


「ああ……鵜飼さん」ぴょこんと頭を下げた小太りでさえないショートカット


の女子が、このとき武志郎には、なぜだか少しだけ可愛かわいいらしく見えた。


                              (つづく)

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